20

「う、うぅ……」


 自分の漏らした呻き声でありながら、詩子は最初、それを何処か他人事のように聞いていた。

 我が事だと理解したのは、それから少し間を開けてから。全身、特に背中が酷く痛む。身体を起こそうとすると手足に酷い痛みが走り、身動きが取れない。

 いや、そもそも何故自分は寝転がっているのか?

 何より此処は――――何処だろうか?


「(はて、わたしは一体どうなって……)」


 自分の状況を思い出そうと、思考を巡らせる。

 詩子の聡明な頭脳は彼女自身の期待を裏切らず、すぐにその答えに辿り着いた。

 崩落した洞窟の底に落ちた、という中々大変な答えに。


「……………わぁーお」


 ぱちりと目を開けてみれば、予想していた光景が目に映り込む。

 仰向けに寝ていた詩子の両側には、断崖絶壁が聳えていた。高さは百メートル以上あるだろうか。洞窟の中に出来た絶壁であるため、先は暗闇に飲まれて全く見えない。

 絶壁と呼べるほどに壁の断面は綺麗であり、詩子的には此処が『亀裂』の中のように思えた。何かしらの地殻変動で大地が裂けた結果、出来上がった地形だろうか。

 ……ところで何故、自分は周りの景色が見えているのか?

 記憶が確かなら、此処は洞窟の地下である。光なんて全くない環境だ。だが実際には、遠くは見えないが近くの物体の輪郭程度なら判別可能なほどに明るい。具体的には寝る前に付ける豆電球よりも大分暗い程度、といったところか。洞窟なのに、何処かに光源があるようだった。

 勿論周囲を見渡しても、蛍光灯なんて一本も見当たらない。だとしたら別の光源がある筈だ。ひょっとすると、周りにある岩自体がほんのり輝いているのだろうか? 放射性物質を豊富に含んだ隕石は光る事もあると聞いた覚えがあるが……

 ――――疑問は止まらないが、なんにせよ断崖絶壁から落ちたのは間違いない。そして普通ならば死ぬ高さから落ちて、詩子が無事だった理由は一つしかないだろう。


「ウゴゥ。ゴオオ」


 目覚めた詩子を覗き込むように、一人の鱗毛人が顔を出す。

 鱗毛人一家の息子だ。詩子は彼と共に落下している。恐らく彼は落ちる最中、持ち前の身体能力で岩などを蹴りながら減速。どうにか推定百メートル下の大地に軟着陸したのだ。

 人間では真似出来ない驚異的な身体能力の賜物であり、ただのヒトである詩子の身体には少々激しい動きだったらしい。腕と足が酷く痛む。骨折している可能性もあった。

 とはいえ命が助かったのは間違いない。


「お陰で助かりました〜。ありがとうございます〜」


 詩子は感謝の言葉を伝えておく。

 言葉が通じる訳ではないが、気持ちが伝わる事は今までの経験から明らか。予想通り、詩子の感謝を聞いて息子は心底嬉しそうに笑う。頷きのような仕草がないのは、それこそ『文化の違い』というやつだろう。

 さて。無事で済んだからと言ってめでたしめでたし、とはならない。

 このまま亀裂の下にいても、待っているのは飢えと乾きだ。どうにかして地上へと登るか、或いは自衛隊の助けが来るまで耐え忍ぶ必要がある。

 しかしゲームよろしく、地上に登るための道がご丁寧にあるとは限らない。また自衛隊が洞窟内の惨状から、詩子は死亡したものとして捜索を後回しにする可能性もあるだろう。それに今頃は、恐らく洞窟の外に脱出した鱗毛人の母親と姉妹の保護をしている筈。同じく被災した陰謀論者の相手救助もあって、こちらに手を回す余裕があるか怪しい。

 トランシーバーがあれば生存を伝え、救助も求められたのだが……どうやら落下時に手放してしまったようだ。尤も、あったところでこの深さだと、流石に電波が届かない可能性もあったが。大声で叫ぶのも一つの手かも知れないが、無駄に体力を使うのも得策とは言い難い。

 どうにも手詰まり感がある。脱出のための道筋を探すよりも、しばらく生き延びるために水と食糧を探した方が良いのではないか――――考えを巡らせていく詩子だったが、思考は中断せざるを得なくなる。

 不意に、気分の悪さが襲い掛かってきたのだ。


「うぷ……なんでしょう……気分が、優れない……けほっ」


 立ち眩みに似た感覚に見舞われ、咳も少し出てきた。いきなり起き上がったからかと思ったが、再び横になっても回復する気配がない。


「ごほっ! げほっ、ごほっ!?」


 それどころか咳が段々強くなる。

 口に手を当て、どうにか咳を抑えようとする。しかし咳は収まるどころか、更に激しさを増した。喉が痛くて堪らないが、咳の衝動は一向に引く気配がない。

 何かがおかしいと思いつつも、咳に意識が持っていかれて考えが纏まらない。そうして何十秒と咳き込み続けていると、やがて喉奥からどろりとしたものが込み上がり、咳と共に口から出た。

