第九話 束の間の幸福とヒナタの涙
彩芽さんから渡された、瑠衣ちゃんの変身能力を奪う薬。これを瑠衣ちゃんに投与してしまえば、もう人間の瑠衣ちゃんとは会えなくなる。この綺麗な長い黒髪が、まつ毛の長いくりくりとした眼が、僕を見つめたり、柔らかい髪に触れたり、体の温もりを全身で受け止めることもできなくなる。僕にはそんなことは考えられなかった。考えたくもなかったのである。
しかし、これはいずれやらなければならないこと。そう考えると寂しくて悲しくて、僕は瑠衣ちゃんが寝静まった頃に、バレないように泣いていた。
そんな悲しさが気まぐれで少しだけ薄れたある日、
「瑠衣ちゃん、またどこか遊びに行こっか」
悲しい顔をひたすら隠して、僕は部屋で擦り寄ってくる瑠衣ちゃんに声をかけた。
「やった! ヒナタとデートなのじゃ!」と無邪気な笑顔で快諾される。僕はこの満面の笑みでつられて笑顔になるはずだったのに、今回はすぐに笑顔になれなかった。
「どうしたのじゃ?」と様子のおかしい僕に瑠衣ちゃんは首を傾げるので、僕は慌てて笑顔で、
「な、なんでもないよ、それじゃどこに行きたい? どこでも連れてってあげるよ」
「本当か!? なら、あの定食屋に行きたいのじゃ!」僕はその返答に思わず笑みがこぼれる。瑠衣ちゃんはあの鮭の塩焼きやアジフライがある定食屋が本当に気に入っているようだ。
「お? やっとヒナタが笑ったのじゃ」と僕に顔と体を擦り付ける瑠衣ちゃん。ああ、やっぱり瑠衣ちゃんは優しいなぁ。今はただでさえ緩みやすい涙腺なのに。今泣くと瑠衣ちゃんに心配される。僕は必死に堪えて、
「それじゃ、いつもの定食屋に行こっか」と笑顔を向けた。
「よし、それじゃ着替えるのじゃ!」すると瑠衣ちゃんは目の前で恥ずかしげもなく服を脱ぎ始め、僕が買った外出用の黒い長袖ワンピースを着始めたので慌てて背を向けて見ないようにする。
徒歩十分の商店街の中にあるいつもの定食屋。今はまだ昼時ではないため、席は空いている。
「何を食べたい? やっぱり鮭かな? それともアジフライ?」隣に座っている瑠衣ちゃんに訊ねると、
「そうじゃのう……迷うのじゃ……」と考え込む。どうやら本気で迷っているようだ。
「それじゃ今日は鮭もアジフライも乗っけてもらおっか」と僕が提案すると、
「いいのか!?」ぱあっと顔を輝かせる瑠衣ちゃん。
「今日は特別だからね」
店員を呼んで注文を終えると、瑠衣ちゃんはテーブルに両肘を乗せて顎を支えながら何やら考えるポーズをとる。どうしたんだろうと思って訊ねてみると、
「何故今日のヒナタはいつも以上に優しいんじゃ?」と疑問を口にされ、僕はこれが人間の姿の瑠衣ちゃんと過ごす最後のデートになるかもしれないと思っていることを見透かされたような錯覚がして、心臓がドクンと跳ねる。しかし僕はあくまで平静を装って、
「え……そうかな……?」と笑って誤魔化した。
「ヒナタはいつも優しいが、今日はなんだか変なほど優しいのじゃ」猫のように目を細めてこちらを眺めてくる。
「今日は瑠衣ちゃんに特別優しくしたい日なんだよ」と苦し紛れに言うと、
「ほほう、ならもっと甘えるとするのじゃ」とさらに密着度を高めてくるので、僕もそれに応じてくっつく。瑠衣ちゃんは僕の胸板にぐりぐりと頬を擦り付けてきて、僕は頭と背中を撫でてあげるという濃いスキンシップを続けていると、
「お、お待たせしました」と店員が注文した品のお盆を手に、気まずそうに声をかけてくる。……またやってしまった。
お客様、ここでそういうのはちょっと……、と言いたげな表情に見えて、僕はサッと瑠衣ちゃんを離して、店員から定食を受け取り、瑠衣ちゃんの前に置く。こちらへ目を合わせないようにして気まずそうな店員。僕はすみません……と愛想笑いをする。
「こほん、ごゆっくりどうぞー」と咳払いをしてテーブルを離れる店員。うん、これは間違いなくバカップルと思われた。
「……」瑠衣ちゃんは目の前に置かれた鮭とアジフライが乗っけられた自分の定食と、僕の鮭の定食を交互に見て、何やら箸でアジフライを半分に裂き始めた。そして半分にしたアジフライを僕の鮭の隣に置いて、
「これでわらわとヒナタは同じ物を食べてるのじゃ」と無邪気な明るい笑顔を僕に向けた。
僕は瑠衣ちゃんを喜ばせようとアジフライを追加したのに、食べる物を僕と同じにしたいのか、それとも僕に分けてくれただけなのか。どっちにしてもそういうのをこんな時にやってくれるのは反則だろう……。優しすぎるよ瑠衣ちゃんは。
