第3話 白い髪の救い主スー
ミンに引き取られたスーの顔を見た老人たちは驚いた。
あまりにもゲンにそっくりだったからである。
ある人は、復活したゲンだと手を擦り合わせて拝み、ある人はゲンがユーの命と引き換えにした怪物と忌み嫌った。
だが、ミンに言わせれば、ゲンとスーは性格がまるで違う。
確かにかつてのゲンは成績は良かった。しかしそれはいま思えば標準語に慣れていたかどうかでしかない。確かに農村の女の子たちに保護されたのだが、それは相手が集団だったからだ。ユーほどではないにしても、ゲンもジェンもどちらかというとやんちゃ坊主と分類された。
特に、今のおとなしい子どもたちと比べれば、はるかにゲンはやんちゃだった。
ミンから見るとスーは本の虫である。
一番好きなのは、魚の図鑑だ。
ゲンもジェンも、ユーも魚の図鑑を抱いて眠るようなことはしなかった。
漁村の素朴な女から見れば、それだけでスーは本の虫で勉強が好きだと思うのだ。
-ジェンだってこんなに本が好きじゃない
貧しい大湾区の、あまり行き届かぬ戦前の教育程度はそんなものだったのだ。
ミンは、ユーが魚が好きで、勉強が好きなことを大変喜んだ。
ユーが何度もジェンの子どもたちのうちの誰かを養子にすることを断ったセリフはこうだ。
「魚が好きな子はいるかい?」
スーは魚が好きだ。
ミンは、ユーの子を産めなかったことに負い目を感じていた。
何しろ、ウー家はそもそも子どもが少なく、「ウー」を名乗るのはユーだけだったのだから。
それが、ユーはいないが、ユーの望んだ「魚の好きな子」がいるのだ。
しかも、ユーが救った子。
それこそ、幸運の男・ユーのもたらした、魚の好きな子。
-私の使命は、この子をユーの後継に育てること
ミンも漁村の女である。モーターボートを運転して養殖場で働きもする。ミンは、スーを養殖場に連れて行き、仕込んでいった。
スーは、飲み込みが早い。奇妙な鼻歌を歌いながら、養殖いけすの周りを歩き、魚に餌をやる。魚はどんどん大きく育っていき、死亡率も低い。
ジェンは、ミンが相続したウー家の漁業権がこのスーのものになりそうだと思って、がっかりしたが、考え直したのである。
-この子はミンとは血がつながらないじゃないか。一族の誰かと結ばれれば良い
もしも、ジェンが良く目が見えていたら、あまりにゲンにそっくりで、そうは思えなかったかもしれない。だが、残念ながら、ジェンはもうほとんど目が見えたくなっていた。
いくら、誰かがゲンに生き移しだ、不吉だと吹き込んでも、見えぬジェンはミンの持つ、ウー家の漁業権を狙う不届き者の立てた悪質な噂だと一蹴した。
人魚村の村長のジェンは宣言した。
ミンは夫のユーの漁業権を相続する。スーはミンの養子であり、後々ミンを相続する。
ジェンの後継者のセンは、そもそもゲンの顔を知らない。確かに、他人のような気がしないが、それは客の中にもいなくはない、妙にしっくりとくる、他人の空似の類だと思ったのである。
寡黙なスーは、本と魚を愛する青年になった。
年齢は18くらいだろうに、まだ15くらいにしか見えない童顔である。
ユーが生きていたらどれだけ喜んだだろうかと、毎日のようにミンはユーの残した絵に思う。
水産業について学びなさいと、ミンは喜んでユーの貯めたお金を使って、大湾区の北側に最近できた大学に進学させた。
スーが進学して村を離れた一ヶ月後のことである。
大きな湾に津波が押し寄せた。
聞くところによると、遥か遠く、地球の反対側で大きな地震があり、それがこんなところまで届いたという。
それは後からわかったことだ。
スーの大学のある大きな湾の北側はそうでもなかったが、大きな湾の内側の被害は大きかった。
大湾区の中で最も被害が大きかったのは、大きな湾の一番奥にある人魚湾だ。すべての水が、人魚湾に目掛けて襲ってきたと言ってもよい。
ウー家の養殖施設は全て壊滅した。
津波というものは、ただただ水が押し寄せるのではない。
海水に巻き上げられた海の砂は真っ黒で、中には岩も、船も持ち上げる。バラバラになった養殖施設だけではない。どこかの海岸を押し流してきたのだろう、丸太も流れてくる。
いち早く津波に気づき、灯台の一番上の、鐘楼部分で鐘打ち鳴らしていたミンは辛うじて難を逃れたが、灯台の足元の崖は崩れかけた。
灯台の下の方にある生活空間は、海水が流れ込みめちゃくちゃになった。ユーの描いた絵は、鐘楼部分にかかっていた油絵一枚を残して、汚れてしまい、ミンは全てを捨てた。
ジェンのホテルは、崖の上にある。しかしその四階建てのホテルも、四階まで波が押し寄せた。屋上に登ってようやく、生き延びたのである。
ジェンの妻は屋上に登るのを億劫がり、必死にジェンが登らせようとする途中、四階で津波に巻き込まれた。
ホテルの奥にある村も、昔ながらの木造の建物は流された。
一番の被害は、やはり崖の下の別荘だろう。
人魚湾には白い砂浜が広がる。その上に崖があり、人は崖の上に住むものだった。
