第1話 蛟龍〜水の拳〜 第十二節

 那美と渡辺師範代の試合が終わった後、試合を仕組んだ当の本人である彬は姿を消していた。

 渡辺が道場の外まで彬が居ないか見に行ったが、それらしき姿は見当たらなかった。


 そして、既に稽古の終了時間は過ぎていた為、那美と渡辺は、それ以上彬を探す事はせず、本日の稽古は終了した。


 整理体操と掃除もそこそこに、生徒たちと渡辺が帰宅していくのを見送った那美は、道場の隅でぽつん、と座っている照真に声を掛ける。


「悪いね、照真。稽古の時間が長引いてしまって」


 申し訳無さそうに言う那美に照真は、

「ううん、どんな稽古なのか一度見てみたかったし、那美ちゃんと師範代さんの試合も凄かったから、かえって良い体験をさせて貰えたなって感謝してる、ありがとうね、那美ちゃん」

 その照真の言葉に素直に照れる那美。かわいい。


「それで、善子はまだ帰らないの?」

 那美が道場の内扉の向こうへ呼びかけると、まだ帰って居なかった登尾善子がばつが悪そうな表情をしつつ扉の陰から現れた。


「私は……その……」

 何か言いにくそうにモジモジしている。


「善子の家は集落の中だろう、あまり遅くなると親御さんが心配するぞ」


 諭すように語りかける那美に、

「あ、あのっ!!那美さん!!今日の試合、メチャメチャカッコ良かったです!!」

 顔を耳まで真っ赤にして言う善子。


「ありがとう。ああやって攻め手が定まらない時は思い切って組技を仕掛けてみれば有利に……」

「違うんです!!……あっ……ごめんなさい、違わないけど、違くて……」

 那美の言葉を遮って言う善子だが、何が言いたいのかよくわからない。


「今日はこれで失礼します、押忍!!」

 一礼するが早いか、身を翻して逃げ帰ってしまった。


「何だったんだ、一体?」

 照真に問い掛ける那美。

「さぁ……どうしちゃったんだろうね…?」

 しかし照真も今日会ったばかりの善子の気持ちが解るはずも無く、一緒に首をひねるだけであった。


「それで、稽古が終わるまで待っていてくれて悪いんだけど、私はこれからちょっと風呂に入って来るから、それまで私の部屋で待ってて欲しいんだ」


 那美のその言葉に照真は、

「うん、わかった。部屋は隣に……?」

 と那美に問う。


「道場の戸締まりをしたら案内するよ」

 そう言って那美は道場の戸締まりを始める。


 照真も手持ち無沙汰なので付いて回り、那美が道場正面と、退場する際の道場内への一礼を真似して、ペコリとお辞儀をする。


 そして母屋に繋がる廊下を歩きながら、お互いにどちらからともなく顔を見合わせると、ニコッと笑った。


 那美に付いて廊下を歩いて行くと、ふすまの閉じられている一室の前で止まった。


「何も無い部屋だけどゆっくりしていってね」


 そう言って那美は襖を開いて照真を中に案内する。


「ホントに何も無い!!」

 那美が明かりを点けて、室内の様子が判った照真は驚いた。

 ガビーン!!という文字が出そうな位だった。

 それを見て那美は、ハッハッハと脳天気そうに笑うと、

「それじゃ、風呂に入って来るよ」

 と言い、襖を閉めて去っていった。


「……」

 那美が去って、照真は改めて室内を見渡した。

 引っ越してばかりで部屋の模様替えが出来ていない自分の部屋以上に何も無い。

 文机と壁の衣紋掛けが無ければ空き部屋だ、と言われても納得するだろう。

 それで、ゆっくりしてくれとは言われたものの、入って数分で部屋の全貌は明らかになってしまったし、押入れや他の部屋に繋がっているであろう襖を開いて覗くようなはしたない真似は止めておきたいし、さて、どうしようかな、と照真は考えた。


