第3話 鏡の向こうがわ

 ――ピチャン……

 水の音だ!

 ……どうしよう。なんでこんなことしちゃったんだろう。今すぐ帰りたい。

 鏡に映る自分の顔が、ぐにゃりと歪んだ。

 私が今にも泣きそうだから? ううん、鏡そのものが変になっちゃってる。

 ……チャプ……チャプ……

 水の音はどんどん大きくなっている。

 ゴボゴボ……ゴボゴボゴボ……

 プールの中で息をはきだした時の音。

 その音とともに、鏡の向こうがわに水の中の風景が広がった。

 少しうす暗くて、わずかな光に白い泡が反射してキラキラ光っている。

「帆崎くん」

 呼びかけてみても返事なんかあるわけなくて。

 不意に、鏡に当てたままだった手に、ぬれた感覚が伝わってきた。

「ひええ」

 情けない声をだしてしまったけど、なにもかもが遅かった。

 私は吸い込まれるように鏡にぶつかる!――かと思いきや、そのまま……

 ――バチャン!

「ごぼごぼっ!?」

 プールに飛びこんだ時みたい。か、完全に水の中だ……!

 当たり前だけど息ができない! 口を手でおさえてみたけど、早く水面に上がらなきゃこのまま死んじゃう……!

「ごぼっ……」

 鏡の向こう、学校に戻らなきゃ。

 そう思って後ろを振り返ったけど、そこにはもう鏡なんかなくって。

(あ、終わった――)

 死ぬんだ。私、このまま溺れて死んじゃうんだ。私はぎゅうっと目をつむった。

「お前、何してるんだッ!」

 あれっ……帆崎くんの声だ。

 帆崎くん、無事だったんだ。でもなんで水の中で帆崎くんの声が聞こえるんだろう。

 考えたいことが山ほどあったけど、もう息が続かない。

 でも、帆崎くんが大丈夫なら、まあいっか……。

 意識を失いそうになったその時、ペチン! と額を叩かれて目を開けた。

「……あ、あれ?」

 ゼッタイ溺れる……そう思っていたのに、いつのまにか息ができるようになってる。

 それどころか普通に喋れる。

 口の端からはコポコポと白い泡が出ていて、目の前には帆崎くんの顔があった。

「ほ、ほ、帆崎くん!」

「船橋汐里……おまえ、バカなのか?」

「ばっ……!」

 帆崎くんが大変だと思ったからここまで来たのに、なんてこと言うの!

 ……ま、それはもういいか。帆崎くんが無事だって分かったし。

「帆崎くん、あのね、私……聞きたいこと、すっごくたくさんあるんだけど!」

 ほとんどつかみかかるように、帆崎くんのひらひらした服を引っ張った。

 帆崎くんの髪はなぜだか少しのびていて、大人っぽく見える。

 とがった耳の上からは細長い銀色の角みたいなのが生えてるし。

 服も教室の男子が着ているようなやつじゃなくて……和服? 着物? よくわかんないけど、神社の人が着ていそうな、とにかくそういうやつ。

 それにヒラヒラした、天女の羽衣みたいな布がまとわりついている。

 わずかに見える首元には魚のウロコみたいなのがくっついて……あっ、もしかして。

「帆崎くんって……人魚!? いや魚人!?」

「……どっちも違う」

 帆崎くんは呆れた調子で言った。

「こっちだって、混乱してるんだよ、帆崎くん!」

「……ハアーッ……」

 すごく大きなため息をつかれた。

 だってしょうがないじゃん! 私たち、今水の中にいるんだよ!?

 さっきまで学校にいたのに、意味わかんないよ!

「わかった。順番に、説明する」

 小さい子をたしなめるように言いながら、帆崎くんは私の手を引いた。

 見上げた帆崎くんの顔は大人びてて……私、完全に小さい子どもあつかいじゃん!

 でも手をはなすのも怖いので、されるがままついていく。おかしいな、私長女なのに。

「で、何が聞きたい」

「えっと……ここどこ? なんで水中で息ができるの? あの鏡、なに? 帆崎くんのそのかっこうはどうして――」

「多い」

「しょ、しょうがないじゃん! 私たち、さっきまで普通に池の掃除してたんだよ!? それが今はこんな所にいたら、色々聞きたいに決まってるでしょ!」

「わかった、わかった」

 あっ、今の帆崎くんの感じ、私が弟の旭にするのと全く一緒だ……。

「おまえ、俺があの鏡に入るところを見てたのか?」

「えっ……うん。ご、ごめんなさい」

「見られたものはしょうがない。あの鏡はあっちとこっちを結ぶ扉なんだ」

 そう言って帆崎くんは後ろをふり返った。私もつられてふり返ると、そこには小さな池があった。水の中なのに池がある……なんで?

