03
診察台に横たわる『一人』の人物。その姿を詩子は瞬きも忘れて見つめる。
二本の腕と二本の足を持ち、大きく発達した頭がある。診察台に寝かされた格好ではあるが、背筋がぴんと伸び、また足と腕は共に背筋と同じ方を向いていた。身体の構造上、生存時は二足歩行をしていたと考えるのが自然であろう。
服は着ておらず、体表面が剥き出しになっている。発達した胸筋と腹筋が確認出来た。また手足の指の数は五本ずつ。顔には目も鼻も口もあった。額には小さな穴が空いていたが……自衛隊員に射殺されたという話から察するに、銃痕だと思われる。
確かに、ヒトとよく似た姿をしていた。だが『これ』をヒトと認める者はそう多くあるまい。
違いは幾つも挙げられる。まず、その体表面には無数の小さな『鱗』があった。腕や胸部、腹部も鱗が生えている。身体の前方は比較的鱗が薄いため筋肉が見えたが、腕や足はさながら長袖の衣類のように鱗が広範囲を覆っていた。
また頭髪が太く長い。遠目からの推定のため確実ではないが、太さ〇・五ミリほどはありそうだ。欧米人に比べて太いとされる日本人の毛髪でも、その太さは〇・〇八ミリ。個人差と呼ぶには、少々規格外が過ぎる。
何より特徴的なのは顔。目は極めて小さい。まるで人間の顔に、カエルやトカゲの目玉でも嵌め込んだかのような小ささだ。口は大きく裂けており、覗かせた歯の先は鋭く尖っていた。人間にも犬歯は生えているが、この存在の歯は犬などの肉食動物のそれに似ている。
「これは……凄いですね……念のため聞きますけど、ドッキリじゃないですよね?」
「勿論です。一二三教授にはこの生物の解剖をお願いしたいのですが、頼めますか?」
「是非!」
食い気味で、詩子は申し出を受けた。あまりの勢いに気圧されたのか、自衛隊員は後退りする。
「……ありがとうございます。解剖には私含めた自衛隊員三名が助手に就きます。解剖は、本日中にやっていただく事は可能でしょうか?」
「勿論! 今すぐ! ただちにやりましょう!」
「……準備がありますので、一時間後に」
「はいっ!」
今までのおっとりとした言葉遣いすら忘れ、力強く返事をする詩子。しかしこれでも興奮は冷めない。むしろどんどん身体が熱くなる。
ヒトか、そうでないのか。
どちらにせよ、きっと誰も知らない知見をくれるその存在――――ではなく、そこから得られるであろうヒトの知識に、詩子は何時までも胸を昂らせるのだった。
……………
………
…
詩子にとっては、堪らなく長い一時間が過ぎ、いよいよ解剖が始まろうとしていた。
事前に聞いていた通り、助手として自衛隊員三名が詩子と共に謎生物の傍にいる。全員が白い防護服を纏い、顔はよく見えない。尤も、どれが誰だろうと詩子にとってはどうでも良い事だ。
それよりも、早くこのヒトのような生物を解剖したい。ヒトについてもっと知りたい。
「一二三教授。開始を宣言してください」
「はーい。では、これから謎の生物……えっと、未確認種の解剖を始めまーす」
自衛隊員の一人に促され、待ってましたとばかりに詩子は宣言を行った。
解剖を行うのは詩子自身。
ヒト型生物の解剖であるが、詩子にとってそれは難しい行いではない。彼女は司法解剖の技術を持っているからだ。技術を学んだ理由は「死体を思う存分解体してヒトについて知りたい」という、あまり大っぴらに言えない(事が分かる程度の分別は詩子にもある)もの。解剖医不足という日本の事情も相まって、これまでに何十という遺体を切った。解剖医としてはまだまだ新人の部類だが、それなりの経験は積んでいる。
その技術は、この生物相手にも役立つだろう。
早速ヒトに似た生物こと未確認種(自衛隊はそう呼称している)の解剖をするべく、詩子はメスを掴む……なんて真似はしない。
まずは外見の確認だ。触ってみなければ分からない事も多い。
例えば、目。半開きの小さな目を指先で広げてみる。すると真っ黒な、白目のない瞳が詩子を見つめた。
「ほー。見える範囲に白目が殆どありませんねー。これは結構重要かも知れませんね〜」
「重要、と言いますと?」
「ヒトって動物の中では例外的に白目の部分が多いんですよ〜。厳密には、外から見える白目部分がとても大きい。これは視線を相手に伝えやすくするための進化と言われていますね~」
ヒトというのは言葉だけで『コミュニケーション』を行うものではない。視線でもある程度の意思疎通は可能だ。
