第五話
私は仕事を終え、いつものように赤と黄色の看板の弁当屋で弁当を買って、マンションに戻った。そして写真立ての優子に心の中で『ただいま』と言った。
弁当を食べた後タバコを一本吸い、優子との結婚生活を思い出した。
私がマンションのドアを開け玄関から
「ただいま」と言いリビングへ入ると、赤いエプロン姿の優子は告げた。
「お帰りなさい。最近、帰ってくるのが早くて良いわ。遅い時は一人で食べなくちゃいけないから」
優子は結婚を機に会社を退職し、専業主婦になっていた。
「うん。この間までは客先と新しい契約を交わすからその資料作りで忙しかったんだけど、それも一段落ついたから。うん? 良い匂い。この匂いは、ひょっとて……」と鼻に甘さと辛さが混じった香りを感じながら、私は聞いた。
「そう、ビーフシチューよ。ふふ、あなた、鼻が良いわね」
私は期待した。
「そうか! 優子が作るビーフシチューは美味しいからなあ。楽しみだなあ」
「もう少しで出来上がるから、ちょっと待っててね」
「うん!」と私は答え、スーツから部屋着に着替えて、リビングのソファーに座った。
そしてテレビのリモコンでスイッチを入れ、ニュースを見始めた。
少しすると優子は、テーブルの上にビーフシチューとサラダを持ってきた。
「お待たせ、出来たわよ」
私がテーブルのイスに座ると、ちゃわんにご飯をよそってくれたので早速
「いただきます」とビーフシチューを一口、スプーンですくって食べた。口の中いっぱいに甘さと辛さが広がり、ご飯がすすんだ。
「うん、やっぱり優子が作るビーフシチューは美味しい! レストランにも負けていないかも!」
優子は冷静ながらも、うれしそうに答えた。
「えー、それはちょっと大げさよ」
「ううん、大げさじゃないよ。なんて言うのかなあ、深みとコクがあって、ご飯とよく合うんだよなあ」
優子は適度に高く、聞き取りやすい声で答えた。
「うん、牛肉をバターで焼くと、コクのあるソースが出来るの。それに時間をかけて煮込んでいるから、牛肉が柔らかくなるの。
あと、ルウは市販の物を使っているけど、隠し味にコンソメを使っているから調和のとれたうま味が出るの」
「へえー、そうなんだ。それでこんなに美味しいのか」と私は、優子の顔を見つめた。顔の輪郭はきれいな卵型で、目は切れ長。髪は背中にかかるくらい、伸ばしていた。身長は高めで美人だった。
夕食が終わり私は、またソファーに座りテレビを見ていると、食器の後片付けが終わった優子が隣に座った。そして話しかけてきた。
「ねえ、あなた。ちょっと話があるの……」
私はテレビを見ながら答えた。
「うん? 何?」
すると優子は、神妙な口調で話し出した。
「あのね、子供のことなの……」
私はテレビを消して、優子の方に向き直って聞いた。
「どうしたの?」
「あのね、私たち結婚してもう二年になるけど全然、子供ができないわよね……」
私は、深く考えずに答えた。
「まあ、そうだな……。でも、そんなに気にしなくてもいいんじゃないかな。その内にできると思うよ」
「うん、でも私、ちょっと気になって調べてみたの。そしたら避妊せずに一年たっても子供ができなかったら、不妊症なんだって……」
「え? そうなのか?」
私には全く知識が無かったので、驚くことしか出来なかった。優子は続けた。
「だから私、レディースクリニックに行って相談しようと思っているの」
私は少し考えてから、答えた。
「そうだな、その方がいいかも知れないな……」
「それに、お金のことも心配しないで。特定の不妊治療には助成金が出るらしいの」
お金のことまでちゃんと考えているとは、さすがに優子はしっかりしているなと思いつつ聞いた。
「そうか。なら、早い方が良いかも知れないな。で、いつ行くつもり?」
「そうね……。明日、病院に電話をして予約が出来た日に行くわ」
後日、レディースクリニックへ行った優子は、基本検査を受けた。それで異常が見つからなかったので、排卵と射精のタイミングをより正確に合わせる、タイミング療法を行った。
半年間、療法を行ったが結果が出なかったため、卵巣を刺激して卵胞を多く成熟させる、排卵誘発を行おうと考えていた時に、優子はガンで入院した。
もし、私たちの間に子供が生まれていたら優子の運命も変わっていたのではないか、と私は今でも思う。
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