第三章 開拓村での一夜ー3


 列車に乗り込むと、昨日と同じく、フラゴンとシーゲルは向かい合わせに座り、北へ向かった。今朝もドナマン・アマギが二人を馬車で送ってくれた。温かい朝食は勿論、子羊肉オーブン焼きサンドイッチと、ザリガニと野菜のサラダのランチも持たせてくれた。フラゴンを、開拓者一家の心からのもてなしが包んでいた。心の底では、昨夜の興奮と感慨が、フラゴンの躰の底で霧のようにたゆとうている。

 駅に着くまでに、収穫の後始末やら果樹園の冬支度をしている、農夫一家の姿をそこここで見かけた。樹木の幹に藁を編んだものを巻き、同じく藁で綯った荒縄できっちりと縛り、寒さから樹木を守る作業が主だ。実を収穫した後の豆や胡麻や芋の葉や枯れ枝を燃やし、灰にして田畑に撒く作業。あちらでもこちらでも、そんな白い煙が立ち昇っている。灰や堆肥を鋤きこむ仕事も残っている。

「あの煙は……」とドナマンが指差した川沿いの小屋は、蒸留所の煙だと言う。

 開拓地の村々では、こうやってウイスキーやブランデー、他のスピリッツを造っている。昔からの伝統なのだ。

「必要なものは自分達の手で造り出す。何によらずこれが、開拓移民の伝統ですよ」

 ドナマンは誇らしげに言った。

 眺めるとどの作業も、幾つかの家族が協力し合って行っている。老いも若きも幼い子供たちも、一緒になって力を合わせ、冬を迎える準備に大童だった。

「長い冬ですからね。五ヶ月もの間、開拓地は雪に埋もれたままです。でも、この辺りはまだ良い方ですよ。北部開拓地は七ヶ月近くも雪の中です」

 フラゴンはドナマンの言葉だけでは、開拓地の冬の厳しさは実感出来そうもなかった。厳しい季節には違いないのだろうが、フラゴンの脳裏に浮かぶのは、雪に埋もれた開拓村の、純白な美しい風景だった。


 長いこと待たされた挙句に、何の前兆もなく列車は大きく揺れて動き出した。

 駅の周辺に広がるわずかばかりの緑地や林はすぐに後方に流れ去った。それでも、線路脇には所々に草が見える。

「シーゲルさん、あなたにはお礼を言わなくちゃなりません」

「何です、突然?」

「あなたのお陰で、昨夜は思いがけず開拓地の温かいもてなしを受けることが出来た」

「とんでもない。開拓地では何処へ行っても同じことが起きますよ」

 シーゲルはにこりとした。

 こう言った何気ない言葉が、フラゴンの心を暖かくする。シーゲルは躰を捻じり、汽車が突き進む先に見える山々を指差した。

「あれが、南部開拓地と北部開拓地を隔てる山脈です。あの山を越えると、また別世界です。さらに厳しく、そして輝かしい開拓地がある。昼過ぎには山岳地帯を越えるでしょう」

 フラゴンはシーゲルが指差す先を見た。鋭い山脈の稜線が青く乾いた空へ、刃のように切り立っている。

「北部開拓地には、あなたの村がある」

「そう、私が生まれ育った村があります。タード郡レグル村。小さな村だ」

 山脈から眼を戻して座りなおし、シーゲルはパイプを取り出した。

「ナダの谷へ着いたら、すぐにフラン親方をお尋ねなさい。あの男に任せておけば、何にしろ上手く取り計らってくれますよ」

「ありがとう、そうしましょう」

「この列車は、夕方近くにはタード郡に着きます。フラゴン先生とは、今日でお別れですな。本当に残念だ」

 シーゲルは感慨をこめて言った。

「私もですよ、シーゲルさん。旅の最初に、あなたに出会えてよかった。火星のことを、何も知らずに終わったかも知れないところだった」

 その日は途中何の故障も事件もなく、列車は見通しの悪い山岳路を黙々と走り続けた。シーゲルが言った通り、昼過ぎには山を越え、列車は下りにかかった。列車は、北部開拓地の、平坦な場所に下りきって、初めて小さな駅に停まった。夕方近くになっている。水や燃料を補給し、わずかな客を呑みこむと、再び列車は走り出した。その間も、フラゴンとシーゲルは、様々のことを語り合った。

