第十章 種明かし

 雨が降るかと思われた空は晴れた。根無は自室に居て、私物を調べている。雨が降ろうと、本来は構わなかった。天気を気にしなければならなくなったのは、家を訪う人が居るからだ。根無は改めて部屋の物をつぶさに見ようとした。思い立ったことを軽く口にすると、やにわにギルバートが乗り気になった。共に部屋を探険しようと言う。根無が幾ら退けても聞かなかった。心強い仲間だと自称して、雄大に語った。参加者は増えてゆく。根無は手放しになった。雨に打たれてでも来いという気分になった。疎ましいとも思ったが、心待ちにもしていた。

 根無の本当の目的は、根無が自分に宛てた手紙だった。椿村が捨てた手紙は、根無が自分の物にして以来、姿を消しては現れた。根無は見てはいけない物を見ていると思いながら、直視を止めなかった。手紙を収めている黄色い封筒は、物に備わる快くない感情に似合わず鮮やかだ。人の物を掠めた根無が罪悪を抱かなかったのは、封筒の温和な色のせいだった。紙一枚を剥けば殴り書きの文字が出てくる。根無の興味は尽きなかった。やがては必ず興味が自分の方へ向った。椿村の手紙は求めていなくとも見附かるが、根無の手紙は隠れたままだ。過去の根無は未来の自分に何を書いたのだろう。根無は何も憶えていない。書いた時のことも、読み返した一年後も記憶から抜け落ちている。完全に忘れていることが、根無の興味をかきたてた。価値なき物でも思い入れ次第では捨てない根無だった。退けたいことが多くても、結局は大切にしている人間だった。

 見附けられる確信がないまま、根無は探している。当てがなく途方に暮れることはなかった。部屋の主は、根拠のない見当を附けている。探している物が何か、根無は誰にも言わなかった。協力者として集った者達が役に立つとは思えない。事実、根無の部屋は荒らされている。

 「さあ、遠慮せずに見給え。僕が許可しよう。これがマティスの絵だ。」

 「はい。実物が見たいです。」

 「もう本物を求めているのかね。良い欲求だ。性急な情熱が現実を望む方向へ誘うのだ。」

 「叶えるということですか。」

 「叶うだろう。」

 「では叶うことをします。」

 「しかし今は我慢だ。今は根無君の部屋に居るばかりで、道が展ける予感はないのだからね。」

 「それは残念でしたね。」

 「まずはその画集で幾らかでも満たすしかない。印刷されたものを見て、どう思うかね。」

 「はい、とても具合が悪くなりそうです。」

 みさきの言葉を根無は気に入った。考えもしなかった形容だが、得心できる。ギルバートの勢いにも負けず、みさきは個を発揮していた。みさきの声を繰返している内に、根無の心の言葉へと移り変っていった。

 小さな椅子に収まるみさきを、ギルバートと福永が囲んでいる。珍しい光景だった。日が浅いだけのことで、次第に見慣れた影になる未来も見えた。根無は新鮮に感じながら、直視はしていない。気にならぬではないが、優先するべきことがあった。孤立していないのは、隣に紅林が居るからだ。近くで忙しなく続く受け答えを、紅林は物憂く思っている。それでいて遮断もできず、穏やかで居られないのも確かだった。みさきが居るからだ。

 「あれも、あなたの絵心だって言うの。」

 紅林は画集のことを指しているのだった。

 「まさか。戯れにしか過ぎないのでね。」

 旧友の横顔を写実の真似で描いた記憶は、今消えたとしても惜しくなかった。棄てた思い出は誰が拾って温めているか分らない。知らぬ所で語り伝えられ、変形していることを思案すると、それだけ根無は人世との懸絶が激しくなる。人の印象とは勝手なものだ。組み敷かれるのも、都合よく利用するのも同じことだと根無は思った。

