死凍 ⑤

 凍った鋼が砕け、氷の大槍が身を貫く。


 傷口と装甲の亀裂から入り込んだ冷気が瞬く間に血を凍らせ、肉に霜を伸ばす。


 息をするのさえ痛みが伴い、純銀の空気の中では吐く息さえも白い霞とならず、透明なままで空に散る。


 ただひたすらに剣を振り、己を取り巻く冷気を殺すアインを弄ぶかのように氷の刃が彼の骨を断ち、血の欠片を周囲に飛び散らせる。超低温下の戦闘は刻一刻と剣士の思考能力を奪い取り、身体の動きを鈍らせていた。


 何も見えない。何も考えられない。何も……無い。この身に在るのは耐え難い激痛と忍び寄る死の気配。アインの内に燃える激情も、全てを叩き斬る殺意も、この極限下では意味を持たない意思の排熱だった。


 冷気を振り撒き、氷を操る巨大な人面蜘蛛。頭部に張り付く醜悪な笑みを浮かべたエルストレスの顔が大きく歪み、狂気を以てアインを見据える。


 強烈な殺戮衝動と享楽的な快楽。己の力を思う儘に振るい、異形の生命体と成り果てたエルストレスは、イエレザとミーシャから与えられた鬱憤を晴らすが如くアインを嬲り、死と生の境界線を行き来させる。


 死よりも辛い地獄を見せてやる。生きるよりも苦しい煉獄を与えてやる。貴様を殺し、涙の原料を連れ去り、この身に屈辱を与えた者共を一掃してやろう。手始めに黒い剣士、貴様を砕き、雪原へ打ち捨ててやる。


 蜘蛛が嘶き、エルストレスが狂い笑う。彼の心臓に寄生した蟲が命を喰らい、膨大な魔力を生み出すと周囲一帯を銀の世界に変える吹雪を呼び出し、死を迎え入れる。


 死滅凍土……毒に穢れし魔の雪原よ、彼の地に降臨した氷獄よ。楽園は既に失せ、彼の地を覆うは死の純銀。毒の主たる片割れは愚かな死を選び、残る我こそが雪原の支配者也。故に……殺せ。敵として立ちはだかる脅威を粉砕せよ。


 「―――」


 無意識に振るわれた黒の刃が破滅を呼ぶ吹雪を僅かに斬り裂くが、死滅凍土の吹雪は降り止む事を知らず、制御装置が鎮座する地下を白銀に染め上げる。


 影による治癒も、鎧の修復も間に合わない。死が一歩、また一歩とアインに歩み寄り、彼の視界を闇で覆う。


 イーストリア達は逃げきれたのだろうか。塔の外へ出ることが出来たのだろうか。己が時間を稼いでいる間に、命を繋ぐことが出来たのだろうか……。


 雪の中に倒れ、呼吸を浅くし始めるアインを蜘蛛の足が斬り刻み、串刺しにすると塵を捨てるかのように放り投げる。


 視線を巡らせ、周囲を確認しようとも目に映るものは純然たる白の世界。此処には何も無ければ、奪われ、失うのみ。


 立ち上がる体力を失いながらも、剣を手離さないアインを見下ろしたエルストレスは玩具を弄るように剣士の四肢を切断し、血に濡れた刃をうっとりと見つめ、金切り声に似た声で笑う。


 貴様は此処で死ぬ。何も守れず、誰も救えず氷片と成り果て砕け散る。我を恐れ、頭を垂れて命乞いをしろ。我は見たいのだ、貴様が情けない声を振り絞り、赦しを乞う姿を。黒き鋼が地に伏せ、絶望に染まる様をこの目に宿したいのだ。


 「……」


 凍る。何もかも、銀の霜で満たされる。


 「……」


 イエレザへ敗けないと言ったのに……この手で守れる者の為、救える者の為に剣を振るうと言ったのに、己はこの純銀の中で果てるのか。


 「……ッ!!」


 駄目だ。それだけは、許せない。他人がもう休めと話そうと、目の前に立ち塞がる絶望がどれだけ強大であろうと、剣士は死を望まない。まだ戦えるのなら、剣を振るう力があるのなら、柄を握って殺意を燃やせ。絶えぬ激情を闘志に変えて、立ち上がれ。


 誰が見ても今のアインは剣を振るえる状態ではなかった。満身創痍の境界線を越えた瀕死の身体、空間に吹き荒ぶ雪と氷は彼の心さえも氷塊の中へ閉じ込め、燃え滾る意思を凍り付かせていた。だが、剣士は切断された四肢を影で癒着させ、再び立ち上がる。


 何故立ち上がると問い、何故絶望に呑まれないとエルストレスが叫ぶ。憤怒と憎悪を孕んだ槍がアインの右腕を砕き、彼の重い足取りを更に鈍らせ、地面に叩き付ける。


 「……俺は、まだ、敗けていない。この身は、この意思は、まだ……生きている」


 だから……まだ戦える。その言葉に込められた強大な殺意が玲瓏に狂い咲く。


 「何だ……? その程度か? つまらんな……実に貴様はつまらない男だ。俺一人を簡単に殺すことが出来ず、強大無比な力に振り回される哀れな男……。貴様は所詮その程度なんだよ、エルストレス」


 吹雪が強まり、エルストレスが放出する魔力に僅かな揺らぎが生まれ。


 「貴様は何も変わらない。その腐った性根も、つまらん虚栄心も、何も変わっちゃいない。理解する価値も無い屑が貴様だ。そんな奴に……俺が敗ける道理は無い」


 滅茶苦茶に振るわれた鍵爪の連撃を、アインの背後から飛んできたハルバードの刃と暗器が打ち落とす。


 「……何故逃げなかった」


 鋼を貫く冷気が和らぎ、血が温もりを取り戻し、アインの体内を駆け巡る。


 「俺は……逃げろと言った筈だ。どうして振り返った。此処に居れば、命の保証は無いぞ」


 「……貴男を、アインさんを、一人で残すワケにはいかなかったから」


 「……」


 「たった一人で戦場に残り、命を、意思を捨てないで下さい……。私は、貴男よりも弱いけれど、それでも、自分の意思に……心に従ったんです。それは、メイさんやバトラーさんも、同じだと思います」


 アインの襟首に仕舞われていた涙の結晶が詰まった小瓶が弾け、剣士の肉体を癒すと失われた魔力を回復させる。


 「……イーストリア」


 「はい……」


 「後悔は無いんだな?」


 「……はい!」


 「なら俺の……いや、の背中を守ってくれ。頼む」


 「任せて下さい!!」


 己の両脇に立ったメイ一号とバトラーを一瞥し、イーストリアの頭を撫でたアインは黒白の剣を構え直すのだった。


 


 


 

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