第7話 夏至の夜
ムンは大学を辞めた。
人魚湾村の子はすぐに辞めると最後に嫌味を言われたが、あの、スーに稚貝をやった教授だけは違った。
「スーには津波があったし、君はそのスーを継がないとならないんだから」
そして教授はムンに、貝に核を入れる手法を言語化するように試みて欲しいと言って、ムンを送り出したのである。
ムンは機械的に稚貝の数を増やした。そして、大きくなった貝に、真珠の核を入れていく。百個中二個しか成功しなかったものが、三個成功するようになり、四個成功するようになる。
ースーは貝を無駄に死なせるのを嫌がっただけだな
スーはそう思う。練習すればなんとかなる。
真珠の方にはほとんどメモがなかったが、マーメイド・アイスクリームには、スーは几帳面な字で細かにレシピを残していた。年に二度の休暇はそれぞれ椰子の実の生育状況が異なる。スーがマーメイド・アイスクリームを通年営業しなかったのは、椰子の実の生育状況に合わせてレシピが少し変わるからだった。
しかし今は、性能の良い冷凍庫が存在する。
ムンは大量に作って保存することで、マーメイド・アイスクリームを通年営業させることに成功した。
店舗はホテルの中に作った。海水浴場の小屋は、休暇中だけ開けるのだが。そして、アンが大きな湾の地域に少しずつマーメイド・アイスクリームのチェーン店を増やした。
センが亡くなるころ、アンとムンはホテルから隣接する水族館を作ったのである。
あの教授は大学を定年退官にはまだ時間があるのに、ムンの研究所と娯楽施設を兼ねた水族館の館長になった。
水族館が建って二十年もたった頃だろうか。
この頃になると、もうすでにゲンが消えてから百年近くになる。もう誰もゲンという少年がいたことすら覚えていない。
ユーは白亜の灯台にいた灯台守として記録されているが、その人を覚える人はもう少ない。
スーはこの真珠村の恩人として記録され、まだ記憶されている。
ジェンは旅籠をホテルにした人として、センはそのホテルを維持した人として記録と記憶が残る。
今、真珠村の村長を務めるのは、ホテルのオーナーのアンだ。
アンのホテルのレセプションでは、今でもこう言う。
「海水浴場ではブイの向こうに行ってはいけませんよ」
理由は、事故ではない。
養殖場だ。
この頃、かつてのゲンのように成績抜群だが、かつてのユーのように元気な、ユアンという男の子がいた。
ユアンはどうにもこうにも、水族館が好きだ。スーの少年時代を知る人がまだいれば、スーの少年時代に水族館があったらユアンと肩を並べて通うと言うだろう。
そんな人はもういないのだが。
ユアンの母親はホテルで働く人だったので、ユアンには水族館パスが発行されていた。学校から帰ると家に荷物を置いて、水族館に行った。
水族館の飼育員のみならず研究員たちもユアンのことをかつての自分のように思ったのか、ユアンはありとあらゆるところに出入りできた。
しかし、必ず閉じられているドアが一つある。
ユアンはいい子なので、開けてはならないと言われたドアを開けることはない。だから、好きなところに入り込むことを許されていた。
ところが、夏至の日のことである。
その、決して開いていることのなかったドアが開いていた。この日は夜の海の様子を見せるというので、夜間開館の準備をしていたようで、誰かが閉め忘れたらしい。
「開けてはいけないと言われたものは開けない。でも、このドアは俺が開けたんじゃないしな」
屁理屈をこねながらユアンは中に入った。
そこには、大きな水槽があって、その中には何かがいる。
人間のようにも見えるが、髪の毛は海藻のようにふわふわと水に揺れた。人間の背中のように見えるのだが、尻があるべきところから魚になっている。
「人魚!?」
思わずユアンが叫ぶと、聞こえたのだろうか。中の人魚が振り向いた。
男の子だ。
自分と同じくらいの男の子が、悲しげな表情でユアンを見た。
視線が合って、思わず飛びのいた。飛びのくと、男の子はますます悲しそうな顔をして、目から真珠がこぼれた。
よく見ると水槽の底には真珠がたまっている。
「真珠村の真珠って、まさか、人魚の涙なの?」
村長のアンおばさんとその夫のムンおじさんはとんでもない人でなしのように思えてきた。
人魚の男の子は口を動かした。
「たーすーけーてー」
ユアンは唇を読んだ。
「どうすればいいの!?」
スーの死の間際の慌てたムンとは異なり、ユアンは男の子の言葉を聞き取ろうとした。
「うーみーにー、つーれーてーいーて。海に連れて行けばいいんだね!」
男の子は頷いた。
ユアンは考えた。よし、と手を打ったら、人魚の男の子が体をびくりとさせた。
「夜になったら、また来るから!」
男の子が頷いた。
ユアンの夕食はたいていホテルの職員食堂である。
