エピソード 1ー2
「……しばらく、ここで休んでいくといい」
先生はそう言って、看護師のお姉さんと共に席を外した。
一人で席に座り、思い返すのは雫との思い出だ。
小さい頃の私は自分に自信がなくて、よく妹の雫に手を引いてもらっていた。私が近所の男の子にからかわれたときは、雫が私を庇ってくれた。
いまの私があるのは雫のおかげだ。
その雫があと三年で死んでしまう。
そう思うと胸が苦しくて、昔のように雫に泣きつきたくなってしまう。
だけど……ダメだ。
私よりずっと雫の方が辛い状況にある。
残された時間がわずかだと知って一番絶望したのは雫本人だ。それなのに、私がここで下を向く訳にはいかない。いまこそ、私がお姉ちゃんとして雫を支える番だ。
でも、私に雫の病は治せない。
いまの私に出来るのは、妹の入院費用に充てるお金を稼ぐことだけだ。だから――と、私は袖で目元を拭って席を立った。そうして先生に挨拶をして、バイト先へと向かう。
私はまだ十五歳。
中学三年の私は本来働くことが出来ないけれど、家庭の事情を鑑み、親戚のお姉さんが経営するカフェで働くことを特別に許可してもらっている。
バイト先のカフェは、桜花百貨店の上層階にある。その百貨店の正面、横断歩道の向かい側で信号待ちをしていた私は、不審な挙動をするお嬢様風の女の子を見かけた。
長いブロンドの髪は、この国でもそれほど珍しくはない。珍しいのは、私が身に付けるのとはまるで違う、高級感にあふれる装いをしていることだ。
手には煌びやかな手提げ鞄、暖かさそうなモコモコのコートを羽織り、その下にはハイウエストのロングスカートというコーディネートで見るからにオシャレ。
あんな風に着飾れば、私も可愛くなれるのかな? 雫が病気じゃなければ――と、一瞬だけ浮かんだ醜い感情を慌てて振り払う。
ばか、なにを考えてるの? 私に取って雫は誰よりも大切な存在じゃない!
その雫のことを疎ましく思うなんてあり得ないと、自己嫌悪に陥って頭を振った私は、背後からお嬢様に近付く男性に気が付いた。
お嬢様はきょろきょろと辺りを見回していて、背後から近付く男には気付いていない。というか、男はお嬢様に気付かれないように立ち回っている節がある。
妖しい――けど、知り合いが脅かそうとしているだけかもしれない。
そう思った次の瞬間、男がお嬢様の手提げ鞄をひったくった。お嬢様が驚いて振り返る。それと同時、私の横を駆け抜けようとするひったくり犯。
気が付けば、私はその男が手にする手提げ鞄に飛びついていた。
「――っ、なんだ、おまえは、放せ!」
「貴方こそ、鞄を返しなさいよ!」
「くっ、放せって言ってるだろ!」
ドンと突き飛ばされた私は歩道の上に倒れ込んだ。だけど、鞄の感触は胸の中に残っている。鞄を奪い返されたことに気付いたひったくり犯は舌打ちを残して逃げていく。
「貴女……大丈夫?」
気遣う声に気付いて顔を上げれば、気の強そうな美少女――鞄をひったくられたお嬢様が、心配そうな顔で私を見下ろしていた。
年の頃はおそらく私と同じか、少し上くらいだろう。スタイルはよく、手足も細くスラリと伸びている。まるでモデルのように整った体型。
そして、ブロンドのロングヘアに縁取られた小顔には、意志の強そうな紫の瞳と高い鼻、それに艶のある唇が絶妙なバランスで収まっている。年相応の幼さは残しているが、まるでファッション誌のトップを飾る女の子のような輝きを秘めている。
私は思わず、そんな彼女に見惚れてしまった。
「ねぇ、ちょっと、ほんとに大丈夫? 頭でも打った?」
「あ、いえ、大丈夫です」
気遣う彼女の声で我に返り、慌てて問題ないと取り繕う。それから、ひったくり犯から取り返した鞄を胸に抱いたままだったことを思い出す。
「そうだ、この鞄、お返ししま――すっ!?」
彼女に鞄を差し出した私は声にならない悲鳴を上げた。ひったくり犯と引っ張り合ったせいか、持ち手の付け根が大きく裂けていたからだ。
「――ごめんなさいっ!」
鞄を差し出したまま深々と頭を下げる。
これ、ブランドのバックだよね? もし弁償しろって言われたらどうしよう? そんな風に心配するけれど、すぐに「貴女が謝る必要はないでしょう?」と穏やかな声が響いた。
顔を上げると、彼女は「取り返してくれてありがとう」と鞄を受け取った。
