消し忘れた煙草

加賀宮カヲ

消し忘れた煙草

 俺はベランダに出て、煙草をただ咥えているのが好きだ。火はつけない。手すりにもたれかかって、夕日を浴びる桜を見る。そうして、散りゆく花びらを追いながら、記憶を手繰り寄せていた。


 

「君はいつも一人なんだね」


 職場の喫煙所。煙草を吸いながら、携帯を弄る俺に初めて話しかけてきたのは、アイツからだった。背の高い痩せた男。俺は、だから何なんだとしか思わなかった。


「男の喫煙なんて、こんなもんじゃないですか?」


 顔も上げずに答えると、アイツは困ったような顔をして、ほんの少しだけ笑った。高瀬たかせという名前だと知ったのは、それから一ヶ月後の事だった。


 毎日、喫煙所で一緒になる。

 ただ、それだけの間柄。

 

 高瀬たかせは、ほんの数センチしか煙草を吸わない。


 会社の外で偶然見かけた時、高瀬たかせは恋人らしき女性と一緒にいた。

 俺には何一つ、関係のない事だ。

 けれども高瀬たかせは俺を見つけると、とても悲しそうな顔をしていた。


 ずっと病を患っていた母は、一昨年前に亡くなった。母子家庭で、生まれた時から父親がいなかった。俺がお腹の中にいる時、離婚したのだと言う。何故離婚したのか、母は最期まで話そうとはしなかった。


「……昨日は、どうも」

「どうもって? ああ、キレイな彼女さんですね」


 歯切れの悪い高瀬たかせの言葉に、俺はいつもと変わりなく答えた。ここには煙草を吸いに来ている。携帯から顔を上げる必要性すらない。


 高瀬たかせは煙草を弄ったまま、何時までも火をつけようとしなかった。


「あれは、父の再婚相手だよ」

「へえ、そうですか」


 同じ会社ってだけの、どうでもいい男の身の上を聞くほど、俺はお人好しじゃない。それでなくても、喫煙所で一緒になる度、隣に立つこの男には鬱陶しさを感じていた。


 それきり話す事がなくなったのか、ライターの音が聞こえてくる。沈黙の中を立ち上る煙だけがたゆたった。


 吸い終わった煙草を灰皿に投げ込むと、高瀬たかせは二本目の煙草に火をつけた。喫煙所には俺の他に誰もいない。スーツだけでは北風が冷たく感じる季節になっていた。


「君、母親から父親の話を聞いた事ある?」


「……何の話ですか?」


「僕も、つい最近知ったんだけどね。びっくりしたよ。まさか、同じ会社に弟がいるなんて思わないじゃないか。普通は」


「はい?」


有澤ありさわって、君の名字。母さんの旧姓なんだ」

 


 俺の名字は、有澤ありさわだ。あの時は、何とも気まずい空気が流れたっけ。


 高瀬たかせは本当に俺の兄だった。年は7つ上で、結婚はしていない。

 そして俺と同じ、独りだった。

 少しずつ距離が縮まって、クリスマスになる頃には、お互いのアパートを行き来する関係になっていた。


 俺自身も意外だった。こんな風に、誰かを受け入れるようになるなんて。けれども高瀬たかせと過ごす時間は、とても穏やかで静かだった。平穏に満ちていた。


 年が明けて初めての大雪が降った日。全てのダイヤがストップして、高瀬たかせは俺のアパートから帰れなくなった。カーテンを開けて、吹き付ける粉雪を二人で眺めていた。


 最近の高瀬たかせは、大分痩せたような気がする。


 ビュッと強い風が吹いた時、粉雪が舞い上がって、細い手が俺の腕を掴んだ。


「あのさ……ずっと、お前の事が好きだった」

「気色悪い事言うなよ。兄弟だろ、俺ら」


「お前は、父さんの子供じゃない。僕たち、半分しか血が繋がってないんだ」

 

「へえ、そっか。そうなんだ……」


「僕には時間があまりない。皮肉だよね。母さんと同じ病気になるなんて」


 俺は目を逸して、灰色の空を見ることしか出来なかった。ただ涙だけが、ポロポロと頬を伝ってこぼれ落ちる。高瀬たかせは俺を抱き寄せると、酷くぎこちない仕草で抱きしめた。


「大事なんだ。すごく。その、上手く伝えられなくてごめん」

「……後、どのくらい時間残ってんの」


「数ヶ月って、言ってた」


「だったらこのまま、俺の家にいたら?」


 高瀬たかせは会社を辞めた。俺が会社から帰ると二人で料理を作って、一緒にTVを見る。男二人だから、おしゃべりは弾まない。けれども「おはよう」「おやすみ」「おかえり」「ただいま」は欠かさなかった。


 ただただ、優しい時間が過ぎていった。

 

 たまに喧嘩もした。

 トイレの便座を戻さない俺に、高瀬たかせは苦い顔をする。

 その度に俺は「兄貴は数センチしか煙草を吸わない」と嫌味を言ってやった。

 

 桜が満開になる頃、高瀬たかせは血を吐いて入院した。


「キレイだな。俺、桜なんて初めてちゃんと見た」

「僕も。お前がまだ母さんのお腹の中にいた頃、家族で見たのが最後だよ」


「じゃあ、俺も腹の中から見てたんだな。家族で花見だ」


 すっかりやせ細って、鼻からの酸素が欠かせなくなった高瀬たかせは、口だけで笑うと舞い散る桜を仰ぐように空を見た。

 

「僕さ。弟が出来たって聞いて、本当に嬉しかった。桜を見ながら、絶対、大切にするって誓ったんだ」

 

「……兄貴」

「ん?」

 

「俺の事、見つけてくれてありがとう」


 高瀬たかせは、それから一週間後に死んだ。


 骨壷に入った兄貴とアパートに帰って来た時、俺は声を上げて泣いた。テーブルの灰皿には、兄貴の残した吸い殻が何本か残っていて、それを見るだけで涙が止まらなかった。


 どうして、美しい思い出しか残していかなかったんだよ!

 俺は、いつか忘れてしまう。


 俺の中から、兄貴が消えていってしまう!

 

 俺はしゃくりあげながら骨壷を開けると、小さくなった兄貴の欠片を口に含んだ。

 カリッっという音を聞きながら、また、泣いた。


 兄貴が俺の中に居れば、忘れないような、そんな気がして。


 


 今でも、こうして兄貴の吸い殻を咥えては祈る。子供たちと母親らしき声を遠くに聞きながら、思い出だけは奪わないでくれと祈る。


 けれども

 生きていくとは忘れていくことだ。

 

 最近では顔すら忘れかけてきている。

 

 その時、風が吹いて桜の花びらがふわりと舞い上がった。


「兄貴、そっちはどうだ?」

 

 俺は花びらへ手を差し伸べると、少しだけ笑った。 

 微かに残る煙草の匂いが「元気だよ」そう答えてくれている気がした。 

 


-おわり-

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