最終話 永遠の決心と瑠衣の涙とヒナタの捨てた心

 学校から家へ帰ると、瑠衣ちゃんが待っていて、笑顔で僕に抱きついてくる。その温かさと柔らかさ、匂いを感じると、やっぱり瑠衣ちゃんを失いたくない。その想いがより鋼のように強固となってしまう。

「……僕は一体どうしたらいいんだよ」僕はそう呟きながらベッドに横たわる。そして天井を見上げた。すると不意に涙が溢れてくる。あれからずっと悩んでいる。人類を敵に回すのか、瑠衣ちゃんを祓うのか。祓えば人間の瑠衣ちゃんとはもう会えなくなる。そんなのは嫌に決まっている。だが人類を敵に回せば僕も瑠衣ちゃんもいずれ淘汰される。どうしてこうなってしまったんだろう。僕が何をしたって言うんだろうか。神様、どうか教えて下さい。

「ヒナタ、どうしたのじゃ。なんでそんなに悲しんでおるのじゃ? わらわは心配じゃぞ……」僕の表情を見て、心配そうに顔を覗き込んでくる瑠衣ちゃん。その表情を見ているだけで余計に泣けてきてしまう僕。ダメだ、もう涙を止めることができないや。すると瑠衣ちゃんは僕の上に覆い被さってきた。

「よしよし、大丈夫じゃ。泣くでない」そう言いながら僕の頭を撫でてくれる瑠衣ちゃん。ああ、瑠衣ちゃんの胸、気持ちいいなぁ。こんな瑠衣ちゃんともう二度と会えなくなるなんて、そんなの嫌だなぁ――。

「ヒナタ、何故そんなに泣くのじゃ。わらわに教えてくれ」瑠衣ちゃんが眉毛をハの字にして僕の頭と頬を触りながら訊ねてくる。そんな顔をさせたくないのになぁ……と思いながらも涙を拭った僕は答えた。

「だってさ、せっかく仲良くなれたのに……。瑠衣ちゃんと離れたくないんだもん……」そう言った途端、また涙がボロボロ溢れてしまう。

「離れるもなにも、おぬしはこれからもずっと一緒に居るではないか」眉毛がハの字のまま瑠衣ちゃんが不安そうな表情を浮かべる。

 僕は泣きながら、鼻水を垂らしながら告げた。

「……猫又は、人類を滅亡に導く、人を殺さない生物兵器。野良猫と交配して繁殖し人間に拾われてその飼い主を魅了し子孫繁栄を妨げる存在。僕は、大好きな瑠衣ちゃんを祓わなければならないんだ……」

「なんじゃと……?」驚いた顔をする瑠衣ちゃん。

「僕はずっと瑠衣ちゃんと一緒に居たい。だけど僕は人間で、瑠衣ちゃんは猫又。猫又は突然変異で作られた人造生命体。本来ならあってはならない存在。人類の繁栄のために淘汰されなければならない存在だって、そう説明された」

「……」瑠衣ちゃんは真剣に僕の話を聞いていた。

「僕はこの薬を瑠衣ちゃんに投与して、瑠衣ちゃんから変身能力を奪って、普通の猫に変えなきゃならない」

 薬のアンプルを見せると、瑠衣ちゃんは僕の顔をジッと見つめる。さっきからずっと涙が止まらない。だってこの薬を瑠衣ちゃんに投与したら、もう二度とこの瑠衣ちゃんに会えなくなるんだ。この数ヶ月間、人間の姿の瑠衣ちゃんと暮らして幸せだったのだ。そりゃあ欲望との格闘もあり、完全に慣れてくるまで少し疲れたりなどもあったけど、間違いなく言えるのは、瑠衣ちゃんと暮らした日々は充実していた。幸せだった。その幸せが消えてなくなる。これが悲しくないわけないじゃないか。

 まるで永遠の時のような間だったが、瑠衣ちゃんはいきなり笑顔になった。

「ヒナタが泣き止んでくれて、幸せに生きられるのなら、わらわはその薬を飲む」僕はその笑顔を見て、その言葉を聞いて、胸が張り裂けそうになった。胸が痛くて痛くて、どうにかなりそうだった。僕のために、瑠衣ちゃんはただの猫になる選択をしてくれているのだ。

「これを飲んだら、もう二度と人間の姿で僕に抱きつけなくなるんだよ……?」と僕が涙声で言うと、笑顔のままの瑠衣ちゃんの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

