第一章 きずぐち④

 今日は午後から雨の予報だったから、おかあさんが迎えに来てくれた。駐車場の中に見慣れた車を見つけ、ドアを開ける。

「ただいま」

 後ろを向いて、おかあさんは「おかえり」と返す。その優しい声を聞くと安心する。

 雨が入ってしまいそうだから、すぐドアを閉めた。音が遠ざかっていく。私も美里も、お互いの家に何回か遊びに行ったことがある。母親同士も仲が良かった。

 美里は私が初めて家に連れてきた友達だったから、おかあさんがすごく喜んでいたことを、今も覚えている。手作りクッキーや、普段家で飲まない紅茶なんかも出てきた。

 だから美里の死のことは当然知っている。美里の母親から直接聞いたのだから。どれだけ残酷なことなんだ、それは。


 クラスメートたちは美里のことなんか忘れて、目の前を楽しんでいる。だけど、美里が空っぽになってなくなってしまわないように、私はずっと覚えていると決めた。心の痛みとは向き合っていく覚悟をする。



 次の日の朝。教室の後ろのドアから入いると、ロッカーの上に落ちていた、小さく切り抜かれた新聞が目にはいった。拾い上げて見ると、そこには淡々と美里の事故のことが書かれていた。風が吹けば飛んでなくなってしまいそうな新聞の切れ端。誰かが切り取って持ってきたものだろう。新聞にのってたーって騒ぎながら。

「あ、それ。めっちゃ小さいけど載ってたんだよ。すごくない。さすがにテレビは来なかったけどさ。あれやってみたかった。モザイクで顔隠して、クラスメートですって取材受けるやつ」

 笑い声がした後ろを向くと、手に持っていた切れ端が、横からスッと掠め取られていった。親指と人差し指に、新聞の黒いインクが付いていた。スカートのポケットから出したティッシュでそれを拭う。あまりとれなかった。


 私の机の上には、だいぶ緑の割合が多くなった花が置かれていた。

「あ、ごっめーん。花、置く場所間違えてあんたの机に置いちゃった」

「それじゃこいつが死んだみたいだろ」

「ははっ確かにー。もし死ぬならウチらと関係ないとこで死んで。あと、死ぬ前に自分の机に花置いといてー。担任のヤギが置いといてってうるさいから置いたけど面倒くさかったんだから。死んでまで迷惑かけないでねー」

 死ぬってそんなに軽いものだっけ。

「やめときなよー。こいつまで自殺したらどーすんのー。二人死んだらさすがにクラス替えとかされるよ。みんなと離れたくなーい」

「てか結局あいつは自殺なの」

「遺書はないらしいけどー、まあ自殺じゃねーの」

「ははっ、いじめすぎたかなー」

「極悪人―」

 机は、花瓶からこぼれた水で少し濡れていた。きっとそう。泣いてるんじゃない。

 もう一枚、ティッシュを取り出す。拭いきれないや。


 ひゅっと空を切る音が聞こえたと同時くらいに、耳に軽い衝撃が走る。紙パックが床に落ちる音がする。ジュースが頬を濡らすのがわかった。甘ったるいにおいがする。ジュースって嫌いだ。べとべとするから。

 全然役に立ってくれないティッシュを捨てる。


 美里は、自殺なの?

彼女と程遠い言葉故、うまく結びつかない。これまでその可能性は、ひとかけらも頭の中になかった。川で死んだということしか知らない。でも、それが事故じゃなくて自殺なのだとしたら……

あいつらが殺したも同然だ。



 水道で洗ったけれど、髪の毛からはかすかに甘いにおいがする。シャンプーの花の香りなんていいものじゃなく、完全にジュースの匂い。

 それに交じって雨の匂いがする。まだ日が沈んでいないであろう時間なのに、変わらず町は暗い。その道を今日も一人。

 カンが鋭い健二には、いじめられていることを悟られそうで話しかけていない。

 今度は、彼が対象になるかもしれないから。


 いっそのこと傘を閉じて、雨水に汚れを流してもらおうとも思った。でも雨水って綺麗じゃなそうだし、何よりおかあさんに心配されてしまう。


 「ただいまぁ」と呑気な声で言うと、優しい声で「おかえり」と返ってくる。

「雨で靴下濡れちゃって気持ち悪いから、ちょっとシャワー浴びてくるね」

 そう言って、鞄を置き風呂場に直行する。

 全身しっかりと洗いたくて、服を全部洗濯かごに入れた。

 シャワーから出したての水はびっくりするぐらい冷たい。気温も相まって体を徐々に冷やしてくる。服を脱ぐ前に、シャワーを出してあったかくなるまで待っていればよかったと、軽く後悔をする。

 ようやく出てきたお湯を頭から浴び、いつもより念入りに洗った。


「ちょっと出かけてくる」

 台所にいたおかあさんに言った。

「雨降ってるわよ。せっかくシャワー浴びたのに」

「大丈夫」

「どこ行くの?」

「買い物。ノートがきれてること思い出して」

「……あまり遅くならないようにね。あと、川には絶対近づかないで」

「分かった。行ってくる」


 傘をさして歩き始めた頃、何も持たず家を出てきたことに気が付いた。別に何もいらないのだけれど、買い物に行くというのに財布をもっていかない所はおかあさんの目にどう映っただろう。

 まあいいやと思い、歩みを進める。

 美里の家へ。



 この前来たはずなのに、全く別の場所のように感じられた。

 ためらいながらチャイムをならす。鈍い風と雨の音にかき消されそうな脆い音が鳴った。

 「……はい」くぐもった声が家の中から聞こえた。ひどくか細い声だが知っている。美里のお母さんの声だ。

 玄関がゆっくり開いてゆく。冴の顔を認識すると同時に、小さく息を呑んだのが分かった。

「……ああ、冴ちゃん。久しぶり。濡れちゃうから中入ってらっしゃい」

「……お邪魔します」

 変わらない。何も変わらない、なのになぜだか怖かった。

 何も言わず、美里の部屋に通された。この部屋にも、何度か入ったことがある。美里だけが抜け落ちてしまった部屋は、本棚も、机の上も、整頓されたベットも、同じだった。


 あ、私が美里の誕生日にあげたキーホルダー。鞄に大事につけてある。あれって確か去年の美術の時に描いた私の顔。恥ずかしいからちゃんと奥の方にしまっといてよって言ったのに、ちょっと見えてる。写真立てに入ってるのは、古い町並みを学校で見に行った時撮ったツーショット。


 いい笑顔。遺影を前に、一番に出た感想だった。同時に、泣けてきた。


「……冴ちゃん、ありがとう。美里と仲良くしてくれて」

 自分の涙がズボンに落ち、小さなシミを作る。

 美里のお母さんも泣いていた。嗚咽が漏れる口を押えて。

「きっと、きっとあの子は幸せだった。本当に、ありがとう」

「……私の方こそ、美里には感謝しかありません。美里とともだちでよかった。っぱいわらった。いっぱいたすけてもらった」

 最後の方はあまり言葉になっていなかった。


 悲しさと後悔にただひたすらに泣いた後、湧いてきたのは「ごめん」それと自分と他者への怒りだった。


「気を付けて」

 美里の家を出るときに言われた。

 その言葉は、私が本当にもらっていいんだろうか。私が居なかったら、美里は死ななかったんじゃないか。

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