09
洞窟から出た詩子と洋介は、すぐ小隊長に洞窟内での出来事――――鱗毛人との接触があった事を話した。
詩子としては話したい内容はいくらでもあったが、自衛隊が求めている情報は生物学云々ではない。社会人としてそれぐらいは理解しており、以下の点を伝えた。
一つは、洞窟内にいた鱗毛人は敵対的・好戦的存在ではない事。
極めて重要な話である。これを知っていれば、如何に鱗毛人に悪印象を抱いていても、即座に撃ち殺そうという考えにはなり難い。勿論仲間が四人殺され、そう簡単に気持ちが割り切れるものではないが……恐怖心がなくなれば、人間は存外冷静に行動出来るものだ。『殺処分』の名目が立たなくなったのも、抑止力となるだろう。万が一にもこれを伝え忘れてはならないため、第一に伝えた。
第二に伝えたのは洞窟内にいた鱗毛人の数と性別。そして三つ目に、表情を交わす程度であるがコミュニケーションが出来た事も話した。
接触は無事成功に終わったが、しかしこれで調査終了とはならない。むしろこれは始まりだ。ここからが本番……より鱗毛人を理解するための研究が始まる。
「という訳で始まりました二日目! 楽しみですね〜」
「朝から元気ですね……」
かくして迎えた翌日早朝。詩子の元気な声に、護衛である洋介はやや疲れたように答えた。
詩子達がいるのは鱗毛人達が住処にしている洞窟から五百メートルほど離れた場所。付近には詩子の護衛としてやってきた十名の自衛隊員達がいる。
そして此処には、小さなテントが幾つも建てられていた。
鱗毛人との接触は前日と同じく防護服を着て行う。ヒトの病気に免疫がないであろう彼等を守るため、例えどれだけ接触回数を重ねても基本これは変わらない。とはいえ遠く離れた場所で着替え、片道一時間掛けて移動し、熱中症を避けるため十分だけ話して終わり、というのではあまりに非効率だ。効率を上げるため気温が下がる冬まで待つ、なんてのも本末転倒である。
そこで洞窟から少し離れた場所に『野営基地』を作った。遠く離れた場所で防護服に着替えたら、まずはこの野営基地を目指す。此処で新しい防護服(というより保冷剤の交換が目的である)に着替え、二時間の活動時間をフルに使えるようにするのだ。
勿論野営基地を機能させるには多量の物資が必要であるし、鱗毛人の活動圏を無菌 ― 厳密にはヒトの感染症を持ち込まない事。自然界が無菌な訳もない ― で保つためにも物資搬入の面々も防護服を着なければならない。野営基地を管理する人員の滞在なども考えれば、たった二十人の調査隊を送るために裏で何百人もの人員、それを働かせるための金と物が動いている。
国家の協力があってこそ、この研究活動は維持出来るのだ。
「(そうなると成果云々を言われそうですねー)」
鱗毛人研究の目的は、彼等が人権を与えるのに相応しい存在であるかどうかを確かめる事。ヒト以外に興味がない詩子としては政府がどう判断するかなど心底どうでも良いが、研究を続けるためには『スポンサー』の要望に応えねばならない。
研究者にとっては常に頭を悩ませる問題だ。しかし今、それについてあれこれ気にする必要はないだろう。詩子はヒトを知るために彼等を調べようとしている。その一環として鱗毛人の知能レベルや社会性、倫理観などの調査は必要だ。また共存ないし保護の必要が出た際、生物学的情報も必要なのでそれらの調査も求められるだろう。
現状、スポンサーこと国家が求めている情報と、詩子が調べたい情報は一致しているのだ。思うがままに調べ、得られる全ての知識を得れば良い。
「さて。そろそろ行きたいのですけど、大丈夫ですか〜?」
「……はい。こちらの準備は出来ています」
詩子が尋ねると、洋介は銃を構えつつ答える。他の自衛隊員達も「問題ありません」と答える。
全員の準備が出来たところで、詩子達は洞窟に向けて歩き出す。
洞窟までの道のりは片道十分。防護服姿や装備があるため、普通に歩くよりかなり遅い。とはいえ特段大きな問題もなく、件の洞窟までは辿り着ける。
問題があったのは、洞窟の前に来た時だった。
「ん? 待ってください。洞窟の前、何かありませんか〜?」
鱗毛人達が暮らす洞窟の前に、茶色い何かが転がっていたのだ。
「……ありますね。確認します」
洋介はそう言うと双眼鏡を取り出し、洞窟の方を確認。
「鹿、ですね。ただ身体の大部分が欠損しているようです。遠目からですが、腐敗はあまりしていないように思えます」
