第2話 幸運の男ユー
ゲンが海に消えてから、四十六年になる。
その間に、この国には戦争もあった。
大湾区も例外ではない。大湾区は主な戦場ではなかったが、それでも若い漁師たちが兵隊に取られた。
ユーもまた、その一人だった。
大湾区の海の男たちが、海軍に入れられたのではない。
漁師を山に登らせたのだ。
人魚村から出征した多くの漁師が陸地で、それも山の中で死んだが、ユーは九死に一生を得て、それも、五体満足で帰ってきた。ただ、深い深い皺を何本もつけて戻った。
ユーは何を見たのか、語ろうとしない。
強制されても一言「地獄があった」と答えるだけだ。
だが、昔二人の少年が溺れて一人だけ生き残った。
今度は戦争から五体満足で帰ってきた男である。
幸運の男と呼んだ人がいた。
深い皺が年齢よりも老けて見えさせる。今では髪の毛は真っ白だ。
村も変わった。
戦争を経ても、相変わらず、海岸は全て網元のウー家のものであることに変わらない。
ユーは、伝統的な地引網から養殖漁業に切り替えた。
戦争で帰って来られなかった漁師が多いのである。
生きてはいたが人魚村に戻らず、山の民になることにした男もいれば、漁師をやめた男もいる。
正確にいえば、もはや漁に出られない体になった男が多かったということだ。
若い漁師の数が減ってしまった。人の手のあまりかからない養殖を始めるのは自然の流れだった。モーターボートで沖に行って、生け簀の世話をする。
ユーは、もう一つの仕事を始めた。
あの、画家が描いていた高台に灯台を作ったのである。
今のユーは、養殖漁業と、灯台守である。
趣味で絵を描くが、描くのは海の絵だけである。漁師の趣味だ。誰にも見せない。誰も評価をしない。
ルー家の方も変わった。
あの病気の画家は、戦争が終わる前に北方に戻り、飢え死にしたと言う話だ。
だが、戦後になって運のなかった画家の華やかで穏やかな絵が評判になった。
灯台が立った頃には、あの運のない画家が愛した人魚村は、画家の卵にとって一種の聖地になった。
卵たちによって、白亜の灯台の絵も描かれ、版画にも刷られ、北方から人が冬を避けて訪れるようになった。
夏は夏で夏休みに子どもを連れて人が来る。
そこで、ゲンの父親は、旅籠をホテルに変えた。
ルー家のホテルは大繁盛である。
白い砂浜の美しい海岸線は、海水浴客にも人気だ。ただ、沢山の浮きを置いて、これより先は遊泳すべからずという印にしている。
ホテルにチェックインするときに、フロントは言うのである。
「海では海難事故がつきものですからね。決してあの浮きの外に泳いで出ないで下さい」
今は、ゲンの弟のジェンが切り盛りしている。ジェンはぎりぎりで戦争には行かずにすんだ。
あの戦争ではユーが一番若い兵士だった。
養殖漁業のウー家よりも、ホテルのルー家の方がはるかに豊かになっているのだが、ウー家とルー家の間は相変わらず表面上は仲よく過ごしている。
人間の生活というものは、腹に思うことがあっても飲み込んで行くものだ。
たしかに一時期しこりはあった。ルーおじさんは、商売人である。生きていくためには、表面上だけでもウー家との対立は避けたかった。
その上、ユーが戦争から帰ってきたら、ゲンの妹のミンがユーとの結婚を強行した。
恨みつらみは先代と共に流すということにして、代が変わって、相変わらずウー家とルー家は持ちつ持たれつで過ごしている。
例えば、ウー家の養殖場の魚は、外部にも売るが、一番良いものは全てルー家のホテルのレストランで提供されることになっている。
確かに伝統的な地引網漁はしなくなったが、ホテルに来る客への見世物としての地引網漁を見せた。養殖漁業をしながら、人の多いときに地引網漁ショーの出演者になったというわけだ。
戦争で足を失った男が、マイクを握って饒舌に喋って説明する。
ホテルがオプションとして販売している人魚湾クルーズも人気だ。たまに人魚ならぬ、イルカが船に並走する。
そして、いくつか現実的な理由もある。
ジェン本人は、もしもゲンが生きていたら、ゲンの助手で人生を終えただろうという思いがある。もちろんジェンがゲンを死なせたかったわけではない。しかし、ゲンの不在で最も利益があったのも、ジェンである。
そして、ミンが子を産まなかったことだ。
ジェンは子沢山であった。どの子も、ジェンの兄のゲンではなく、ユーを思わせるほど黒く日焼けしていた。
それに対してユーには子どもがいない。ミンは何度か妊娠したのだが、子が育つことはなかった。二人は子どもを諦めている。
ジェンは、ユーにどの子かをを養子に迎えないかと何度も言った。つまり、将来ルー家とウー家が一つの一族になるということだ。
「魚が好きな子はいるかな?」
残念ながら、どの子も魚には飽きている。
いや、大湾区で「飽きる」ことを許された、初めての世代と言えた。
「それならば、無理だな」
それが、ゲンが消えてからの人魚村とユーの四十六年である。
もはや、誰もユーのことを「幸運の男」とは呼ばない。