前日の晩でもランチでも、レストランで使い切れなかった食材が、まかないとして出てくる。ホテルの従業員の家では、よく夕食を職員食堂で食べる。特に、ユアンの家のように片親だけの家ではよくあった。ユアンには姉がいたが、「職員食堂」で食べるのを恥ずかしがったが、家には食べるものはあまりないのだから、仕方がない。
ユアンは姉の腰と母の腰を見比べて、人魚の腰回りを思った。
ーズボンじゃ、足が二本いるよな。あの子は足が一本しかないんだからな。スカートだな。姉ちゃんのスカートの方が良いかな
姉は母や弟と食べるのを嫌い、さっさと食べて塾へ行ってしまった。
ユアンはユアンで母が何か言っているのも心ここにあらずで聞き流して、最後にこう言って別れた。
「水族館の夜間開館に行くから」
母親は答えた。
「じゃあ、夜の九時に水族館のエントランスの前で。姉ちゃんを塾から拾って帰るよ」
うん、と答えたが、ユアンは水族館へは行かずに、一度家に帰った。
姉のパーカーと、パレオスカートとタオルを取りに戻ったのだ。
スポーツバッグに詰め込んで出がけに一つ思った。
「あの子は何を食べるんだろう」
朝食用のパパイヤを二つに切って、種を出した。小さく切って、袋に入れてスポーツバッグに突っ込んだ。
ユアンが水族館に戻ると、夜間開館が始まっていた。
いつものようにパスで入り、照明が落ちて薄暗くなって、あることがわかりにくい職員用経路を通って、あの普段開いていないドアのところまできた。ドアノブを回すと、鍵がかかっていない。
ユアンはドアを開けた。物音に気付いたのか、人魚の男の子が振り向いて、ユアンを見るとにっこりと笑った。
しかし、水槽は室内に屹立しているのである。
「どうやって出せばいいのかなあ」
人魚が指さした先に、透明でわかりにくいがはしごがあった。触ってみると、水槽に立てかけてある。
研究者たちが水槽の水面にちかよるためには、はしごを使うということなのか。
ユアンははしごをのぼった。人魚に手を伸ばすと、人魚の冷たい手がユアンの手を掴んだ。
「両手を出して、動かないで。よじ登る」
人魚が言った。
あっとユアンは思って、持ってきたタオルをはしごの一番上の段にくくりつけて、水槽に垂らした。
「きっと登れる」
だが、人魚が体重をかけると、タオルがほどけた。
「タオルをしっかりと持って。僕が飛び降りれば、水槽の上まで行ける」
ユアンがタオルを水槽から受け取り、タオルをぎゅっと握った。そのまま飛び降りたのである。水槽は高さが三メートルくらいあるが、ユアンの足が飛び降りる高さは二メートルに満たない。
ドンとユアンが勢いよく床に尻もちをつく覚悟で降りた、のだが、衝撃は足でも腰でもなく、腕にあった。宙ぶらりんのままだったのだ。
人魚が水槽の淵で、片手で自分の体を支え、片手でタオルを握っていたのである。
ユアンがタオルを離して、降りると、人魚もタオルを離した。
人魚は梯子を腕の力だけでさかさまに降りた。
「ありがとう」
人魚がユアンを抱きしめようとしたのだが、ユアンは避けて湿ったタオルを絞って人魚にかけた。
「少し乾かして」
そして人魚に姉のスカートと、パーカーを着せてみた。
「今日は薄暗いから、女の子に見えるよ」
髪の毛をタオルで水気を取りながら、パパイヤを渡した。
「食べられるといいんだけど」
「ありがとう」
人魚はべちゃべちゃとパパイヤを食べた。
ところが、手も口の周りもパパイヤだらけなのだ。
ーああ、水の中にいたら流れるもんなあ
ユアンは人魚の顔をタオルで拭いてやって、手もタオルで拭いたのである。
されるがままの人魚は、さっきの腕力とは似合わないような、童顔である。
パーカーのフードをかぶせてみると、くりくりとした目でちょっと唇がとんがらせている、かわいい女の子に見えた。
人魚は二本の足がないので歩くことができない。その代わりに小刻みに尾びれでぴょんぴょん飛び跳ねた。
水族館の展示室の方に入ると、照明が暗くてとてもユアンと一緒にいるのが人魚とは思わない。
少し濡れているのは、イルカに水を飛ばされたかと思うだけだ。
「早く冷房のかかってないところに戻って、体を乾かしてあげないと」
顔見知りの飼育員がそう言ったくらいだ。
ユアンは人魚と顔を見合わせた。
遠くで飼育員が別の飼育員に行った。
「ユアンもデートするようになったねえ」
人魚が、プッと噴き出した。
「行こう」
そしてささやいた。
「ねえ、何て呼べばいいの。俺はユアン」
「ジッ」
「だから名前は?」
「ジッ」
人魚は名乗っていたのである。人魚語だもんなとユアンは思った。
「へえ、これは水の底の都のつもりかい?」
海底コーナーを見て人魚のジッは頭を振った。
「もっと楽しいところなのにな」
ユアンは周囲の様子をうかがうのが忙しくてよく聞いてない。生返事で相槌を打った。