 べたべたに手が汚れる。暗さの所為でどんなものを出したのかは見えないが……その不快な感覚は無意識に詩子の目をそちらに向けさせ、見えずとも吐き出したものが何かを教えてくれる。

 吐血だった。


「……あ、なぁるほど」


 すっかり失念していた。自分が、特殊殺傷性菌類に感染していた事を。

 免疫には個人差がある。症状が末期状態になるまでにも、当然人それぞれだ。詩子の場合、今日が『タイムリミット』だったらしい。

 理解してしまうと、身体から力が抜けた。四肢が動かせず、そのまま地面に横たわってしまう。慌てた様子で息子が近付いてきたが、詩子には反応を示す余裕もない。

 死が近付いている。

 本能的に、自分の終わりを詩子は察した。


「(成程。これが、死ぬ、という感覚、ですか……)」


 古来よりヒトが恐れ、避けようとしていた恐怖。

 怖いか怖くないかで言えば、詩子はこれを怖いとは思わなかった。むしろ少しワクワクしているぐらいだ。死という、生涯で一度きりの経験なのだから。

 何より、ヒトを知りたいという渇望を満たせるのは、これが最期かも知れない。


「(ああ、天国や、あの世は、本当にあるのでしょうか……古来のヒトが、各地で霊魂を信じたのは、偶然か、必然か……集合的、無意識、は……)」


 オカルトと思われた事象は、果たしてヒトの心が生んだ幻想か、ヒトが持つ真理の一面か。『非科学的』故に検証が行えない事への探求にワクワクが止まらない。

 惜しむらくはその結果を報告する術がない点だが、元より詩子は研究成果を誰かに見てもらいたい訳ではない。自分の好奇心を満たせればそれで良い。

 人生最後の謎に、詩子は薄れゆく意識の中で挑み――――
























 その後、普通に目覚めた。


「(……いやー。これはちょっと予想外ですねー)」


 暢気な言葉を頭の中で独りごちながら、詩子は起き上がり、思考を巡らせる。

 少なくとも今、自分がもうすぐ死にそうだという感覚はない。

 ならばあれは自分の勘違いだったのだろうか? 何分初めての経験故にその可能性も否定は出来ないが、しかし吐血までしたのだ。全く身体に悪影響がないとは考え辛い。


「(気持ち悪さもない。咳も止まっていますし、一体……?)」


「ゴゥ。ホアァーオ」


 疑問に思っていると、傍にいた鱗毛人の息子が声を出す。

 彼が看病してくれたのだろうか? 疑問に思う中、息子は素早く何かを詩子の方へと差し出してきた。

 注意深く見てみれば、そこにはぎゅっと握り締められたキノコのようなものがある。

 いや、果たして本当にキノコなのだろうか? よくよく観察してみた詩子は疑問を抱いた。何しろキノコらしき物体は太くて丸みを帯びた……端的に言うと犬のウンコのような形をしている。暗さ故に色や細部は分からないが、雰囲気だけなら完全に糞だ。第一印象はキノコだったが、それは恐らく「糞を握り締める筈がない」という固定概念による幻覚だったのだろう。

 そんな犬のウンコ(仮)を顔に近付けられれば、さしもの詩子もちょっとばかり焦る。


「えっと、いや、これは流石にわたしとしても心の準備がもがっ」


 しかし断る前に息子は犬のウンコ……に似たキノコと思しき物体を口に突っ込まれた。

 一般人であれば、ここで思いっきり吐き出すところだろうか。

 だが詩子はこれまで、様々なものを食べてきた。何故なら世界や時代問わず、様々な食を調べては実食してきたから。ヒトの営みと食事は切っても切れない関係であり、その営みの中で食べてきたものにはヒトという種の秘密が隠されている。

 犬のウンコぐらいならまだマシというもの。さえも非合法に食べてきたのが彼女だ。犬の糞のようなキノコ(仮)に一瞬焦ったのも、感染症など後の事を考えていたからで、未知のキノコそのものへの嫌悪はない。

 付け加えると、味への『耐性』も詩子は持ち合わせている。現代の先進国で食べられている食材は、ヒトの技術の粋が集めて生み出された一品。食べるためなら生物種を絶滅させる事も厭わない(というより気にもしない)ヒトが、全力で改良を続けた結果だ。先進国以外、特に貧しい途上国や原住民の食べているものは、お世辞にも美味ではない。