「それでもいいのじゃ! ヒナタが幸せに生きられるのなら、わらわはただの猫になってもよい!」

 僕に悲しい顔を見せないように、ずっと笑顔のまま泣いている瑠衣ちゃん。こんな健気な姿を見てしまったら、この瑠衣ちゃんと一緒に居ることを諦めることができなくなる。もう諦められない。僕には無理だ。無理だ……。

「……ダメだ」

 僕も瑠衣ちゃんも涙を止められない。

「ダメだ!」もう一度僕は拒否する。


「ヒナタ、わらわはヒナタが泣いている姿を見ていると、つらいのじゃ。ヒナタが泣き止んでくれるのなら、笑顔で幸せになってくれるのなら、わらわはなんでもするのじゃ。ヒナタが大好きだから」


 なんで、

 なんでこの子はこんなことを言うんだ。なんで僕のために自分の幸せまで削ろうと、ここまでしようとしてくれるんだ。これじゃまるで矛盾しているじゃないか。

 そんなことしてくれなくていいんだ。

 僕は瑠衣ちゃんがそばに居るだけでいいんだ。


「……っ」

 僕は瑠衣ちゃんを強く抱きしめて泣いた。

 こんな健気で純真無垢な子を失いたくない。

 離したくない。やっぱり嫌だ。

 嫌だ……。

「やっぱりダメだ! 僕は人間の姿の瑠衣ちゃんが好きなんだ……!」

「……」

 瑠衣ちゃんは無言で僕の手から薬のアンプルを掠め取って、止める間も無く自分の口に流し込む。そしてごくりと飲み込む。


「!!」


 その光景に戦慄が走った。

 嘘だと、

 こんなの何かの間違いだと。


「瑠衣ちゃん!!」


 もうすぐ人間の瑠衣ちゃんとはお別れになる。

 もうあの温かさや柔らかさ、匂いを全身で感じられなくなってしまう。

 愛する彼女が消えてしまう。

 存在が消えてしまう。

 永遠に会えなくなる。


「ヒナタ、短い間じゃったが、わらわはヒナタと一緒に人間として暮らせて、幸せじゃったぞ。わらわがただの猫になっても、わらわはヒナタのことは忘れん。ありがとう……」


 と微笑む彼女の瞳からは次から次へと涙がこぼれ落ちて、床を濡らしていく。


「やめてくれ――!!」


 僕は気付けば叫んでしまっていた。

 あとは言葉にならず、自分でも何を言ってるのかわからない。


 瑠衣ちゃんは嗚咽しながら、


「わらわは、人間に、生まれたかった。そうすれば、ヒナタとずっと、こうして、いられるのに、無念、じゃのう――」


 僕は瑠衣ちゃんの存在が消えてしまわないように、きつく抱きしめる。

 こうすれば人間の姿のままで居てくれるような気がした。

 僕の大切な、瑠衣ちゃん。

 

 いつも満面の笑みで、

 

 純真無垢で、

 

 素直で、

 

 永遠の、


 愛する家族。

 

 瑠衣。


◇ ◇ ◇


 五日後、彩芽さんから電話があった。


「瑠衣に薬を飲ませたのね?」

「はい……、瑠衣ちゃんは自分から、僕のために進んで」

「そう、あの子は優しかったのね」


「……」

 僕は言葉に詰まる。瑠衣ちゃんは彩芽さんの言う通り、本当に優しいからだ。僕のために自分の幸せを犠牲にしてまで僕に幸せになってほしいと、その身を挺するようなことまでして僕に教えてくれた。


「優しいあなたと一緒に暮らしたから、あの子も優しい性格になったのよ、きっと」

 僕は瑠衣ちゃんと今でも一緒に居る。僕はもう、生涯離れることはないだろう。いつかお互いの寿命が来て、体が離れることはあろうとも僕は瑠衣ちゃんのことを忘れることはない。


「……その、薬は飲んだのですが」

「飲んだけど?」


◇ ◇ ◇


 ――再び五日前に戻る。


 ――そのままお互いに泣きながら抱き合っていたが、何故か瑠衣ちゃんに変化は起きない。猫の姿になることもない。……何故だ? え、この薬を飲ませたら瑠衣ちゃんはただの猫になるんじゃなかったのか……?