視線の変化とはつまり目の動きである。目が右を向いた、左を向いたという情報を素早く得るには、黒目の動きがハッキリ見える方が好都合なのだ。勿論これだけで全ての思考を読むのは不可能であるが、こうした小さな特徴の積み重ねがヒトの高度な意思疎通を可能とする。
話を未確認種に戻すと、彼は白目がほぼ見られない。これでは視線を窺うのは困難だ。いや、そもそもこんな小さな目で視線をあれこれ探るのが難しい。
「(うーん、後で咽頭を見てみましょう。喉の作りを見れば言語能力をある程度推し量れますからね)」
一旦顔から視線を外し、次に向けたのは……下半身。
ズボンもパンツも履いていないそこには、中々に立派な
「ふむ。この感じだと勃起時の長さはざっと十五センチ程度でしょうか。睾丸も大きいですが、ヒトの範疇に収まるレベルですね」
「……触るの躊躇いませんね、教授」
「こんな事で逐一躊躇っていたらヒトの研究なんて出来ません。あ、ちなみにですけどヒトの男性器って、身体の比率で見た場合動物の中では大きい方なんですよ。ゴリラなんて三センチぐらいしかなくて」
つらつらと話してみたが、自衛隊員の反応は良くない。詩子なりに話題を出したつもりだったが、どうやら趣味に合わなかったようだ。
尤も、それを気にするような性格なら、詩子は此処に招かれていない。冷めた雰囲気を気にも留めず、再び死体を調べる。
さて、今までは顔やら生殖器からを見ていたが、やはりこれを無視する訳にはいかない。
身体を覆っている、鱗だ。
「……いや、これ鱗じゃありませんね」
「鱗ではない?」
「触ると分かります。一体化してない、束ねた感じの……恐らく毛ですね」
「毛が、鱗のように変化していると?」
「似たような形質を持つ生物はいます。哺乳類の一種であるセンザンコウという動物は鱗に覆われていますが、あれも毛が変化したものです。鱗ではありませんが、サイの角もケラチンという人間の体毛や爪と同じ物質で出来ています。それらに比べれば彼の毛は……強く何度も触ると少し解れる。厳密には、まだ鱗にもなっていません」
叩くと骨のように硬いが、指で圧迫するように入念に触ると、鱗の表面が逆立つ。極めて頑強であるが、まだ一体化するほど纏まっていない。進化の途上である事が窺い知れた。
体毛だと考えると、色々辻褄が合う。例えば腕に多く鱗があり、身体の前面に少ない事。身を守るための形質なら、普通は腹や顔などより致命傷になりやすい部分を鱗で覆うべきである。しかし毛が起源であるなら、体毛の濃い場所がそのまま鱗の多さに繋がる。彼等の祖先は腕の方が胸よりも毛が多く、より早く発達したのだろう。
まだ刃物を入れる前から、様々な知見が得られる。
それは詩子に多くの刺激を与えてくれた。ヒトとはなんであるか、どうしてヒトはヒトとして進化したのか――――インスピレーションが止め処なく湧き出す。
もっと調べたい。もっと知りたい。
いよいよその神秘がぎっちり詰まった身体の中を見るべく、詩子はメスを掴むのだった。
「いやー、勉強になりました〜」
防護服を脱ぎ捨てながら、詩子は心底満足した声を出した。
未確認種の解剖はつつがなく行われた。映画よろしく起き上がる事も、腹の中からエイリアンが出てくる事もない。取り出された臓器はホルマリンに浸され、標本として保存される。骨格や外皮も標本になる予定だ。
大抵の科学者であれば、未知に触れ合えた事を喜ぶところだろう。
しかし詩子は違う。彼女が歓喜するのは、よりヒトを理解出来た事だけだ。それだけが詩子の心を潤す。
「お疲れ様です。早速ですが、教授の見解を聞かせてください」
詩子の傍には、一緒に解剖を行った女性自衛隊員がいる。詩子はちらりと彼女の目を見た後、こてんと首を傾げた。
「見解、と言いますと?」
「あの生物が人間か否か、です」
「ああ、成程。でしたら答えは明白です。あれはヒトではありませんね」
改めて問われると、詩子はなんの感慨もなくそう答えた。
「……理由は?」
「ヒトで見られる虫垂、つまり盲腸が見られなかった事。それと腸の長さが約五メートルとヒトより短い事。体毛が鱗状に変化している事。眼球が小さく白目が見えない事。食道と気管の交差状態が、ヒトよりもチンパンジーに近い事……これだけ違いがあれば、新種の生物として発表しても恐らく誰も文句はないかと」
