エピソード 2ー3
◆◆◆
紫月が自室で経済誌に目を通していると、澪の看病を終えたシャノンが戻ってきた。
「澪の様子はどうだった?」
「緊張続きだったのが原因でしょう。いまはベッドで眠っています」
「……よかった。まさか意識を失うとは思わなかったから驚いたわ」
澪が恭介の正体に気付いていなかったのは想定していた。だけど、まさか正体を知ったショックで立ったまま気を失うとは夢にも思わない。床が深い絨毯だったとはいえ、シャノンがとっさに支えてくれなければ頭を打っていただろう。
「ほんと、面白い子よね」
紫月のために、桜坂本家の御曹司に食ってかかった。その勇姿を思い出した紫月は口元をわずかに緩めた。そんな紫月に向かって、シャノンがなにか言いたげな顔をする。
それに気付いた紫月が「言いたいことがあるのなら言いなさい」と笑う。
「……はい。紫月お嬢様はどうして澪お嬢様をお選びになったのですか?」
そう尋ねるシャノンは紫月の腹心である。
いまから五年前、ここが乙女ゲームを元とした世界だと気付いた紫月は、自分の運命を変えるための手足を必要としていた。そうして最初に見つけたのがシャノンだった。
そういった事情もあり、シャノンはここが乙女ゲームを元にした世界だと知っている。
ゆえにシャノンも、紫月が代役を用意したことは理解できる。だが、なぜ代役として選んだのが、澪のような普通の女の子なのかは理解できないでいた。
「シャノンは澪を桜坂家の令嬢に相応しくないと思っているの?」
「それは……」
シャノンは澪のことを思い返す。
澪は両親に事情を話すより先に、妹に転院の事実を打ち明けた。そのときのシャノンは、ずいぶんと軽はずみな行動を取るものだと思ったが、後からそれは勘違いだと理解した。
養子縁組と転院の件がセットであるかのように、澪が両親を誤解させたからだ。
それこそが、澪が使わなかった切り札だ。
もしも両親が最後まで養子縁組を拒んでいたのなら、彼女はこう言っていただろう。
『雫には転院の件を話してあるの。この話が立ち消えになったら雫が悲しむよ』――と。
もちろん、転院の件は養子縁組とは別件だ。
でも、両親は二つがセットだと思い込んでいる。あと三年しか生きられないと知っている娘に与えられたわずかな希望の光。それを奪うつもりなのかと脅迫する布石。
本音を言えば、あまりスマートなやり方とは思えない。紫月はもちろん、シャノンでももっと上手くやる。それは他の財閥の子息子女でも同じことだ。
だけど、澪はごく普通の家庭で生まれ育った女の子だ。それを考慮するのなら、澪の手際は及第点を与えられる――と、シャノンは思っていた。
だけど――
「相手が誰かも考えずに、本家の御曹司に食ってかかるような方を身内に取り込むのは危険です。将来、どのような問題を起こすか予想がつきません」
世の中には、知らなかったでは済まされないことがある。
さっきのやりとりがその一つだ。澪が恭介の正体を知らなかったとしても関係ない。澪が問題を起こせば、それが紫月の汚点になるのは恭介が指摘した通りだ。
「たしかに澪は未熟よ。庶民の生まれなのだから仕方ないという言い訳も、桜坂家の娘になった以上は通用しない。このままなら困ったことになるでしょうね」
「でしたら、悪役令嬢に選ぶのは他の娘にするべきです」
シャノンがそう訴えるが、紫月はそれを手振りで遮った。
「いいえ、あの子が適任よ」
「彼女には素質がある、と?」
紫月は宝物を自慢する子供のように笑った。
「ねぇ、シャノン。恭介兄さんはどうして、澪が未熟だと判断したと思う?」
「澪お嬢様が基礎的な作法すら出来ていないから、ですよね?」
「そうね、その通りよ」
廊下での遭遇なので、澪の挨拶はそれほど間違ってない。だけど、桜坂家の娘を名乗るにしては、所作が未熟すぎる――というのが、恭介が不快感をあらわにした理由である。
「事情を知らない恭介兄さんが、澪を不躾に思うのは無理もないわ。でも、澪がごく平凡な庶民の娘だと知っていれば、感想は変わると思わない?」
「たしかに、挨拶自体は大きく間違ってはいませんでしたが……」
「そう。それって結構すごいことよ。考えてもみなさい。澪があそこで素性に繋がるようなことを口にして、私の隣にいたのが他所の人間だったらどうなると思う?」
「たしかに、そうすれば色々と台無しになっていたかもしれませんね。ただ、それは……」
と、シャノンが言葉を濁す。
「あら、もしかして助言でもした?」
「はい。桜坂家の娘として振る舞うように――と、車内で」
「な~んだ、貴女もわりと気に入ってるじゃない」
そうじゃなければ、シャノンがそんな助言をするとは思えない。紫月がそう言って笑えば、シャノンはふいっと視線を逸らした。
「……応援したくなるような娘なのは事実ですが、財閥の娘となる適性があるかは別です」
「そうね。でも、その適性なら間違いなくあるわよ」
「なにを根拠に、そう判断されたのでしょう?」
シャノンが重ねて問い掛けてくる。
これは別に、紫月の判断に反対しているとか、紫月の言葉を疑っている訳ではない。ただ、根拠を聞いて、情報を共有するための行為だ。
それを知っているから、紫月も気を悪くする様子もなく答える。
「確信したのはさっき。澪が妹として振る舞ったときよ」
「ですが、それは……」
「ええ、そうね。妹として振る舞うに思い至ったのは、貴女の助言を聞いたからでしょう。だけど、妹として振る舞うと決めた理由はそれだけじゃないわよ」
「……他にも理由がある、と?」
シャノンが首を傾けると、紫月は宝物を自慢する子供のように微笑んだ。
「恭介兄さんの顔を知らなかったでしょ? だけど、親戚である可能性には気付いていた。親戚に怪しまれるリスクを覚悟の上で、他人に素性を悟られるという最悪を排除したのよ」
「……庶民育ちの娘が、あの一瞬でそこまで考えられるでしょうか?」
「驚きよね。でも、わたくしが恭介兄さんを従兄だと紹介した直後、あの子はその内心を顔に出した。自分の心配はただの杞憂だったのかって言いたげな表情をね」
「紫月お嬢様の判断を疑う訳ではありませんが、にわかには信じられません」
紫月に使える者として、シャノンはあらゆる状況に対処できるように訓練を受けている。
逆に言えば、訓練を受けているからこそ、不測の事態にも対処できると言える。もしもなんの訓練も受けていなければ、不測の事態には対処できない。にもかかわらず、澪は学んですらいないことをやってのけた。平凡な行動の中に見え隠れする、キラリと光る天賦の才。
澪は路傍の石ころに見えてその実、磨けば光るダイヤの原石である。そのことを、紫月は最初から知っていた。それが、彼女を義妹に選んだ最大の理由。
「彼女ならきっと、わたくしの目的を果たしてくれるはずよ。いまのあの子は未熟だけど、決して愚かじゃない。とても強くて優しい女の子だから」
恭介に食ってかかる澪の勇姿を思い出し、紫月は口元に小さな笑みを浮かべた。
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