 数多の『ゲテモノ』達と比べれば、スカスカとして味のないキノコなど、不味いのうちにも入らなかった。


「ガゥ。ゴガァーウーウー、アガー」


 キノコを食べさせた息子は、説明するように何かを話している。

 意味はさっぱり分からない。分からないが、ふと詩子の脳裏に一つの可能性が過ぎった。

 そしてその可能性は、人類文明が今、求めて止まないもの。


「(まさか……これ、特殊殺傷性菌類の治療薬……!?)」


 考えられない話ではない。

 植物や菌というのは天然の薬だ。昆虫や細菌などから身を守るため、様々な化学物質を合成してその身に蓄えている。ヒトはその効果を長い経験から知り、日常生活で利用してきた。

 鱗毛人の知能の高さを鑑みれば、詩子の症状から特殊殺傷性菌類によるものだと分かってもおかしくない。それとキノコの薬効も。彼等は定期的にこれを摂取し、病原体の活動を抑える事が出来ている可能性がある。それどころか特殊殺傷性菌類と共存する事で、他の感染症を防いでいるとすれば……

 無論、これはただの想像だ。詩子の吐血が本当に特殊殺傷性菌類によるものであったかは、治ってしまった今では証明しようがない。

 それにもしかすると彼はこのキノコ以外にも、何かを食べさせたかも知れない。なら、それらの中のどれかに治療薬のヒントがあるのではないか――――


「ホ、ォオー」


 考えていると、息子は何処かに向けて歩き出した。

 詩子は慌ててその後を追う。息子は後ろにやってきた詩子を見て少し驚いたようだが、特段何も言わず、そのまま前へと進む。

 二つの断崖絶壁に挟まれた間を、息子はどんどん進んでいく。道は地下へと向かっていて、進めば進むほど地球の奥底へと向かう事となる。

 詩子もどんどん進む事が出来た。普通ならば、洞窟内で快調に歩むなど自殺行為なのだが、此度は少し事情が違う。

 何故なら周りが明るいからだ。息子の後を追って進むほどに、周りの明るさが強くなる。明るいといってもやはり豆電球ほどの光量もないが、足下にある大岩や段差ぐらいはハッキリと見えた。足下の障害物が見えるだけで、歩きやすさというのは格段に異なる。

 また足下の地面が然程湿っていないのも、早く歩く上でプラスに働いた。つるんと滑る心配がないのだから、慎重に歩を進める必要はない。

 実に快適な道である。しかしその快適さと比例して、疑念が詩子の胸に込み上がる。


「(何故洞窟内がこんなに明るいのでしょう……それに湿り気がないのも……)」


 今までいた洞窟と、まるで環境が違う。

 自分が何か、大変な発見の中にいる予感がする。詩子のその考えは、十数分と歩いた後に事実だと明らかになった。

 息子が辿り着いた先に広がる、広大にして眩い『草原』という形で。


「こ、これは……!?」


 これには詩子も驚きの感情を覚える。ヒト以外に興味などない彼女が、純粋な衝撃で心が満たされる。

 眩いと称したが、太陽の明かりのような強さはない。色合も青い蛍光灯で照らしたような、落ち着いた光だ。されど光に満ちている事は変わりない。そして光は、広間のあらゆる方角から発せられているようだった。

 その光を浴びているのは、地面を覆い尽くす赤い植物。

 いや、もしかしたら植物ではないかも知れない。何故ならそれは真っ直ぐに伸びたキノコのような外見をしていた。中には犬のウンコに似た……詩子が食べたものと酷似する種も見られる。

 洞窟の地下深くに、こんな世界があったとは。驚きにしばし浸っていた詩子は、昨日寝る前に息子と共に見た洞窟内での光を思い出す。恐らくあの光は、この場所の光が漏れ出していたのだろう。

 しかもこの場所は、どうやら奥へと続いているらしい。曲がりくねった道が、この広間から何本も伸びていた。


「此処が……あなたの、故郷なのですか?」


 思わず、詩子は日本語で尋ねてしまう。

 鱗毛人である息子に、詩子の言葉は分からない。だが自慢気に胸を張る姿から、此処が彼にとって誇らしい場所なのは間違いない。

 きっと此処こそが、鱗毛人達の本当の住処なのだ。

 詩子は胸の中にわっと感情が沸き立つのを抑えられなかった。鱗毛人の、ヒトの系譜が辿ってきた痕跡が此処には残っている筈。それを調べる事が出来れば、ヒトについてもより深く理解出来るに違いない。

 ついでに、特殊殺傷性菌類の治療薬が見付かる可能性がぐんっと高まった事も。


「〜っ! ありがとうございます!」


 感極まった詩子は息子の身体にぎゅっと抱き着く。

 鱗毛人一家の息子は、大きく目を見開いた。ガチガチに身体が強張り、動きも鈍くなる。

 けれどもすぐに、大きく両手を広げ、

 自らに抱き着く詩子の身体を、こちらもぎゅっと抱き締めるのだった。

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