第二十八話

 温泉旅行から帰ってきてマンションに着いたのは、日曜日の昼過ひるすぎだった。

 旅の疲れと里美をけなかったショックで、私は身も心も疲れ切っていた。取りあえずタバコを一本吸おうと思った時、ふと優子の写真が目に入った。優子……。


 その時、私は、あることに気付いた。この写真を見るのは随分ずいぶんひさしぶりのような気がする。

 いつもは出かける時に心の中で『行ってきます』、帰ってきたら『ただいま』と言っていたのに、それも随分していないことを思い出した。


 里美と付き合う時、優子のことは忘れる努力をすると言ったが、優子のことを忘れるとはこういうことか、と思い知らされた。


 すると、その時、『はっ』と気付いた。違う。優子のことを忘れていない。まだおぼえているのだ、心と体が。私は、優子の優しい笑顔と柔らかな感触を思い出した。


 私は、すべてをさとった。なぜ里美を抱けなかったのか。あの違和感いわかんは何なのか。


 まだ優子のことを憶えていて、そして優子をほっしている心と体が拒否きょひしたのだ。優子ではない女を。それが、あの違和感になったのだ。頭では優子のことを忘れても、心と体は優子のことを憶えているのだ。


 私は、このことを、ようやく理解した。そうか、優子のことは忘れられないんだな。私は、里美と別れることを決めた。


   ●


 金曜日の夜。里美からのさそいで、里美のアパートで夕飯を食べることになった。


 里美の部屋に行くと、中にまねかれた。

「さ、信吾。上がって、上がって。今から夕飯を作るから、ちょっと待ってて」


 里美は料理本を片手に、キッチンに立った。だが私は、その料理を食べるつもりは無かった。


 私は玄関に立ったまま、告げた。

「里美。ちょっと話が、あるんだが……」

「あー、後にしてくれない? これから美味しい料理、作ってあげるから。取りあえず部屋に入って、休んでてよ」


 私は、低い声で続けた。

「大事な話なんだ。聞いてくれないか?」


 いつもと違う様子を感じたのか、里美は少し不安そうな表情で私のそばにきて聞いてきた。

「どうしたの、信吾?」

 

 私は、里美の目を見つめて告げた。

「俺と、別れてくれないか?」

「どうしたの、急に? 何かの冗談じょうだん?」

「冗談じゃない。俺は本気だ」


 里美は、すがった。

「私に何か悪いところが、あったら言って……。直すから、ねえ?」

「いや、悪いのは俺の方だ。どうしても優子のことが忘れられないんだ。

 優子は、自分の人生は幸せだったと言って亡くなったが、俺は一日でも長く生きて欲しかった」


 私は、優子の最後の作り笑顔を思い出した。

「里美と付き合えば、優子のことは忘れられると思った。でも、忘れられなかった」


 里美は、言ってくれた。

「優子さんは、もう、信吾の一部になっているの。だから忘れられないし、無理に忘れようとしなくてもいいの……」

「確かに、そうかも知れない。でも、もう、いいんだ」

「待って。信吾は今、一番つらい時期なの。でも今を乗り越えれば……」


 私は、それにかまわず別れを告げた。

「本当に、もういいんだ。俺は、優子の思い出と共に生きていく。さよなら」

「ちょっと待ってよ、信吾!」


 すると里美は、つとめて明るく言った。

「ねぇ、信吾、知ってる?」


 そして続けた。

「止まない雨はないの。そして雨が止んだら、きれいなにじが出るの」


 里美の言葉は、私の心には届かなかった。


 里美は、続けた。

「今のつらさは、もうすぐ訪れる幸せの、きざしなの」


 私は思わず、わめいた。

「もう止めてくれ、もう放っておいてくれ!」

「でも……」


 私は、思わず怒鳴どなってしまった。

「お前には、愛する人を失ったつらさが分からないんだ!」


 私は、しまったと思った。里美は、ちゃんと話せば分かる女だ。怒鳴る必要は無かった。でもフォローする気も無かった。これでいい。このまま別れようと思った。

 私は、もう一度『さよなら』を告げて、部屋を出るつもりで里美を見た。


 すると里美は、告げた。

「分かります」

「え?」


 私が思わず見つめると里美は、まっすぐに私の目を見て続けた。

「私の婚約者こんやくしゃは、三年前に死にました」

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