掌に、涙の意味を ②
私にとって、貴男は地を這う虫けら同然のつまらない命。取り込むべき意思も、糧とする心も塵芥に過ぎない塵屑そのもの。だけど、この場所に、この戦場に彼が居るのなら話は別……。
そっと、血涙を流すエルストレスの頬を撫でた白銀の少女は歪んだ笑みを浮かべ、聞く者を虜にする美しい声で囁く。
力が欲しいの? えぇ貴男に力を与えましょう。貴男が対価を支払うのなら、私はその命に見合った力を与えましょう。さぁエルストレス、捧げなさい。その持てる全てを差し出しなさい。
脳に響く少女の声が、身体の内側を斬り裂かれるエルストレスの激痛を和らげ、思考を麻痺させる。
力が欲しい。この憤怒を振り翳し、憎悪を刃に変える力が欲しい。もし白銀の少女が己に力を与えてくれるのなら、この身に残った全てを捧げよう。命を塵と化し、意思を燃やし尽くしてこの願いを叶えて欲しい。だから―――あの黒鉄の剣士を殺す力を己に寄越せ。
筋繊維と血管が露わになった手を伸ばし、光の粒子へ変わるエルストレスは背後に立つもう一人の自分を……大蜘蛛という醜悪な肉体で悶える己を見る。
さぁ流れ、転じ、消えなさい。存在の一欠けらも残さず、蟲に喰われて全てを失うがいいわ。貴男なんて欲しくない。無意味で無価値な魂なんて……邪魔なだけでしょう? 故に、貴男はこれから得る筈だった全ての機会を力に変えるの。再び世界に産まれることもなく、皆に化け物として語られる畜生へ堕ちる。
意識が―――心が、無へ帰す絶望がエルストレスという魂を侵食し、闇へ引き摺り込む。その様を眺めていた少女は笑い転げ、一粒の涙を流すと最後にたった一言呟いた。
生々流転……殺戮の化身となりなさい、と。
強大無比な魔力を振るい、命を別の何かに変えた少女は大蜘蛛の腹を割いて這い出した剣士をうっとりと見つめ、愛おしい男に寄り添う己と全く同じ容姿を持つ白銀へ憎悪に満ちた虹色の瞳を向ける。
空の器の支配権を握り、未だ現世にしがみ付く矮小な存在。今直ぐにでも私のアインから離れ、真の意味で死ね。冷気の中で魂を氷に包まれ、粉砕されてしまえ。貴様が居なくなれば、彼も私の存在に気付く筈。だから、一刻も早くこの世から去れ……サレナ。
少女が領域へ身を退き、エルストレスの魂が完全に消えた瞬間、死に絶えた筈の大蜘蛛の足が蠢きピンと横に張られた。血に濡れ、黒白の剣を握っていたアインが不意に空間の天井へ吹き飛ばされ、瓦礫と共に地面に落下した。
何が起きた? 積み重なった瓦礫を蹴り飛ばし、這い出した剣士は頭を振るい、冷えた空気を肺に入れる。
「な―――」
凍る。何もかもが、凍る。
指先や足先から少しずつ氷へ変わるのではない。アインが立ち上がる前に……大蜘蛛の頭部より産み落とされた蒼の甲冑に身を包む騎士を視界に映した瞬間、彼は瞬く間に氷像へ変えられた。
「ッ!? まさか!!」
黒鉄の鎧から氷柱を垂らし、黒白の剣を地面に突き刺したアインの氷像を目視したバトラーが今世を創りだした神の残滓を感じ取る。だが、現世に舞い降りた神は既に領域へ身を退き、流転の産物を置き去った。
「サレン……!! 貴女は、一体何を考えている!? こんな、こんなものを創り出し、何をしようとしている!! いや、それよりも、先ずは」
アイン殿を……!! 剣士の下へ駆け出したバトラーの魔導義肢が騎士の人睨みで凍り付き、砕かれる。両の足を失い、氷の上に転がった魔導人形は流転したエルストレスを睨み、忌々し気に歯を食い縛る。
「思考さえも失ったか魔族……! いや……神の道化よ!!」
「バトラー!!」
「メイ一号!! 魔族の小娘!! 退け!! これは上級魔族が創り出す流転体とはワケが違う!! これはサレンが、神が創り出した―――」
異なる生命体―――。その言葉を吐く寸前に、バトラーもアイン同様氷像と成り果てる。
「……」
「め、メイさん、み、みんなが」
「イース」
「は、はい」
「逃げなさい」
「……」
「貴女だけでも逃げなさい。バトラーが何を言おうとしたのか、あの騎士がどんな存在であるのか、何となく理解出来る。イース、尻尾を巻いて逃げるのは恥ではない。恥とは掴み取れる希望を捨てて、逃げることだ」
「メ、メイ、さん……? あ、貴女は、もしかして」
「奴相手に勝てるとは思っていない。もし刃を交えようとしても、私の義肢が凍ってしまう方が先だ。イース……逃げろ」
「でも!!」
「早く行け!!」
こうして言葉を交わしている間にもメイ一号の指が凍り始め、ハルバードの刃が僅かな風と共に欠けた。
「……」
逃げて、逃げ続けて、何処へ行く。
「……」
蒼の騎士と対峙する魔導人形を置いて……己を救う為に剣を振るった剣士を置いて、その先はどうするつもりだ? 己一人で死滅凍土を渡り切れるのか? 雪原に吹き荒ぶ吹雪と冷気に孤独な心が耐えられるとでも思っているのか?
迷い、逡巡しているイーストリアを一瞥したメイ一号が獣のような咆哮を発し、騎士へ斬り掛かる。だが、刃を振り翳した魔導人形は大振りの姿勢を取ったまま氷像へ変わり、無機質な音を立てながら力無く倒れた。
「あ、あ、あぁ……」
恐怖で喉が渇き、歯がカチカチと音を鳴らし。
「い、いや、こ、来ないで……! 誰か、誰か、助けて……!!」
歩み寄る絶望を視界に映した少女は、青褪めた顔で助けを乞う。
しかし、それは己一人だけが助かる為の願いではない。
「みんなを助けて!! 私はどうなってもいい!! だけど……私の為に戦ってくれたみんなを助けて!!」
誰かの為に……願いと祈りを捧げた少女の耳元に、白銀の少女とは別の声が響いた。
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