10
「(あ、これは不味いかも〜)」
自分の目の前に写った光景に、詩子はほんのちょっぴり『焦り』を覚えた。
猛然と駆け寄る鱗毛人の雄。
自動車のような速さで迫る彼は、敵意の表情を見せている。立派な息子さんだ、いなくなったお父さんに代わって家族を守ろうとしているのだ――――家族愛の起源に触れた気がしてちょっと感動したが、しかしその感動は間もなく終わらされてしまう。
自衛隊員達が詩子の背後に控えているからだ。迫りくる危険。研究者である詩子の生命を守るため、このままでは彼等は鱗毛人を射殺する。
それは不味い。
詩子の目は、彼が本気で走っていない事を見抜く。学生時代ヒトの走行能力の高さを学びたく、何万回とヒトの走る姿の動画を見てきた彼女は、走るヒトの本気具合が直感的に分かるのだ。鱗毛人の走るフォームも、やや獣的だがヒトに似ているため推し測れる。
本気でないという事は、恐らく威嚇だけで済ますつもりなのだろう。食糧目当てなら先程鹿を捕まえており、わざわざ詩子達を襲う理由はない。不気味な生物を追い払うだけなら戦う必要もない。というより相手の実力が未知数なのだから、理由もなく戦うという選択肢はナンセンス。余程切羽詰まった事情がない限り、まずは『穏便』に事を済ますのが一番合理的なのだ。
この場で合理的でないのは、鱗毛人を一瞬で虐殺出来る実力を有したヒトの方である。
「攻撃しないで! あれは大丈夫です!」
叫んで止めてみる詩子だが、果たして自衛隊員はどれたけ言う事を聞いてくれるか。
そうこうしているうちに、雄の鱗毛人は詩子に迫る。こちらもそろそろ止まってほしい。せめてその意思を伝えようと、詩子は可能な限り柔和な笑みを浮かべてみせる。
「ゥ、ギッ!?」
すると、鱗毛人は急に足を止めた。急に止まろうとするものだからすっ転んでしまうほどに。
ごろんごろんと地面を転がる姿は、危険は危険だが『脅威』らしさは欠片もない。詩子の真横をずざーっと通り過ぎても、自衛隊員達の自動小銃が火を吹く事はなく。
やがて摩擦で動きが止まると、雄の鱗毛人は素早く立ち上がる。
そして周りにいる自衛隊員を無視して、詩子の傍にやってきた。じろじろとこちらの顔を見ており、余程興味を持っている事が窺える。そして敵意はすっかり霧散していて、もう危険性はまるで感じられない。
例えるなら、吼えまくっていた番犬に突然懐かれた、だろうか。
「ゴガゥッ!」
そうこうしていると、遅れて大人の雌と子供達がやってきた。
雌の足は遅く、雄ほどの危険性は感じられない。しかしそれでも鱗毛人に違いはなく、自衛隊員達の銃口が向く。
これを止めたのは洋介だった。「彼女達は危険ではない」とハッキリした口調で自衛隊員達に伝えたのである。洋介は鱗毛人との初遭遇時に唯一生き残った隊員。そんな彼からの言葉に隊員達の緊張が、驚きによるものだろうが、僅かに緩む。
そして雌は雄の下までやってくると、
「ウッガァーッ!」
思いっきり、雄の頭にゲンコツを喰らわせた。
「ギャビンッ!?」
いきなりのゲンコツに雄は悲鳴を漏らす。かといってそれで雌を威嚇したり、ましてや攻撃したりする事はない。しゃがみ込んで頭を両手で抑えながら、怯えた眼差しで雌を見遣る。
雌はそんな雄の首根っこを掴むと、ずるずると引き摺っていく。雄の方は無抵抗だった。
「……わたし、今ので確信しましたね〜。あれは絶対お母さんと息子さんです」
「はい。自分も確信しました」
物証など何もないが、心象では確実に親子だ。詩子と同じ考えを、洋介も抱いたらしい。
ともあれ危険な状況は改善されたと思って良いだろう。
詩子は周りの自衛隊員に目配せし、雌が向かった方……彼等の住処である洞窟へと進む。ぞろぞろと二十名の隊員と共に向かえば、雌は雄が持ってきた鹿を再び噛んでいる姿が見えた。
