第九章 過去の生産(下)

 木曜日の夜はいつも一人だった。根無の母は出掛けている。父の帰りは遅い。根無はテレビを点けて室内を賑やかにした。画面に注意を向けることはほとんどなかった。何か音を鳴らさずには居られなかった。根無はようやく一人の空間を楽しめた。

 その木曜日は特別だった。根無は計画を決行しようか迷っている。他人に焚き附けられたとはいえ、根無個人の勝手な着想でもあった。根無にとっては痛快で過激で前例のないことだった。

 迫り来る椿村からの言葉に対し、根無は黙っている訳にはいかなかった。いかなる抵抗をしても、常に劣勢として甘んじていた。抵抗と言うには相手を傷附ける力が足りなかったのだ。意識して手加減している節もあった。善人として仕方のない態度だった。根無が選んで見せた姿は、椿村にとって良い標的だった。同時にどこまでも手応えのない難物だった。根無もまた自分の立場に満足できなかった。二人の優劣は表層でしかない。拮抗するばかりで、解決することもない。

 「もうな、終りなんだよ。このままじゃ頭がおかしくなるから、何とかしてくれ。お前、精神安定剤くれよ。買って来い。」

 怨嗟の声を続ける椿村を、根無は疑わなかった。何が原因で嘆くのか一切考えなかった。同級生や部活動といった問題を椿村は訴えている。根無は同情するための経験がなかった。椿村は自ら問題や困難を探し当て、掲げる者なのだろう。災害に心情を問いかけて、返って来る言葉はない。根無にとって椿村は自然現象だった。

 「無理だよ。そういう問題じゃない。」

 「断るって言うのかよ。今日買えよ。」

 「何を買えば良いか分らないよ。」

 「そんなもの店に行けば良いだろ。店の人に訊いたりするんだよ。」

 「自分でやれば良いじゃないか。」

 椿村は本当に薬を求めている訳ではない。混乱を言い表すことが目的だとは根無にも分っていた。椿村は自らの混乱の伝染を図っている。根無は独自の方法で椿村に応えようと考えた。更なる混乱を生んでしまおうとした。明日、椿村に本物の薬を渡せばどうなるだろう。相手はどのような顔をするだろうか。根無の思いつきは意趣返しだった。しかし悪意は薄かった。自らを犠牲にする処があった。根無は昔と少しも変らない。自分はまだ面白いことを思い浮べることができるのだろうか。相手はその度に喜んでくれるのか。

 根無にとっての犠牲の一つは、自分の小遣いだった。その日、根無は一人で秘密を抱えた。椿村からの追及を逃れ、根無は一直線に帰った。財布には何も入っていないに等しい。家では昨日と変らず夕食を食べた。母が家を出るまで、根無は一切相談しなかった。計画は一人で遂行すると決めていた。人に言えば止められると勝手に思っていた。根無は精神安定剤を激烈なものと捉えていた。

 根無は薬について無知だった。風邪を引いても横たわるだけだ。薬に無縁な根無は、必要な金額も知らない。きっと安価ではないという直感があるだけだった。それ以前に、精神に変容をきたす程の物が普通に売られているのだろうか。根無の計画は思い描いただけで、何の調査もしていない。

 一人の時間は過ぎてゆく。幾つもの迷いの中で容易に動き出せない。夜は深まる一方だ。この時刻に自分は外に出て良いのか。根無は確認もしていない規則に囚われていた。夜と言っても、九時にもなっていない。根無は恐れを抱きながら、遂に意を決した。総ては自分が人前に特殊で居るためだった。

 根無は遠廻りしてドラッグストアまで歩いた。車の前照灯や、対向して歩いて来るかも知れない人影を警戒した。店までの距離は予期していたよりも長い。根無は今まで一人でドラックストアまで足を運んだことがなかった。もう引返せない。

