重い風が吹いていた。曇ったそ夜空は何も存在しないかのように真っ黒で、公園の街灯だけが無機質に光を放っていた。

 ベンチに二人、腰掛ける。

「どうなんの、あたしたち。ホームレス?それとも、またどこかの施設に入れられるんかな。てか警察もあたしたち普通に帰らせていいの?」

「さあ」

「玉木は今頃あったかい布団の中だろうね」

 短いズボンから伸びた長い足を、彼女は寒そうに擦る。とても、皮肉げな声だった。

「ねぇ、土岐。あんた玉木と仲良いよね。八年ぐらい前だからって気づいてないわけないでしょ。あいつは、この施設出身のやつだよ」

 小学校に入る前、施設がおかしくなる前、玉木は家族の一員だった。

 彼女もまた、親に見捨てられた人間だ。

「イラつかないわけ。何であいつだけ親ができるのよ。何であいつだけ……あの地獄を、味わわなくていいのよ。なんであたしたちは普通になれないの?なんであたしは汚されなきゃいけなかったの。あんなやつ……」


「佐々木」

 土岐は彼女の、家族である彼女の名前を呟く。宥めるような、嗜めるような声だった。


『お前の親偽物なんでしょ。血のつながってないヤツを育てるもの好きなんているんだー。両親変わってるね。まあ捨てられないようにしなよ』

本心じゃなかった。


『あたしの醜い嫉妬』


 ただ、羨ましかったんだ、普通になった玉木が。

 許せなかったんだ、自分を取り巻く環境が。


「あたし本当にちっぽけでクズだ」

 唇をかみしめる彼女の目はうるんでいた。

「あたし、津崎のことが好きで、あこがれてた。本当にキラキラしてて、まっすぐで、あたしたちが歩めなかった道を歩んでいた。あたしもああなりたくて、でも遥遠くの存在だった。誰かの支えに、あたしはなれない」

「だったら……なんで」

「いじめてなんかいない」

 ボソッと呟いた。

「いじめる理由なんてこれっぽっちもなかった。あたしの周りにいた奴らだって少し悪口を言ってたくらい。いじめてたのは、村田昭彦だよ」

 津崎が死んだと聞いて、呆然とした。本当に悲しかった。大嫌いだった玉木をかばおうとする姿勢にはイラついた。多分、そうなれない嫉妬から。でもそれだけだった。

 自分の行いがどれだけ他人を傷つけているかについて、思考放棄をしていた。言い訳をしてずっと逃げてきた。

 だけど、津崎が死んで、目をそらしていた現実を突きつけられた。あたしがどれだけひどいことをしてきたか。

 津崎はいじめてない、それも言い訳だ。大事な人が傷つけられるのは、誰だって辛いんだ。辛かったから、あたしたちは家族になって支え合おうとしたんじゃないか。あたしの言動が津崎を殺したかもしれない。学校で津崎の追悼をした日、その考えと、どうしようもない感情とが、ひどくひどくあたしを押しつぶした。今でもずっと、その重みがのしかかってくる。

 玉木は、あの日あたしが泣いていたのが許せなかっただろうか。、



 村田昭彦、あんたはどう思ってる?

 施設、『家族の家』の親、村田慎吾の実の息子。

 後から知った。施設でたむろしていた半グレと一緒にいて、そこにいた子供たちに暴力を振るっていた同級生。それは村田だった。なぜ彼が施設に来るようになったかは知らない。

 玉木、津崎、その他の生徒、彼女らに学校で暴力を振るっていた村田。


 そういえば、友達から聞いた。津崎が死んだあの日、村田は休みだった。授業は真面目に受けない。部活の朝練と夕方練のためだけにきているようなものだった。バスケは体育館でやる。雨は関係なかった。部活には真面目に毎日通っていたあんたが、なんで休んだの?

 俺が殺した、村田がそう言っていたと噂が充満していた。それは、いじめていたから?それとも……

 あの日、なにがあったの?