「見てみたいな」
「見せてあげるよ」
「うん」
誰かがジッの尾びれを踏んだらしい。
ジッはキューンというイルカのような鳴き声を立てて思わず両手で口をふさいだ。
遠くで本物のイルカが鳴いたせいで、誰も妙には思わなかった。
子どもは真似をしたがるものだと考えられたのである。
水族館の建物の外は崖である。海へは二つに一つだ。
階段を下りる近道か。
それとも一度車道に出て、海水浴場に行くのか。
車のヘッドライトにジッはおびえた。
「怖いよ!!!」
仕方がなく、ユアンはジッを連れて階段を降りようとした。ぴょん、ぴょん、とジッは飛ぶのだが、尾びれが岩に当たって痛いらしい。口はきゅっと結んだが、目から真珠がこぼれ落ちた。
自分と同じ大きさのジッを前に抱くと、足腰に自信はあるのだが、さすがのユアンも怖い。でも、ジッは腕力があったな。そう思ってユアンは言った。
「俺の背中に飛び乗れる?」
ジッは頷いてユアンに飛びついた。
「首は絞めないようにしてくれよ」
ジッは後ろから肩にしがみつくように腕を変えると、随分と歩きやすくなった。
二十メートルは楽にある崖を、ユアンは慎重に下りた。
人魚の体は冷たく、ユアンの体力を次第に奪っていく。もしも誰かがユアンを見ると、唇の青さに気づくだろう。
砂浜まで降りると、ユアンは思わず靴を脱いだ。あまりに寒くて砂の暖かさに救われるような思いだった。
「あと少しだ。もう、飛んでいけるかい?」
ユアンはジッを下ろした。ジッは嬉しそうに、キューンと鳴いた。頭を天に向けて、高い音を鳴らすのである。
「ダメだよ、みんなこっちを見ちゃう」
ところが、海水浴場では、入ってすぐのマーメイド・アイスクリームの近くで、夏至のレイブパーティーが開かれていたのである。
大音量の中で人は踊る。
誰も、人魚の鳴き声には気づかなかった。
「お行き!」
ユアンはジッを波打際で脱がせてやりながら行った。
ジッは気持ちよさそうに顔を海水につけた。
そして濡れた髪をブルンブルンと振りまわして言ったのだ。
「ありがとう、ユアン。お礼に水の底の都に連れて行ってあげるよ」
ジッはユアンの手を引っ張った。
ユアンは何が起きているのかがよくわからない。
え?と思ったときには水の中に引き摺り込まれていた。
水族館では騒ぎになっていた。
ジッは、もちろんムンが真珠を採取するために捕まえたのではない。
ムンは助けたのだ。
ある日ムンがいつものように沖の真珠養殖のいけすに行くと人間が引っかかっているようだった。手が動く。まだ生きていると、慌てて助け出すと、人間ではなく、男の子らしい人魚だった。ムンは網に体を引っ掛けて鱗を失った人魚を水族館へ連れて行った。
教授は、公表しようとした。学術論文として世界中からの注目を浴びる。
しかしムンは主張したのである。ここに人魚がいると知られれば、人魚は襲われるだろう。教授とムンは、公表するかしないかを話しながら、男の子の人魚の治療を試みた。
ドアを開け放してしまったのは教授の不手際である。
人魚が消えたと聞いて、ムンと教授は仕方がなく、防犯カメラをチェックした。
水族館に出入りするユアンが、人魚を見つけてしまい、人魚が助けてほしいと懇願するのも見た。夜になって、ユアンが戻って人魚を連れ出したのも見た。
飼育員に聞いてみると、確かにユアンが女の子を連れていたという。水に濡れてしまったのか、二人はびしょびしょだったが、特に女の子の方が嬉しそうに終始スキップをしていたという。
「人魚だ」
ムンは慌てて飛び出した。
むわっとした風が吹いた。潮風に微かに小雨が混じっているような気がする。
ムンが目を凝らして探した。
—車道を行くだろうか
崖道を見ると、下にユアンらしき人がいる。隣にいるのが人魚だろうか。
人魚が波打ち際でユアンの方に手を伸ばし、ユアンが人魚の手を取るのを見た。
「おーい!」
ムンがユアンを呼んでも、レイブパーティーの音がうるさくて届かない。
「おーい!」
あっという間に、ユアンの姿は海の中に消えた。
ムンはレイブパーティーを止めさせ、明かりを全て海の方向へ向けた。
しかし、どこにもユアンの姿はない。
九時になってもユアンが現れないので、半狂乱になった母親がいるので、やはりあの子はユアンだとわかった。
残ったのは、崖の下の靴とスポーツバッグ、そして姉の服だけだった。
翌朝になって船を出すが、ユアンの姿は見つからない。
かつての、ゲンのように、ユアンは姿を消してしまったのである。
ムンの頬を潮風が撫でた。小雨は止んだようだ。
ムンは、何年も思い出さなくなっていた、スーの手を思い出した。
人魚の棲む海 垂水わらび @tarumiwarabi
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