 開拓地の暮らし。開拓移民団の歴史と誇り、火星の北と南の違い。北部開拓地と、更に北のナダの谷との間に広がる、広大な荒れ地のことも、ナダの谷を中心とする、自由居住区が、何故デスモインと呼ばれるようになったかも。話し疲れ、二人がうとうととした隙に陽は傾き、列車は躰をゆさぶるようにして、再び停まった。

「タード郡の駅に、着きましたよ」

 揺られ続けた躰をほぐしながら、アルト・シーゲルは立ち上がった。フラゴンも立ち上がり、凝った腰と首を動かし、外を眺めた。

「レグル村は、此処から四十キロ程北東です。それでも、駅に一番近い村だ」

 この駅での停車時間は、二時間だ。これから先は、列車は夜行のダイヤに入る。人を運ぶことが主目的ではないので、旅客にとって恐ろしく厳しいダイヤが組まれていた。

 シーゲルは、レグル村にフラゴンを招待したかったと、心から残念そうに言った。 

 だが、ここで降りてレグル村へ行けば、後、十日は、ナダの谷へ向かう列車はない。それも、ダイヤ通りに運行されればのことだ。フラゴンは、考えた末、レグル村へ行くことを断念した。やがて、シーゲルの村へ行く機会もあるだろう。今は、北の果てへ向かう旅を全うすることが、フラゴンの心をかきたてていた。

 フラゴンは外へ出た。少しでも外の空気に触れていたい気分だ。軋む首を回して、降り立った駅の風景を眺めた。

 駅の周辺の緑地や木々は、南部開拓地より更に少なく、木々は既に葉を落としていた。防風林があるものの、斜めに射す眩しい夕陽に照らされ、大地は何の起伏も見せず、ただ広がっている。開拓地なのに、荒涼とした風景が、フラゴンの胸を圧倒してくる。いや、これこそが、自然なのだ、と思い直した。私達が知っている開拓地の姿は、決して、自然のままの姿ではない。

「これが、北部開拓地ですよ」

 シーゲルが言った。フラゴンは、只頷いた。

「あの山が、南部開拓地を、寒さから守っているんです」

 シーゲルが、越えて来た山脈を振り返った。

 山々は夕陽に輝き、炉から出されたばかりの鉄のように、赤く燃えている。麓には既に夜の帳が漂い、青白く光る刃そっくりに、冷たく沈んだ光を放っていた。フラゴンは、自分がこれから向かう荒れ地の方を見た。

 何の飾りも衒いもない、手付かずの大地が、夕陽に霞んでいる。鉄道の線路など、細い毛髪程の存在感もない。フラゴンは、剥き出しの大地の前で、大いにたじろいでいる自分を発見した。未だかつてない感覚だった。

「ナダの谷まで、およそ千二百キロ。それでも今は、二日で着きます。北半球北部の、本当の姿を眺められますよ」

「もう、圧倒されているよ」

 フラゴンは正直に、気持ちを言葉にした。

「そうでしょう。私達だって、荒れ地へ足を踏み入れることは滅多にない」

 シーゲルの言葉にフラゴンは頷いた。

「ナダの谷へ行こうなんて人にも、あまり、お目にかかりませんがね」

 シーゲルの声が、からかいの色を帯びていた。フラゴンが見ると、シーゲルがいかつい顔のまま、いたずらっぽく片目をつぶってみせた。

「時間はある。最後に、一杯酌み交わしましょう」

「やりましょう」フラゴンが応えた。

 二人の男は、長い影を引き連れ、短いプラットホームを歩いていった。

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