さよなら私の恋心

うめ屋

*

 いつもよりもていねいに髪をとかして、制服のリボンを結ぶ。

 くちびるには淡いさくら色のリップクリーム、爪はつやつやに磨いて色なしのマニキュアを。

 スカートの丈は短すぎず長すぎず、ふつうの女子高生に見える長さで。きょうくらいは、生活指導の鬼ちゃん先生を怒らせないようにしたい。

 手には使い古した通学かばん。くたくたになった紺色のおもてに、友達とそろえたキーホルダーやストラップが揺れている。もう教科書もノートも必要ないけど、かばんはそれなりに膨れていた。

 寄せ書き用のペン、みんなに渡すプチギフト、後輩にあげる手作りクッキー。……それからもうひとつ、別に用意した贈りもの。

 一本だけラッピングされたピンクのガーベラと、ちょっぴり高級な焼き菓子の詰め合わせ。女子高生のおこづかいでは少し痛い出費だったけど、最後だもん、背伸びしたいのはご愛敬だ。

 鏡の前でくるんと見た目を確認して、かばんを持って階段を駆け下りる。いってきますと玄関を飛び出すと、まだつめたい三月のそよ風が頬をかすめた。

 天気は上々、花の季節にはもう少し。

 そんな晴ればれとしたきょうのこの日に、わたしは女子高生を卒業する。


 *


 卒業式っていうものは、なんとなくこそばゆい。

 校長先生のありがたいご挨拶をおうかがいして、よく知らないお偉いさんたちから祝電をもらう。後輩代表の送ることばはなんだか大まじめすぎるし、わたしたち卒業生の答辞もとってつけたような気取り方だ。保護者に見られながら卒業歌をうたうのも恥ずかしい。

 けれどもいざ、旅立ちのとき、なんて歌詞を高く高くうたっていると、ふしぎと胸がいっぱいになってしまう。女子のなかにはぐすぐす泣いている子たちもいる。湿っぽくてしんみりしてて、でもさっぱりと清々しい。三月の青空みたいな余韻を引いて、卒業式は幕を閉じた。

 そのあとは誰もかれもが教室に居残って、泣いたり笑ったり抱きしめあったり。スマートフォンでの記念撮影も明日のクラス会の約束も、もう卒業したわたしたちにはお咎めなしだ。むしろ先生たちもひっぱり込まれて、あの鬼ちゃん先生までもが困った照れ笑いをしながらカメラの前に立っている。

 わたしもクラスメイトたちとひととおり別れを惜しんで、そのあとそっと輪から離れた。がらんどうの教室を早足ですり抜けて、いちばん上の階にある図書室へ向かう。手鏡で髪の乱れを見直したあと、こんこんと控えめにドアを叩いた。


「はい、どうぞ」


 少しくぐもった、しずかな男のひとの声だ。三年間、いつも聴いていた。いつも聴きたかったひとの声。わたしはからからになった唾をのみ込んで、失礼しますとドアを開けた。

 開け放された窓の向こうから陽が差して、カーテンをやわらかい真珠色に膨らませている。ほのかな陽だまりが閲覧机のうえに落ちた。整然と並ぶ書棚からただよう古びた紙の束の匂い。その棚の合間で本を整理していたひとが、一冊を棚に戻しながら微笑んでふりむいた。


つきさん」


 丸めがねの奥の目は、いつも落ち着いた栗色のひかりをたたえている。そのひかりを見ると肩の力がほどけて、わたしは笑みながら男のひとに近づいた。


「センセイ」


 先生でもせんせいでもない、ただひとりだけのための呼び方。たった四文字にいろんな思いを詰め込んで、わたしはこのひとを呼んできた。


「山ちゃんセンセイ、きょうもやっぱり図書室なんだ」


 名字がやまだから、山ちゃんセンセイ。そんな女子高生のからかいもふんわりとした苦笑で受けとめて、センセイは頭を掻いた。


「ああいう席は、得意でないので」

「知ってる。でも、かわいい教え子の卒業くらいはお祝いしてくれないの?」

「もちろん、しますよ。ご卒業おめでとうございます」


 センセイはまるで、対等なおとなにするように深々と頭を下げた。山ちゃんセンセイはいつでもそうだ。他愛もない女子高生の冗談だって、生意気な男子学生の突っかかりだってきまじめに受けとめる。そして微笑みのなかにくるみ込むのだ。センセイと向き合った生徒はみんな、釣られてばかていねいなお辞儀を返してしまったりする。