 店の扉は根無を簡単に受け入れた。照明が人を平等に明るくしている。半端な年恰好の根無を見た店員は、平坦な態度で仕事を続けている。根無は気配を恐れた。自分が動くことも怪しかった。動機も目標も不純な人間を止める者は居ない。根無は誰よりも自分を疑っていた。

 平生は立ち寄らない所に佇んで、根無は大量に陳列された薬と向き合った。見上げるとそれぞれの看板に風邪薬、鼻炎薬、鎮痛剤等とある。どれも思い描いているものとは違う。試みに手に取っては用途が別であることを教わるのみだ。当てもなく取っては戻すことを繰り返す。全てが同じ物に見える。根無は薬の箱の瞥見を楽しんでいるのではない。引返すことが難しいのだった。誰かに呼び止められて終るのは大事になりそうで面倒だ。自分自身で決着をつけなければならない。

 青い箱を見附けたのは偶然だった。無数の箱が並ぶ壁を前にして、いつ気力を失ってもおかしくはなかった。根無は薬の名前を憶えていない。求めて得た訳ではない印象によって、カタカナで命名されていただろうと後附けするだけだ。薬が何に効くのかも把握していない。昔の記憶の順序から、不安や緊張感を和らげるのだろうと推測するばかりだ。箱を手にして会計に向かう根無こそ、最も不安と緊張を抱える者だった。あの日の根無は、始終誰にも止められなかった。ほとんど一人で完結していた。店員は台に置かれた薬を素早く処理して根無に手渡した。相手が薬を服用するのに適した年齢に達しているかなど、問題ではなかった。根無はただ千円札を失うだけだった。返って来た小銭はわずかだった。薬は明日には人の手に渡る。それが根無の決めたことだった。

 「お前、あれ持って来たか。」

 朝、教室で最初に声をかけて来たのは椿村だった。根無が机に鞄を置けば、もう始るのだった。椿村は昨日の自分をよく覚えていた。根無にとっては誂えられた展開に見えた。折角の買物をしても、狙いの対象が働きかけなければ意味がない。自分から進んで見せつけるのは敗北を意味している。朝の瞬間は一切が好都合だった。

 根無の心配は手のもつれだけだった。どうか鞄の中の何かが障壁にならないでくれと念じた。幸い四角の箱は何にも引っかからなかった。

 「はい、これね。」

 根無の手は箱を乗せて椿村の許へ届けられた。指示を受けたからには当然という動作に徹していた。根無の演出がなくとも結果は同じことだった。あるはずのない物が出現しただけで充分だからだ。

 椿村は目を丸くしていた。何が起ったか分らないとは、この時だろうと根無は思う。椿村が声を出すまで、ほんの少しだが時間がかかった。

 「お前、本当にか。私はそう言っただけなのに。」

 「そう言われたからね。」

 椿村は当惑の笑みを浮べていた。この時になって根無は、受取りを拒否される可能性に気附いた。相手を驚かせた時点で、根無の目的は達成している。その先のことは考えていなかった。椿村が薬を受取らなかったら、どうなるのか。意趣返しとしては不完全かも知れない。

 根無はまだ手を差出していた。掌の上の箱を、椿村は恐る恐る手に取った。椿村は箱に書かれている効能を読んだ。二人は沈黙している。

 「お前、これは、」と椿村は言葉を続けた。明瞭な言葉で、根無の耳に入った。しかし根無は相手の声から単語を当てることができなかった。椿村が想定した安定剤の定義から少し逸れているという意味は感じた。根無は残念だと思うと同時に、意外でもなかった。どうせ自分は何も知らないのだ。妥協がなくては何も成立しない。

 「うん、そうだよ。それしかなかったから。」

 椿村が何を言ったか聞き返しもせずに、根無は応えた。

 「根無、これ、いいのか。」

 「いいよ。」

 「本当にか。結構しただろう。」

 「まあまあ。いいから。」

 「いくらしたんだよ。」

 「大したことないから。買えって言ったんでしょ。」

 真に受けることが勝利だった。根無にとって一幕は完結した。

 「分った。今度払うから。じゃあ、これは貰うよ。」

 「そんなことしなくて、いいよ。」

 「とりあえず、貰うことにするから。」

 その日、二人は薬のことに触れなかった。遂に根無は薬も失った。返されるという代金にも執着しなかった。心が晴れるという程でもなかった。自分でも過剰な気がして、上滑りの行為にも見えた。ただ事は済ませたばかりで、もう取返しはつかない。その後、椿村が安定剤を求めることはなかった。


