人魚の棲む海

垂水わらび

第1話 波間に消えたゲン

 とある南方の土地には、東に開けた、大きな湾がある。

 大きな湾は、東の沖から西方を見ても湾には見えないほどの大きさだ。いつ人はここが大きな湾だと知ったのだろうか。そんなことを調べるような、奇特な人もかつていたのだ。

 今では大きな湾の一帯はまとめて通称「大湾区」と呼ばれる。

 はるか北の彼方に皇帝がいたこともある。少し北方に皇帝がいたこともある。

 大統領がいることもある。

 大湾区は常に南方の辺境の、北方の人に言わせれば「奇妙な言葉を喋る貧しい土地」であった。

 大湾区の人々は大雑把に括られた「大湾語」を喋る。隣の村の言い回しですらよくわからないこともある。北方からやってくる人たちのしゃべる「標準語」と比べれば、理解しやすいだろう、と言われれば、確かにその通りだった。

 地図上にも「大きな湾」としか記されないのはそれゆえである。

 統治者がそうなら辺境の民も、北にいるのが皇帝だろうが大統領だろうが、知ったことではない。

 それよりも、大きな魚が採れますように。適度に雨が降って、水に飢えませんように。

 それが大切である。

 大きな湾の一部一部は凸凹していて、場所によっては岬になり、場所によっては崖になる。

 人魚湾は大きな湾の中の、一番奥にある白い砂浜の広がる、遠浅の湾だった。

 穏やかで、青よりも緑に近い、透き通った海である。

 その上には切り立つ崖がある。人はその、崖の上に住んでいた。

 人魚湾の上にあるので、人魚村と呼ばれる。

 この湾が人魚湾と呼ばれるには理由がある。

 ここには古くから人魚が人を海に引き摺り込むのだという噂があった。

 その内容は様々だ。

 女の人魚が美しい声で歌って男を誘惑するのだ、いや、男の人魚が力づくで足を引っ張るのだとも言う。

 たまに、地引網にかかる人の体の一部は、そういう人魚の餌食になった人の残骸だとされていた。

 嵐は人魚のいたずら、津波は人魚の怒りと言われる。

 この、辺境の地の伝説は、ただの口伝や誰かが作った話というわけでもない。

 大昔にはるか北方にいた皇帝の命令で収集された、帝国各地に伝わる伝説集の中にも「大湾区の人魚村の人魚」が載っている。

 とはいえ、人魚の噂も今は昔、本当に子どもだましの昔話や伝説でしかない。

 いかに人魚村が寂れたところであろうが、子どもたちはみな農村にある学校へゆくようになった。

 人の往来も昔とは随分と変わった。かつて、東方の島々にも渡って行った帆船すら小さく見えるほど、大型の船を使うようになった。

 今日も、穏やかな海の向こうに大型の船の吐く煙が見える。

 大きな湾の中には、水深が深く、大型船を停泊させる港に向いた湾もあるのだ。人魚湾からも、遠くを行き交う大型船が見える。

 ごくまれに漂着する人の体の一部は、どこかで船が座礁したのだろうと、理性的に考えるようになった。

 実際、嵐の数日後に物が流れてくることもある。ペンキのついた木片であったり、荷物だったり。どこかで船が座礁したのだろう。

 この、人魚村では人の体の一部が流れ着いても葬るだけで、もはや人魚の噂をする人もいない。


 人魚村の支配体制は二つの家である。

 一つは、旅籠を営む、ルー家である。

 もう一つは、網元の、ウー家である。

 この二つの家が対立するような余裕が、この寂れた村にあるわけがない。協力しなければ生きていけない、そんな貧しい漁村であった。

 貧しいとはいえ常夏の漁村である。何か高望みさえしなければ、協力しあえば、食べるものはそこにあり、生きていけた。

 旅籠のルー家の長男のゲンと、網元のウー家の一人息子のユーはちょうど十歳になったところである。ゲンとユーは、普段からずっと一緒に遊ぶ仲である。

 人魚村の子どもたちも、学校に通うようになった。

 だが、人魚村に学校があるわけではない。

 村の子どもたちは、子どもの足で歩いて往復二時間かかる学校へ通う。学校のある場所もまた、街とは言い難い、農村である。

 漁村の人魚村でとれた魚を、農村に持って行って米に変える。これがこの漁村と農村の共存方法だった。

 漁村の子というものは喋り方がおかしいと笑われる。

 だが、農村でも大湾語を喋るのだ。学校は北方の標準語で授業が行われる。

 標準語によって、この国の通商は発展するのだと言われても、一生この大湾区から出ない人間が多いのだ。

 だからなんだと、教師に反抗的な態度を取ることが多く、国の中でも最も成績の悪い地域がこの大湾区であった。

 農村の子も漁村の子も真っ黒なのだが、ゲンはびっくりするほど色が白い。目鼻立もくっきりとしていて、農村の女の子たちはゲンに目を奪われた。

 何しろ旅籠の子だ。標準語も学校に上がる前から聞かなくはないのだ。標準語という障害がないので、自然に成績も優秀になり、素直な性格が北方から来る教師に愛された。

 それが面白くない男の子たちがゲンに飛びかかると、活発な農村の女の子たちが応戦する。それを仲裁するのが、少し体の大きい、ユーだ。

 ユーはというと、真っ黒で目がくりくりとしている。体は少し大きくて力も強い。漁村の子らしく敏捷でもあった。農村の男の子たちの中でユーに勝てる子はいなかった。そのうちに心酔していき、ゲンもユーも、農村の学校の中で次第に、小さな地位を占めるようになっていた。