ちなみに雄は、洞窟の傍でしゃがみ込み、しょんぼりしている。彼の姉妹(昨日と違い隠れていないため性別が分かる。どちらも雌個体のようだ)と思しき小さな個体に頭を撫でられていた。尤も姉妹の顔を見るに、本気で慰めている訳ではないようだが。
「……とりあえず、個体名称を決めましょうか〜。最大の雌個体は母親、雄個体は息子、残る子供個体のうち大きい方が姉、小さい方を妹で」
「了解しました。そのように呼称します」
個体が複数いるなら、区別する必要がある。本当に血縁なのか、未成熟なのかは確定出来ないが、ひとまずは確実性よりも利便性。家族と暫定し、その立ち位置で呼び名を決めた。
詩子はゆっくりと歩み寄り、鹿の傍まで近付く。母親は近付いてきた詩子に視線は向けたものの、特段威嚇などはしてくる事もなく、そのまま鹿を噛み続ける。
詩子に気を許している、とは言えない。向けてくる視線は怪訝なものだと詩子は感じた。しかしこれも当然で、確かに昨日顔合わせこそしたが、詩子と鱗毛人達の関係はその程度のものでしかない。ヒトだって初対面かつ会話もろくにした事がない(おまけに異様な容姿をした)相手を、いくら攻撃されなかったからといって受け入れる事は早々ない。それと同じ事である。
ただ、今は食事の準備で忙しいのだ。訳の分からない『動物』に構っている暇などないだろう。
「一二三教授。何か、コンタクトは行わないのですか」
詩子がじっと母親を見ていると、自衛隊員の一人……この小隊を率いる小隊長が尋ねてきた。
詩子はそんな彼に振り向きもせず、こう答える。
「コンタクトなら既にしてますよ〜。こうして一緒の空間にいる訳ですしね〜」
「教授……そうではなく」
「彼女達にとって、わたし達は未知の存在です。ましてや今日は大所帯でわらわら押し寄せてきた訳ですね〜。これで周りであれこれ騒いで、この方達は我々を友好的存在と捉えるでしょうか?」
「それは……」
「好き勝手やって、嫌われて、最後は切れて殴られて。それでやったなこのヤローって皆殺しにした後、『彼等は極めて凶暴な獣である』なんてレポートに書く。こんなのは研究って言いませんよ」
ほんの少し(詩子基準で)嫌味な言い回しをすれば、小隊長は押し黙る。
詩子は、鱗毛人の人格に配慮している訳ではない。そんなものに詩子は興味などないのだ。
だから小隊長の言い分自体は極めて正当なものだと詩子自身思う。普通の『生物調査』で、生物のあれこれに配慮していては中々研究が進まない。食事中の個体を捕まえて解剖し、交尾中の個体を捕らえて標本にし、寝ている個体を捕獲して檻に閉じ込める……人権などない扱いがあるからこそ、その生物の細かな生態が短期間で分かり、保護や利用について短期間で判明する。
しかし此度の相手は、極めて高い知能を持つと思われるヒト属の一種。迂闊な行動をすれば彼等は学習し、対応し、効率的な研究は頓挫してしまう。
普通の相手ではないのだ。急いては事を仕損じる、と先人達が述べているように、丁寧な仕事が却って効率的なのである。
「まぁ、そうは言ってもやれる事はありますが。何人かの方にお願いしたいのですが、近くで体毛や排泄物がないか調べてもらえますか〜? 多分、生活空間でトイレはしないと思うので、何処かに糞溜まりがあると思うんですよね〜」
「……護衛は減りますが、大丈夫ですか」
「現状敵対的な雰囲気もありませんし、問題はないと思いますよ〜。あ、それともし、他の個体と遭遇しても、攻撃は控えてくださいね? 彼等言葉を交わしていましたから、下手に攻撃すると、集団全てが敵対すると思われますので〜」