淡々と、得られた事実だけを語る。
他にも専門的な事として、肋骨が十三対あった(ヒトは十二対)点のような、骨格上の差異も確認出来た。分類学において骨格は極めて重要な要素だ。鳥が分類上は恐竜と同じであるのも、骨格の基本的な部分が同じだからである。
尤も、一般人には骨の数云々よりも、見た目や内臓の方が違いとして理解しやすいだろう。詩子の説明を聞いた女性自衛隊員も、それらの特徴だけで納得したように頷いていた。
「分かりました。詳細は後ほどレポートとして提出していただきます。それと、出来ればその旨を後日行われる、未確認生物の対策会議にて、お話していただきたいのですが」
そして詩子に、新たな仕事の提案をしてくる。
「え? 会議なんて興味ありませんし、研究を続けたいのですけど。あ、レポートは出しますよ、契約ですから。明日には纏めて提出しますね〜」
詩子はこれを一切迷いなく断った。彼女にとって重要なのは、ヒトについて知る事だけ。誰かに発表する事など興味もない。論文発表をしているのは、そうしないと教授という職をクビになり、研究費を稼ぐために研究以外の『
ましてや今は極めて刺激的な情報を得て、すぐにでも研究を始めたいところなのだ。「会議するヒト」を観察するのは好きだが、会議にわざわざ参加するなんて無駄はしたくない。
……とはいえ、詩子は会議を毛嫌いしている訳ではない。むしろヒトの思想が露わとなり、無意識の欲求と信仰が露わとなるその瞬間自体は好ましいとすら思っている。興味がないのは自分が会議に参加し、方針やらなんやらを決める事。そして今は会議の場を観察するよりも、未確認生物を通じてヒトについて知りたい。だから断った。
つまり大きな利点があれば、会議に参加する事も厭わない。
「……上から、交換条件を一つもらっています」
「交換条件?」
「会議に参加してもらえたら、この生物の生息地が判明した際は調査に参加してもよいとの事です。未確認生物の研究プロジェクトにも本格的に参加していただいて構わないと聞いています」
「……ほほう。生息地ですか」
提案された条件に、詩子は関心を抱く。
詩子としては、この新種の生物自体にも興味がある訳ではない。
しかしこの生物を通じて、ヒトをより詳細に読み解く事が出来ると確信していた。何故なら詩子はこの生物を、ヒトに近しい存在と考えていたからだ。
もしもこの生物が一体だけではない、種として成立するだけの個体数がいるなら……その生活様式を研究し、ヒトと比較すれば、何故ヒトは『このような生き方をしているのか』『どうしてヒトは今の姿形になったのか』を知るヒントとなるだろう。或いは今まで疑問すら抱いていなかったヒトの生き方が、実は興味深い要素と判明するかも知れない。
仮に、何時までも生息地が見付からない、この生物が一代限りの変異体、または最後の生き残りだとして――――それはそれでヒトを理解する手掛かりになる。何故ヒトのような形を得たのか、何故ヒトは栄えてこの生物種は滅びたのか。
この世に無駄な知識などない。ヒトが世界と関わる以上、全てがヒトを理解するのに通じる。選ぶ必要があるとすれば、限られた人生なのだからより『効率的』な方を選ぶのが好ましい程度。
この生物の研究は、極めて効率的にヒトについて教えてくれるだろう。
「その条件であれば、受けない訳にはいきませんね〜」
「ありがとうございます。会議の主要な議題は教授がレポートを提出後、内容を精査して決定します」
「はい〜。実りある会議になる事、期待してますよ〜」
握手と共に、約束を交わす。とはいえこれはただの口約束だ。今後、書面を通して正式な契約が締結されるだろう。
詩子としてはこの約束を反故にする気もないので、それでなんら問題はない。
それよりも、ワクワクが止まらない。
「(さぁ、早速レポートを纏めませんとね……ふふ、楽しみですねぇ。ヒト属の新種なんて、最高の比較対象ですもの)」
自分にとって最高の研究材料と、直に接する事が出来るのだから。
そして詩子は将来においても、この決断を後悔する時はない。
もしここで約束しなければ、未来に起きる『大事件』に、関わる事さえ出来なかったに違いないのだから――――
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