剣を振るう ①

 ふと、懐かしい匂いが鼻孔を擽った。

 微睡み、うたた寝していた視界は薄くぼやけ、少女は小さな手で瞼を擦った。


 歌が聞こえる。幼い頃によく聞いた事がある歌だった。歌詞こそ覚えていないが、この心地よい音色は覚えている。よく、母が歌ってくれたものだった。


 「サレナ、私の愛しい子」


 母の声。慈愛に満ちた穏やかな声。好きだった声。

 母が好きだった。小さな家であったけれど、不便も多い場所だったけれど、母さえ居れば何も要らないと思えた。母の優しい匂いも、頭を撫でる温かな手も、全てが愛おしく、失いたくない宝物だった。この小さな幸福を永遠に噛み締めていたかった。


 「……母様」


 「なぁに? サレナ」


 「私は、母様を愛しています。母様を一度も恨んだことはありません。母様は」


 私が産まれて、この世に存在していて、嬉しかったでしょうか?

 

 声に出して聞くのが恐ろしかった。否定されてしまったら、何もかもが砕けてしまうと思ってしまった。だから、言葉の途中で口を噤んでしまう。恐怖に屈してしまう。愛する人からの言葉を確かめられず黙ってしまう。……その愛を、内に秘めてしまう。


 「……サレナ、私はあなたを愛しているの。あなたが私を愛していた事も知っているわ。けどね、サレナ。気持ちと云うのは言葉にしてやっとハッキリ伝わるものなの。あなたの私への愛は本物で、私のあなたへの愛も勿論本物よ。だから恐れないで、サレナ」


 知っている、覚えている、その言葉も、母の愛も、全て知っている。

 けれど、次に言葉を発してしまえば、この穏やかで安らぎに満ちた時間が終わってしまう事を、少女は何となしに気付いていた。最後の逢瀬。死んだ筈の母が何時までも傍に居る筈が無い事を、サレナは今になって自覚していた。


 恐怖に打ち勝つ感情は勇気と呼ぶのだろうか? それとも蛮勇と呼ぶのだろうか?どちらにせよ、恐怖を乗り越え、克服し、未来へ進む者は尊い光と呼べるだろう。どんな小さな恐怖であろうと、それは人其々それぞれが持つ闇であり、影なのだ。故に、今小さな一歩を踏み出し、口を開いた少女は恐怖に打ち勝った誇るべき光と云えるだろう。


 「母様……母様は、私が、私が産まれた事が、嬉しかったですか? 私と一緒に居て、幸せでしたか? 後悔は……ありませんでしたか?」


 少女の問いかけに、母は優しく微笑んで答えた。


 「サレナ、あなたが産まれてくれた事が、私にとって何よりも嬉しいことだったわ。あなたが生まれた瞬間、私の世界は一変したの。それまでの私は、一族の使命に嘆くばかりだった。あなたが生まれてからは、あなたを愛し、育てることが私の使命になったわ。私はいつもあなたと一緒にいたかったし、あなたが幸せになるために、全力で尽くしたつもりよ。後悔? そんなものは一切ないわ。あなたが私の娘で、私があなたの母親であることが、何よりも誇りに思っているの」


 少女の胸に光が満ちる。


 「サレナ、あなたは明日へ、未来へ進む途中なの。だから、一つの事に捉われず、多くを、世界を見るの。躓くこともあるかもしれない。転んで立ち上がるのに時間がかかるかもしれない。けれど、あなたが進む事を、歩く事を諦めない限り未来はあなたの手に在り続ける。サレナ、彼と、一緒に」


 「母様?」


 時間が迫る、母の柔らかい笑みが、声が、遠のいて往く。

 

 「母様―――母様!!」


 「幸せに、なって」


 あなたがあなた自身の手で、未来を、幸福を、掴むのよ。


 その言葉を皮切りに、少女は光が満ちる。精神が自分の居るべき場所へ、引き上げられるのだった。





 ………

 …………

 ……………

 ……………

 …………

 ………


 


