第6話 アンとの契約結婚
ある日、スーは大学に戻っていくムンを見送り、白亜の灯台を片付けようとした。
ふと、壁にかかるユーの海の絵を見た。
何度も何度も見たはずの絵なのに、今日は妙に引き込まれる。
紺碧の空の空気の流れ、明るい海の穏やかな波の表情。
波の下に小さな人の影があるのだと気付いた。
ースー、幸せかい
どこか聞き覚えのある、少年の声がした。
絵の中の人影がくるりと動いて浮かび上がってくるような気がする。
ー海王がおっしゃったではないか。情を知ったら、君は帰らねばならないって
「情?」
声は続けた。
ー心臓に問題があったのに、海から君を救おうとした、ユーに何を思う?
スーは、ユーの顔を知らない。救われたのだと聞いて恩義をずっと感じてきた。
ー実子でもない君を育てた、ミンに何を思う?
スーは、海から救われる以前の記憶がない。ミンが唯一知る「親」である。唯一絶対の、善があるとすれば、ミンだと思ってきた。
見知らぬ少年を一族に受け入れた、ジェンやセンにも、恩義と感謝がある。
ーそして、ムンには何を思う?
ムンが離れると、寂しいと思う。ムンが帰ってくると、うれしいと思う。
ーそれが情ではないかな
声は続ける。
ー僕は、ユーとそういう関係になりたかった。ムンはいい子だ。ユーと同じくらい、いい子だ。ユーを知らなかったら、僕はムンを愛したに違いない。僕の体で、ムンとそういう関係になってくれて、ありがとう。
スーは真っ青な顔をして、灯台から走り出した。
決して老けないスーは、一歩進めるたびに、体がどんどんと重くなっていくのを感じた。
もしも、そこでスーを見る人がいたら、一歩ごとに十年くらい年を取っていくスーを見ただろう。
ムンは、真珠村を出たところで何か思い出してバイクを白亜の灯台の方に戻した。
そこでムンが見たのは、灯台の入り口で倒れこんでいる老人の姿だった。老人と言っても、この村で老いたとみなされる六十や、長寿と呼ばれる七十どころではない。見たこともないほどしわくちゃで小さく、骨と皮だけだ。
「爺さん!大丈夫かい?」
ムンは慌てて老人を助け起こそうとした。
「スー!スー!」
ムンがスーを呼ぼうとすると、老人が力がなくて震える手でムンの腕を掴んだ。
ーえ、この服は、さっきスーが着た服じゃ
ムンは恐怖のあまり震えたが、老人を離すことはなかった。そのまま、軽い老人の体を抱きかかえて走り出した。向かう先は、ホテルの中にある診療所だ。
「先生!スーが老けて倒れちまった!」
医者はムンの腕の中の老人を見た。スーと言われれば、スーに見える。
老人は意識があるようだが、口から泡を吹きながら、もぞもぞと口を動かしている。
ムンは唇を読んだ。一つだけわかった単語がある。
「う?み?うみ!海の近くじゃないか、ここは」
スーの言葉は、ムンに通じなかった。
スーはこう言ったのだ。
「海に連れて行ってほしい。海水に入れて欲しい。そうしたら、俺は帰ることができる。会いにくるから」
薄れゆく意識の中で、スーは思い出した。
水の下から、ゆらゆらとする水と空気の境界線を見ていたことを。
あるとき、水と空気の境界線で男の子がもがいていた。妙なことにこの子は腰から下に、縦に切れ目があって泳ぎにくそうだ。
—助けてあげなきゃ。水の上に顔を出せば、苦しいのだもの
スーは急いで男の子を引っ張って水の底の都に連れてきて、息をさせてやろうとしたのに、男の子は途中で死んでしまった。
死ぬ間際の、男の子の意識をスーは読んだ。
ーユーが元気ならそれでいいんだ。愛しいユー
愛しいとは何だろう。ユーとは誰だ。
スーは少年の体を、大きな貝でできた巣に入れて、海王のところに行った。
「海王さま。水と空気の境界で男の子がもがいていたから、底に連れてきたのに死んじゃいました」
海王は答えた。
「それは人間の男の子だよ。人間は我々人魚と違って、空気がなければ死んでしまう」
スーは頭を抱えた。人魚の涙は真珠になった。
「僕が、あの子を、殺しちゃったんですか?」
海王は水の中で海藻の髪の毛をふわふわさせながら答えた。
「そうなるなあ」
スーはおろおろしながら聞いた。
「あの子は、愛しいユーって言ったんですよ。ユーって人にそれを伝えに行ってやりたいんですが、どうすればいいんでしょう」
海王は答えたのだ。