 ゲンとユーは、ゲンの弟のジェンと妹のミンの手をひきながら、何度も何度も同じ話をして、同じところで笑い、教科書の暗唱をしながら行って帰る。そのおかげで、ユーの標準語運用能力も、順調に上昇して行った。

 ある日、ゲンがユーに耳打ちした。

「うちに、画家が泊まってるんだぜ」

 都会から来た画家というものに、ゲンとユーは興味津々だった。

 弟妹を家に送り届けて、二人はこっそりと画家のいるという場所を見に行った。

 人魚村で人が住むのは、崖の中でも一番降りやすいところである。

 最もそそり立った、岬と言っていい場所からは、人魚湾をぐるりと一望できる場所がある。この辺りは大小の石がごろごろとしているので、人はあまり行かないし、草木もあまり生えない。

 画家というのは体の細い男であった。

 北方から来たらしく、色も白い。ゲンよりも白い。

 どうやら、北方で気が滅入る病気にかかり、冬には手首を自分で切って死のうとしたんだとかいう奇妙な話をゲンはユーに聞かせた。

「親が連れてきて、しばらく暖かいところで太陽を浴びて過ごしなさいと金を払って置いて行った」

 なんと、一年分の宿賃だったのだという話をするのだが、ユーにはよくわからない。

 画家は、持ってきたイーゼルを立て、絵を描いている。

-さすがに画家だよな、あのおっさん

 石だらけになる手前には、ルー家の椰子畑がある。

 と言っても大したことはない。枯葉や実の殻は旅籠の調理場の燃料にする。その灰をやって、実を収穫するくらいのものなのだ。、るだけで、水をやりもしないのだが、そこの椰子の木にのぼりながら、画家の絵を見た。

 二人はいつものように椰子の実をナイフでぐいぐいと穴を空けて、口をつければほのかに甘い椰子の実の汁が入る。二人はこれを交互に飲むのだ。飲み終わればナイフで二つに割って、中の白い果肉を食べた。これがこの村の子どものおやつだ。

 ユーはいつものように、ゲンに椰子の実を渡しながら、画家の絵を見た。

 心を鷲掴みにされるというのはこのことだろうか。

 見慣れた風景が、鮮やかな色彩で描かれると、なんとも美しい。

 群青の海の穏やかな波。紺碧の空の風の流れ。

 青という色の、なんと種類が多いことか。

 普段見るものがなんと美しく表現されるのだろう。

 ところが、ゲンはそうではなかったらしい。

「つまんねえや」

 ゲンはそう言った。

「そうかい?」

 ユーは生返事である。

「それよりも、泳ぎに行かねえか」

 ゲンがそうしたいならと、ユーは泳ぎに行くことにした。

 人魚の話を信じているわけではない。それでも、海に入るならば二人以上でという言いつけを二人は守った。

 海に入って、ユーはポカンと浮いているだけだ。仰向けになり、波に心地よく揺られながら空を見る。

-あの、青

 ゲンは、むしろ海の中の魚の方に興味津々だ。鮮やかな色の魚の、まだ大きくないものを手に掬って遊んでいた。

 ふと見ると、ゲンはユーの姿が見えないのに気づいた。

 少年は不安になり、叫んだ。

「ユー!」

 波間に浮かんでいたユーは、その微かな声を聞いた。体を動かした途端に、足が攣った。

「ゲッ!」

 ゲンはその声がどれだけ遠くから聞こえるか知って、愕然とした。

 波の間にユーの手消えるのが見えた。

 ユーは、足が攣ったと叫びたかったのだが、その前に水を飲んだ。

 しかし、ゲンも海の子である。何があったのかすぐに察した。

「今行く!浮かんでろ!」

 ゲンは何も持たずに泳ぎ始めた。

 これまで泳いだことのないような沖合に、ユーは流されていた。水が冷たくなってくる。ゲンは、たまに聞こえるユーの泣き声を頼りに泳いだ。

 浜辺で網を繕っていた、ユーの父親の、ウーおじさんは異変に気づき、大声で漁師たちに叫んだ。

「子どもが流された!」

 漁師たちは、地引網をはるときに使う小舟を海に出して漕ぎ出した。

 それよりも、ゲンの方が早い。

 ゲンは、立ち泳ぎをしながらなんとか浮かぶユーの足を揉んでやった。ユーは不安で泣きながら浮かんでいたのだが、随分と水を飲んでしまったらしく、動きが弱々しい。

「これで動くかい?」

 おーぅい。おーぅい。

 小舟からウーおじさんたちが二人に声をかけた。

「さあ、連れて行くからな」

 ゲンはユーの首に腕を引っかけ、足の力だけで泳ぎ始めた。少年が自分より大きな体格の少年を引っ張って泳ぐのだ。なかなか進まない。さらに太陽に照り付けられていて、それだけでも体力を消耗する。

 小舟にたどり着いたときには、ゲンも意識が朦朧としていた。

 それでも、ゲンはユーをその父親に渡したのは見て安心した。

「……ユー……」

 ゲンが言えば、目を閉じたまま、ユーが答えた。

「……ゲン……」

 次の瞬間である。少し大きな波が小舟とゲンを襲った。漁師はゲンに手を差し伸べていたのだが、ゲンはその手をつかむ前に波に呑まれた。

 そして、ゲンはそれっきり姿を消したのである。

 それっきり、ゲンの大腿骨一本見つからなかった。

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