 わたしはきょうも変わらないセンセイの態度に、目を細めてくるおしく笑みを返した。


「センセイのまあるいつむじも、きょうでとうとう見納めなんだね」


 ヘアサロンでカットしてもらったのでもない、スタイリングをしているのでもない、やぼったく撫でつけただけの髪型だ。日本史の教科書にあった写真で、戦前のサラリーマンがこんな格好をしていた気がする。センセイはそういう、どこか浮世離れした素朴さをまとわせて生きているひとだった。


「そろそろ白髪が出てきやしまいかと心配なんです」


 センセイはそうおだやかに頭をさする。空とぼけたようなずれた返答がおかしくて、わたしはくすくすと笑った。その笑い声にくすぐられるようにカーテンがふわりとなびく。わたしはそうだ、とさも気づいたようにかばんを漁った。


「センセイにはお世話になったし。これあげます」


 ラッピングされたピンクのガーベラと、焼き菓子屋さんの手提げ袋。いつもありがとうございましたって、なんでもないことのように頭を下げたわたしの指先は震えていた。

 センセイがゆったりとわたしの贈りものを受け取る。そのわずかな重さがふっと相手のてのひらに渡って、わたしは頭を上げた。センセイは腕に抱いた贈りものをいつくしむように見つめて、くちびるにやさしい笑みを乗せる。


「ありがとうございます。嬉しいです」


 私のほうがプレゼントをもらってしまいましたねと、センセイがからりと言う。その笑顔に胸がつまった。頬もこめかみも涙が出そうに熱くなって、きゅうっとあふれてきてしまう。


「センセイ。……真山センセイ」


 あのねわたし、あなたがすきです。

 三年間、ずっとずっと言いたかった。

 喉に、胸に、おなかの奥に、ずっとずっと言えないままで閉じ込めてきた。

 だけどもう、言っていいかな。

 胸の底からはじけて飛び立ってしまいそうな、いっぱいいっぱいのこの気持ちを。


「……わたし、」


 けれどもそうして口を開きかけたとき、センセイがわたしの名前を呼んだ。


「皐月みどりさん」


 その声は、出欠をとる〈先生〉としての声音だった。わたしはとっさに背筋を伸ばして息をつめる。センセイはおだやかな笑みを浮かべて告げた。


「もう、図書室ここへ来てはだめですよ」


 カーテンが風にあおられる。その隙間から漏れたひかりが、センセイの輪郭を白くふちどる。

 とてもきれいで、残酷で、かなしくなるほどきっぱりとした線引きだった。センセイが意地悪をしているわけではないとわかって、余計に心臓が引き絞られる。恐れでもなく、嫌悪でもなく、このひとは限りなくきまじめにわたしのことを突き放した。


「センセイ、」


 言わせてもくれないんだねって、軽口にすることすらできなかった。

 くちびるが喉がおなかが、みじめに震えないようにするので精いっぱいだった。涙をこぼさないように必死で歯を食いしばって、わたしはきっと、ぼろぼろに崩れかけたひどい顔で泣き笑った。


「もう、来ないよ。……ここにはこない」


 だってわたし、もう女子高生じゃないんだもの。

 春から大学生になるし、アルバイトだってサークル活動だってなんでもできる。たぶん友達と遊んで笑って、もしかしたら飲み会で出会った男の子とキスのその先まで行くかもしれない。そんな真っ白であやふやで、はてしない未来がわたしには待っている。


――でもそこに、あなたはいない。あなたのいない未来を選びなさいとあなたは言った。


 胸の奥がかき乱される。雨と風が吹いている。センセイのばかって叫んでやりたいのに、もうひとりのわたしがわたしを引き留めている。

 きれいなままで、きれいな女として去ってゆきたい。

 それが恋する女としての、わたしの意地だ。

 だからわたしは、できるだけくちびるを持ち上げて無邪気な女子高生の顔をつくった。


「さよなら、センセイ。三年間ありがとうございました」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さよなら私の恋心 うめ屋 @takeharu811

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