第1章 きずぐち①
「健二っ。おはよー」
信号が変わるのを待つ彼の後ろから、聞きなれた声がした。
曇り、濃いグレーに染まった町。そんなだから、白い制服を着た玉木が映えて見えた。
「寒くない?」
彼は、半袖から白い腕をのぞかせている玉木に聞いた。
「んーこれくらいならまだ大丈夫。てかまだ九月だよ。健二は厚着すぎじゃない?」
「雨上がりは冷えるよ」
そういって、土岐は紺色の長袖ベストをさする。
信号が変わり、二人は歩き出す。
時折、車がまだまだ残っている大きな水たまりを踏んで走り抜けていく。決して太い道ではないが、見通しがよくまっすぐで、なにより通勤通学の時間だからスピードを出す車が多い。
「水、かからなかった?大丈夫?」
右を歩く土岐に聞く。
大丈夫、とだけ彼は答えた。
「どした?なんか今日元気ないじゃん」
「なんかこう天気悪いとテンション下がるじゃん」
それもそうだねー、と空模様と対照的な彼女が言う。
「雨って嫌いだな。色々大変だし。あと、髪の毛めっちゃ跳ねる」
綺麗な黒をした髪を指で寝かせつけながら言った。顎のあたりで切りそろえられたショートボブが、彼女の指に合わせてうねる。
「そういや、昨日はすごい雨だったね。高校の前の川ヤバそう」
治らなかった髪の毛のはねを諦めて、彼女は言った。
「だな、学校休みにならんかな」
「ならんでしょー。うちの先生たち頭固いもん。洪水しても泳いで来いって言うよ」
「そんなん死んでまうわ。俺らが学校行くまでに止んでよかった。朝も結構降ってたよね。津崎さん、今日早いんじゃなかったっけ」
共通の友人、津崎美里のことを聞く。
「朝、そんなにひどかった?寝てたから分かんない」
「何時に起きたの」
彼女から帰ってきた答えは、現在の三十分ほど前の時間だった。
「よく間に合うな、それで」
少しあきれ気味に健二が言う。
「この前遅刻した」
「マジかいな」
「い、一回だけだから。これまでしたことなかったから」
「ほんとかー」
「ホント。嘘ついてるように見える?」
「いや、全然。冴は嘘下手だから一発で分かる」
「それは私が正直者だってほめてるってことでいいかな」
なぜか誇らしそうな彼女。
「ほめてはないな。てか時間どうだろヤバいかな。誰かと違って俺はまだ遅刻したことないから」
近くにあった小さな公園の時計に目を向ける。ここで子供が遊んでいるところをほとんど見たことない。芝生とベンチ、それとペンキの禿げたパンダしかない公園だから必然的だろう。禿げて黒熊になりつつあるその遊具は、夜中に見るとかなり不気味な見た目をしている。
「十五分あるし大丈夫じゃない?もし遅刻なら、誰かと違って遅刻したことのない健二も巻き添えだから」
「うわぁ……」
「てか美里が今日朝早いって私知らなかったんだけど。今日なんかあったの?」
「委員会だってよ。何やってるかよく知らないけど、大変そうだよなあ」
「そうだよね。すごいね美里。後輩にも慕われてさー。めっちゃ人望あるもん。私、この前後輩になんて言われたと思う?玉木先輩怖いだってよ」
目つきが怖いのかなぁ、と彼女は自分の顔をぐりぐり触りだす。
「小さいときから釣り目だったらしいんだけどさ、目つきって遺伝かな。よくわかんない」
彼女は遠くの方を見て言った。
「さあ、俺にも分からん」
彩度が著しく低い町を眺め、土岐は小さくため息をつく。
毎日の繰り返し。無駄に重い鞄、それを学校へ持っていき、持って帰ってくる無意味な労働。いつか鬼みたいな何かに壊されるかもしれない関係。石を積んだだけの搭。神を怒らせたわけでも、親不孝をしたわけでもない。
玉木は小さくあくびをする。
「ねむい、はあーきょーも頑張るぞい」
灰色の空に向かって、彼女は大きく伸びをした。
灰色の建物がなくなり、一気に開けたところに出る。
学校のそばまで来ると、川の音が聞こえてくる。今日は、聞こえ始めが早かった。今朝までの雨で川はひどく濁っており、いつもは歩ける河原も今は水の中だ。
この時期は、夏が暑さが消え始め、寒さがやってくる。特に川の周りはひときわ涼しかった。使わなかった傘を腕にかけ、健二はポケットに手を入れる。
今年はもう、彼岸花は見えないかもしれない。
毎年、この辺はたくさんの赤い彼岸花が咲く。不思議な形のそれの群れは、どこか不気味なような、それを上回るほど神秘的なような何かを感じさせる。
今朝のような大雨が降るのは珍しい。まだ葉しか見せていなかった彼岸花は流されてしまったかもしれない。
二人が学校の下駄箱につくと、あまり時間に余裕がなかった。少し速足で歩く。
じゃあまた、と廊下の角で別れた。一年の頃は同じクラスだった二人だが、今年は違う。玉木が五組、土岐が六組だ。
土岐の席は、後ろのドアのそば。喧騒から外れたその席に座る。土岐が椅子を引いた音が聞こえないくらいには教室はうるさい。
少しして、ホームルームのはじめを告げるチャイムが鳴る。
「ウシ、遅くない?」
前列に座る女子が言った。ウシというのは担任のあだ名だ。怒るときに、もーもー文句を言うからウシ。ほかにも社会担当のブタと、髭がもじゃもじゃな数学教師ヤギがいる。動物園みたいだ。
普段ならそろそろ一限の授業が始まる時間になっても教師は来なかった。座っていた人たちもだんだん席を立って、好きに話している。
「そういや
土岐の前の鈴木が呟いた。
「サボりじゃね」
鈴木の横が返す。
「あいつならあり得るわ」
村田明彦は坊主頭のクラスメートだ。よく野球部と間違われるけれど、彼はバスケットボールをやっている。この学校のバスケ部は厳しいことで有名で、明彦はそこそこの成績を残している。ただ部活一筋で、文武両道とはかけ離れている。
健二は斜め前の、彼の席に目をやった。全員が席についている時間がほとんどなかったから気づかなかったが、彼の席に鞄がない。確かに彼なら授業をさぼりかねない。が、学校を休むことは部活を休むことと同義だ。
結局授業が十五分ほどつぶれた頃、担任が来た。
「近くの川で事故が起きました。どうやらうちの生徒が関係してるそうで、今事実を確認しています。今日は午後からまた雨が強くなる予報なので、今日の授業はなしになります。荷物を片付け、すぐ帰るように。決して川のそばに寄らないようにしてください」
担任は普段は真面目過ぎるくらいだ。なのに怒ったときに言葉遣いが変わるから、ウシというイジリが加速している。
早く言ってよ。学校来る必要なかったじゃん、そんな愚痴が聞こえてくる。結局一分も授業をしていない。
一切使わなかった教材を持ち、担任はそそくさと教室を出て行った。それを合図に教室はうるささを増す。特に用事もないだろうに急いで帰り支度をする人や、友人と呑気に話している人、様々だ。
空は登校時より暗く、より不気味だった。反して校舎には明かりがともっており、この空間だけ切り離されたように明るい。唸る川の音も遠くに聞こえる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます