第1話 蛟龍〜水の拳〜 第七節

 教室に入ると那美は先に登校して来ていた。


 照真は朝食を食べた後に、家の前の道に那美が通りかからないか窓から見てはいたのだが、朝食を食べている間か、照真が起きる前には那美は既に学校に来ていたのかもしれない。


 その教室は2年C組、照真が転入して来たクラスだ。

 元は大阪の大阪市港区港晴こうせい町に住んでいた照真は、自宅が近所の失火により延焼をしてしまい、全焼は免れたものの、住処を失う事になってしまったのだ。


 元々家が古くなって来ていた事もあってリフォームや改築をするよりは、家を新築した方が良いのでは、という話になり、父の勤務先に近く祖父の故郷である篠山町に転居を決めたのだった。


 照真は転居に伴って転校、という事になるのに全く抵抗が無い訳でも無かったが、友人と会うのも大阪と京都なら隣同士でそんなに遠くもないだろうから何とかなる、と考え、学力的にも新学期に併せてだから然程格差は出ないのでは?と転校を承諾した。

(後になってから大阪まではえらく遠い陸の孤島のような町だと判明するのだが……)


 引っ越しするまでは仮住まいとしてアパートに住んでいたのだが、祖父の漫画コレクションを読めないのが辛かった。


 その漫画コレクションは火事の後に運び出され、祖父の知人の倉庫に預かって貰っていた。

 住んでいた日野一家も怪我一つ無く避難する事が出来て、重要な家財道具や漫画コレクションは皆、火事で焼けず傷む事も無かったのは不幸中の幸いではあった。


 そして篠山町に現在の家が建ち、祖父の漫画コレクションは無事、家の書物庫に収められる事となった。


 それはそれとして那美だ。

 照真が教室に入って来て朝の挨拶をした時にはごく普通に挨拶を返しては来たものの、何だか表情が強ばっているような風に見えた。


「那美ちゃん、何だか元気無いみたいだけど」

 照真がそう声を掛けてみたが、那美は浮かない表情で、

「ああ、家の事で、ちょっとね……」

 と答えた。


 こういう時はどうしたら良いんだろう、まず解決出来るような問題では無いだろうけど、聞くだけ聞いてあげた方が良いんだろうか……?

 照真はそう思い悩んで、言葉を詰まらせてしまった。


 しかし、心配するより先に那美の方から気遣ってくれたのか、

「父が帰って来なくてね……諸用で家を空ける事も多いし心配するほどでは無いとは思うんだけど……まぁ、そのうち帰って来るだろうから気にしないでおくよ」

 と言ってくれた。


 だが実際にはその言葉は嘘になる。


 実は深夜に叔父から連絡があり、父が福知山市民病院に担ぎ込まれたという報せを受けたのだ。

 そして母・静江とタクシーで市民病院に向かい、父が治療を受けて安静を保つ為に入院したのを確かめて帰宅したのだが、本当は今でも心配で嫌な予感もしてたまらないのだ。


 だが、照真がホッとした様子を見せたのを見て、夜にあったその事は言わないでおこう、と思った。


 そうこうしてる内に担任教師がクラスに入って来てホームルームが始まった。

 那美たちのクラス、2年C組の担任である沖智子おきともこ先生は、小柄で眼鏡をかけた愛嬌のある顔立ちの美人で、生徒たちに人気の優しい先生だ。


 受け持っている科目は家庭科で、彼女が炊いたご飯を食べた事のある生徒は口を揃えて、

「家で食べるご飯より美味しい!」

 と評判で、女生徒たちはご飯の炊き方をこぞって教わりに行っていた。


「みんな、おはよう。休んでる子は……居ないみたいね、ところで先日、町の農協の所で乱闘騒ぎがあった事は知ってるかしら?」


 乱闘?そんなのあったのかよ、と生徒達はざわつき、数人が那美の方を見る。


「ご近所の方が警察に通報して、お巡りさんが現場に駆けつけた時には、もう誰も居なかったみたいなんだけど、巻き込まれたり、怪我をした子は居ない?」


 沖先生は心配そうな表情で生徒たちを見回す。

 それといって変わった様子の生徒は見当たらないのと、以前乱闘騒ぎに巻き込まれたという御槌那美が平然とした顔をしている事から、皆大丈夫だったようだと判断し、胸を撫で下ろした。


