第一章 きずぐち②
授業から解放された生徒たちの多くは、我先にと出口を目指す。
土岐は人でごった返していた下駄箱を抜け、比較的人口密度の低い中庭になんとか出る。
「健二」
呼ぶ声と共に、肩に手が置かれる。先刻ぶりの彼女の声。
振り返る土岐に、帰ろとだけ玉木は言った。そのままスタスタ歩いて行ってしまう。
どこか急いでるように見える彼女の後を、土岐は追う。
「休みにならないかなって言ってたけど、ほんとになったね」
校門を過ぎた頃、冴は口を開いた。二人の足並みが合わない。速足で歩く彼女は土岐の方を見なかった。雨は降っていないが風が強い。煽られた彼女の髪が表情を隠す。
「美里、今日休みだったみたい」
「あ、そうなんだ」
「無断欠席だって」
足元の水たまりが場違いな音を立てる。
「冴、ちょっと歩くの早い」
彼女は急に足を止めた。
「あ、ごめん」
ゆっくり歩き始める。学校のマークが入っただけの安っぽいローファーは、固いアスファルトとぶつかって間抜けな音を立てる。
「考えすぎなのは分かってるんだ」
なんのことか分からず、土岐は小首をかしげる。
「美里って真面目じゃん。無断欠席する人じゃないし。川で事故って聞いて、美里とそれをつなげ合わせて考えちゃったんだ。前にも色々あったからさ、心配なんだ」
「そっか」
とだけ呟く。
「美里んち寄らない?そんなに遠くないし。別に風邪かなんかで休んでるならお見舞いしてけばいいから」
土岐は無言で軽く頷いた。
玉木に連れられ、交差点を曲がる。
朝の通勤時間はとうに過ぎているため、今は車通りが極端に少ない。もともと人口の減ってきた町だ。意味もなく灯る赤信号。その色が少し怖かった。
大きい通りから外れ、似たような白い家に挟まれた道路を歩いた。さびれたラーメン屋とか、小さな町医者とか、そんなものも混ざって立ち並んでいた。
なだらかな上り坂が終わりかけた頃、津崎の表札が見えた。
「ここ?」
そう、とだけ返事が返ってくる。いたって普通な、少し広めの白い家。庭の木がザワザワ音を立てる。嵐を告げるうるささ。
「俺らより学校に近いね。うらやましい」
意味はないけど、土岐は軽口を叩いてみる。
「そうだね。……車、ないね」
プラスチックの屋根に守られた駐車場を見て、彼女が言った。屋根があるといっても、昨夜の雨風のせいで、コンクリートの床は濡れていた。
玉木がチャイムを鳴らす。家の中にその音が反響した。
はーい、と津崎の声が聞こえて、玄関が開く
……ことはなかった。
「誰も出てこない……」
「きっと、買い物とか行ってんだよ」
乾いたところの少ない駐車場を見ながら、土岐は言う。その憶測が違うことは分かっていた。少なくとも昨日から今朝の間、車でどこか行っていたのは明白だった。
「そうだよね」
自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
帰ろっか、とだけ彼女は呟いた。
「今日の夜、美里に電話してみるね。それじゃ、またね。ばいばい」
途中まで、二人ともずっと無言だった。何の確証もない思い込み、それぐらい分かっていた。でも、何がをく感じていた。
挨拶を交わして、朝あった交差点で別れる。
空を見る。また一雨振りそうだ。傘は持っているけれど、土岐は歩みを早めた。
*
ぽたっ、ぽたと液体が落ちて、地面に跳ね返る音がする。外が雨だからか、人がいないからか、異様に寒い。電気が付いておらず、廊下はほぼ真っ暗だ。奥の方、空いたドアの隙間からオレンジ色の光が漏れだしている。それを頼りにゆっくりと近づいてゆく。かすかに軋む廊下。液体の音はだんだん大きくなっている。
半開きのドアを開けた。
*
「土岐―、電話」
夜が近づき、一層暗くなってきた。屋根にはねる大粒の雨が、ひどく大きな音を鳴らす。その音を聞きながら、空の表情を見ていた。土岐を呼ぶ声がしたのはその時だった。彼は声の元へ向かう。
「もしもし?」
受話器を受け取り、そっと耳に当てる。
「あー、俺。鈴木。なんかキンキューれんらく網とかいうやつで佐藤からかかってきたんだけど、明日学校休みらしい。なんかうちの生徒が川で何とかかんとかって噂が流れてるけど、俺は詳しく知らねー。じゃあ次の人に連絡回しといて」
一方的にそう言って、クラスメートの鈴木は電話を切った。緊急連絡網は、その名の通り、緊急の時に電話を回していくものだ。五十音で並べられた出席番号で組まれており、担任からの連絡を伝言ゲームのように伝えていく。
土岐は名簿を開き、次の人に淡々と休みの旨を伝えた。
「休みの連絡?」
「そ。お前も来た?」