 「だったら、どうしてあんな物を持ってるの。買った訳じゃないの。」

 「あった方が示しがつくと思ってね。もしかしたら才能があるのかも知れないから。」

 「どうでもいいんだけど、みさきにだけはそのこと言わないでくれる。」

 「あの方なら笑って受容れてくれそうだけどね。そうじゃないかな。」

 紅林は少し考えた。

 「確かに、むしろ喜ぶと思う。そうしてあなたは絵の猛特訓をすることになる。」

 「ああ、その方がよっぽどあり得るよ。やはり余計なことは言うものじゃない。」

 またギルバート達の声が大きくなって届いた。

 「今度はターナーだね。一世紀古くなった。見たことがあるかね。どんなものだろう。」

 「さっきよりも形がしっかりしてます。風景画。捉えている物が大きくて、マティスさんよりも曇っていて、夢に見た写真みたいです。」

 「印象派の兆しであるか。」

 「でも美味しくなさそうですよ。マティスさんの方が食べられそうです。」

 「不味かろうね。だから誰の食卓にも出ず今日まで残っているのだ。それで、具合はどうだね。悪くなってこないか。」

 「そうですね、」みさきは今まさに自分の体調を検査している。

 「悪くなってきたかも知れません。」

 ギルバートは大いに喜んだ。

 「そうかね。皆な躰に悪い物ばかりだね。怪しからんな、画家達は。こういう物を見せるべきではなかったかも知れないね。」

 「でも栄養にはなります。」

 「薬なんだよね。」

 無難な回答を福永が添えた。一段落ついたことを覚ったギルバートは話を転じた。

 「この雪を見給え。一色に限定して塗っているのではなく、微妙に異なる色合が並べられているのだ。混ざっているのとは違う。」

 説明を聞いて、さつきは眼を凝らした。絵の印刷は、綿密な鑑賞をするには小さ過ぎた。

 「そうでしょうか。そんな気もしますが。」

 肉眼の限界でも複製の手落ちでもなかった。ギルバートは絵が参照できなくとも同じことを言うに決っている。

 「赤や青や黄と言うが、一体混り気のない赤が存在するのかという話だ。この本棚の色や、床の模様や根無氏の肌を見てもそうだ。一つとして純粋な色は存在しない。自然の色を再現しようとして、絵具を混ぜた処で、本来の輝きを失うだけだ。」

 「頭を抱えます。そういえば、自然に線なんかないっていう話も聞いたばかりでしたね。」

 「そこで人は色を混ぜたりせず、それぞれの色を斑点にもしたのだが。そもそも我々が見ている物は何だろう。ただ網膜像に映ったのを認めているだけだ。それは概ね平面で映されているのだ。これは一体どういうことだろう。」

 「どういうことなのでしょうか。」

 みさきは純粋にギルバートの跡を従いて、復唱する。

 「一つの机にしても我々がどこに立っているかで形は変るし、光の当り方で色が変る。大きさだって距離次第で全然変るという説明は有名だろう。」

 「はい、初めて聞きました。」

 「結局のところ、我々が眼に映している物は模倣なのだな。机そのものがあっても人は極端にしか把握しない。それを絵に映せば、偽物であるね。本当の物はありはしない。」

 「眼が廻りそうです。ああでも、廻っては見える物がもっと変になります。」

 左右に揺れ始めるみさきを見て、福永は「幻だ、幻だ」と混乱させる。

 「そんなことを言っても仕方がないでしょう。見えるならそれで良いんじゃないのかなあ。」

 「福永氏は見えている物が全てだと言いたいのかね。」

 「そうかな。そうかも。」

 「フーゲル君の言うことも分るね。余分な事物を取り除こうと努めても限界があったか。」

 「どうも限界が来ているようです。」

 「実際、模倣の塊である芸術を排斥しようったって、そうはいかなかったのだ。それでも我々は見える物に似せようとする。そこで絵具の話にも戻る。ただ同じようにすることが総てではない。抽象的にしたことで却って近附くこともある。人類の作業とは解体の連続なのかも知れない。だからこそ、諸賢は今後も仕事を続けるべきだ。」