「……みんな大丈夫だったみたいね、でも、登下校中に何かトラブルなんかがあった時には、すぐにご近所さんに匿ってもらうか、警察と学校に電話するようにしてね」

 先生の言葉に生徒たちは、はーい、と応える。皆素直で良い子達だ。


「それじゃ、1限目は松山先生の数学ね、来られるまで皆待っているように」

 そう先生は言い、教室を後にした。


 そして間もなく男性教師が教室に入って来て、私語をしていた生徒たちは話を止めて、日直の生徒が起立、と号令をかけ、次いで礼をして着席する。


 もじゃもじゃの天然パーマのような髪型の中年教師の松山稔まつやまみのるはいつも通り咳払いを一つしてから


「それでは授業を始める」


 と無愛想に言い、黒板に向き直りチョークを手に取るとカッカッカッ……と音を立てて数式を書き始めた。


 それを見た照真は、左隣の窓際の席に居る那美の様子を伺った。


 しばらく黒板の方を注視していた那美が、照真の視線に気付き目を合わせたが、笑顔を返した照真に、指で教科書を突付つっつくジェスチャーを示した。

 授業中だ、って事だろう、真面目な子だ。


 その那美の様子に照真は、特に心配する必要は無さそうだ、と安心して、黒板の方を向いた。


 それにしても、この背丈の小さい可愛らしい那美が(実際クラスの中では一番背が低い)、昨日の乱闘騒ぎの張本人であり、あれだけ居た不良たちを一人で叩きのめしたのだと知ったらどう思うだろうか、と思い、無意識にニヤニヤとしてしまった。


 そうして授業は滞りなく進んでいき、やがて昼休みの時間となった。

 生徒たちがそれぞれ机をくっつけてグループを作ったり、一人で弁当を広げたりしていく中で、照真はすぐに那美の机に自分の机をくっつけに行き、向かい合わせにした。


「那美ちゃんもお弁当持ってきてるんだね」

 照真は自分の弁当箱を開いてそう言った。


「うん、自分で作って持ってきてる。照真のお弁当は色々入ってて美味しそう」

 照真のその言葉に那美が答える。


(那美ちゃんは料理が出来る女の子なんだ……)

 照真はそう感心しつつ、羨ましく思った。


 照真の弁当は女子らしく小さなランチボックスで、小さなおにぎりと、おかずが別の箱に入っていて、サーモンフライと小さなハンバーグが2つに、レタスとプチトマトとウサギの形のりんごが入っている。


 那美の弁当は大きな弁当箱にご飯と海苔が敷き詰められ、端にきんぴらごぼう、鯖の塩焼きが入ってるシンプルながらも美味しそうな弁当だ。


「私はお母さんが作ってくれてて、いつも色々凝ってくれてるから楽しみなんだ」

 照真はそう言ってニコニコ笑顔でハンバーグを口にする。そして美味しい、と喜ぶともう一つのハンバーグを那美に差し出した。


「これ美味しい、那美ちゃんも食べてみて」

 大阪の学校では友達の林祐希はやしゆうきちゃんといつもやっていた事だったが、那美はちょっと戸惑った様子で、目をまんまるにして驚いていた。


 だが、それも一瞬の事で、ハンバーグをパクッと口にした。

 そしてモグモグと食べた那美の顔がみるみる明るくなる。


「凄い……これは本当に美味しい、こんなに美味しいハンバーグは初めて食べたよ」

「でしょー、牛肉だけ使ってて焼き方にもコツがあって、ジューシーで美味しいよね!」


 照真は満面の笑みでそう言う。

 その表情を見た那美も頬を染めて笑顔で応える。


 そうして二人の世界を作りつつ、楽しく和やかなランチタイムを終えようとしたその時、


「あらあらあらら〜、お二人で随分楽しそうじゃ御座いませんこと……?」

 二人の机のそばに一人の女生徒が近付いて来てそう言った。


 その顔を見た照真は、昨晩の夢を思い出して、

「あっ……キワキワファッションの人……」

 と思わず呟いた。


 照真の言葉に怪訝な表情を見せ、顔をしげしげと眺めると、

「キワキワ……何の事でしょうか……それより貴女、ここの席に居らしたおデカ女さんでしたわね、いつもお地蔵様のようにじーっとしていただけでしたから気付きませんでしたわ!」

 オホホ、と大袈裟な手振りでなかなか無礼な事を言う。


 照真はその顔を見て改めて思い出したが、確か他所のクラスから来てる女生徒で、ライトブラウンの髪を縦に巻いててお嬢様口調でちょくちょく那美にちょっかいを出しに来ていた女生徒だと気付いた。

 自分は昨日までは那美と特に親しくも無かったし、何かあの人達うるさいな……と気に留めないようにしていたのだ。


「何だ、竜王院りゅうおういん。何か用があって来たんじゃないのか」

 冷淡な声で那美が言う。


「話……そう……貴女にお話したい事があって来たのでしたわ、でもここではちょー……っと話辛い事ですから、そうですわね……放課後、講堂の裏に来て下さいまし」


 竜王院、と那美が呼んだ生徒は、それだけ言うと踵を返し、オーッホッホッホ、と高笑いをして去って行った。


 他の生徒たちはまたやってるよアイツら……などと言いつつ見慣れてる様子だった。


「ど、どうするの、那美ちゃん、何か呼び出されちゃったけど」

 照真が慌てて言う。


 だが、呼び出された当の那美は特に気にもしていない様子で、

「いつもの事だよ、ただ行ってやらないと後でしつこいからな、あいつは……」

 と、面倒臭そうに言った。



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