「……瑠衣ちゃん、猫にならないね?」

 と、僕は瑠衣ちゃんの涙で頬を濡らした顔を見ながら訊ねてみる。

「そうじゃのう……」と、瑠衣ちゃんは首をかしげる。そして自分の両手を眺める。しばらくすると何を思ったのか、四つん這いになって、「んっ!」と力を込めるような声を出す。そして自分の両手を再度確認して、

「猫の姿になることができん……」と僕を見て呟いた。

 ……そういえば、彩芽さんが言っていた猫又の変身能力を奪う薬とは、そのまま言葉の意味どおり変身能力を奪うというだけであり、猫に戻すのではなく、猫⇄人間に変身することを封じるということなのか? そう仮定すると、僕は人間の姿の瑠衣ちゃんにこの薬を飲ませたので、人間の姿のままで猫に変身できなくなったということとなる。……あれ? これって良いことなのか? いやむしろ悪いことなのか?  というかそもそも僕はなんでそんなことをしたんだっけか? 確か彩芽さんに言われて、僕はただ単に自分が人類として生き延びるために、猫又を祓うために行動していたはずだよな……? なんかおかしい気がするけどまあいいか。


「瑠衣ちゃん、猫の姿に未練ある?」と、僕は訊いてみると、瑠衣ちゃんは、

「ないのじゃー」

 と満面の笑みを浮かべて元気に答えたので安心した。

 とりあえず一件落着ということで良いのだろうか。なんだかあまりにも泣きすぎて疲れたので今日は寝ようかな……。

 でも、こうして瑠衣ちゃんをまた抱きしめながら寝られると思うと、さっきまで悲しかった気分はどこかへすっ飛んで行ってしまった。


「ヒナタ、わらわはおぬしとずっと一緒じゃ。人間の姿のままでおられるのなら、もう二度と猫になれなくても構わん。猫の姿など要らぬ」

 

 と笑顔で背中に両手を回して僕にぎゅーっとしてくる瑠衣ちゃん。さっきまでは人間の姿の瑠衣ちゃんに二度と会えなくなる恐怖と焦りと悲しみしかなかったが、こうして瑠衣ちゃんは僕の腕の中に居る。何事もなかったように。

 その温もりやありがたみがいつも以上によくわかる。

「ヒナタ、愛しておるぞ。いつもありがとう」

 瑠衣ちゃんから恥ずかしげもなく満面の笑みで直球ストレートの愛の言葉と感謝を告げられ、ふと僕の脳裏にあることが浮かんだ。それは今まで考えたこともなかったことだった。それは亡くなった僕の両親のこと。僕の両親はどんな思いで僕を育ててくれたのだろうか。僕のために働いてくれたのだろうか。僕の学費を払ってくれていたのだろうか。僕の生活費を出していてくれたのだろうか。僕の将来を考えてくれていたのだろうか――。

 ああそうか、そういうことだったのか。ようやくわかった。僕は両親に対して感謝の気持ちを持って生きていなかったんだ。親不孝者だったんだ。両親も全く感謝しない僕に対して腹が立ち、堪忍袋の尾が切れて僕に酷いことを言い始めた。だから僕は両親が事故で亡くなってひとりぼっちになっても、特に悲しくもなく、逆にごちゃごちゃ口出しして命令してくる人間が居なくなり自由になったと、内心思ってしまって、それからの人生は周囲への感謝も忘れてしまっていた。その結果僕を必要としてくれる人は周囲から消え、僕は孤立することになった。そこで僕と同じように孤独で路頭に迷っている瑠衣ちゃんを拾って、僕を必要としてくれる純真無垢の素直さに惹かれてしまった。僕はそんな瑠衣ちゃんを見て、本当は僕も意地を張らずにこのくらい素直に生きたかったと思ってしまったのだ。そして自分の身を挺してまで僕に幸せになってほしいと、その健気な気持ちで、捨てていたはずのあの感情を思い出してしまったのだ。

 心の谷に投げ捨てたあの感情。素直にお父さんやお母さんに、いつもありがとう、愛してると感謝と愛の気持ちを伝えること。たった二つの言葉。これを言わなかったことを僕は後悔していた。それを認めたくなくて、あいつらは酷いことを僕に言ったから感謝なんか愛の言葉なんか言う必要ないとひたすらこんな言い訳をし誤魔化していた。僕は結局自分しか見ていなかったのだ。周囲のことなんてこれっぽっちも考えていなかったんだ。それを気付かせてくれたのは他でもない、瑠衣ちゃんだ。

 僕を必要だと言ってくれて、自分の幸せまで削ろうとし、僕に笑顔でいてほしいと幸せになってほしいと、そんな愛を与えてくれて、目を覚まさせてくれたのは、僕の家族の瑠衣ちゃんなんだ――。