 「もしかして、勇気附けられたのでしょうか。頭の中のこの辺が明るくなりますね。」

 「絵のことなら、みさきさんにお任せだね。」

 絵画の未来は福永とみさきに託された。根無は流れて来る声を耳に挟みながら、手に持っている紙を捲りながら眺めている。紅林もギルバートの講釈には興味がない。根無の動作を見守っている。それでいて紙の束に感動がある訳ではなかった。根無は紅林の視線に気を取られて、散漫になる。どうせ詰らない文字がひしめいているだけなのは分っている。それでも次にどんな内容が飛び込んで来るのかと不安だった。紅林が触れるべきではない姿であり、過去だった。

 ふちから綻びている藁半紙の全てに、根無が登場する訳ではない。雑事ばかりが記されている。給食に輪ゴムが混入していたことの反省。演説大会に出た生徒が読み上げた文章。無理にでも人を褒め、あるいは批判している言葉。重ねた日々が紙となっている。手触りが粗く、最初に手にした時から古びていた。

 中には根無による手書きもある。どれも善人を装ったものだった。心にもなく反省して、勇気附けている。自分が美辞麗句の似合う人間だと思ったことはない。下手な演技をしても誰も見破らない環境があった。今でも変らないかも知れない。

 根無が紅林の視線を避け、最もどうしようもなくなるのは、自分の文章が現れる時だ。紅林の眼に映る物は、総て曇っていた。筆者が誰でも同じことだった。黙っているだけの紅林に助けられている根無は、それでも安堵できなかった。

 神妙に箱の中の紙を乱す根無を、紅林は平坦な心持で見ていた。紅林にも気になる処があり、根無の探索と関係することだったので近くに居る。一向に意味が認められず、埒が明かない。遂に根無に当った。