「了解しました。一小隊に周辺調査を命じ、サンプル採取を行います。攻撃行動も基本は威嚇に留めるよう善処します。他の要望はありますか?」
「そうですね〜……写真、撮りましょうか。お邪魔にならないよう遠くから。望遠レンズ付きのカメラ、持ってきてましたよね?」
「はい、備品にあります」
詩子からの指示を受け、自衛隊員達のうち十人ほどが詩子の傍から離れていく。
母親の鱗毛人は特に何も反応を示さなかったが、僅かに緊張が弛んだと詩子は感じた。やはり大勢の者に囲まれたなら、いくら敵意がないとはいえ不気味に思うだろう。
……ヒトであるなら。
「……一二三教授。息子が移動を開始しました。追跡しますか?」
自衛隊員の一人が、そう報告してくる。
見れば、確かに息子が駆け足で何処かに向かっていた。姉妹達はそんな兄? に向けて両腕をぶんぶん振っている。ヒトで言うところの『いってらっしゃい』だろうか。
狩りに行った、訳ではないだろう。今、獲物は母親が解体真っ最中だ。だとするとトイレかも知れない。
糞からは様々な情報が分かる。普段どのようなものを食べているのか、食べたものがちゃんと消化出来ているのか、病気などを持っていないか……正に情報の宝庫。これを見逃す訳にはいかない。
「ええ、追ってください。ただ、何をしても邪魔はしないであげてくださいね〜」
「了解。分隊の一つを向かわせます」
小隊長から指示を受け、五人の自衛隊員が息子を追う。此処に残るメンバーは詩子含めて六名となり、更に守りは手薄になった。
同時に、母親の警戒心も大きく下がる。
「……ガゥ、ウガッガ」
唐突に母親は声を発した。
はて、今の言葉はどんな意味が込められているのか。考察しようとした詩子だったが、母親はおもむろに鹿の腹に手を突っ込む。歯による解体は進んでいて、既に中身に触れられる状態だったらしい。
そしてその手には、ぐちゃぐちゃに潰れた肉片が乗せられていた。腹の中で何をしたのか詩子には分からなかったが、突っ込んだ後の手の動きからして、
肋の肉……バラ肉と言えば、好み云々を除けば肉の中でも美味なる部位だ。鱗毛人の味覚がヒトに近ければ、その部位が高い『価値』を持つと認識するだろう。
「……ガゥゥ。ウガゥゴゥ」
そのバラ肉を地面の上にある平たい石の上に置いていく。
そうしていると姉妹がやってきて、肉をそのまま食べ始めた。焼いていない肉であるが、姉妹はそれをなんの躊躇いもなく口にしており、また母親もこれを止めない。
「ふーむ。どうやら彼等には、火を使う文化がないかも知れませんね〜」
「……昔、テレビでは火の使用が人の脳を大きくしたと聞きましたが」
「ええ、そうですね〜。ただ、これは厳密には違います。火の使用により、摂取出来るカロリーが増えた事が、脳の肥大化に役立っていると考えられていますね」
まず、火を使う事で食べ物の消化がしやすくなる。肉を食べるにしても、生肉よりも焼いた肉の方が消化しやすい。食べる量が同じでもより多くの栄養が得られるなら、同じ食事量でより大きな脳を養える。
また火を使えば、今まで食べられなかったものも食べ物に出来る。例えば日本人にとっては主食である米は、生のままでは食べ物とならない。ヒトの消化酵素は生のデンプン……βデンプンを分解出来ず、そのままではお腹を下してしまうからだ。デンプンと水を混ぜた状態で加熱し、αデンプンにして初めて『食べ物』となる。食べ物の種類が増えれば一日に必要な分の栄養をすぐに集められるため、これもまた脳を維持するエネルギーの確保に役立つ。
以上の理由から、加熱調理がヒトの脳を大きくした要因と考えられている。つまり、重要なのは摂取するエネルギー量の増加だ。言い換えれば栄養が豊富な環境であれば、火を使わなくとも脳は大きくなる可能性がある。