 まだ車の往来は激しい。四人の歩みは時に機敏で、時に緩慢になった。皆がギルバートに任せて歩いている。どこに行くのか未だに聞いていない。ギルバートは根無の薬の件について説明していた。根無なら数分で終る話をギルバートは何倍にも延長した。そこまでの大長篇と思わなかった根無は、補足や訂正を加えた。紅林は黙っているのがほとんどだったが、経験者である根無には懐疑派だった。ギルバートの語りが誇張だと思えば、根無は抗弁した。しかし紅林から追認を受けると、自分が疑わしくなる。三人の語りは、主に福永に向っていた。先刻は欠片しか拾えなかった話の全貌が明らかとなり、福永は満足している。

 「なるほど、そんなことが。それは凄い。大胆に出たものだねえ。昔から根無君はやることが違ったんだ。」

 「うん、よくそんなことを考えるんだけどね、実行するのは稀でね。」

 「よくやったと思うよ。勝手なことを言ったんでしょう、その椿村という人は。その手の人間には更に強烈な何かを与えるべきだと思うな。」

 「うまく効いたということかな。まあ良かったのかも知れない。」

 「それ以降、その人は大人しくなったんじゃないの。」

 「どうだったか。あれが何月頃の出来事かも記憶から抜け落ちているのでね。会って数箇月程度ではなかったと思うけど。薬が効いたとて、椿村某は何か言ったような気もする。少くとも何かを欲しがることはなかったはずだ。」

 根無は先刻から、自分達が重大な錯誤を犯している気がしてならなかった。記憶が曖昧になっていることに原因があるにしても、嘘は混じっていないはずだ。言葉にして再生された時、どこかに誤読が生じている。そう思うことが不思議だった。福永の反応は顕著だ。椿村と言う悪人を退治した話として解釈されている。あの日の根無の行動を読み取ると、確かに復讐の意も込められている。悪戯と言うには本気だった。福永の解釈の何が気に入らないというのか。根無は謙遜しているのでもなかった。

 根無が出来事の処置に迷っている傍で、ギルバートは別の講釈へと没入していった。

 「根無信一の行為は示唆に富んでいる。何と言っても薬の存在だ。この際、薬でなくても同じなのだが。とにかく根無氏が椿村紗栄に物を贈ったことが重要なのだ。根無氏は椿村の要求に応じて、本当に薬を贈った。ただの冗談、それも嫌がらせに分類される要求を、敢えて真に受けた。ここに第一の齟齬がある。ただし表面上は正当な手続なのだね。何にしても椿村氏にとってこの事態は負担になる。つまり椿村氏からも何かをしかけなければならなくなる。義務でもないが、気が済まなくなる。では実際に椿村は根無信一に何を返すのかという話になる。ここで忘れてはならないのは、根無氏が椿村氏に薬を与えたのは、決して善意によるものではないということだ。根無氏は確かに物を贈りはしたが、これは穏やかならぬ行為なのだから面白い。これが第二の齟齬、いや実は全くの符合だ。根無君によるかけがえのないプレゼントは、戦いを挑むのと同じだったのだよ。実に示唆に富んでいる。」

 根無はギルバートの声を聞くでもなく耳にしていた。今直ぐ帰りたいという思いが強くなってくる。引返す力はやはりない。ギルバートと同道している内に、人足は寂しくなっていった。根無は今歩いている道を知っている気がした。本当なら疑うまでもない道だ。一つの地に住み続けて、根無はようやく勘を掴みかけている。