 「ねえ、何を見附けようとしているの。」

 「言っていなかったかな。」

 「歴史を動かした古文書が発見されるとか聞いてここに来たんだけど。」

 「あの人が言ったんでしょう。」

 根無は初めてギルバート達が居る方を向いた。紅林は根無が促した方向に合せなかった。

 「いつになったら見附かるの。」

 「まだ出てこない。そもそも見附かる確証もないんだ。」

 「当てもないのにそんな所を探ってるの。」

 「探るしかないのでね。あるとしたらこういう所しかない。しかし分らない。」

 「待っているんだけどな。」

 「そんなに気になるんですか。妙だね。」

 「ここまで呼び寄せておいて何もないとは言わせないよ。」

 「それは短気ではなくて。確実にこれという物は発掘されなくとも、関連する文書は大量にあるのだから、それを見るが良いね。」

 根無は今まで悟られたくなかったものを見せる気になった。根無なりの奉仕で、満足させようとした。肝心の紅林が、何を見ても喜ばないことは理解している。

 「例えば、どんなの。」と紅林は言わないが、沈黙が語っていた。

 「例えば、こんなのはどうでしょう。校長先生の言葉です。」

 修学旅行のしおりを開いて見せた。


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 案の定、紅林は怪訝な顔になった。

 「どうしたの、これ。」

 「変った人だったんだね。」

 根無は他に答えようがなかった。

 「大体、どうしてLegnedと書かれてるの。」

 閉じられた冊子を見て、紅林は訊ねた。根無は表紙に描かれた絵のことを忘れていた。

 「まあ、これはね。人のやることには色々あるじゃない。」

 「でもスペルが違うよね。間違えたの。」

 「まあ、笑い話だけどね。あんまりあげつらうのもね。」

 「何、あなたが描いたの。」

 「滅相もない。」

 「じゃあ誰が描いたの。」

 「誰だが分らない。校長じゃないの。それよりもこれはどうかな。」

 根無は新しい紙を見せた。学級通信と銘打たれたもので、担任教師の言葉が生徒に送られていた。


  先生は、皆さんのことを、信じていました。新しいクラスで、さあ、一緒にはじ

  めましょう、というところで、皆さんの輝かしい目と、自主的にクラスを、まと

  めていこうとする姿勢を見て、先生は、みんなのことを、信じていいのと、問い

  かけたこと、おぼえていますか。あの日、先生は、不安でした。だからこそ、み

  んなの頼りになる姿を見て、嬉しくなりました。その分、先生は悲しいです。ま

  じで、裏切られたと思っています。私は、皆さんの罪を、ここで書きません。そ

  れは、皆さんの心に、刻まれているからです。やがて罪は空に浮いて、雲に変化

  します。夕日に溶け込む雲を見て、私はちぎれた夢を秋に映して、己の甘い依頼

  心を恥じるのです。私が悪かったのです。伝説を守ることができませんでした。   

  伝説修養美徳創造道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道


 もう紅林は驚かなかった。校風を理解したのだ。

 「生徒想いの人なんだね。」

 「そうなんだよ。そうだったのかな。変った人だったからね。」

 「はっきり言ってどうでもいい。それで、何を探しているの。」

 「そうだった。危うく目的もないのに部屋を漁る処だった。私が探しているのは、「少年院」時代の私が釈放後の自分宛に送った手紙でね。要するに、一年後の自分へ、という物です。」

 根無の言葉を翻訳するため、紅林は少し時間をかけた。

 「卒業する自分にって。そんな詰らない物を探してるの。」

 「そう言われると本当に徒労なんだけどね。」

 根無は事情を説明した。棄てられた椿村の手紙が残り、根無の手紙は埋れた。処分したはずはなく、どこかに眠っている。二つの手紙が揃うことで、対の関係が見出せる。何の効果が得られるのか、根無は考えない。追憶以外の意味は怪しい。

 紅林はまた表情を変えた。信じられない物を前に慄く様子になっている。

 「人の物を勝手に。犯罪なんじゃないの。」

 「その意識もないではなかったですがね。つい手が出たというのかな。結局お咎めなしなので。」

 「急にあなたが怖くなった。自分さえ良ければ、気が済むまで他人にまで押しかけるなんて、人のこと言えないよね。」

 「持主にとって、これは意味をなくした物で、消したい物だったんだろうね。あの人の中ではすっかり消えてるでしょう。それにしても、皆なが居る所に捨てるのはまずかったね。拾う者が現れても文句言えないよ。」

 「正当化しても、変らない。」

 「現物はちゃんとある。ご覧になりますか。」

 椿村の手紙は、傍に置かれていた。根無は封筒から便箋を抜き取り、紅林に渡した。紅林は興味も見せずに、紙面を眼に映している。紅林は内容については一切触れなかった。

 「決めた。私はあなたの前では何も残さない。」

 「それは注意が必要だね。」

 根無は先刻から紅林の反応を楽しんでいる。隣が少し賑やかになったのを察したギルバートが呼びかけてきた。

 「根無君、まだ見附からないのかね。僕はずっと待っているのだがね。真剣に探しているかね。要するに紙片を探しているのだろう。知っているかね、紙は薄いから妙な所にも侵入するのだ。本が置かれているではないか。案外、挟まっているものだよ。」

 根無は曖昧な返事をするだけだった。ギルバートは近くの書棚から無雑作に一冊取り出して開いた。拾った処を朗読しては頁を繰る。

 「歴史に規定された特異な作品や思想が、普遍的なものとして受け容れられるのはなぜなのか。なるほど、よく分るね。それから何だね。神は死ぬことによって現象であることが示される、か。それから、イエスが地上を歩き廻っているということは、待望されたメシアがすでにやって来てしまっている。何だね、これは。根無君、こんなものを読むのか。夢に出るぞ。」

 「出たんだよ。」

 根無は短く答えた。視線は同じ所を向いている。

 「信仰心の表れということなの。」

 紅林が横から質問する。

 「そういう訳でもないんだけどね。何かと考があってね。」

 「何を考えたの。」

 何を思い浮べることもなく、誤魔化して答えた根無は、中身を問われて当惑した。閉口するのを苦笑で包んで、靄の内に隠そうかと思った。しかし去来する思考を覚えて、一つ開陳することに決めた。ギルバートが読み上げた本と関連があるとは思えない。数日前に一人で考えたことだった。急な発想でもなく、長年溜まって塊となったものに、暫定で形を整えたものだった。未完成だと思いながら紅林に話すのは義理のためだ。やはり誤魔化すためでもある。


 自分は弱かったのだろうか、あるいは強いのだろうか。昔の根無は考えもしなかった。己を見詰めるのが苦痛だった。それ以上に、自明のことだったのだ。敢えて答えるなら、強くはないという他ない。

