エピソード 2ー2
その後は、彼女の案内にしたがって正面玄関をくぐり、エントランスホールを抜け、真っ赤な絨毯が敷かれた廊下を歩く。
赤く深い絨毯が足音を吸収してしまっているのか、廊下は物凄く静かだ。
「紫月さんはここで暮らしているんだね」
「はい。そして、今日からは澪様のご実家でもあります」
「実感、沸かないなぁ……」
養子縁組の手続きをしたのはシャノンで、私はいまだに両親の顔すら知らない。なにより、お屋敷が大きすぎて、ここが家だと認識が出来ない。
なんというか、超豪華なホテルに連れてこられたという感覚だ。
そんな心境で長い廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから、紫月さんが姿を現した。彼女の隣には、紫月さんと同い年か、少し上くらいの男の子がいた。
漆黒の髪に、これまた黒い瞳。顔立ちは整っていて、少し気が強そうな印象を受ける。紫月さんとは髪の明るさが対照的だけど、その身に纏う風格が兄妹のように似ている。
紫月さんに兄弟はいないはずなので、従兄か他人の空似だろう。
その二人を目にした瞬間、シャノンは廊下の端によって、中央に向かって頭を下げた。反射的にそれに倣おうとして、寸前で踏みとどまった。
シャノンにも、桜坂家の令嬢としての自覚を持てと忠告されたばかりだ。相手が他家の財閥の子息だった場合、私がここで庶民っぽい振る舞いはみせられない。男性の雰囲気が紫月さんに似ているのが気にはなるけど――と、私はピンと背筋を伸ばして二人を出迎えた。
「紫月お姉様、ただいま戻りました」
紫月さんは瞬いて、それから「へぇ……」と感嘆の声を零した。だけど男の人は眉をひそめて「紫月お姉様? どういうことだ?」と紫月さんに問い掛ける。
紫月さんは小さな笑みを返した。
「――
「……は? おまえの妹、だと?」
「澪、こっちは桜坂 恭介。従兄のお兄さんよ」
どうやら、私の心配は杞憂だったようだ。紫月さんの従兄なら、もっと殊勝の挨拶をしておくべきだった――と後悔するけれど後の祭り。私は気を取り直して頭を下げた。
「初めまして。紫月さんの再従姉妹で、今日から義妹になる澪と申します」
恭介さんはいぶかしげな顔をした。
彼は『なにを言ってるんだ、こいつは?』とでも言いたげな顔をしているけど、口には出していないので、私も答えられずにいる。
どうしようと困っていると、紫月さんがフォローを入れてくれた。
「庶民の娘と駆け落ちした、お祖父様の兄がいたでしょう? 澪はその孫娘なの」
「……あぁ、たしかに聞いたことがある。だが、桜坂家の血を引いているからといって、このように不躾な娘をおまえの義妹にしたというのか?」
恭介さんの言葉はわりと失礼だ。でもそれは、私を馬鹿にするようなニュアンスではなく、ただ事実を事実として口にしているような、淡々とした口調だった。
実際、不躾な挨拶だったのは事実だ。だから、私は恭介さんの言葉に腹立たしいという気持ちは抱かなかった。だけど、紫月さんが腰に手を当てて不満を口にした。
「お言葉ね。澪はこう見えて、桜坂家の将来を担う逸材よ」
「……は?」
紫月さんの言葉に対し、間の抜けた声を上げたのは私だ。なにを言っているのかと、慌てて訂正しようとする。だけど私が口を開くより早く、恭介さんが呆れ顔で口を開いた。
「紫月、おまえ、本気か? 礼儀も知らぬ娘が桜坂家の将来を担う逸材だと、本気でそんなことを思っているのか?」
「ええ、わたくしはそう確信しているわ」
恭介さんは最初、紫月さんが冗談を言っていると思ったのだろう。でも、答えた紫月さんの目は真剣そのもので、恭介さんにも彼女の言葉が本気だと伝わったようだ。
だから、彼は眉を寄せた。
そして、真意をたしかめるように私に視線を向けた。
「……この娘がそれだけの逸材だと? 紫月、自ら立ち上げたファンドが思いのほか好調だからと、少し思い上がっているんじゃないか?」
「そうかもね。でもわたくしは、自分の見る目を信じてるわ」
「はっ、愚かなことだ。たしかに、おまえの情勢を見る目は一流だが……人を見る目はなかったようだな。精々、坂を転げ落ちないように気を付けることだ」
恭介さんは不満気に言い放ち、今日はこれで失礼すると踵を返した。
「――待ってください」
立ち去ろうとする彼を引き止めたのは私だった。だけど、それはなにかを意図しての行動じゃない。ただ、反射的に口が動いただけだった。
「なんだ娘、俺に平凡呼ばわりされたことに異論でもあるのか?」
それは訂正するまでもなく事実だ。だから、平凡だと言われたことを悪口だとは思っていない。でも、だったらどうして、私は彼を引き止めたりしたのだろう?