気付いたら涙がこぼれ落ちてきた。
「ヒナタ、何故泣くんじゃ?」
「嬉しくて泣いてるんだよ」嘘である。もうすぐこんな瑠衣ちゃんとこうしてデートができなくなると思うと、もう我慢ができなくなった。
「泣くほど嬉しいのか! ならヒナタと半分こして良かったのじゃ!」
そんな純粋な言葉をかけられると、ますます涙が出てしまう。瑠衣ちゃんは僕の目尻を指でそっと拭いてくれる。
ニコニコしながら背筋を伸ばして箸で綺麗に鮭にアジフライ、ご飯と味噌汁を食べていく瑠衣ちゃん。その様子を眺めながら僕は半分こしてくれたアジフライをかじると、また涙が溢れてくる。
「今日のヒナタは泣き虫なのじゃ」
「瑠衣ちゃんが優しいからだよ」
「ヒナタはもっと優しいのじゃ」
ああ、このまま時間が止まってしまえばいいのに――。なんで時間ってこんな早く過ぎていくんだ。こんな時くらい遅くなったっていいじゃないか。
帰るために商店街を歩いていると、
「おいヒナタ、あれはなんの機械じゃ?」と瑠衣ちゃんの指さす方向を見ると、小さなゲームセンターの外にプリ機があった。
「あれはプリ機って言って、自分の写真を撮る機械だよ」
「ふむ、自分の写真など撮ってどうするんじゃ?」
「思い出作りに仲の良い友達とか、恋人とかと一緒に撮るんだよ」いやまあ、イケメンとか美人の芸能人を自分の隣に持ってくるという加工もできたりするらしいので、一人で撮る人も中には居るかもしれないけど。
すると瑠衣ちゃんは一瞬顎に指を当てて上を向き考えると、
「ならば、ヒナタと一緒に撮るのじゃ! 思い出を作るのじゃ!」
思い出を作るという言葉に、これが人間の瑠衣ちゃんとの最後の思い出かもしれないと、それが脳裏をよぎって、僕はちくちくと胸が痛くなり始めた。それを顔に出さないようになんとか堪えて、
「……そうだね、撮ろうか!」
「うむ!」
腕を引っ張ってくる瑠衣ちゃんに連れられて僕はそのままプリ機の中に入る。
お金を投入したあと、モニターに映った姿を見て気付く。瑠衣ちゃんは僕より頭ひとつ半くらい身長が低いので、肩から下が隠れるのである。
「うーん、うーん。位置が悪いのじゃ」とつま先立ちをするものの、それでも均等に映るのは厳しい。ということで、僕は瑠衣ちゃんを抱えることにした。
「おお! これなら一緒に映れるのじゃ!」とはしゃぐ瑠衣ちゃん。僕は瑠衣ちゃんをお姫様抱っこしている体勢で、瑠衣ちゃんは僕の首に両手を回していて、傍から見れば僕と瑠衣ちゃんはカップルのようにしか見えないだろう。
撮ったあとに加工タイムが始まる。このままでも十分盛られてはいるが、
「もっと加工してみる?」と僕は訊ねてみると、
「もっと加工とはなんじゃ?」と案の定訊かれたので、
「目を大きくしたり、顔を綺麗に見せたりできるんだよ」と僕は試しに加工してみると、目が大きくなり、顔のラインが少し細めに変わった、かなり盛られた自分と瑠衣ちゃんが映し出される。まるでリアル少女漫画のようである。
「……なんだかわらわではないように見えて気持ち悪いのじゃ」と、瑠衣ちゃんはげんなりした表情でどうやら不評のようである。
写真は微盛りのままにして、
「これ、このペンで文字入れられるからね、書いてみる?」
「書くのじゃ!」
ニコニコしながら瑠衣ちゃんはタッチペンで文字を書き入れる。そして出来上がった写真を手にして、帰り道にそれを眺める。
僕からお姫様抱っこをされて満面の笑みでカメラ目線の瑠衣ちゃんの下に、『ヒナタとわらわ』『ずっといっしょ』と可愛い文字で書かれている。
人間の姿の瑠衣ちゃんと、ずっと一緒に居たいよ。離れたくないよ。なんで僕は変身能力を奪う薬を瑠衣ちゃんに飲ませなくちゃいけないんだ。そんな悔しさを感じていると、僕は緩くなっている涙腺が簡単に決壊した。
「どうしたのじゃ? なぜ泣いているのじゃ?」突然涙をこぼす僕に瑠衣ちゃんは驚き、そして体を擦り付けてくる。これは心配しているときの行動である。
「瑠衣ちゃんと写真が撮れて、嬉しくて泣いてるんだよ」とまた僕は嘘をついた。
「そうか! ならまたデートして、一緒に撮るのじゃ!」
無邪気に花が咲いたような笑みを浮かべる瑠衣ちゃんに、僕はつられて笑うことができなかった。
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