 解決できない問題が多かった。幾つかは努力次第で道が拓けるはずだった。幾つかは気持の問題だった。根無は総ての処理が間に合わなかった。大挙して押し寄せるものに対して、余りに無力だった。あらゆる人や物に出会った。耐える積りもなく溺れ続けた果てに今がある。いかなる経路を辿ったのか。気附けばここに居て、嵐が去った感覚になっている。無事で立つことができているのなら、強かったのだ。そう言われるかも知れない。その言辞は、当てはめても簡単に剝がれそうだ。何度も同じ問に戻らなければならない。

 振返ると下手なことばかりしている。想像の中で、昔の自分に成り代る。容易に手段が思い附き、未来は変る。目覚めると元の自分が居た。一時しのぎで、何の転機も起さないまま生きてきた自分だ。過去は変えられないからこそ多くのことを与える。多くのことを学んだ根無はその分成長したのだろうか。根無は成長という言葉を信じなかった。無難で不安定な言辞でしかない。強くなったと言う方が正確である気がする。

 今の根無は、どうすれば楽でいられるか知っている。多くの問題を平静にして溶かす術を知っている。いつしか学んでいた方法を、根無は自分のものにした。根無が習得したものは強い自分へ結び附くのだろうか。偽りの自分ではないのか。己を騙してはいないだろうか。今の根無は本来の自分を抑圧して出来上っているのではないか。確かに根無は昔より余裕のある人になれた。そこに嘘があるとすれば、いつか無理が生じるのではないか。

 本来の自己は更に深く潜らなければ視えないかも知れない。根無は今の自分を作られたものだと考えた。しかし塗り潰された自分が本当だったとは限らない。新たに言い聞かせて作った姿こそ、本来の自分に近いかも知れない。自然な姿と認識している過去の自分は、作られたものだったのではないか。上書きしている姿こそ、抑圧されていた自分ということになる。何かの原因で歪んだ自分を修正しようとする努力だ。植え附けたものだとしても、真に自分らしい姿が取戻せたなら嘘ではない。

 根無は神妙な心持で、海に浮ぶ氷山の図を描いた。氷山の一角が弱気な根無で、沈んでいるのが強気な根無だ。根無は図の上に矢印を添えて、強気な自分と書いた。真相は簡単ではないと思った。表面も深層も理想も、総て同一ではない。意識して作った自分こそ本来の自分に近いと、どうして言えるのか。沈んで見えない自分は誰にも解らない。無理に引抜けば、完全に違う自分が出てくるかも知れない。知らない自分の姿。根無は少し恐しくなった。

 次第に根無は、今までの思索から離れた。ノートに書いた図を見直す戯れでしかないと思う。解るはずがないではないか。しかし面白くもある。呻吟して考えたものを、飽きただけで一蹴するのは惜しい。いつか披露する機会があれば様になるかも知れない。根無は思い描いた。早く現実になればよいと思っていた。

 「それが、休むに似た考という訳かな。ああだろうか、こうだろうかって、何も見えてこない。」

 容赦ない紅林に対して、抗弁する意欲を根無は失っていた。

 「まあそういうことなんだ。」

 遂に肯定までした。根無なりに考を巡らしたことのはずだった。紅林に通じないのも無理はなく、根無は逃げながら語っていたのだ。

 根無は当初の目的に返ろうとした。それも仮初である気がする。ただ眼に映し、手を動かすことに集中した。

 「しかし、本に挟まっているというのは本当かも知れないよ。探し物は案外そんなものだね。」

 根無は見慣れた書棚に視線を移した。何の変哲もない。随意に並べた本が、根無の記憶通りに背を見せている。年月をかけて、少しずつ中身を変えているが、基本は数年前と同じだ。根無の提言は気休めだった。光明を求める姿勢でもなかった。無風を知りつつ、消える言葉だった。沈静した空気は紅林にも伝わり、一切の示唆にもならないはずだった。

 気分の延長で、根無は背表紙をなぞったが、直ぐ止めた。その動作が本当だとは思えなかった。作り物を見せる訳にはいかないと、根無は苦笑しかけた。重なる演技を破ったのは、紅林の言葉だった。