「瑠衣ちゃん、ありがとう、愛してる」

 返事をすると、彼女はやっぱり満面の笑みで僕に顔を擦り付ける。


◇ ◇ ◇


「……人間の姿のまま猫にならなくなったんだけど、これって良いのかな……?」僕がこう訊いてみると、彩芽さんはふうっと息を吐いたあと、

「人間の姿から猫に戻れないのなら、もう野良猫と交配できないから繁殖ができなくなる。猫又としての脅威は瑠衣の代で無くなったわ」そう答えた。

「なら、これがもし猫の姿で飲ませてたら?」

「変身能力のないただの猫になるだけね。遺伝子レベルで変身能力を封じてるから、野良猫との繁殖で産まれてくる猫も、理論上ただの長生きな猫になるわ。長生きな猫も増えると困るから、可哀想だけど避妊手術はさせていただくけどね」

「それって結局、殺すわけでもなく、消すわけでもなく、ただ薬で遺伝子操作して変身能力を封じるだけってことですかね……?」

「そうだけど、何か不満なの?」

「僕があれだけ悩んで、苦しんだのはいったい……」僕は、はぁー……と、大きくため息をついた。

「あなたがわたしの説明を変な思い込みで受け取って、勝手に勘違いしただけのようね」

 どうやら僕の悩みは全て杞憂だったようだ。確かに言われてみればそうなのだが……僕は瑠衣ちゃんのこととなるとかなりムキになるようで、早とちりな上に変な解釈をしたようだ。でも普通は猫又を祓うとか、変身能力を奪うとか言われたら、殺すとか消すとか、猫から人間に変身できないようにするとしか思えないんですけど……。

「他に疑問は?」と彩芽さんが訊いてくるので、

「あの、このまま僕は瑠衣ちゃんと一緒に居ても問題ないんですかね?」

「瑠衣は猫の姿に戻れなくなり猫又としての繁殖能力は無いから生物兵器としての脅威はない。でも、瑠衣は遺伝子が猫だから人間としての繁殖能力もない。言ってみれば不妊の女の子と一緒に住んでるだけのようなもの。あなたが生涯瑠衣と共に生きることを望むなら、これから先あなたの家系の血は途絶えて淘汰されるだろうけど、繁殖能力のない瑠衣自体には人類に対しての脅威はない。どうするかはあなたの自由よ」と答えられた。

 僕が瑠衣ちゃんと一緒に居ることを選択すると、今後僕の家系の血は途絶える。何故なら、仮に瑠衣ちゃんと結婚して里子をもらったとしても、それは結局別の人の子供であり、僕と瑠衣ちゃんの血や遺伝子を受け継いだ子供ではないからである。しかし、瑠衣ちゃん以外の女の子はもう考えることができない。ごめんね、僕の家系……淘汰されちゃうけど。

「これからも瑠衣ちゃんと一緒に居ます」と僕ははっきりと告げた。

「そう、あなたがそれで良いのならもう何も言わないわ。あ、そうそう、わたしが送ったもの、届いてる?」と言われて、隣に居る瑠衣ちゃんが胸に抱いている物体に目をやる。

「はい、届いていますよ」

「どう? 気に入ってくれた?」

 実は昨日彩芽さんお手製の黒猫のぬいぐるみが僕の家に送られてきた。ぬいぐるみの首には、金メッキもどきのネックレスがかけられている。大切にしているネックレスを付けてあげるほど、瑠衣ちゃんはこの黒猫のぬいぐるみを気に入っているようである。

「はい、とっても大切にしてます」と嬉しそうに答える僕の声を聞き、電話の向こうでくすりと笑いながら、

「喜んでもらえて良かったわ」と彩芽さんの言葉の後に、ふと瑠衣ちゃんは黒猫のぬいぐるみを床に置いて僕に顔を擦り付けてくる。あれだ、勉強をしているときとかにしてくる、例の構ってほしいときの行動である。

「ヒナタはいつまで電話をしておるのだ」と座っている僕の頭に顎を乗せてくる瑠衣ちゃんは、電話口に聞こえる声で不満げに呟く。背後からのしかかられるようなこの体勢は胸で後頭部を挟まれるのである。

「あら、お邪魔なようだからもう切るわね」と言って、プツッと通話が切れた。

「さてと……」僕はスマホをテーブルの上に置くと、向き直って瑠衣ちゃんを正面から抱きしめた。瑠衣ちゃんも僕の腰に両手を回してきて、互いに抱き合う形となる。

「瑠衣ちゃん、これからもずっと一緒だよ」

 と伝えてみると、満面の笑みを浮かべる瑠衣ちゃんは、相変わらず心底幸せそうな顔で、こちらもつられて笑顔になる。

「もちろんじゃ!」

 両手両足でしがみついてくる瑠衣ちゃんの、家族の温もりを僕は体いっぱいに感じた。


    fin

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