第23話 黒百合玲亜

 小人の群れが消えた夜闇の公園、そこに設置されてる水道から緩やかな水音が聞こえる。

「……ふぅ、ここ最近は調子良かったんだけどな」

 手にべっとりと付いた自分の血を拭きながら玲亜は呟く、


 吐血は少し経って止まり、玲亜はゆっくり呼吸を整えて立ち上がる、黙って様子を窺っていたセリエルに少し待っててと手で促し、血まみれの姿で水道に向かったのだ。


着物に血が付いちゃった、クリーニング出さないと」

 血を流しながら体を落ち着かせ留まる事十五分、何度もゆすいだ口には、まだ鉄の味が残る。激痛は消えたが胸に少し圧迫感を感じ手を添えて確認する。


 とくん、とくん。

 心音は平常に戻ってる、気まぐれな自分の体に最早怒りも湧き上がらない。ゆっくりと空を見上げると、街中よりも鮮明に見える煌びやかな星空が視界を染める。

「僕、あとどれくらい生きられるんだろう……」

 彼の呟きに応える者は誰もいなかった。


 ……。

 …………。

 小人を倒した場所に戻るとセリエルの姿は無く、ふらふらと公園内を探してみると、幽幽たる端の休憩所に朱が混じる銀色の髪が朧気に佇んでいるのを見つけた。

「ここにいたんだ、待たせてごめん」

『……いい、丁度私も調べることがあった』

 少女は歩み寄る玲亜に振り返ることも無く、柵の前で眼下に広がる闇夜の街をじっと見ていた。少女のことだ、風景に見惚れる程ロマンチストでは無いだろう。

「何してるの?」

『ここから噂の殺人鬼を探してる、意識を集中させればあの街の悪意と殺意を拾える』

「はー、そう言うこともできるんだ、何か見つけた?」

『何も、殺人の瞬間でないと強い殺意は発せられない、今日は多分ハズレ』

「そっか、蜘蛛巻き事件は毎日起きていないから、しょうがないね」


 玲亜は話しながら休憩室にある長い木の椅子に腰かける、街灯を遮る屋根のせいで中は一層暗く顔も影に隠れる。気温は更に下がり足元が冷えるが、吐血で疲れた体には、これくらいで丁度良かった。


「……」

『……』

 お互いに言葉が止まる、セリエルは街を見つめ、月映えするその後姿を玲亜は見つめる。虫も鳴かない清廉な空間が静かに広がる。

『アナタの病気、そこまで酷いの?』

 前を向いたまま、セリエルが急に尋ねて来た。

「……病気って気づいてたの?」

『前の散歩でアナタの体を見た時に、内臓の色んな箇所が壊れてた』

「あはは、そういう所まで見えるんだ、うん、言う通り相当酷い状態」

 指摘されても玲亜は動揺しなかった、からから笑いながら椅子に倒れて背を預ける。

「正体不明の病気なんだって、結核に似た症状が全身に広がってるみたいなんだけど、精密検査をするたびに病巣の位置が変わって、消えたり現れたりして、薬は全然効果なし、動き続ける病気のせいで手術も出来ないってさ」

 黒百合の家と懇意にしている有名な大病院で、名のある医者達の治療を何度も受けたが、回復するどころか体は悪化の一途を辿り、海外の医療技術にも頼ったが、病の正体も未だ掴めていない。

 しかし転移し続ける病によって肉体と心臓は間違いなくダメージを受けており、玲亜の命は着々と削られていた。


「お医者さん達の見立てでは、二十歳まで生きるのは難しいって」


 セリエルは振り返り影に覆われた玲亜を見る。少女の表情は変わらず、少年もまた変わらない。


「そう宣告されたら、何か、治療受け続けるのはもういいかなって、入院しなきゃいけないんだけど、残りの人生があと少ししかないなら……自分のやりたいようにやろうって決めて、だから今はこうして学校に通って普通に生きてる、うん、死ぬまで思いっきり楽しみたいんだ」

 それはセリエルに言っているのか、それとも自分に言い聞かせてるのか、闇夜の中に声は消えて行く。


『女性の恰好をしてるのも、アナタが楽しむ為?』

「んーきっかけは家庭の事情だけど、今は完全に僕の趣味、もうすっかりハマっちゃった、レデイ―スなお洒落、素敵でしょ?」

『……そう』

(何だろう、セリエルが距離をあけたような?)