そして見えたものを報告する。
詩子を護衛する自衛隊員達に僅かながら緊張が走った。バラされた鹿が洞窟の前に倒れているという事は、『誰か』がその鹿を殺し、運んだ事に他ならない。
現状、その可能性が最も高いのは鱗毛人だ。自衛隊員を襲った時の状況から、彼等の身体能力が高い事は分かっていたが……具体的な『強さ』は判明していない。素早い鹿を捕まえる俊敏性を実感したら、動揺するのも仕方ないだろう。
尤も、一度襲われている洋介からすれば驚くには値しない。冷静さを保ったまま、詩子に尋ねてくる。
「洞窟内にいた鱗毛人達が仕留めたのでしょうか?」
「うーん、ないとは言えませんが……可能性は低いかと。子供は小さかったですし、子育て中のようでしたから〜」
洞窟内にいた三人の鱗毛人のうち、二人は子供だった。恐らくまだ狩りの技術も未熟であろう。
大人も一人いたが、女性だからか華奢な身体をしていた。しかも一目で女性だと分かるほど。あまり力仕事をしていない事が窺え、あの身体で野生の鹿を捕まえるのはちょっとばかり大変だと思われる。
対して詩子が解剖した、即ち洋介達を襲った個体はがっちりと鍛え上げられた肉体を持っていた。恐らく獲物を日常的に追い掛け回す事で得られた、『天然』の筋肉であろう。
鱗毛人は性別により仕事を分けている可能性が高い。原始的なヒト文明でも見られた特徴を、彼等が持っていてもなんら不思議ではない。
そして仮説は、すぐに証明される。
「十度の角度に人影あり。鱗毛人と思われます」
自衛隊員の誰かが話した声により、詩子含めた全員がその方角を見遣る。
鱗毛人がいた。それも大きく、がっちりとした体躯の。身長は恐らく百七十センチを超えているだろう。
遠目からでも分かる。あれは鱗毛人の大人の男性だ。ただし自衛隊員を殺傷した個体に比べ、若々しい見た目だと詩子には思えた。
そしてその個体の手には大きな鹿が握られていた。角を持っていて、ずるずると引き摺っている。『彼』が仕留めた獲物だと考えて良いだろう。
現れた個体は洞窟の前まで来ると立ち止まり、キョロキョロと辺りを見渡す。危険がないか確認しているようだ。
「……ゴオオオオゥ。グゴオオゥ」
安全を確かめたところで、雄の鱗毛人は洞窟に向けて吼える。
しばらくすると、中から鱗毛人達が出てきた。
小さな子供二人と成体一人。遠目なので確実な事は言えないが、恐らく昨日洞窟内で出会った個体だと思われる。
「ココォーッ!」
「クィアーッ!」
子供二人は大きな声で叫びながら、雄の鱗毛人に駆け寄る。
雄は鹿を手放すと、飛び込んできた子供の一人(背の高い方が先に辿り着いた)を両手で掴んで掲げた。後からやってきた子供は雄の身体を掴み、次は自分だと主張している。
もう一体の子供を抱き上げた後、大人の雌が雄に近付く。
「ゴゥ、グゴオォウ。ゴゥ、オオゥ、オウ」
そして長々とした声を発した。雌の声を聞いた雄の方は肩を左右に揺らす。雌の方はそれで何を思ったのかは分からないが、表情を微かに歪める。
尤もその顔も長くは続かない。
表情を戻した雌は、雄が手放した鹿の方に歩み寄る。しゃがみ込み、ヒトから見ると裂けたような口を大きく開くと、そのまま鹿に齧り付いた。
獰猛な獣のような食べ方に、周りにいる自衛隊員達が微かに怯む。先進国に住む人間から見れば、野蛮な姿に見えるかも知れない。
しかし詩子から見れば、極めて興味深い行動だ。道具を探したり、或いは作ろうとしたりする素振りもない。彼女達にとって、歯で獲物を解体するのは普通の行動なのだろう。
硬い獣の皮を引き裂くほどの歯を、どうしてヒトは持たなかったのか。実に興味をそそられる。
加えて、彼等のコミュニケーションも見る事が出来た。
「声による会話を積極的にしていますね〜。解剖個体は声帯の発達が見られなかったので、あまり言語的なコミュニケーションはしないと思っていたのですが〜」
鱗毛人の解剖した際、詩子は喉の構造も見ていた。そして声帯の構造が、ヒトよりもチンパンジーに近いと判断している。
ヒトが高度な会話を行えるのは、単に知能が高いだけでなく、喉の構造にも理由がある。一般的な動物では食道と気管が交わらない。このため物を飲み込みながら呼吸が出来、例え食べ物が喉に詰まっても基本的には窒息しない。ヒトの赤子も生後三ヶ月程度までは同じ構造をしており、母乳やミルクを飲みながら呼吸が行える。