「あの子の体が残っているなら、あの子の体とスーの体を入れ替えれば良い。体にあの子の意識が残っているなら、導いてくれる」
海王は続けた。
「ただし、海から離れては生きていけない。情を知れば、水の底の都に帰らねばならない。帰る道は海だよ」
何度も、何度も、人魚のスーは、ゲンの体を使って陸に上ろうとした。
何度も何度も失敗して、人間の時間では、四十年以上がかかって、ようやくユーに引き上げられた。
海から離れられなかったのは、人魚の力でこの体と命を保っていたからだ。
いつまでも若く見えたのは、中に人魚が入っていたからだ。
大学に行って海から離れると苦しかったのは、人魚が入っていたからだ。そして髪が真っ白になったのも、人魚の力が弱くなったからだ。
帰らねば。
この、ゲンの体を置いて、帰らねば。
—海、海、海
老いたスーはうわ言のように、それだけを繰り返した。
医者は、スーが呼吸ができなくなったのを見て、酸素を吸入させようとしたが、スーに必要なのは海水だった。
—海王さま、海から帰れなかったら、どうなるのですか?
スーは聞き損ねたことを思い出した。
波の音が語る。
—スー、早くお帰り。海にはいって、その体をお捨て
人魚はなかなか年を取るものではないが、永遠の命を持つわけではない。
死ねば、泡になる。
泡になる前に、元の人魚の体に戻らねばならないのだ。
「もう、体が、動かないよ」
スーの言葉を、ムンは自分に向けられたと思い込み、抱きしめた。
波の音の中、スーの意識は消えた。
残されたのは、冷たく冷えた老人の遺体である。ムンは、口元に最後に出た泡をティッシュで拭き取ってゴミ箱に捨てた。
誰も知らないが、この体はゲンの体なのだ。年齢はすでに八十近かった。
スーが死んで、困ったのはセンだった。
センを含めて、スーの漁業権も真珠養殖も欲しがる人は多い。だが、真珠を育てられる人がいない。
今育てている最中の真珠を採り終えたらおしまいにしてしまうなら誰が真珠の養殖をしても構わない。だが、それは「真珠村」が終わる日でもある。
いつしか、この景観と真珠以外の産業を起こさねばと思うが、スーが仕込んだ真珠で最後のものは五年先に大きくなる。その間に全滅する可能性だってあるのだ。
真珠養殖のいけすを奪おうとする者を排除させながら、センは考えた。
ーどこかに真珠を育てられる人間はいないのだろうか
誰に聞いても、真珠養殖のキモになるのは、核の注入なのに、これができたのは、スーだけなのだ。
スーはこう言ったという。
「貝の呼吸の合わせる」
なんだそれは。
スーが自分に近づくのを許したのは、アンとムンだけだ。
アンはアクセサリーを作るだけで、真珠の養殖事業には関わらなかった。
アンに、ムンは?と聞かれて、最後に聞いてみると、子どもと侮ったムンは荷物を片付けながら答えたのだ。
「百個入れて、二個くらいなら成功しました。でも、もう、スーもいないんだ。俺は大学に戻って、多分もう帰りません。これまでありがとう」
ムンは大学に入り、これまで感じてきた感情が「疎外感」であることを知った。
ヨンの妻の連れ子としてやってきた。ヨンの息子の腹違いの兄として、ムンは自分には過剰なものを与えられたと自覚する。
しかしムンの母はもともとかわいくないと思っていたのだろう。ムンを邪険に扱った。
ムンが渇望していたのは情だ。スーだけがムンの疎外感を埋めてくれた。
スーだけが側にいても嫌な顔をしない。スーだけが根気よく相手をしてくれた。欲情までも受け入れてくれたのはスーだ。
そのスーがいない。
ムンにとっては真珠村にとどまる理由はもうどこにもない。
ムンを留めるために、センは宣言した。
スーの養母はミン。ミンから見て、兄のジェンの子らは甥や姪であり、正当な相続権がある。ヨン以外の兄弟姉妹は相続を放棄して、スーを相続するのは、ヨン。
ヨンは真珠産業を握ったままにし、ムンを飼殺そうとしたのだが、センが説得した。
「あの子は今すぐ出ていくところだよ」
仕方がなく続いて、ヨンが手続きを行った。
スーの遺産に当たる部分をすべて養子のムンに譲る。
真珠を作る技術のある者が、真珠村から去ってしまいかねない。それでは、さすがのヨンも困ったのだ。
センから見れば、ムンの方が変人のスーよりも扱いやすいのではないかと期待していた。スーが娘や孫娘と結婚したがらなくても、スーよりも若い、ムンならば?