 そうして持って来た紙袋に視線を落とす。

 まだ那美に渡せていないが、照真が篠山道場に行く、と言った時に、父がこれを持って行きなさい、と渡してくれた物だ。

 お土産用に包んであるので中身はわからないが、那美が戻って来たら渡せば良いだろう、と照真は思った。


 その時、襖が開いた。

 軽く驚きつつ襖の方を見ると、那美が立っていた。

「しまった……今日は風呂は沸かされて無かった……」

 と、しくじったような表情で那美が言う。


「えっ?そうなの?」

 照真がキョトンとした表情で言うと那美は、


「うん、夕方に警察が来ててね、母が応対していたんだけど、多分そのせいで風呂の用意が出来なかったんだと思う」


「警察……言われてみれば、私がお邪魔する前にパトカーが出てきてたね」

 照真は夕方、御槌家に着く前の事を思い出した。


「ああ、ちょっと家の事情でね……その用事で母はすぐに出掛けたんだ」

 なるほど、それでお風呂が……納得しつつ照真が尋ねる。


「他に家の人は?」

「うちは父と母と私の3人暮らしで、父は今入院していて、母はその見舞いに行ってるんだ」


 つまり今はこの広い屋敷に那美と照真の二人きりという事になる。


 那美の言葉を聞いた照真は、

「那美ちゃん家も大変だね……それでいながら空手のお稽古も見ないといけないんだから」

 小さな那美が一人で留守番をしてる事に感心する。


「まぁ、父が家を空けてる事は割とよくある事だし、幸い大した事も無さそうみたいだったから、そのうち元気に帰って来るよ……」

 明るい表情でそう言う那美だったが、口調は寂しそうな風に思える。


 その那美の様子を見た照真は、那美に抱きついた。


「!??」


 びっくりして目を丸くする那美。

「こんな広いお屋敷に一人でお留守番なんて……寂し過ぎるよ」

 那美を抱きしめながら照真が言った。

 言ったのだが。


「……」

「……」


 しばし無言の一時が流れる。


 思わず抱きついてそうは言ったものの、その後の事は考えて無かった照真と、抱きしめられるとは思って無くて驚いている那美。


 那美の身体は見た目以上に華奢に感じて、道着はしっとりと汗ばんでいて、でも汗臭くは無くてほのかに花のような良い香りがする。


 照真に抱き締められた那美は、胸元の辺りを顔に押し付けられた形になったが、息苦しさは無く、優しい抱擁にそのまま身体を任せて眠ってしまいたいような心地良さがあった。


 ……

 …………

 ………………


「……あ、そうだ、これ、お父さんが持って行けって……」

 暫しの沈黙の後、先に動いたのは照真だった。言いつつ土産物の入った紙袋を那美に手渡す。

「ん、ああ、これはどうもありがとう」

 紙袋を受け取る那美。ペコリとお辞儀をする。かわいい。


 なるほど、こういう間の持たない事があるのを見越して、お父さんはお土産を渡してくれたんだ、と照真は思った。違うと思うぞ。


「あ、それでね那美ちゃん、お風呂用意出来て無いんだったら、ウチに来て入る?」


 何だか微妙な雰囲気になってしまったのを誤魔化そうと照真が言った。


「ん、いや、そこまでお世話になる訳には……」

 戸惑った那美も何やら奇妙な感覚で困った様子だ。


「ううん、ウチのお父さんとお母さんなら気にしないし、きっと良いって言うから!!あ、それに今日、誰も居ないんだったらウチに泊まりに来ない!?明日は土曜日で休みだし、遊びに来て!!」

 引っ込みが付かなくなったのか、強引に言って来る照真。


「あ、じゃあ、そうさせてもらおうかな……」

 遥か頭上から覆い被さるように言って来る照真の謎の迫力に気圧けおされたのか、思わず承諾してしまう那美なのであった。


 空手着と下着を着換え、ジャージ姿になった那美は、玄関に母への置き手紙を置いて、ガラス戸の戸締まりをすると、照真の後をてくてく歩いて付いていく。


 辺りはもうすっかり暗くなっていて、農道の電灯には虫がたかって飛び回っている。

 幸い風は吹いていなくて寒くも無く、空を見上げれば満天の星空だ。

 こういう所は田舎に引っ越して来て良かったかも、と那美をお泊りに誘えてウキウキワクワクしている照真は上機嫌で思った。


 だが一方の那美はウキウキワクワクどころでは無かった。

 何か異様な気配を感じるのだ。

 それは照真ではない。


 しかもそれは気配と言うより殺気であった。


 何者かが背後から二人の後を間合いを開けて付けて来ているのだ。


 先日の不良連中や竜王院亜美りゅうおういんあみなんかでは無い、危険な未知の存在だ。那美にはそれだけはハッキリと判った。


 照真に知らせて先を急がせてたおすか……いや、万一仲間が居たりして挟み撃ちを受けた場合、照真が危ない。

 間に合う距離なら守り切れるが、離れてしまうと厳しい。


 そうしてピリピリした雰囲気を感じたまま、照真の家に着いた。家の前で照真は立ち止まると、


「やっと着いた〜、那美ちゃん家って、道はわかり易いけどめっちゃ遠いよね〜」

 と暢気に言った。

 まずい。彼女の家を知られる。


 だが、背後の存在は、それ以上近付いては来ずに、離れたままピタリと立ち止まった。

(どういうつもりだ……)

 振り返る事はせずに那美は背後の気配に集中する。

「那美ちゃ〜ん、どうしたの??」

 玄関のドアを開いたまま、照真が呼ぶ。

 せめて何者か正体を暴こうかと、那美は振り返った。


 すると、先程まであれだけ感じていた殺気は消え失せて、辺りには人影一つも見当たらなかった。


(仕方無い、今日は襲撃者を警戒して寝ずに過ごすか……)

 そう考えつつ那美は、

「は〜い、今行く〜」

 と答えて、日野家のドアを開けて中に入り、施錠をし、チェーンを掛けた。


 気休めにしか過ぎないかも知れないが、襲撃者がドアを破ろうとすれば音で気付ける。

 今夜は長い夜になりそうだ、と那美は思った。





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