しかしこの構造では『吐息』のコントロールが出来ず、複雑な声を出すのは難しい。所謂鳴き声になるだけ。ヒトはこの食道と気管が交わっているため、複雑な『声』を出せるのだ。代わりに食べ物が喉に詰まると死んでしまうようになったが、言葉が生み出す力……技術や文化の継承、それによる文明の発展という利点に比べれば些末な欠点に過ぎない。
話を鱗毛人に戻すと、彼等の食道と気管は交わっていなかった。このため複雑な声は出せないと詩子は考えていた。実際、今の鱗毛人の発したものはお世辞にも言葉とは言い難い、と詩子には感じられた。
されど鱗毛人達は会話をしていた。成体の雌が発した長々とした声は、言葉と考えるのが妥当である。語彙は豊富でないかも知れないが、彼等は会話が出来るのだ。
ヒトが持つ最大の武器。その候補の一つである言葉の始まりは、今のような形で行われていたのだろうか。古代人類の会話する姿が、詩子の頭に思い描かれる。無意識に、光悦とした笑みを浮かべてしまう。
……対して洋介は、防護服越しにも分かるぐらい落ち込んでいた。
「夫婦、でしょうか?」
そんな雰囲気を纏いながらしてきた質問が、まさかただ気になっただけ、という事はないだろう。
しかし詩子はそんな事を気に掛けない。ヒトの心を読むのは(心理学にも精通しているため)苦手ではないが、想定される幾つかの可能性のどれであっても、結果は思わしくないのだ。だったら気を遣うだけ無駄である。
「いえ、恐らく息子さんでしょう」
故に詩子は自分が思った通りの意見を述べた。
「なんとなーくですけど、雄は成体の雌個体よりも若く見えますからね〜」
「……そう、ですか。なら、自分が射殺した個体は」
「恐らくそちらがお父さんでしょう」
そう考えれば、かの個体が自衛隊を襲った理由も幾つか絞れる。
可能性の一つは、獲物を求めていたため。当時の彼等は飢えていて、獲物を求めていたのかも知れない。家族を養うため夜中に獲物を探し回っていたところ、訓練中の自衛隊員と遭遇。不意打ちで四人を仕留め、このまま五人目も……と欲張ったばかりに返り討ちに遭ったのかも知れない。
二つ目の可能性は、家族に近付く脅威を取り除こうとしたため。鱗毛人とヒトの姿は、似ているとは言い難い。ヒトが彼等を ― 一部の者は人権を与えたくないと思うほど ― 不気味に見えるのなら、鱗毛人から見たヒトも不気味に見える可能性がある。こんな化け物を家族に近付けさせるものか! と奮闘してしまったのだろうか。
どちらにせよ、家族に起因する行動である可能性が高い。言葉を持つほど聡明な彼等が何もしていない自衛隊員を皆殺しにしようとする理由なんて、それぐらいしかないのだ。
「……………」
洋介は口を閉ざし、俯く。
家族のために行動した者を、撃ち殺した。
事実を読み上げればそうなる。相手はヒトではない。しかし『人間』と近しい感性を持っているかも知れない存在。それを、襲われたとはいえ殺した。
軍人というのは、忌憚なく言えば人間を殺すための訓練を受けている。無論それは国防に必要な力であり、侵略者から祖国と国民を守る彼等に罵詈雑言をぶつけるべきではない。されどヒトというのはそう簡単に割り切れるものでもない。戦場におけるストレスは容易にヒトの心を破壊する。
……別段、詩子は洋介の心が壊れてもどうとは思わない。彼女の関心は何時だってヒトであり、個人ではないのだ。
だからこそ彼女は思った事を伝えるのに、なんの躊躇いも持たない。
「気に病む必要はないでしょう。そうでなければあなたも殺されていたでしょうから」
「……すみません。気を遣わせてしまいました」
「そんなつもりもないのですけどね〜。あ、ちょっと接触しましょうか。食事中の行動も観察したいですし」
「は? え、ちょ」
本当にそんなつもりもない詩子は、我に返って呼び止めようとする洋介を無視。ズカズカと洞窟の方に歩み寄る。
堂々と進めば、やがて大人の雄の鱗毛人が気付いた。大きく両足を広げ、腰を落とし、両腕を広げる。闘争心を剥き出しにしていた。
遅れて大人の雌も詩子の存在に気付く。一瞬驚いた様子を見せたが、すぐにその身体から力が抜けた。
しかし雌が雄を宥めるよりも前に、若い雄は詩子目掛けて走り出したのだった。
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