「俺もお前も鏡からあの池を通って、ここ……水の国に来た」

「水の国?」

「そうだ。神々が住まう国のうちの一つだ」

「えっ……ちょっと、じゃあ、私死んじゃったの!?」

「は? なんでそうなる」

「だって、死んだら神さまがいる場所に行くとか、天国には神さまがいるとか……とにかくそういうの、色々あるでしょ!?」

「ここはそういうのじゃない。普通に神さまが暮らしてる場所だ」

「普通の意味がわかんないよ……――ん? じゃあ、神さまが暮らしている場所と行き来してる帆崎くんも、神さまなの?」

「違う」

「よけいわかんなくなってきた!」

 帆崎くんと繋いでいない方の手で私は自分の髪の毛をぐしゃぐしゃかきまわした。

「おまえの親、何してる人だ」

「えっ? お父さんが普通の会社員で……お母さんはイラストレーター」

「じゃあ、おまえは会社員か? イラストレーターか?」

「……ただの小学生、です」

「それと一緒」

「じゃあ、とにかく帆崎くんのお父さんは神さま、ってこと?」

「そうだ。父は大綿津見神おおわたつみのかみ。ここ、水の国を統べる神だ」

「ひゃー……」

 同級生のお父さんが神さまなんて、言われても全然実感わかないよ。

「ところでこっちもおまえに聞きたいことがあるんだが」

「はあ、なんですか」

「おまえ泳げないのか?」

「うっ……」

 なんで今ここでそんなことを……水の中だもんね。そりゃそうか。

「ハイ。泳げません。それがなにか!?」

「歩くのもおそい」

「しょうがないじゃん! 水の中を歩くのなんてこれが初めてだもん!」

「カエルアンコウみたいだな」

「は……か、カエルアンコウ? なにそれ?」

「小さい魚で、胸ビレで海底を歩くようにゆっくりと移動する。泳ぐのがヘタ」

「ば、バカにしてるの!? ねえ!」

「事実を言ったまでだ」

 たしかに背は低いし、泳ぐのヘタだし、歩くのもおそいかもしれないけど!

 帆崎くんがこういう子だったなんて知らなかった……。

 カエルアンコウ、せめてかわいい魚だといいんだけど……。

「洋治~? ダメよ、女の子にそんなこと言っちゃあ」

 突然聞こえてきた女の人の声に、私はびっくりして帆崎くんの手をぎゅっとにぎった。

「――姉さん! なぜ宮殿を出た!?」

「ね、姉さん? 帆崎くんのお姉さん?」

 帆崎くんと似たひらひらした着物を着た、美しい女の人が水中にただよっている。

 お姉さんは口元に手を当てて、私を見ながらくすくす笑った。

「あなたのおでこ、とっても素敵なものをつけてるのね」

「おでこ……?」

 自分の額に手をやると、なにか硬いものがくっついているのがわかった。

 そういえばここに来てすぐ、帆崎くんに額を叩かれたっけ。

 おそるおそるはがすと、丸みをおびた三角形が手のひらにおさまっていた。

 五百円玉と同じくらいの大きさで、オーロラみたいにきらきら光ってる。

「それは俺のウロコだ」

「帆崎くんのウロコ!?」

「捨てるなよ。それがないと息できなくなるぞ」

 いったいどういう仕組みなんだろう?

 ここに来てからというもの、頭の中のはてなマークが全然消えないよ。

 ウロコを服のポケットにしまうと、帆崎くんのお姉さんが私と同じ目の高さに屈んだ。

「あなた、お名前は?」

「は、はい。船橋汐里です。帆崎くんとはその、同じクラスで、同じ美化委員で……」

「まあ! わたくしは、ミクマリといいます。気軽にミクちゃんって呼んでね」

 ミクマリさん……もといミクさんは、ぱちんとウインクした。

 この人がクールな帆崎くんのお姉さんだなんて、なんだか不思議な感じ。

「それで姉さん。どうして宮殿を出た? 外をうろつくのは危険だ」

「そうだったわ~。東の塔がやられちゃったのよ~」

「なんだと!? もうそこまで来ているのか……!」

「あっ、帆崎くん――!」

 帆崎くんは私の手をはなすと勢いよく水の向こうに行ってしまった。泳ぐの早い……!

 話に全然ついていけないけど、なにか大変なことが起こっているのはわかる。

「あっ、あのっ! 帆崎くんのこと、追いかけなくていいんですか!?」

「……そうね。じゃあ、こっちにいらっしゃい」

「ひえ……わ、私、泳げなくて」

「まあそうなの。じゃあ、タロちゃん、こちらにいらして~!」

 ミクさんが叫ぶと、帆崎くんが消えていった方から何かがこちらに向かってきた。

「う、ウミガメ……!? 大きい……!」

「さあ乗って。行くわよ~」

「ちょ、ちょっと待っ、わああ」

 情けない悲鳴を聞きもせず、ミクさんは私をウミガメの背中に乗せ、私の後ろに座るとウミガメの背中をぺちんと叩いた。

 するとウミガメはビュンビュン泳ぎだして、私はあわててミクさんにしがみつく。

「ウミガメがこんなに速いなんて聞いてないぃッ!」

「タロちゃんはうちで一番速い子だもの。さあ、前をごらんになって」

 言われるがまま前を見る。

 左右には岩肌、天井が星空みたいに光っている。――ここって洞窟の中だったんだ!

「さ、もうすぐ洞窟の外よ。わたくしにしっかりつかまっていてね」

 そう言われて、ミクさんの服をつかむ手の力がより強くなった。

「あっ、あれは、お城と……――龍!?」

 洞窟をぬけたからって水の外に出られたわけじゃなくて。

 どこまでも続いていく水中、その遠くに浦島太郎の絵本で見た龍宮城にも似たお城と、屏風や掛け軸に描かれていそうな細い体の龍が泳いでいた。

 龍は私がもらったウロコと同じ色のウロコで覆われていて、銀色の角が生えている。

「あ、あれって……まさか……」

「そうよ。あれは洋治。びっくりした?」

 まるでいたずらが成功した子どもみたいにミクさんは笑った。

 びっくりしたとか、しないとか……そういう問題じゃないと思うんですけど!?

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