 「そこの本は何なの。」

 「そこと言ってもね。」

 紅林は指差している。根無は見えない線を辿ろうとしたが、途中で見失った。候補は無数にある。

 「何してるの。そこだって。」

 「そう、そう。そこそこ。」

 根無は棒立ちで居る。

 痺れを切らした紅林は、身を乗り出して根無の位置に重なった。

 「ふざけてるの。この白い本は何って言ってるの。」

 「そうそう、こういう本もあったね。」

 背表紙に何も書かれていない本が見える。紅林には何の目当もなく、眼に映る白い本に疑問を付しただけだった。

 正体が分った途端、謎の本は根無にとって謎でなくなった。かつて門で受取った聖書だ。まだいつでも手に取れる所に置かれている。管理者である根無本人が意外に思った。いつから放置され、見過されてきたのだろう。文庫本に混じる聖書は隅に追いやられている。根無にとっては消えたも同然だった。

 「そうだ、これは貰った本でね。」

 根無は聖書という最も近い答を前に、言い淀んだ。絵を描く人だと思われそうになったばかりだ。誤解を二重に受けるのは嫌だった。根無は絵画にも聖書にも興味がもてない。きっと紅林は根無を宗教に絡めるだろう。否定すら根無は面倒だった。とはいえ本も紅林も黙殺して、なかったことにするのは更なる愚行だと解っていた。

 「すっかり忘れていた。こんな所に置いていたなんてね。一体、どれくらいここに留っていたんだろう。」

 弁解をしながら本を取出して、半分に開こうとした。本は根無の指の力に反抗して、違う頁を見せてきた。見えた頁の所で止めると、紙が挟まっている。本の頁よりも厚い紙が二つに折られている。折っても本の大きさに少し勝っており、主張が強い。薄く字が透けているのを認めた根無は、予感とともに青ざめそうだった。紙を抜いた根無は、急いで開いた。根無の瘦せた字だった。


  やあ自分、何か変わったかって自分の事だし、特に大してなんでしょうね。この  

  手紙を読んでる時のお前さんがどんな人間になってるかは、私にとっては知った

  こっちゃないが、まあそんなに変わってなんだろうな。そう思うとなんだか安心

  するよ私は。これは本当だ。

  正直言うと、私は不安なのだ。何が不安かは、あなたならすぐわかるだろう。あ

  なたは、もう大丈夫なんだろうね。私の不安は消えたか?

  本当にたのむよ。まあ、がんばるのは私なのだがね。

   あとな、今の私は、独りであることが多いんだよ。昔から、友人の少ない人間

  だったが、今は本当に少ない。どうしたものか。どうだね? 気の合う人間はい  

  るかね? まあ正直、居ても居なくても別にいいのだがね。まあ居たら居たで楽

  しいじゃないか。

   現実的な話はよそう。今はそんなに考えたくないだろう。実際ね、こっちは

  ね、独りではあるが、結構楽しいんだよ。割と楽なんだよ。 楽じゃなかったら 

  こんなの書いてないさ。とりあえず、今は余裕がある。今のうちに色々がんばっ

  てやるよ。あなたのためにな。感謝しとけよ?今のあなたが居るのは私のおかげ

  なのだから。私以下の人生になってるかもしれないな。あやまっとくよ。今あや

  まらないと私は一生あなたにあやまることが出来ない。今、手紙を書かないと、

  私は一生あなたに書くことができない。私はあなたに会えない。なんだかとても

  遠い所にいるようだ。だから今、手紙を書くのだ。あとは時間という名の郵便局

  があなたに届けることだろう。


 根無は紙を閉じた。便箋は二枚目に差し掛かり、文章はまだ続いていた。手紙を開く時から周りを忘れていた根無だった。今は根無以外が無になりかけている。時の経過ということを根無は思った。思い出を美しくする趣味など失っていた積りだった。脚色する価値もないと思っていた。今、根無は過去や時の経過を生々しい形で直視した。それも最後まで到達しなかった。根無は少し目が醒めた。