そう自問自答していると、紫月さんの姿が目に入った。
その瞬間、自分がどうして彼を引き止めたのか理解する。
「訂正、してください」
「あくまで、自分は平凡じゃないと主張するのか?」
「いいえ、私は平凡ですし礼儀も知りません。非礼があったのならお詫びします。でも、紫月さんはそんな私に手を差し伸べてくれた優しい人です。愚かなんかじゃありません」
そう口にしながら『なにを言ってるの? いきなり、桜坂家の身内に突っかかってどうするのよ、このバカ!』と、冷静な自分が叱りつけてくる。
それでも、一度口にした言葉は飲み込めなかった。
「紫月さんへの侮辱を訂正してください」
「ほぅ、それは俺に命令しているのか?」
恭介さんが牙を剥いた。その姿はまるで、無礼な雑兵をまえにした皇帝のようだった。
彼ならば、私という存在を簡単に壊せるのだろう。
廊下の気温が下がったような気がした。
怖い。怖くて足の震えが止まらない。
それでもスカートの端を握り締め、私はその場に踏みとどまった。
「訂正、してくださいっ。紫月さんは、愚かなんかじゃありません……っ」
震える声で言い放つ。
彼は目を丸くして、それからお腹を抱えて笑い始めた。そのあまりの爆笑っぷりに、私は自分が一体どういう状況に置かれているか理解できなくなって困惑してしまう。
助けを求めて紫月さんを見れば、彼女は満足そうに笑っていた。
「どうかしら? これでも、わたくしの目が曇っていると思う?」
「いや、さきほどの言葉は訂正しよう。無知、無謀を絵に描いたような愚か者だが、その根性だけは認めてやってもいい。たしかに、おまえが気に入りそうな娘だ」
恭介さんが笑って、紫月さんも満足そうな顔をしている。――っていうか……え? この二人、仲が悪かった訳じゃないの? え? もしかして私、勘違いしてた?
「おまえ、澪と言ったな?」
「は、はい、そうですけど……?」
混乱する私はそう応じるのが精一杯だった。
「おまえは、紫月が侮辱されるのを許せないと、そう思っているんだな?」
「はい。彼女は私に救いの手を差し伸べてくれましたから」
「……そうか。なら、一つだけ忠告しておいてやる。紫月がなぜおまえのような娘を妹にしたのかは知らないが、妹にした以上、おまえの行動はすべて紫月に跳ね返る」
「私の行動が跳ね返る……ですか?」
「おまえが優秀な結果を残せば、おまえを妹にした紫月も評価されるだろう。だが、おまえがいまのように無知を晒せば、おまえを妹にした紫月が愚か者扱いされると言うことだ」
「――っ」
ただの姉妹なら、妹の責任を姉が取る必要はない。でも、私を妹にしたのは紫月さんの意思だ。だから、その責任が紫月さんに発生するのは必然だ。
私は、そんなことすら考えていなかった。
「……すみません」
「ふむ、素直なのは美徳だな。精々、紫月の名誉を穢さぬように精進することだ。おまえが紫月にとって害となると分かれば、俺はどんな手を使ってもおまえを排除するからな」
彼は淡々とした口調で警告すると、今度こそ立ち去っていった。彼の姿が廊下の向こうへ消えると同時、緊張から解放された私はふらついて壁に寄りかかった。
「ちょっと、澪、大丈夫!?」
「す、すみません、緊張の糸が切れたみたいです」
私が力なく答えると、紫月さんがふっと笑った。
「もう、脅かさないでよ」
「すみません」
「まぁでも、無理もないわね。桜坂本家の御曹司に食ってかかったのだもの」
「……桜坂本家の御曹司?」
思ってもないことを聞かされて混乱する。というか、理性がその言葉の意味を理解することを拒否していた。だって、本家の御曹司って、それじゃ……
「まさか、知らなかったの? 彼は桜坂財閥を纏める当主の跡取り息子よ」
「そんなの、知るはず――っ」
ないと言おうとして、財界の人間なら知っていて当たり前のことなのだと気が付いた。というか私、紫月さんについても、桜坂家のお嬢様としか聞いていない。
「……じゃあ、紫月さんは?」
「わたくし? そういえばちゃんとは名乗ってはいなかったわね。わたくしは桜坂財閥、先代当主の孫娘よ。だから、恭介兄さんとは
「そ、そうだったんですか……」
紫月さんが、桜坂家のどういう立場かまったく考えていなかった。というか、紫月さんが本家の娘だと勝手に思い込んでいた。
「もしかして私、結構危ないこと、しましたか?」
「まぁね。彼を敵に回すと言うことは、桜坂財閥を敵に回すも同然だから」
つまり、彼は紫月さんより立場が上。私の行動は、紫月さんに迷惑を掛ける可能性すらあった。というか私、彼に紫月さんの名誉を穢せば、排除すると宣告されたんだけど。
……もしかして、大ピンチ?
今更ながらに自分がどれだけ危ない橋を渡っていたかに気付いて目眩がした。
「ちょっと、澪!?」
「澪様、しっかりしてください、澪様!?」
私の意識はそこで途切れた。
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