「ねえ、彼岸花のつぼみ。もう九月だからあと少しだ」

 公園の街灯の光を受け、つぼみの先が赤く、とても赤く光っていた。

「施設の庭にもたくさん咲いてた」

「彼岸花って花が咲くときは葉がなくなるんだって。花と葉は出会えない。花は葉を想い、葉は花を想う。だから、相思草って呼ばれるらしい。ロマンチックだよね」

「佐々木がそんな乙女チックだなんて知らなかったよ」

「全然。あたし彼氏はおろか恋愛だってろくにしたことないのよ」

「すればいいじゃん。中学生なんだし」

 夜風が吹き、葉のない花が揺れた。

「分からない。愛だとかは習ってないから。それにあたしは汚れてるから」

「そう」

 家族だから隠し事の一つや二つあるかもしれない。だけれど、お互いのことは大体知っていた。慰めや同情、解決策なんていらない。過去の話にお互いそれを求めているわけではない。

「土岐は?いないの?」

「何が」

「好きな人」

 いない、ではなく、彼は知らないと答えた。

「この前も思ったけど、あんた多分玉木のこと好きでしょ」

「幸せになってほしいとは思ってる」

「それを好きっつーんでしょうが。知らないけど」

 愛は誰から学ぶのだろうか。


「おやすみ、土岐」

 流れを切るように彼女が言った。固く冷たいベンチに寝そべる。現実逃避だった。今日も、いずれ朝が来る。また真っ暗な新しい朝が。

 眠ったまま、夢に堕ちたままそのまま消えてしまえばどんなにいいか。何度も考えた。明けない夜はない。だけど、この夜が、光のない朝が耐えられなかった。

 きっと『夢』は素晴らしい場所なんだ。だれも悩みなんてなくて、すべての人が平等に救われる。

 背中同士向かい合った奇妙なベンチで二人、丸くなって眠る。胎児の夢を見る。

確かにあったそばのぬくもり。知らぬ母の顔。ぬくもりから産み落とされ、真っ暗な世界に一人ぼっちだった。


「土岐、襲ってこないでよ」

 ふざけたような口調だった。

「何言ってんだ、佐々木」

 名字を呼び合う。

「私たち、家族だよね」

 気が付いていた。

 家族なんてもの知らなかった。「家族の家」と呼ばれる施設で家族ごっこをした。

 分娩の痛みか、血のつながりか。ずっと疑問に思ってきた。親だからという理由だけで、本当に無償の愛を注ぐことができるのか。


 ただ幸せになってほしかった。それだけは確かだった。

 夜に咲く彼岸花の色が、辺りを照らし闇を払って冴えるように。その色を欲していた。

 ホッとしたんだ。彼女が施設を出て家族と一緒に暮らすことが決まって。

 幸せになってほしい。何があっても、あの色を守ってやりたかった。自分がどうなろうとかまわない。どれだけ手を汚そうとかまわない。あの色が汚れないのならば。自己犠牲と幸せ。無償の愛。

 施設は色々間違えていた。でも。血のつながりがなくとも、場所が違っても、幸せを願うその形、それは確かに家族だった。


     *


「隠そう。あたしたちだけの秘密にしよう」

 一人で生きていくにはあまりにも幼く、家族を欲していたあの頃、彼女は言った。


 施設にガラの悪い人たちが来て、どのくらい経っただろうか。地獄はしひどく日常的になっていた。

 ある日、見知らぬ顔が来た。

「薄汚ぇ場所だな」

「でも誰も来ないから好き勝手できるんだよ」

 よく施設でたむろしていた内の一人の、彼氏のようだった。二十歳を過ぎたぐらいの歳。威圧感のあるつり目が印象的だった。

「あ?ここ……」

「どうしたの?」

「ああ、思い出した。ガキを捨てたとこじゃねぇか」

「え?え?どういうことよ」

「中学の頃な、女が妊娠しちまってよ、堕ろす金がなかったから捨てた。ここなんか親がいねぇ子供育ててるらしかったから、玄関に置いといた」

「あっは極悪人じゃん」


 管理者の村田慎吾が居なくなってから、土岐は施設の中で入ってはいけないと言われていた部屋に入ったことがある。施設や子供について記してある沢山の書類が置いてある事務室だった。子供の性別、生年月日、名前、預けに来た本当の親、その家庭事情や我が子を手放した理由。子供の好きな食べ物や性格、癖まで全部書かれていた。なぜ、村田慎吾が施設を放棄したのかは知らない。だけと、いなくなる前々までは、子供のことを第一に考え、身を粉にして働く人だった。だからこそ、子供たちの性格や全てを知っていた。見てきたから。