 根無は附近のごみ箱まで歩み寄った。紙を持つ手を後ろへ動かしてから、腕の軌道とともに降りてゆく。勢いは最後には失われていた。

 紙はまだ根無の手に残っている。紙を丸めることも、考えただけで実行しなかった。根無は紅林に何も説明していない。根無の視界に色が戻ったのはいつからだろう。根無は紅林の方に向き直った。

 紅林は根無の挙動を眺めて気味悪がっていた。軽い気持で本を訊ねたら、要領を得ないことを言う。謎の紙を取り出して静になると、急に捨てる真似を始めた。今では近附いて来る根無を前に、身構えずにはいられなかった。

 「紅林さん、」

 根無は歩みを止めて、隣に立っている紅林を見た。紅林は返事もできなかった。

 「私はね、段々良くなっていますよ。」

 ただでさえ困惑していた紅林は、更に呆気にとられた。紅林の反応が分らない根無ではない。

 「昨日よりもね。明日からはもっと良い。」

 根無がこれ以上言葉を重ねないことを知った紅林は、どうにかして返答を絞り出した。

 「あなたは、一人で眠ることもできないのに。」

 「確かにそうだ。」

 「靴紐もまともに結べないのに。」

 「そうだった。」

 「夜道だって、自分の事が精一杯で歩くのに。」

 「そうだったね。」

 それこそ氷山の一角かも知れないんだよ。」

 「幾ら叩いても埃が出てくるのでね、面白い限りですが。そういうことではないんだね。私は何だか安心したな。今はね。」

 紅林の反証にも構わず、根無は満足していた。

 静寂は、ギルバート達の会話のせいで訪れることがなかった。根無の頭の中にしか澄み渡るものはなかった。やがて根無の意識も戻った。新たな来客が扉を開けたからだ。

 「ようやく来たか。約束は約束だからな。」

 誰よりも先に客を迎えたのはギルバートだった。奥田と横山が家に来るかも知れないという話は、根無も聞かされていた。奥田とは先日も顔を合せたが、横山に関しては忘れかけていた。根無は二人が来なくても良いと思っていた。二人にとっても興味のないことだろうと分っていた。しかし律儀にも奥田と横山は居る。ギルバートの引力に違いない。

 「俺等ここに来る必要あったのか。」

 「僕が呼んだから良いじゃないか。」

 「お前じゃないよ。根無さんがどうなのかって話だろ。そうだよな。」

 奥田は横山に呼びかけた。横山は根無を見直した。横山の視線に釣られて奥田も同じ方を見る。横山と再会した場所は館内の広い通路だった。それよりもずっと狭い空間において、主役は根無の方だった。

 「どうも、根無さん。」

 「やあ。」

 根無は手を挙げただけで、他に思い附くものはなかった。両者の様子をギルバートは観察していた。

 「妙だね。」

 「妙なのはそっちだろって。根無さんも困ってるじゃん。」

 「そのことなら構わんよ。」

 「ていうかこの前の話だけどな、今西さんは別に眼鏡かけてないから。」

 「ほう、そうかね。」

 「横山からも聞いたよ。なあ、見たこともないよなあ。」

 「ああ、違うよ。」

 「違うじゃないか。」

 思わず福永が口を挟んでいた。

 「なるほど違ったかね。少くともそういう見方があるのだろう。どっちでも良いのだがね。」

 「何だそれ、負け惜しみかよ。」

 奥田が肉迫する。

 「それでも良い。僕が言いたかったのはね、あの頃はこうだったと思っていることが、頼りにならない妄想で、実際はもっと詰らないものかも知れないということなんだ。記憶に守られている間は良いが、ふと何か証拠を突き附けられると、がらりと崩壊してしまいかねないからね。そういう時に、いや証拠なんかなくても良いのだが、人はどうやって生きてゆくのかということになってくるのではないか。解るかね。」

 「うん解らない。」

 「それでも良い。過去の真実について語りたかった訳ではないからね。諸君も鍋を頂くかね。今度ばかりは僕も工夫して出汁から手間をかけたいのだよ。」

 「もう晩飯の話かよ。俺はちょっと寄っただけだよ。」

 根無の部屋の賑わいは、まだ続きそうだった。

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