しかし、この頃になると崖の下の、波打ち際に別荘を建てる人たちがいた。
もれなく、北方の人たちだ。
標準語しか理解しない北方の人たちは、ミンの鐘を聞いた南方の人が慌てて標準語を忘れ、大湾語でまくしたてるのを理解しなかった。
-津波が来るぞ
そう言われているのに。
北方の人と大湾区の人に認識されるのは、主に山の民か平原の民である。北方にも河の民や海の民はいるが少ない。そして彼らは特別に大湾区まで海を見に来ることはない。
北方でも海の民や河の民ならば理解しただろうに、人口の多い平原の民には「津波」が理解できなかった。
なんか大きな波が来ると思って、サーフィンに行こうとサーフボードを持った人までいた。
津波は、崖の上まで襲ったのである。崖の下の波打ち際にあった別荘がどうなるかは明らかだ。
襲い来る津波も恐ろしい。
しかし、引きゆく波の力も恐ろしい。
崖の下の別荘は跡形もなく消えた。
津波の次の月に、スーは戻ってきた。
18になっただろうにまだ子どもっぽい顔つきだったスーは、すっかり若者らしくなっていた。ただ、真っ黒だった髪の毛の根元が真っ白になっていた。元々痩せていた体が、ますます細くなった。
スーは向こうで何があったか語ろうとしない。
かつて戦争から帰ってきたばかりの、ユーのように。
だが、被災した村人たちにはそもそも聞く余裕もないのである。
壊滅的な被害を受けた人魚村を去っていく者もいれば、壊滅的な被害を受けたからこそ、村に帰ってくる者もいた。
スーもその一人だと考えられた。
ルー家では、津波に巻き込まれてジェン夫妻が亡くなり、全てをセンが仕切るようになっていた。
ミンも足腰が辛くなった。
センはミンに提案した。
「嵐にも津波にも強いマンションを建てるよ。ウー家のマンションを建て、それからホテルの従業員用のマンションを建てるんだ。ミンおばさんもスーもうちのマンションに引っ越してこないか。エレベーターをつけるから、階段を上り下りもしなくてすむ」
そもそも灯台は、もうすでに灯台の役割を終えていた。もっと大きな灯台ができて、自動で点灯するので、灯台守もいらなくなっていた。
観光地であり、美しい景観の一部として、修復されはしたが、「灯台」としての役割はもうすでにない。
ミンはスーの行く末を心配していた。漁業権を持つ限り、スーは生きていけるだろう。しかし、脅されて奪われたらどうするのだ。誰か背後についていて欲しい。
センが身内として扱ってくれるならば、願ったり叶ったりだ。
もう黒い髪は生えぬと思ったのか、丸坊主にしたスーは、黙ってミンについてきて、養殖場と新しいマンションの間を往復するようになった。
そして、スーはユーの時代に始めた養殖漁業を、少し変えた。
今でも魚を養殖する。しかし、今の主力は貝である。
貝の中に、真珠を植える。
つまり、真珠の養殖を始めたのである。
津波の前から、大きな湾の別のところで発生するようになった赤潮が、一番奥の人魚湾にも押し寄せることがあった。
赤潮は、海の富栄養化で植物プランクトンの異常増殖によって発生する。
これが、センの悩みの種でもあった。
透き通る海が売りだったのに、透き通るどころか赤潮で汚らしく、臭い海だ。
臭い海なら、北方にもある。
そこで、スーは植物プランクトンを食べる、貝を養殖することにしたのだ。
ゲンとユーの、透き通るような海は戻ってこない。
それでも、他のところよりは美しい。
程よく育った貝の中に、貝殻で作った「核」を入れてやる。そして、網に入れて海に入れる。そうすると、真珠ができる。
数年もするうちに、人魚湾の名物がまた一つできた。
白い髪のスーは「人魚の真珠」として、再建したばかりのセンのホテルで売り始めた。はじめは、真珠そのものを売ろうとしていたのだが、センの一番下の娘のアンが、それではもったいないと言い始めた。
アンは手先が器用で、見事なアクセサリーを作った。
核の形で真珠の形が決まる。珍しい、涙型の真珠から、まんまるの真珠まで、スーは作った。
アンはまず、小ぶりの真珠を集めて作った、お手頃価格の髪飾りや耳飾りを売り始めた。これが女の子を連れた客に大人気になる。
アンは真珠を取った後の貝の内側で、七色に輝く貝ボタンを作って、センのホテルの従業員の制服につけた。
真珠貝が成長するにつれて、大きな真珠が取れるようになる。
アンは、小さなダイヤモンドをちりばめた、豪華なペンダントトップをデザインして作らせたのである。
スーの作り出した真珠を使って、アンがデザインしたものの中で一番美しいのは、大きな涙型の真珠で作ったネックレスだった。
人魚村は、いつの間にか真珠村と呼ばれるようになった。
スーは、人魚村を真珠で救ったのである。
ミンは満足した。
-奇跡の男が救った子が、村を救った
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