 その書類の中に当然あった。養子としてもらわれ、施設を出て行った友達のこと。玉木冴という名前をもらい、優しい夫婦のもとで幸せになったこと。

 それと、施設の前に捨てられていたのを保護したこと。

「ねぇゴムある?」

「ねぇよ地味に高ぇし」

「まっいっかぁ」


 親とは、家族とは一体なんなのだ。血はそんなにもいいものなんだろうか。

 分娩の痛みか、血のつながりか。ずっと疑問に思ってきた。親だからという理由だけで、本当に無償の愛を注ぐことができるのか。


「あ?何見てんだてめぇ。殺すぞ」


 血がつながっているから親なのか、育てたから親なのか、無償の愛を持っていれば親なのか。

 一つだけ確かなことは、目の前にいる人間は、彼女の親ではないということだ。


 玉木冴という名前を持たなかった頃、彼女は言っていた。

「わたしのお父さんとお母さんは強くて優しい人なんだよ」

 と。捨てられたという残酷な真実は知らない。施設で育てられ、育ての親である村田夫婦になついていたけれど、自分を産んだ親がいることは幼いながら知っていた。そして、その顔も名前も声も、なにも知らない両親に幻想を抱き、いつか会いたいと言っていた。

 養子として引き取られた時、彼女は何を考えただろう。でも、血なんてなくてもきっと幸せに暮らしているはずだった。


 だから、目の前にいる人間は彼女の幸せを壊すものだ。


 鈍い音がし、赤々しい液体が散った。一拍おいて横の女から悲鳴が上がる。

 二度、三度、四五六……動かなくなった男の頭めがけ、手にした大きな花瓶を振った。真っ白だった花瓶が割れ、水が、花がこぼれる。血を吸ったように真っ赤な彼岸花が床に舞う。

 手元に残った花瓶の固い底を、腰が抜けて涙を流していた女にも振るった。


 何のために人は人を産むんだ。地獄に子供を墜としていくのは罪ではないのか。


「なんの、音?」

 恐る恐る部屋をのぞいた彼女から悲鳴が上がった。

「……ゆり」

「健二……あんたなんで」

 佐々木ゆりの目には、恐怖ともう一つかすかな高揚が浮かんでいた。

 彼女も同じく、あの部屋の資料を見ていた。自分が親に捨てられていたことも知っていた。そしてこの施設で、皆と同様虐げられてきた。

「あいつの父だ」

「あいつって、いつもよくあんたが言ってるあの子?」

 無言で頷く。

「でもなんで、お父さんなんでしょ」

「こいつは、親なんかじゃない。ただ血がつながっていただけ」

 あいつは、頭のどこかで分かっていたんじゃないか。捨てられたこと。

 外で他の親子を見かけた時、彼女は何を思ったのだろう。自分に親がいない理由を、一度も考えたことないなんて、そんなことないだろう。


「隠そう……」

 佐々木は呟いた。

「隠そう。私たちだけの秘密にしよう。家族のみんなと離れたくない。家から、離れたくない」

 一人で生きていくにはあまりにも幼く、家族を欲していたあの頃、彼女は言った。

「健二はこの家を守ったんだよこのままだったらみんな、もっと酷いことになってた。健二は正しいよ。だから、警察に捕まることなんてない。一緒に生きようよ。私たちは、家族でしょ」


 ガッ、硬い音がした。施設の庭の彼岸花が咲いていた隣に、無言でスコップを振り下ろした。土がこんなに硬いなんて知らなかった。少しづつ、少しづつ土を削ってゆく。九月半ばの夜、だけれど汗が噴き出る。

 お世辞にも大きいとえ言えない穴に、動かなくなった二人を入れ、上から土をかぶせた。血と土の匂いが酷かった。

 スコップを置き、その場に座り込んだ。

「今日、満月だね」

 嘘みたいに大きく、強く光る月が、快晴の夜空に浮かんでいた。施設の電気はとうに消えており、月と星の光だけがあたりを照らす。光を失って初めて見えた光は綺麗だった。明るかったら見えなかったそれらを指でなぞる。星の名前も、何も知らないけどそれでよかった。紺碧の空に散るそれらが、夜は真っ暗じゃないと教えてくれた。

 不良達に踏み荒らされた庭の彼岸花は、必死で伸びようとしていた。この花を、守れただろうか。

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