「うん。さっき来たばっか」
「人が死んだんだってね」
「は?」
「噂だよ噂。あたし知らない。じゃあねー」
バタンと大きな音がした。
*
ドアを開けて、真っ先に目に入ったのは、なんの変哲もないキッチンだった。パッと見異変がなさそうで、ひとまず安堵する。
注意深くあたりを見渡す。出しっぱなしのまな板と包丁、鍋に入っている、ほぼ完成した肉じゃが。
音の正体は、蛇口から滴る水道水だった。料理を作ってる最中に人が消えてしまったかのような光景だった。
玄関の鍵は開いていた。一切ひと気のない暗い家が恐怖をあおる。
*
土岐の元に、もう一度電話がかかってきたのは、鈴木からの電話があってからすぐのことだった。
「もしもし?」
「あ、健二?ごめんね、急に。美里のことなんだけど……。電話通じなくてさ、もう一回家に行ったの。そしたら、健二と朝行ったときみたいに誰も出なかった。それで、玄関の鍵、開けっ放しになってた。失礼だけど、家の中少し覗いたんだけど、やっぱり誰もいなかった。私、心配になっちゃってさ」
その声はひどく震えていた。雨の音がとても近くに聞こえる。多分、外の公衆電話からかけているのだろう。
「冴は今どこにいる?俺もそっち行く」
「ありがと。今ね、朝いつも通る公園の近く。雨めっちゃ降ってるけど大丈夫?」
「大丈夫。今から行く」
「うん。私の杞憂なら、いいんだけど。ごめんね。じゃあまた」
電話が切れた。ツーツーと無機質な、無常な音が聞こえた。
外に出ると、雨音、風の音が比べ物にならないくらい強くなる。騒然と鳴く街路樹。それらは今朝を彷彿させる。
傘だけでは足りず、彼はレインコートを羽織る。その上を伝ういくつもの雨水が、あまりに冷たくて心の中で悪態をつく。
公園までそう遠くない。彼は足を速める。靴にしみる水なんてこの際どうでもいい。
玉木は屋根の下のベンチに座っていた。土岐が来たことに気が付き、おもむろに顔をあげる。
「来てくれてありがと」
寒いね、と彼女が弱く笑う。
彼女はまだ半袖の制服のまま。ベンチのわきには一本の傘だけが置いてあった。
彼女の髪の毛から雨水が落ちて、ベンチを濡らした。
「大丈夫かよ」
「うん、大丈夫大丈夫。……健二に来てもらったはいいけど、どうしようか。何にも考えないや」
彼女は立ち上がり、手元の傘を開く。
「ちょっと、あるこうか」
「風邪ひくよ」
「後でお風呂入ってあったまるから、大丈夫だよ」
屋根から出ると、傘に雨粒があたり一気に音が出る。
道はすっかり水浸しで、どこを歩いてもびしゃびしゃ水が跳ねる。時々通る車や、街灯の光が水たまりに反射して、それを綺麗と思ってしまう。むしろそれらの明かりがない分、陽が沈む前の方が重々しかった。町明かりに照らされた雨粒が光り、そこだけ雨が降っているように見える。
会話はなく、二人傘をさしたまま一定の距離を保って歩く。
さらに水かさを増し、何もかも呑み込みそうな川が見えてくる。町明かりが届かない分、川の周りは真っ暗だ。なぜこっちに歩いてきたのか分からない。引き寄せられたのか、何なのか。
暗いその周辺に、橋を舐めるように這う二筋の光があった。その光は、ひどく濡れた二人を照らした。
「君たち」
声の、懐中電灯の主は二人の警官だった。
「どうしたんだ、こんな天気のときに」
「いえ、何も。散歩みたいなものだと思ってください」
健二が答える。
「だったら帰りなさい。最近の子は雨の日に川に近づいたらいかんと学校で習わんのか。昨日ここで事故が起きたばっかりなんだから」
だから、見回りでもしていたのだろうか。
「昨日、なにがあったんですか」
「あまり事故についてペラペラ話すのはダメなんだが。君ら、そこの高校の生徒さんか?」
「そうです」
玉木はずっと黙って、川を眺めていた。
「だったら先生から聞いたかな。生徒さんが川で亡くなったんだよ」
「誰が」
彼女が呟いた。
隣にいたもう一人の警官が口を開く。
「確か、津崎……」
雨音の隙間、息を呑む音が聞こえた。
「あんまり喋るんじゃない」
「あ、すいません」
「それより君たちは帰りなさい。親御さんが心配する。こんな日にこんなとこ歩いてんじゃないよ。心中でもするんじゃないかと思ったよ。……どうした?」
「先輩、この子達、そこの生徒ですよね。亡くなった方の知り合いじゃ?」
「それはすまなかった。大丈夫かい?送ってってあげることもできるが。……そうか、じゃあ気を付けて帰りなさい」
「絶対川には近づかないでくださいね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます