第三話
「忘れ物って……あたしパシリじゃん!」
窓の外から、西日が長い廊下に差し込む。
『ごめーん! 科学室に水筒忘れてきちゃって!』
るるからのラインには、まるで悪気の感じないメッセージ。ゆにがまだ学校に残っていることを把握されていた。
「もー、人をなんだと思ってるわけ……」
一人とぼとぼと階段を登る。教室は北校舎の三階だが、科学室は南校舎の四階。加えて東側の渡り廊下は開放されていないため、西側に渡ってから階段を登って再び東側に渡る必要がある。
はた面倒だ。
はた面倒なことをわかって、るるはゆにに頼んだのだ。
「忙しい、か」
るるは毎日、学校に塾に忙しい。それでも、看護師になるべく日々夢を追っているから頑張っている。現実と向き合って……
夢。理想。考えるだけなら悪くないのに。
自分の器用貧乏を恨んだことは幾度とある。小学生の頃、夏休みの動物愛護ポスターで三年連続佳作を貰ったとき、中学二年の頃、テニスの春大会で県三位だったとき、高校一年のテストで二百人中二十位をとったとき。
惜しかったねとか、次頑張ればいいとか、そんな励ましに何回騙されてきたのだろう。いくら努力をつぎ込んでも、私の性が、他の人の才能が、神様が、一番への道を阻んできた。少年漫画にはもう期待していなかった。最後に勝つ、なんて展開は、ゆにには約束されていない。されているのは、キラキラした人たち。すべての人に約束されていたら、そんなの夢物語なのだと。
何度思索しても、頭のもやは晴れないのである。現実にも、夢にもつかない中途半端な才能の足。
「……ぁあああもうッ‼︎」
急に嫌気が差して、外はねしたボブの後ろを掻く。そして、四階まで伸びた階段に足を掛ける。踊り場の窓からの西日も気にせずに、一心不乱に足を動かす。静かな階段に、ばたばたと上履きの音だけが反響する。ようやく四階に着き、ぱんぱんになった太腿に手を当てて息を整えてから、ゆには長く伸びた廊下に向かって叫ぶ。
「何が進路だ! 何が受験だ! 何が一番だ! あたしは『
その声は廊下内によく反響した。ぼわんぼわんと残響が耳に残る。
「同情するなら神様ぶっ倒してこい! 運命変えてこい! だれも! あたしに! 構うな!」
努力なんてするだけ無駄だ。奇跡も起こらない。それなら、現実に何で立ち向かえばいいの?
「あたしは……」
目頭が熱くなった。溢れそうになった涙を必死に堪えようと、ごしごしと両目をかく。
こじらせた中二病で泣く高三なんて、みっともない。
バアンッ‼︎‼︎
「ぎゃあああ‼︎」
突然、扉が勢いよく開かれた衝撃音。ゆには可愛くもない悲鳴をあげる。
「だ、誰か、いた……? ……さ、さっきの、全部、きか、れ、て、た……」
途端に込み上げた羞恥心。顔が熱くなった。
「お、おおお落ち着け私……深呼吸、すー、すー、すー……はあああああああああああ」
徐々に肩を上下させる。むしろ息が荒くなった気がした。落ち着きを取り戻してから、ゆにはゆっくりその扉に近づく。
件の扉の上には、「実験室」と書かれたプレート。
中途半端に開いた扉の奥をゆっくり覗く。部屋の中には電気はついておらず、何があるのか目視できなかった。
「誰かいるの?」
扉の内側から聞こえた少女の声に、再びゆにはびくりと肩を震わせる。
その瞬間、不意をつかれた。
部屋に半分入った頭を鷲掴みにされ、そのまま前方へ。バランスを失ったゆにの体は部屋の中へ引き摺り込まれ、床に倒れ込む。
「うぎゃっ」
体の下で軋んだビニール袋の音。それが緩衝材となって、ゆには痛みを感じなかった。感じたのは、命の危険と羞恥心。暗かった部屋がぱっと蛍光灯が灯り、ゆにの醜態が照らされる。
「……もう食われてる。身近にいるなんて、
頭上から降り注いだ静かな声。言葉の意味を理解できず、ゆには恐る恐る顔を上げる。
ゆるくウェーブのかかった長い黒髪を後頭部で一本に束ね、その上には、やけにメカメカしい大きなゴーグル。白いシャツの上から小豆色のジャージを羽織っており下半身は制服のスカートという、出不精という言葉がよく似合う出で立ちである。才女のイメージからかけ離れたその姿に、ゆには目を丸くした。
「
囲、と呼ばれた少女は、冷ややかな目に怒りを宿し、ゆにを見下ろす。
「貴女、人のラボを勝手に覗くなんていい趣味してる」
囲は、かがんで顔を近づける。真顔からの静かな圧力に、ゆには冷や汗を流す。
「いいいいいいいやぁその、ここここここに来ちゃったのはその、偶発的な事故といいますかなんというかその」
焦って言葉が走るゆにに、囲は小さく溜息をつく。その溜息にすら冷や冷やして、
「そんなにびくびくしないでよ。囲が悪いみたいじゃない」
「いや、そうなんだけど」
「あんたが大声出したせいでくちぱっち死んだんだけど」
「たまごっちにマイク機能ないから!」
「朝夕晩一食ずつコースよ」
「敗因昼飯抜きでしょ私は微塵も悪くない‼︎」
ゆには、倒れ込んだ姿勢のまま息を整え、ようやく立ち上がろうとして――手をつく場所がないことに気づく。
ゆには無数のゴミ袋の上に倒れ込んでいた。
「……あのさ」
「くちぱっち」
「いつまで引きずってんの……」
「……まあいい。被験体も見つかったし」
呆然とするゆにを横目に、何のためらいもなく裸足でゴミ袋達の上を渡り、囲は大きなパソコンモニターがのるデスクに腰掛ける。どうやら彼女にとって、ゴミ袋は踏みつけるものらしい。
「あのさ」
「何?」
「……部屋、汚くない?」
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