06

 富士山。

 日本人にとって最も身近で、最も有名な山だ。とはいえその高い標高、それに伴う過酷な環境もあり、決して甘く見てはいけない場所でもある。

 そんな富士山の麓には、富士の樹海と呼ばれる鬱蒼とした森が広がる地がある。

 正確には青木ヶ原樹海と呼ばれる森林地帯だ。一応は原生林とされているが、人間による開発が入った可能性も指摘されている。どちらにせよ自然豊かな森には違いなく、鬱蒼と茂る樹木により昼間でも薄暗い。様々な野生動物も生息しており、ツキノワグマのように人間を殺傷出来る生物種も存在している。古来の日本であれば何処でも見られたであろう、危険と魅力を内包した自然だ。

 そして自殺の名所……一度入ったら出られない、方位磁石が狂う等の恐ろしげな怪談が付き纏う土地である。尤も、どれも迷信なのだが。


「いやはや。生きた姿をお目に出来るとは、わくわくしますね〜」


 仮に本当だとしても、詩子の笑みが消える事はなかっただろう。うきうきとした足取りで、詩子は樹海の中を進んでいた。

 無論詩子の周りにいる人々……大勢の自衛隊員達も樹海の危険性と『安全性』はよく知っている。方位磁石が問題なく使える事も、位置さえ分かれば普通に森から出られる事も。しかし彼等は誰一人として笑みを浮かべていない。

 此処にいる自衛隊員の数はざっと五十名。小隊規模の編成だ。彼等は全員訓練ではなく本当の『作戦』としてこの任務に参加している。遊びでない以上、真剣になるのは当然というものだ。ましてや巨木が立ち並び、毒々しい湿り気の帯びた森の中を前進するとなれば、精神的疲労が大きくなるのは必然。笑みが浮かばないのは当然であろう。

 或いは彼らが緊張している一番の理由は、これから向かう先に未知のヒト属がいるから、かも知れない。しかもそいつは訓練中の自衛隊員を四名も殺害している。恐れるな、という方が無茶というものだ。

 止めに真夏の灼熱もある。自衛隊員達は分厚い迷彩服と大きなリュックサックを背負い、その手には護身用の自動小銃を持つ。詩子が以前聞いた情報が正しければ、自衛隊員の装備の重さは(無論作戦内容で多少上下するが)二十キロ以上。この劣悪な環境に、必需品とはいえ馬鹿みたいに重たい荷物を持って歩くのだ。苦行と呼んでも差し支えないだろう。

 あらゆる点から見て、うきうきした気分になれる訳もない。尤も環境の劣悪さは詩子にも襲い掛かり、荷物も自衛隊員ほどではないが重いものを背負っているのだが。


「一二三先生、随分楽しそうですね……」


 自衛隊員の一人から、少し暑さに参ったような声色で詩子の元気さの理由を問われるのも仕方ない事だろう。


「当然ですよ〜! ヒトの歴史として見れば他のヒト属との出会いは経験済みです。有名どころではネアンデルタール人がいますし他にもホモ・エレクトスもそうでしょう。地理的に可能性は低そうですがフローレス人に会った個体もいるかもですねぇ。ですが科学が体系化され記録が取られるようになった現代では初めての出会いとなります。我々は初めて他者と出会いようやく自分というものを客観視する機会を得られた訳ですね〜」


「あの……早口で全然聞き取れないのですが」


 自衛隊員に呆れられるも、詩子はそれを改めようとはしない。元より、他者にどう思われても構わない性分なのだ。詩子はヒトを理解出来ればそれで良い。

 逆に、ヒトへの理解を阻まれる可能性があるなら、今の自分の感情を抑え込む事さえ造作もない。


「一二三教授。あまりはしゃがないでください。万一の時、守りきれなくなる恐れがあります」


 自分の前を歩く『護衛』――――二十代の男性自衛隊員に窘められた詩子は、すぐに大人しくなった。

 男はキリッとした顔付きをしており、一般的には美形に類するだろう。しかし眼光の鋭さ、纏う雰囲気の緊迫感は、ミーハーな女子程度なら会話なしに蹴散らすに違いない。身長は百七十センチ前後と平均的だが、がっちりとした体躯はなんとも男らしい。

