第一章 きずぐち⑧

 甲高い目覚ましの音。暗がりで右手を動かし、音の主を探る。鳴りやまない音がうっとうしくて、土岐は顔をしかめる。

 固い感触を手が見つけ、ようやく音が消える。鉛のように重たい寝起きの体を頑張って起こす。

 カーテンを開けると、さわやかな朝とは到底言えない暗い光が差し込んでくる。時計の針は、大体七時頃をさしているのが見えた。

「おはよう」

 照明が淡くオレンジを放っている。ダイニングの扉を開け中に入ると、ニュースとフライパンの音が聞こえた。

 土岐、おはよう、一つ挨拶が返ってくる。ダイニングには、土岐のほかには一人しかいなかった。二人だけには十分すぎるほどの大きさのダイニングと、安物の小さなテレビが不釣り合いだった。

「今日も午後から雨が降るって」

「今日もか。梅雨でもないのに最近雨続きだな」

「ホント、じめじめしてて嫌になる」

 牛乳をコップに注ぎ、半分ほど飲む。喉を過ぎ、胃のほうまで冷たいものが通っていくのが分かった。

「今日帰ってくるの遅いと思う。部活があるから」

「分かった」

 あのさ。コンロの火を止め、彼女は呟いた。

「川の事故のこと、何か知ってる?」

「……なんで?」

「なんか色々噂が広がってるから」

「噂?」



  保健室のドアを軽くノックした。

 冷たい金属を握り、それを横にスライドさせる。気分が悪い生徒が来るからだろうか。ドアは音もなく動いた。

「渡邊先生いますか?」

 玉木がそう問いかけると、奥の個室から「はーい、今行く」と返事が聞こえた。

 少ししてカーテンが開き、渡邊が顔を出す。白を基調とした彼女の服は、保健室によくなじんでいた。

「こんにちは、玉木さん」

 天気予報通り、午後から降り始めた雨が、しとしとと外を占めていた。

 渡邊に習い、玉木も腰を下ろす。

「こんにちは。別に特別用事があってきたわけじゃないんですけど……」

「いいよー。大歓迎」

 そう言って、辺りの色と似つかわしくないコーヒーを机に置いた。少しだけ湯気がこぼれていた。玉木はそのゆらぎを眺めていた。

「頭の中、混乱してるんです」

「何かあった?」

「はい色々と。時々自分が自分じゃないように思える。感情に押しつぶされて……。それにこれまでさんざん酷いことをしてきた人が、急に態度変えるだとか」

 ……先生。

「うん?」

「美里……津崎美里の事故について聞きたいです。あの人は自殺するような弱い人じゃない。だけど、事実美里はもういないんだ。先生なら詳しい話、聞いてません?どうせ他の先生に聞いてもはぐらかされるだろうし」

 ゆっくり顔を上げる。

「あの日、なにがあったんですか。本当のことを知りたいんです」

 言い終わり、小さく息を吸う。どんなことでも受け入れる気でいた。そうできるよう心の準備をしていた。

 ただ、知りたかったんだ。

「……結局、根拠のある真実は誰も分かってないの。私が聞いた話はこれだけ。あの、学校が早帰りになった日の早朝、人がおぼれてるって匿名の通報があった。川に救急車と救助隊が着いて少しして、人が河原で倒れてるのを見つけた」

「美里……」

 知りたいと思っていたことは、渡邊の口から出そうになかった。少し、落胆する。

「違うの」

「え?」

「その時見つかったのは、村田昭彦君」

 渡邊が発したその名は、バスケ部員のもの。玉木たちを苦しめていた人の名だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る