「心配する必要はないわ。ひったくり犯から鞄を取り返してくれた貴女に文句を言うなんて、そんな恩知らずな真似はしないわ。それに、償いは彼にさせるから」
――と、アメシストのような瞳を細め、私の斜め後ろに視線を向ける。釣られて振り向くと、黒服の男に拘束されたひったくり犯の姿があった。
いつの間にか、周囲に黒服の男やメイドが集まっている。
「お嬢様、ひったくり犯はどういたしましょう?」
「そうね、ただの身の程知らずだと思うけど、私個人を狙った可能性もあるから尋問はしておいて。警察には、確認が終わったらお届けすると伝えなさい」
命令を下す姿は凜として、人を使うことに慣れきっていることがうかがえた。やっぱり、本物のお嬢様なんだと感心していると、指示を終えたお嬢様が私に向き直った。
「あらためてお礼を言うわ。私の鞄を取り返してくれてありがとう」
「いえ、そんな、私はなにも……」
というか、ひったくり犯は彼女の護衛かなにかに捕まっている。私が手を出さなければ、鞄が傷付くこともなかったんじゃないかなと思ってしまう。
でも、彼女は私の内心を見透かしたかのように首を横に振った。
「貴女が足止めしてくれなかったら逃げられていたかもしれないわ。それに、仮にそうじゃなかったとしても、貴女が私を助けようとしてくれた事実は変わりないもの」
だから、ありがとう――と、微笑む彼女の姿はとても美しかった。
そんな彼女の紫の瞳が猫のように細められる。
「ところで貴女、お礼をしたいのだけど、いまから時間はあるかしら?」
「え、時間――」
と、スマフォの時計を見た私は青ざめた。
「ご、ごめんなさい、バイトに遅刻しそうだからもう行きます!」
幸にも横断歩道の信号は青。私はお嬢様の返事を聞く暇も惜しんで駈け出した。
横断歩道を渡り、桜花百貨店の玄関をくぐり、エレベーターを使って上層のレストラン街へ移動する。続けてフロアを早足で駆け抜け、私が働いているカフェに飛び込んだ。
現在の時刻は、バイト開始の五分前を少しだけ割り込んでいた。
「……はあ、はぁ、
「あら、走ってきたのね。時間には遅れていないし、そこまで急がなくても大丈夫よ」
柔らかく微笑んで、水を注いだコップを差し出してくれたのは楓さん。このカフェを経営する店長で、私の従姉に当たるお姉さんだ。
私はコップの水を受け取って、くいっと一息に飲み干した。
「ありがとうございます。でも、雇っていただいている身ですから」
「ふふ、ずいぶんと頼もしくなったわね。初めてバイトに来たときは、お客さんに話しかけられただけではわわ~って、なっていたのに」
「か、楓さん、恥ずかしいことを思い出させないでください!」
指先で火照りそうな頬を隠し、着替えてきますからと更衣室へと足を運んだ。
更衣室で学校の制服を脱いだ私は、雫の担当医から聞いたことを思いだして胸が苦しくなった。でも、負けちゃダメだと自分を叱咤して顔を上げる。
そうして、身に付けるのは、ブラウスとズボンを合わせたカフェの制服だ。ウェイトレスはスカートなのだけど、私だけがズボンという出で立ち。
中学生の私が出来るだけトラブルに巻き込まれないようにという、楓さんの気遣いである。
ちなみに、私がこのカフェで働くようになってもうすぐ一年が経つ。
最初は叱られることも多かったし、困った客の対応を上手く出来なくて悔しい思いをしたこともある。でもいまは、ウェイトレスとしてそれなりに働けていると思う。
レジはいまだに触らないように言われているけど、オーダーを通したり、出来上がった料理を運んだり、お客さんが帰った後のテーブルを片付けたりするのは私の仕事だ。
そうして一通りの仕事をこなしていると、客足が落ち着いたころに二人組の女性客がやってきた。銀髪のお姉さんは二十代半ばくらいで、金髪の少女は十代半ばくらい。年齢だけを考えれば、少し歳の離れた姉妹かなにかと思うところだけど――その二人に限っては違うだろう。
二十代半ばのお姉さんはメイド姿で、もう一人は――さきほどのお嬢様だった。どうしてここに……と困惑していると、楓さんに小声で接客を促される。
我に返った私は慌てて二人を出迎えた。
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