時間はある。
遥か前にジェンが願った、ルー家とウー家が一つになることは、血のつながらぬムンを通すつもりである。
そして、センはすべての手続きを終えてみると、自分が衝撃を受けていることに気づいた。
じわりじわりと、自分よりも若いはずのスーの死はボディブローのようにセンを蝕んだ。
—なぜ、あんなに老けていたのか
ふと、津波で死んだ、父親のジェンが生きていたら、あんな感じだったのではないかとよぎる。
それとも、死に際にはみなあんなに老けるものなのだろうか。
そろそろ、次の跡目を探さねばならない。
—そういえば、親父に任された頃には、親父は今の俺よりも下だったかな
まだ、六十にしばらく時間のかかるのに、センは、子や甥の中から跡目を選ぶことにした。
ジェンの子は多かった。
その孫たちで跡目を争うのだ。
しかも、今の真珠村は、スーの真珠のおかげでかつてのように、喧嘩をするような余裕のない寒村ではない。人魚湾村は今は真珠村と呼ばれ、大きな湾の地域で最も豊かな村になった。子らだけではない。セン以外の兄弟や、その妻たちが本気になって争った。男の孫たちがいくつかの派閥に分かれ、逮捕者も出すほどの大騒ぎになった。
しかし、最終的に勝ち上がったのは、男の子ではない。
センと言う人は、ムンにスーの遺産を相続させたところから見てもわかるように、実に穏やかで公平な人物である。いくら、真珠村で内部闘争をするだけの余裕ができたとはいえ、財閥にも及ばない。それがわかるからこそ、自分の息子だろうが、甥だろうが、問題があれは、すぐに司直の手に渡した。
そして、末の娘のアンに目を向けた。
アンは、ずっとスーの真珠のデザイナーをしていた。一度よそ者と結婚したが、スーの死後に夫が「人魚の真珠」に関わろうとした。若いムンに断られると、よりによってムンを襲おうとしたのである。腕力はあっても、敏捷さに欠けた中年男に、若くて背が高く逞しいムンが負けることはなかった。アンは、こんな乱暴者とは知らなかったと、夫を叩き出し、店を守った。
かつてスーを愛したアンは、ムンが自分の恋敵だったことに気づいていた。別の男を愛してみようとしても、うまくいかなかったとアンはムンに言った。
「あの人を愛したら、他の人は愛せない」
ムンは全面的に同意した。
このままだと、センとヨンは後ろ盾になる代わりとして、ムンにオンと結婚しないかと言うだろう。オンじゃなければ、サンかもしれない。
スーが言っていたではないか。「アンの方がずっとよく知っている」と。
ムンはサンと一緒に学校に通ったが、サンはお高くとまっていて、良い印象がない。あと、成績も悪い。
ムンもまた、アンの方がずっとよく知っている。
もう一つ、ムンから見てアンには大変都合の良いところがあった。
子どもがいるのだ。
ならば、子どもを作れとは言われまい。
アンは年下のムンと、形だけの結婚をした。
「結婚という、契約だね」
二人を結びつけたのは、スーの思い出だけである。
ベッドを共にして、抱き合って眠るが、スーを失ったという喪失感を舐めあうのである。
アンがムンと結婚したことを発表した日に、センはアンを後継者に指名した。
これで、本当にルー家とウー家が一つになる。
ムンと父親違いの弟を、兄の後継者にしようとしていたヨンも、ムンと結婚するならばとアンを支持した。
かつては、ルー家のセンがウー家のスーの背後についていたが、今度はルー家のアンの背後に、人はスーの真珠を見たのである。
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