 


 その昔、膨大な魔力を身に秘める一族が居た。


 その一族は類いまれ無き魔法の才を持ち、操れる魔法は一人一属性という世界の制約から逸脱した存在であり、その者等は一人で全ての属性の魔法を操れる超越者の一族であった。


 白銀の髪を持ち、完成された麗しき容貌を持つ女子のみが産まれる一族。その者等は人間領辺境の村を守護し、質素で素朴な生活を営んでいた。


 聖女―――この呼び名は未だ村が一族を信奉していた時代の敬称である。聖女は自らの魔法を用いて村へ安寧と平和を敷いていた。村が渇けば水を呼び、村が凍えれば火を呼び、魔族が攻めれば雷を呼んだ。聖女が守る村は人魔戦争が激化しても尚、死人が出る事は無く、人の営みが絶える事も無かったのである。


 安寧、平和、平穏……何時までも、未来永劫続くかと思われていた安らぎの日々。しかし、この世界は優しくなどない。平等なんてものはありえない。些細な幸福を打ち砕く為に不幸があると云うのなら、この村の不幸は百年前に始まったと言えるだろう。


 それは雨の降る夜の事だった。村人が寝静まり、聖女も床へ入ろうとした瞬間、魔族の大群が村へ攻め入って来たのだ。戦う力が無い村人を聖女は持てる力の限りを以て守ったが、多勢に無勢。聖女は傷を負った魔族に魔力を奪われ、殺された。


 魔力を奪い、聖女を殺害した魔族の名はデリエル。デリエルは村人へ一つ提案を持ちかけた。村を守る代わりに、聖女の一族を贄として差し出せ、と。


 圧倒的な暴力と聖女と云う希望が砕かれた村人は、多少の犠牲で自分たちが助かるならば、とその提案を了承し、村の広場に魔族を象った像を立て、聖女の一族を贄として捧げたのだ。聖女―――巫女として。


 デリエルの目的はただ一つ、一族から負った傷の修復と己が魔力を高める事。村の有り無しなど彼の魔族からしたら暇つぶし程度の事なのだ。


 これが村の守り神と巫女の真実であり、事実である。今宵、祭壇に捧げられたサレナの魔力を奪う為、デリエルが降臨する。最後の食事のため、用済みとなる村人を殺す為、闇の中から降臨しようとしていた。


 だが、どんなに長い時間を要し練られた計画であろうと、百年の長い時を経て、デリエルにも予想出来ない異分子が入り込んでいた。


 その異分子は、圧倒的な殺意を以てデリエルを迎えるであろう魔族の部隊を殲滅し、進む道に居た人間をも殺し尽くす狂戦士。


 黒き鋼に身を包み、黒の剣を振るって突撃してくる血と臓物に塗れた剣士。恐怖と狂気を振り撒き、真紅の眼光を以て平伏する村人とデリエルを見据えた剣士は、祭壇に寝かされたサレナを見つけると力の限り、吠えた。


 人間魔族、生きる者にとっての最大の警報は恐怖である。


 恐怖を正しく認知し、自らの生命を守るために行動を起こす。それは人魔問わず誰もが持つ防衛本能である。


 脅威を感じ取り対処する。避けられない衝突があるのならば戦う意思を決める。命の危険を感じたのならば逃げるという選択を取る。恐怖を感じるとは自らを守る為に備わっている本能の一部であり、機能でもあるのだ。


 だが、その本能、機能の一部が麻痺する程の恐怖がその身に迫ったならば人はどうなるだろう。放心するのか? 絶望するのか? 狂うのか? 否、ただただその圧倒的な存在に頭を垂れ、許しを請うのだ。どうか安らかな死を迎えられるように、苦痛なくこの世から去れるように、願い、欲するのだ。黒い鋼に身を包んだ剣士、アインへ安らかな死を希う。《こいねが》

 

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