早くに子をたくさん作ったジェンは、大人になった長男のセンに仕事を渡してのんびりと暮らしている、というわけでもない。気の毒なことにジェンの視力は少年の頃から弱い。いつしか目は光と色くらいしか見分けられなくなり、形はぼやける。
しかし、「ホテル」というものを知らねばならぬとばかりに、さまざまなところに出かけ、普段は夫婦で留守がちである。そしてセンに行った先のホテルのことを詳しく語って聞かせるのだ。
ユーとミンは灯台に住んでいた。
波と風の音の聞こえる、老夫婦の静かな生活は、都会から来た人にうらやまれることもある。
ある日、ユーはミンと灯台のペンキを塗りなおしていた。
白い、白亜の灯台は、すでにこの地の美しい景色の一つになって何年にもなる。だが、ペンキの塗り直しだけは行わねば、湿気でカビが生えたり暑さでひびが入ってしまう。
この常夏の地に「夏の終わり」という概念があるわけではない。雨季と乾季があり、よその土地から人が来る季節があるだけである。春夏秋冬という四季の概念は、北の人の概念でしかない。
北の人たちが来る季節が終わって、二人は、ユーとミンはペンキの塗り直しをしていた。
ミンはふと風が強くなって波の音が変わったのに気づいた。見なくても分かる。嵐が近い。嵐までの時間を測ろうと空を見れば、黒い雲が迫ってくる。
嵐が来る。
「やめた方がいいね」
二人は片付け始めた。
ふとミンは、風の中に人の声を聞いた気がした。さっきは見なかった海を見ると、波の間に、手が見え、ミンは絶叫した。
かつて、ゲンが消えたところの遥か手前ではあるが、人が沈もうとしている。
「ユー!人!」
ユーは大慌てで崖に降りられるところまで走っていった。その間にミンが上から、浮き輪を二つ投げ下ろした。
ユーは海に浮かぶ浮き輪を掴み、モーターボートで沈みかけている人のところへ行った。
色白の、まだ成長しきっていない体があった。
ユーは浮き輪を白波の立つ海に投げ入れ、自分も飛び込み、その人を波の上に引き上げたのである。
その間にミンが養殖場で働く男たちや、甥のセンのところに助けを求め、他の船も海に出始めた。
ユーもその人も他の船にひきあげられた。
色白の体に、真っ黒な髪の、真っ裸の少年だった。
年の頃は、10歳だろうか。15歳にはなっていないようだ。
ユーのモーターボートも船に繋がれて、みな浜辺に戻った。
風の中に小雨まで混じり始めた。
嵐が近い。
引き上げられると、ミンが小雨に体を濡らしながら毛布を持って待ち構えていた。
「この子は相当水を飲んだらしいぞ」
船の上からずっと誰かが少年の呼吸を取り戻そうとしていた。少年は水をどんどん吐き出したという。
「船が沈んじまうかというくらい水を吐いた」
誰かが大げさな冗談を言って笑った。
センは少年だと聞くと、客に行方不明の少年がいないかと聞いて回ったが、どこにも行方不明の子どもはいなかった。
こんなに色白の子は、この村にはいない。
客の子でもなければ、村の子ではない。
どこの誰かもわからぬ少年の顔を見て、ミンは息をのんだ。
—ゲン!?
ミンはユーを探した。
「ユー、ユー?」
宿泊客の中にいた医者が、少年を診察して言った。
「今できることは何もない。大きな怪我もなく、呼吸も戻った。目覚めれば良いのだが」
同時に誰かが医者を呼んだ。
「ユーが船から降りてこない!」
医者とミンは船に行くと、そこには満足そうに微笑むユーの姿があった。
目を閉じていて、医者は首を振った。
「突然のことだったみたいだ」
ミンは言われてみれば、最近ユーは息苦しさを訴えたなあと思う。心臓が悪くなっていたのだ。
気がつけば、風も小雨もやんで、さっきまでの晴天が戻っていた。
雨季が近くなれば、そういうこともある。
少年はホテルに連れていかれ、ユーは灯台に無言の帰宅を果たした。
ミンはユーの葬儀を出して、ホテルにいる少年に会いに行った。
少年はまだ目を覚さない。
ミンはまじまじと少年の顔を見た。
少し垂れ気味の目の形はミンそっくりである。鼻はジェンだ。口元は、ミンとジェンの、死んだ父親を思い出す。
「……ゲン」
ついつい、消えた兄の名前を口にして、ミンは思わず少年の手を握った。
その途端、少年の目がゆっくりと開いたのであった。
「海で溺れていたのだけど、名前はわかるかい?」
ミンが聞いたのだが、少年は首をかしげた。
「スー」
と答えたような気がする。
「スー、ホテルに泊まっていたのではないの?」
「……泊まる?」
少年は言葉は、確かに大湾語、それも人魚村の大湾語だったが、自分が誰の子でどこに住んでいたのかもわからないのだ。
ミンは決めた。
-幸運の男が最後に起こした奇跡だ。生き残ったのが幸運じゃない。助けたのが幸運だった
「私と一緒にいらっしゃい」
ミンは、この子を名乗った通りに「スー」と呼んで、親代わりとして育てることにした。
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