 会話を止め再び街を見始めたセリエルから目を離し、頭上にある真黒な屋根を見る。


(女性の恰好……そう言えば、初めて僕にスカートを履かせたのは姉さんだったな)

 額に手の甲を当て脱力しながら、玲亜はここに至るまでの自分の人生をぼんやりと思い出した。



 ★★★ 



 玲亜が生まれた黒百合家は穂群市でも有数の資産家である、市内に所有している土地を使った不動産投資で財産を築き上げた長い歴史を持つ一族。玲亜も少し前までは実家である日本家屋の豪邸で家族と数人の使用人と共に生活していた。


 玲亜は兄と姉がいる三人兄弟だった。政界とも根深いパイプを持つ父親は厳格で物静かな人物であり仕事で家を空けることが多く、偶に帰って来ても父と子の一般的な会話をすることは無かった。それに反して母親と兄と姉は末っ子の彼に良く構ってくれた。


 特に二歳年上の姉『詩亜しあ』とは親交が深くいつも一緒に遊んでいた、兄妹とは言え二人の顔立ちと背丈はよく似ており、幼い頃には詩亜の提案でお互いの服を取り換え、彼女の髪に似たセミロングのカツラを被り、母親や使用人を驚かす遊びなどをしていた。


 二人の悪戯に父は関心が薄く、兄は呆れながらも驚くふりを、そして母親は二人を何時も優しく慈愛に満ちた両腕で包み込んだ。

「自分のことも周りの人も大好きでいられる、そんな笑顔が似合う素敵な玲亜になってね」

 そんな風によく諭していた母の笑顔が玲亜は大好きだった。母や姉や兄とずっと、これからも一緒にいる安寧の日々が続くのだろう、当時の彼はそう信じて疑わなかった。


 あの事故が起きるまでは。


 雨が降り注ぐ十年前のあの日、玲亜と姉の詩亜、そして母親が穂群市の山間部に建つ黒百合家の別荘で夏の休暇を楽しんだ帰り、迎えの高級車に乗って山中の崖沿いの道路を走っていると、突然の落石が車体を襲い、ぶつかった衝撃でコントロールを失った車が玲亜達を乗せたままガードレールを突き破り崖下に転落した。


 その後のことを玲亜は覚えていない、次に意識が戻った時は手足を包帯で巻かれた状態で病院のベッドの中にいた。負った怪我で記憶が散乱して、事故の直前に雨の空で気もするが思い出せない。


 事態を把握できないまま、周囲からの微かに耳にした情報で幼い玲亜は最悪の結果を知った。転落事故で奇跡的に助かったのは自分と母親だけ、運転手と姉の詩亜は……死亡した、と。


 知ると分かるは全くの別物。七歳の玲亜には姉の死がはっきりとは理解できなかった、漠然とした喪失感を宿しながら治療を終えたが、彼と違いはっきりと理解した母は心に大きな傷を負った。


 退院後、家に帰った母は以前とはまるで別人だった、笑顔は消え無気力に毎日を過ごす様になり、ベッドの上で俯き続け、食事量も減って日々痩せていく彼女に玲亜は必死に話しかけたが、返答は無く、陽炎の如き儚い母親を涙目で見つめる日々が続いた。