 彼の名は鮫島さめじま洋介ようすけ。研究者である詩子専属の護衛であり、そしてでもある。


「はぁい。すみませーん」


「……一二三教授がどう考えているかは分かりませんが、相手は危険な存在です。我々自衛隊と戦闘し、四名を殺害しています」


「おい、それは……」


「事実を報告したまでだ。あなたも、あまり奴等を甘く見ない方が良い」


 危険視するような感情的物言いに、仲間の自衛隊員の一人が異を唱えようとする。しかし洋介の淡々とした、けれども重みのある言葉に口を噤んだ。

 実際に戦ったからこそ、発せられる言葉の重みと言うべきか。

 何より詩子は自衛隊員に守ってもらう側である。別段自分の命が惜しいとも思わないが、むざむざ殺されてはヒトを知る機会を失うので困ってしまう。だから洋介の物言いを窘めようとは思わない。

 ただ、言う事があるとすれば一つ。

 ……呼び方が正しくない。


「奴等、という抽象的表現は良くないですね〜。鱗毛人りんもうじんが正式名称でしょう?」


 詩子が指摘すると、洋介は「申し訳ありません」と謝罪。発言を訂正し、もう一度言い直す。

 ホモ・スクゥーマ。

 それは詩子が彼等に与えた学名だ。意味はラテン語で『鱗のあるヒト』であり、彼等の体表面を覆う鱗状の体毛に由来する。ラテン語なのは気取っている訳ではなく、学名を付ける際のルールだ。

 そしてもう一つ与えたものに、日本語名がある。

 これが鱗毛人。日本政府の(未だ彼等の存在は公表されていないが)公式名称としても採用されており、自衛隊でもこの名前を使っている。『奴等』だの『彼等』だの『新種ヒト属』だのと呼んでいては、何を指し示した言葉か分からない。混乱を避けるためにも正式名称を使うべきである。


「……失礼しました。鱗毛人を甘く見ない方が良い、と言うべきでした」


「はい、よく出来ました〜。さてと……あとどれぐらいで生息域、いえ、活動圏に入りますか?」


「間もなくです。距離と方位から推測した位置は此処になります」


 詩子が尋ねると、洋介は素早く地図を取り出した。詩子はこれを食い入るように見つめる。

 地図に書かれているのは、青木ヶ原樹海の全体図。

 多くが森に覆われたこの樹海で、現在位置を知るのは容易でない。しかし自衛隊員である洋介は、このような状況下でも迷わないよう訓練を受けているのだろう。手にしたコンパスから方角などを確認し、鱗毛人達がいるという場所、詩子達の現在地を素早く指差す。

 ちなみに樹海でコンパスが使えないという話は、基本的には迷信である。基本的、という表現なのは、この樹海の地面には磁鉄鉱が存在しているため。磁鉄鉱の放つ磁力により僅かながらコンパスが狂う……事もなくはないかも知れない。不良品や骨董品ならあり得るだろうか。つまりはそんな程度の話である。


「もう五分も歩けば範囲内ですね〜。なら、此処らで着替えましょうか〜」


「了解。部隊長に伝えます」


「……一二三教授。やはり着替えないと駄目ですかね」


 詩子からの指示を受けた洋介が離れるのと同時に、若い自衛隊員が弱ったような声色で尋ねてくる。彼は上官らしき隊員に窘められたが、周りの隊員達の複雑そうな表情からちょっと期待している事が窺えた。

 彼等の気持ちは詩子にも分からなくもない。

 何故なら詩子が言った『着替え』とは、鳥インフルエンザが発生した養鶏場で殺処分を行う保健所職員のような、全身を包み込むあの白い服の事なのだから。どう見ても涼しさの欠片もない格好である。真夏の、じめじめむしむしとした森の中であんなものを着たら、瞬く間に熱中症となってしまうに違いない。国を守る若き自衛隊員達に冗談でなく死ぬかも知れない苦痛を与えるなど、人並の良心があれば心苦しくもなるだろう。

 生憎、詩子には良心がない。ヒトを知るために必要な事であれば、人に苦痛を味合わせる事をなんら躊躇わないタイプだ。彼等の一人二人が熱中症で、目の前で死んだとしても、詩子の心は微塵も揺らがない。

 大体にして防護服を着せるのは、決して意地悪や暴虐なんかではない。やらなければならない理由がある。


「当然です。ヒトの未接触部族に関しても同じ事が言えますが、長年人類社会と接触していないため、ヒトが経験した病気を知らない可能性がありますからね〜。私達が持ち込んだ病気によって、鱗毛人が絶滅なんてしたら目も当てられませんよ〜」


 外界と接触のない部族に病気が蔓延、人口が激減した例は幾つもある。

 最も有名なのはアステカ文明だろう。スペイン人が持ち込んだ疫病により、五年で人口が八割も減少したと言われている。また一四九五年のヨーロッパでは流行した梅毒により、一説では五百万人の死者が出たという。今でこそ人類文明は高度な医療技術により未知の病にも多少なりと対抗出来るが、感染症というのは本来それぐらい恐ろしいものなのだ。

