第2話 美人先生は幼馴染でちょっとぽんこつ

 水野琴音は、俺にとって単なる高校教師ではなかった。


 8つ歳は離れているけれど、いわゆる幼馴染というやつだ。


 昔、近所に住んでいたことから、よく面倒を見てもらっていた。


 俺は、彼女のことを『琴姉』と呼んでいたし、琴姉も俺を『たっちゃん』と呼んでくれた。

 未だにそう呼んでくれることは、照れくさくもあるけれど、特別な親しみを持ってくれているようで嬉しい。


 琴姉も今では立派な社会人。

 仕事の場にプライベートを持ち込みはしない。


 俺がこの空き教室に呼ばれたのは、お説教されるためだ。

 問題児の俺を、馴染んだ愛称で呼ぶことは――


「たっちゃんはさぁ……」


 呼んじゃうんだ……。


「たっちゃんの本当の気持ちを教えてほしいんだよ」


 椅子に座る俺に、机を挟んだ向こう側から身を乗り出す琴姉。


 胸が大きいせいか、シャツが今にも破裂しそうだ。もっと大きいサイズのを着ればいいのに、琴姉は体重を気にしがちだから、サイズを変えることに抵抗があるのだろう。


 しかしこの距離、そして琴姉の表情は。

 とても熱っぽくて、愛の告白と勘違いされそうな勢いがあって――


「わたしのこと、好きじゃないの?」


 いやこれ、告白の流れじゃないか……?


 ――好きです! ずっと前から琴姉のこと好きでした!


 そう答えたい俺だけれど、言葉が喉のあたりで引っかかってしまう。

 くそう、この大チャンスを逃すなんて……。


「たっちゃんは、わたしの授業、好きじゃないのかなって思ったの。だって、今日も居眠りしちゃうし、つまんないのかなって」

「あ、なんだ授業のことか……」

「授業じゃなくてなんだと思ったの?」


 心底わかりません、という顔で訊ね返してくるのだが、琴姉のニブさはガチだ。本当にわからないのだろう。


「いや、なんでもないよ」


 プライベート感満載な琴姉に引っ張られて、俺も学校外でそうするように、タメ口になる。


 良かったぁ。早まらなくて。

 琴姉にフラれるくらいなら、このまま曖昧な関係を続けたい。それが俺のやり方。


 ちなみに、凛とした美人教師として知られている琴姉だけれど、おっとりふんわりしたこちらの姿が本性だ。俺は詳しいんだ。


「わたしさぁ、やっぱり先生に向いてないのかなぁ、なんて思っちゃうんだよね」


 しょんぼりして、琴姉が言う。


「そんなことないよ! 琴姉の授業はわかりやすくて楽しいってみんなに評判だし!」


 気を使っているわけではなく、紛れもなく事実だった。


「琴姉って、教え方上手いし、要点を抑えたプリントを毎回作ってくれるし、わからないことがあっても聞けば熱心に教えてくれるから好きだって、みんな言ってたよ?」


 ちょっと抜けているところもある琴姉だけれど、教師としては本当に優秀だ。


「じゃあ、たっちゃんはどうしてわたしの授業サボるの?」


 どうしてこの世に悪が存在するの? と言わんばかりの純粋過ぎる瞳が俺を映す。


「……たっちゃんのクラス以外でも授業するけど、わたしの授業で寝ちゃうの、たっちゃんしかいないんだよね」

「でも、それって琴姉が優秀ってことの証明じゃん。ほら、俺がちょっと変なだけで――」

「たっちゃんは変じゃないよ!」


 必死な顔の琴姉が俺の手を両手でしっかりと握りしめる。

 柔らかく、ひんやりとほどよく冷たい感触は、心地よいにも程があった。


「たっちゃんは真面目でいい子だもん。勉強だって頑張ったから、うちの学校に入れたんだよ」


 確かに、この学校は県内でも有数の進学校だった。


「そんな、ずっと昔から仲良しでいい子のたっちゃんが退屈で寝ちゃうくらいの授業しかできてないから、わたしの先生としての力なんてそんなもんなのかなって思うんだよね……」


 俺の手を包んだまま肩を落とす琴姉を前にして、罪悪感に襲われる。


 俺だって悩んでいるのだ。


 大好きな琴姉の授業だから、真面目に受けたい。

 琴姉を悩ませたくない。

 教師になることは、琴姉の昔からの夢だったのだから。


 どうして琴姉の授業でだけ強烈な睡魔に襲われるのか、理由はわからないけれど。


「琴姉、安心して」


 俺は絶対、琴姉を悲しませたくなかった。


「俺はもう、これから琴姉の授業で二度と寝ないよ。きっと、琴姉のせいじゃなくて色々疲れが溜まってたんだ。高校の勉強は難しいから、家での勉強がんばりすぎちゃって」

「えらい!」


 目の端に涙を浮かべる琴姉に抱きしめられてしまう。


「たっちゃんは入学しても油断しないでがんばってるんだね。すっごくえらいよ」


 耳元に直接琴姉の声が入り込み、脳みそをくすぐるかのような快感が生まれる。


「そんなにがんばってるなら、なにかご褒美あげちゃった方がいいよねぇ」


 琴姉の囁きが耳に入り込むと同時、全身から力が抜けていくのを感じていた。


 この感覚は覚えがある。

 眠気がやってきたのだ。


 どういうことだ。授業中でもないのに……琴姉の【声】を間近で浴びただけで……。


「た、たっちゃん!?」


 困惑する琴姉に対し、何も言うことができないくらいまぶたが重い。


「んもう! お説教中なのに寝ちゃうなんて!」


 琴姉の叫ぶ声がぼんやり聞こえるのだが……お説教中、だったかな?

 琴姉の悩みを聞かされているだけに思えたんだけど。


「……やっぱりわたし、教師に向いてないのかな……」


 違う、そうじゃない。


 俺はそう言いたかったけれど、意識が薄れてもう口すら動かせない。


「……あっ、ぼーっとしてられない、こんなところで寝かせちゃったら風邪引いちゃう。たっちゃんを早く保健室まで運ばないと……!」


 やがて心地よくて懐かしい感触が、体の前面からやってきたけれど……その正体を知る前に俺の意識は完全に途絶えてしまうのだった。

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