高度な知能を持つと思われる鱗毛人は、余程恵まれた環境で生活していたのだろう。
「(だとしても、普通の自然環境では無理だと思うのですが……)」
理屈の上では、摂取エネルギーが多ければ知能は発達する。
しかし豊かな森に暮らしているゴリラやチンパンジーであっても、その知能はヒトほど優れていない。植物も動物も食べられないよう必死であり、ちょっと賢いからといって簡単に食べられるようなものではないのだ。動き回る動物を追い駆けたり、硬い植物を噛み砕いて消化するにはエネルギーが必要である。
優秀な『肉体』を持てば解決するが、その肉体もエネルギーを使う。これでは脳を大きくする余裕がない。
一体、どんな環境で、何を食べていたのだろうか? それがヒトと彼等の差と結び付くのか。
「……教授。息子が接近してきます」
考え込んでいると、自衛隊員の一人から報告が入る。
確かに、鱗毛人の息子が詩子の方に駆け寄ってきていた。その手に何か、小さなものを握り締めた状態で。
警戒する自衛隊員を片手で制止しつつ、詩子は前に出る。息子は詩子の前に来ると、先の勢いはどうしたのか大きな身体をもじもじさせ始めた。
「……グァゥ」
そしてその手に持っていた、一輪の花を詩子の方に突き出してくる。
「……わたしにくれるのですか?」
思わず詩子は尋ねてしまう。日本語など分からない息子は何も答えを返さないが、じっとこちらの目を見ていた。
さて。どうしたものかと詩子は考える。
相手の『文化』が分からない以上、どのような行動が正解になるかは不明だ。例えばこれが貴族が手袋を投げ付けるような決闘の申し出なら、受け取った途端詩子の首が真後ろを向くかも知れない。或いは同盟を示す行為であるなら、拒めばやはり首が真後ろを向く可能性がある。
どう答えても、死の可能性は残る。ならば詩子は自分の本能に従うまで。
プレゼントされた花は、受け取るのがマナーだと詩子は考える。
「! ホッホーォオーッ!」
詩子が花を受け取ると、息子は妙にはしゃいだ。はしゃいで母親からゲンコツを受け、しゅんと落ち込む。
だけどまだまだ嬉しそうで、にやにやと笑っていた。
「……教授。これは」
「ええ、とても興味深いですね〜」
洋介に問われ、詩子はそう答える。
「ご存知ですか? ネアンデルタール人には、仲間を埋葬する習慣があったと言われています。そして花が供えられていた事もあるとか」
「え? ……いえ、初めて聞きました。人間以外にも埋葬の文化があったのですか」
「かも知れない、程度ですねぇ。埋葬自体は確実視されているのですけど、花については結構異論があるのですよ。近くには動物の骨もあって、結果的に運ばれただけじゃないかとも」
「……はぁ」
「花の美しさを理解し、他者にそれを渡そうとする……割と、これだけで人間と呼ぶには『十分』な気もします。そうは思いません?」
詩子の意見に、此処にいる自衛隊員達から反論が出てくる事はない。
洋介からも反論はない。反論はないが、しかし別の意見はあるらしく。
「ええ、そうですね……正直、教授よりも彼の方がずっと人間味がある気がします」
「はい? そんなにわたし、ヒトっぽくないですか?」
「ええ。割とそういうところが」
「んんん?」
言われた事の意味が分からず、詩子は首をこてんと傾げる。自衛隊員達の何人かもうんうんと頷いていたので、どうやら今の意見は割と彼等の総意らしい。
しかしいくら気になっても、洋介達は論拠を教えてくれず。
釈然としないが、他者の評価に興味などない詩子は特段気にもせず――――もらった花という貴重なサンプルを、大事にプラスチック容器の中へと突っ込むのだった。
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