エピソード 2ー5
その日から、私は死に物狂いで勉強を始めた。
条件達成までの期限は入試の当日――つまりは残り一ヶ月と少し。それまでに、ごく一般的な庶民である私が、幼少期から英才教育を受けている者達と肩を並べる必要がある。
正直、無理だと思った。
でも、出来るかどうかじゃなくて、やらなくちゃいけない。私は自主的に冬休みを延長し、紫月さんに付けてもらった家庭教師から集中的に学ぶことにした。
朝起きたらまずは体力作り。悪役令嬢には体力も必要で、そもそもプロポーションを維持するには運動が必要と言うことで、トレーナーに従って運動をする。
それからシャワーを浴びて朝食。
それが終わったら、各分野を担当する家庭教師の先生から授業を受ける。
バイトに力を入れていた私は、決して優秀な成績ではない。それでも、真面目に授業を受けていたという下地があったおかげか、一般科目は順調に伸びていった。
他の授業に比べれば――だけど。
というか、一般教養で物凄く手こずっている。私の考える一般教養と、財閥の娘として求められる一般教養の内容がまったく違っていたからだ。
たとえば時事問題。
私が考える時事問題というと、最近締結された協定の名前を答えろとか、その協定による影響を述べよとか、そんな感じの内容だ。
でも、私が家庭教師の先生から最初に質問されたのは、先月、桜坂重工が開発した新技術についての見解と、その新技術により伸びるであろう分野について答えろ――だった。
まず、桜坂重工ってなにを作ってるの? ってレベルなのだ。その桜坂重工がどのような新技術を作ったかなんて知るはずもなく、その影響がどの分野に及ぶかなんて見当もつかない。
芸術関連の教養も似たようなものだ。クラシックの曲に対する解釈や、絵画に込められたメッセージ性の解釈を求められても分からない。
ピアノを小さい頃に習ったことがあったので、ほんの少しだけ助かった――程度である。
個人的に予想外だったのは、礼儀作法でも苦しんだことだ。
バイトをしていた経験があるので、最低限のマナーは教えてもらった。だから、同じ中学三年生としては、礼儀正しい方だと思っていたのだけど、それは本当に甘い考えだった。
私が学んだマナーと、桜坂家の令嬢に求められる立ち回りはかなり違っていた。
「澪お嬢様。貴女は桜坂財閥のご令嬢として振る舞わなければいけません」
「ごめんなさい!」
「やる気があるのは大変結構ですが、受け答えも淑女らしく振る舞わなくてはいけません。指先が揃っていませんし、動き出しも乱暴ですよ」
「――はい、先生」
今度は、お淑やかに応じる。それを見た先生はこくりと頷き、「では、次は間違えずに出来ますね?」と圧を掛けてきた。
「はい、必ずご期待に応えて見せます」
「……本当ですか?」
礼儀作法の先生に疑いの眼差しを向けられた私は「もちろんです」と応じる。その瞬間、先生は悪女のような笑みを浮かべた。
「そこまで断言するなんて、素晴らしい意気込みですね。当然、期待に応えられなかったときの覚悟は出来ているのですよね?」
「……え?」
「まさか、桜坂家のご令嬢ともあろう方が、根拠もなく出来ると言った……なんて、いえ、ごめんなさい。そのような恥ずかしい真似、澪お嬢様はなさいませんよね?」
「そ、それは……」
私は視線を彷徨わせる。
その直後、悪女のような顔をしていた先生が真顔に戻る。
「――と、揚げ足を取られかねないので、いまのように不用意な発言はお控えください。澪お嬢様の前向きな姿勢はとても立派ですが、自分の発言には責任が発生することをお忘れなく」
「わ、分かりました」
こんな感じである。財閥の世界、怖い――というのが私の素直な感想だ。でも、悪役令嬢として君臨するには、身に付けなくてはならないスキルだ。
私はもう一度お願いしますと、先生に更なる教育を求めた。
そして夜は、部屋で自主的に復習をする。
自室のテーブルにノートを広げて連立方程式を解いていると、アプリを通じてスマフォに着信があった。それが雫からの通話要求だと気付き、すぐにハンズフリーで要求に応じる。
「澪お姉ちゃん、いま大丈夫?」
「大丈夫だよ。それより、雫の調子はどう?」
ノートに計算式を書きながら、雫の話に耳を傾ける。
「うん、体調はいいよ」
「……ほんとに?」
雫の余命が三年程度であると、私が知っていることは伝えていない。
理由は簡単。
雫の余命を知れば、私は絶対に無理をする――と、雫が知っているから。
私が雫の余命を知っていると言えば、雫はそのことと転院したことに関係あるかと聞いてくるだろう。でも、私から切り出さない限り、雫はやぶ蛇を嫌って話題にしないはずだ。
そんな私の思惑通り、雫はあれからなにも追及してこない。
「そうだ、澪お姉ちゃん、聞いて聞いて。この病院、マッサージもしてくれるんだよ。部屋のテレビも大きいし、空調もしっかりとしてて、家にいるよりも快適なくらい」
「そっか。雫がリラックスできてるなら私も嬉しいよ」
転院がストレスになってないと分かって安心する。そうしてノートに計算式を書き込んでいた私は、ふとペン先を止めた。
「雫、お見舞いに行けなくてごめんね?」
転院以来、私は一度も病室に足を運んでいない。学校帰りに病院によっていたら、バイトに間に合わないというのが建前上の理由だ。
「大丈夫。病院で快適な暮らしをしてるから、澪お姉ちゃんは来なくて平気だよ~だっ」
「もう、雫ったら……」
私を――顔を出せないことに後ろめたさを覚えている私を気遣っての言葉だろう。でも、寂しくないはずがない。雫にはあと三年ほどしか残されていないのだから。
本当なら、一日でも多く側にいてあげたい。でも、私がここでがんばれば、雫の残された時間をみんなと同じように延ばすことが出来る。
いま寂しい思いをさせても、それがきっと雫のためになると信じてる。
だから――
「もう少し落ち着いたら、ちゃんとお見舞いに行くからね」
「……ん、待ってる」
少しだけ寂しげな声。私はそれに気付かないフリをして「そろそろ切るわね、おやすみなさい」と通話を切った。続けて両親に電話を掛けて、今日も元気だよって報告をする。
そして最後は、疲れ切って寝落ちするまでその日の復習を続ける。
これが、最近の私の日課。
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