 そんなある日、望んでいない変化が玲亜に突き刺さった。

「おはよう詩亜、お母さんに顔をよく見せて」

 部屋に訪れた玲亜に対して、母は久しぶりの笑顔を見せ、彼を姉の名で何度も読んだ。混乱する玲亜は否定したがその言葉は一切届かない。


 幼い玲亜でも何となく判断できた、母は異常な精神状態だと。

 詩亜を目の前で失った彼女はショックから心を病み……やがて顔立ちが似ている弟の玲亜を姉の詩亜だと思い込んだのだ。

「詩亜、新しいお洋服買って来たから着てみて、きっとピッタリよ」

「詩亜、今度遊びに行きましょう、どこに行きたい?」

「詩亜、今日はピアノのお稽古どうだった?」

「詩亜、どこにもいかないで、傍にいて」

 光沢を宿さない母の眼に……玲亜は写されていなかった。


 それでも構わないと思った、母が再び笑顔を見せてくれた、それがこの上なく嬉しかったのだ、そして幼い玲亜は母の前では亡き姉を演じることを決意した。

 母が用意した少女の服と下着を着込み、背中まで髪を伸ばし、詩亜が行っていたピアノレッスンも始めた。


 僕から私へ――。

 大好きな母の為に玲亜は詩亜を振る舞い続けた。


 兄はそこまでする必要は無いんだと玲亜の心身を案じ、父は家に帰る頻度がさらに減り、親子の距離が更に広がった。投げかける言葉が思いつけない使用人が見守る先で歪んだ母子の戯れは続く、母の笑顔は戻ったが体は弱っていく一方であり、退院から一年後はベッドに寝たきりの状態まで衰弱した。


 そして、音の無い霧雨が街を白に染めるある日の早朝、いつも通り詩亜として起こしに来た玲亜の手をゆっくりと握り。

「おはよう――

 そう、小さく微笑んだ後……大好きな母は眠るように息を引き取った。


 家族を立て続けに失い、胸が張り裂けそうな絶望で泪に沈み、それでも玲亜は日常を送り続けた、病んだ母の為に作り変えた詩亜の容姿を元の玲亜に戻さず、それが原因で小学校で起きた偏見といじめを拳で跳ね返しながら学業に専念、母と姉の分も背負って自分は生きるのだと、未成熟な決意がこの時は確かに存在した。

 

 しかし、気まぐれな運命は更なる絶望を叩きつける、中学二年生に上がったばかりの四月初頭、兄と朝食の最中に玲亜は突如吐血して意識を失い病院に搬送された。


 その後は玲亜が語った通り。正体不明の病、治療の効果は無く血を吐き続ける毎日が続き、まもなく余命を宣告された。それからの玲亜は入院を断り、薬による可能な限りの現状維持を選び中学校生活に戻った。

 二十歳迄生きられないと言われた時、怖くはあったが、同時に心が軽くなった気もした。


 終わりが見えてるなら、もう背負えないなら……残りは自分らしく生きて見よう、そう玲亜は思いを定めた。


 幸いにも学校では愛する親友、阿流守鏡一郎や他の友人達のおかげでアオハルの花を咲かしながら、思いのほか笑顔で過ごすことが出来た。しかし病気が判明してからの実家では玲亜はより孤立した。父は玲亜と関わることを完全に止め、顔を合わせる事すら無くなり、黒百合の後継ぎとして勉学に身を沈める兄とも時間が噛み合わなくなった。


 多忙になった兄の邪魔はしたくないと玲亜から距離を置き、数年前まで母と兄と姉と自分の四人で囲んでいた食卓に一人っきりで座っていた。自分の居場所は家ではなく学校にある……そう思い込むことで少し楽になれた。


 そんな病的なまでに静かな実家で過ごしていると、ある日、が玲亜に会いに訪れ、突然こんな事を言い出した。

「玲亜君、よかったら私達のお家で一緒に暮らさない?」

 言葉の意味が分からず目を丸くする玲亜に、母の妹の『松原花織』が、母に似た笑顔でもう一度提案した。その後はトントン拍子に話は進み、玲亜は高校入学前に松原家に住み始めた。


 後で知った話だが、家で人形のように笑わなくなった玲亜を心配して、兄が花織に相談を持ち掛けたことが、この提案に繋がったらしい。

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