 鱗毛人はヒトとは別種の存在である。ヒト属ではあると思われるので免疫の仕組みそのものに大きな違いはないだろうが、もしかするとヒトにとって身近な感染症が致命的なものとなるかも知れない。鱗毛人の総人口は不明だが、仮に小規模な原住民族と同程度である数百人程度の場合、病気による人口激減は比喩でなく絶滅のきっかけとなりかねない。

 勿論、逆もまた然りだ。鱗毛人の持つ病気がヒトに感染し、パンデミックを引き起こす事もあるだろう。こちらは医療体制が整っているものの、人口密度と数は鱗毛人よりも圧倒的に上の筈。犠牲者の『総数』では人間側の方が大きくなる可能性もゼロではない。

 未知との遭遇に楽観は禁物。万全を期しても足りないぐらいだ。


「……でも樹海にいたなら、割と触れ合ってそうだけどなぁ」


 尤もこれで納得するかどうかは別問題。ぽつりと、誰かがそんな言葉を漏らす。

 つべこべ言うな、と感情的に黙らせるのは簡単だろう。しかし詩子はそう考えない。むしろその文句染みた疑問を、新たな思索の取っ掛かりとする。


「(実際問題、確かに近いんですよねぇ〜。なんで今まで見付からなかったのか、不思議なぐらい)」


 青木ヶ原樹海と言えば自殺の名所、遭難の名所として有名だ。

 しかし有名という事は、それだけ訪れる人が多いとも言える。そもそも青木ヶ原の近くにはキャンプ場や遊歩道があり、湖や富士山などの観光名所もある。この地域に訪れる人自体は決して少なくない。整備された道さえ外れなければ、なんて事はない森と言えよう。

 仮に、鱗毛人が青木ヶ原樹海に生息していたとしたなら、ヒトの生活圏と物理的に極めて近い。そして鱗毛人の体長は人間と同じぐらいある。

 人里近くに棲む『大型動物』が、二十一世紀になるまで見付からないなどあり得るのだろうか? 絶対にない、とは言わない。しかし(良くも悪くも)世界の隅々までヒトの手が届く現代において、極めて確率の低い出来事なのは疑う余地もない。

 となれば、今まで発見されなかった事には特別な理由があると考えるのが自然だ。


「(一番単純なのは、生息地を変えた、という事でしょうかね)」


 ヒトによる環境破壊は、二〇三五年現在でも続いている。

 途上国でも「流石にこれは不味くないか?」と気付くぐらい状況は悪いのだが、しかし市民が求める豊かな生活、それを生み出す経済活動を活発化させるとどうしても環境は破壊しなければならない。太陽光発電などの再生エネルギー産業に先進国は力を入れたが、起きた結果は貴重な森林を禿げ山にして発電所に変えたというぐらいには救いがないのだ。そして政治の基本は経済であり、経済を良くしないと選挙で選ばれない。環境を良くしても投票者は中々評価してくれないのだから、環境保護が蔑ろになるのは必然であろう。

 かくしてヒト側も本格的に困り始めた環境破壊だが、野生生物達はもっと困っている。住処が汚染され、破壊され、埋め立てられ……絶滅する種は後を絶たない。

 そして生き延びた種も、新天地を求めて色々な場所に現れている。絶滅危惧種の都会への進出もある意味では似たようなものだ。

 鱗毛人も生息地が破壊され、新しい土地に移住してしたのだろうか。可能性としてはなくもないだろうが、だとしても彼等が飛行機などを持っていない限り、歩いて移動したと考えるのが自然。青木ヶ原樹海からそう遠くない場所が住処の筈である。

 ヒトは地球の全てを把握している訳ではない。しかし日本の富士山周辺に、そんな秘境染みた場所があるのだろうか――――


「一二三教授。準備が出来ました。何時でも着替えられます」


 考え込んでいた詩子だったが答えが出る前に、戻ってきた洋介に声を掛けられた。

 洋介の方を見れば、小さなテントが建てられていた。ビニールで出来た『壁』も用意され、簡易的な施設が作られている。五十人もの自衛隊員達が協力して即席ながら作り上げたものだ。

 テント内に入れば、きっと新品の防護服が用意されている事だろう。

 思考に没頭しても、恐らく答えは得られない。得たところでただの推論である。そんな『無駄』をするぐらいなら、さっさと着替えて鱗毛人に会いに行くのが合理的だ。


「はい〜、分かりました〜」


 思考を打ち切った詩子は、そのテントに向けてさっさと歩き出すのだった。

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