 向うに鳥居が見える。粗い舗装の道路は、両端の砂利に攻められ少し歩き難い。ここも知っている道だ。古い記憶を前に、無関係ではいられない。それでも根無は他所者だった。近くの公園も神社もガラス越しの光景でしかない。昔からここを歩くと子供や老人とすれ違う。根無は足早に相手の視界から消えた。寂しい道なりに必ず誰かと出会う。今日も夕焼けに染まった人が見える。他所者の根無は仲間を連れて、気を強くするしかない。依然として根無は一番の異人だったが、やがて誰も気にしなくなる。

 もうすぐ鳥居を過ぎる。ギルバートの歩調は急に乱れて、殊更に迷い出した。どこだ、ここかと繰り返している。根無達以外に向けられた呼びかけだった。根無は周りの空気が輪郭を帯びてゆくのを感じた。風景の人物が見かねて動き出て、歩み寄る。初めて顔や形を整えてやって来る。通り魔ではないことが根無にも判った。

 「どこだもないだろ。ここで待ってるって言ったよな。」

 「何だそんな所に居たのか。居るなら早く声をかけるが良い。」

 「全部前以て話しただろうが。そもそもこっちに気附いてたよな。」

 「それは僕の配慮というものだ。慎ましい行動を心がけているのだ。」

 相手はこれ以上取り合わなかった。ギルバートよりも話が通じる人へ歩み寄る。ギルバート以外の三人は今の状況について何の説明も受けていないのだったが。

 「根無さん、お久し振りです。」

 次に声をかけられるのは自分だと、根無は予期していた。形を捉えた相手の姿が更に確実になる。根無は眼前の人物に見覚えがある。親しい仲ではなく、言葉を交したかさえ怪しい。根無は同じことの繰り返しだと思った。

 「これは随分と突然の再会で。何が起きようとしているのか。」

 「この人が言いに来たから。その時、根無さんは居なかったけど。」

 また知らない所で話が進んでいたらしい。互にどこまで把握しているかの探り合いだった。

 「なるほど、話は最初から決っていたね。私はそれを知っていたも同然ですよ。」

 根無は姑息な理解で応対した。

 「さあ、ここで話していても仕方がない。根無君も知っているだろう、石川氏のことを。これから石川氏の家へ行くのだ。諸君も止っていないで、進むんだ。」

 石川なら根無も知っている人だった。人物には安心できるが、唐突であることに変りはない起る事態をどう捉えれば良いのか。

 「何しに行くんだ。」

 「あっちはあっち、こっちはこっちで同窓会があるのだ。僕達は両局を知る貴重な人物に成れるのだね。あるいは裏切りかも知れないが。」

 「裏切りと言うか、無関係でしょう。私ならともかく、異物そのものだ。」

 「僕がかね。まあそうだ。だが話は決っている。何も問題ない。」

 「本当にそれは無関係だね。」

 紅林の声が聞えた。今までの沈黙を破ると、緊張が漂う。皆は振返り、列の後ろで立止る紅林の姿を見た。紅林はまた押し黙っている。正面を見据えて睨んでいる。全員が紅林の言葉の続きを待っている。同時に、待つ意味がないことも解っていた。

 「帰る。」とだけ紅林は言い切った。根無は紅林の気持がよく理解できた。それにしても冷やかな緊張を味わうのは苦しい。皆が感じているべきことだった。先頭に立っていたギルバートが紅林の許へ歩み出た。

 「急ではないか。僕は止めないがね。しかし、そんなことが出来るのかね。」

 「だから帰ると、そう言ってるよね。」

 「帰りたいか。そう聞いた気がするな。それが可能かね。」

 ギルバートは、紅林の拒絶が中身のない威嚇だと決めていた。その見解はあながち間違いではなかった。紅林は離脱を宣言しながら、未だに踵を返さない。自分でも身が拘束されている自覚があった。無理に帰るとして、紅林は一直線に戻ることが出来るのだろうか。見慣れない遠い所へ来たものだ。誰が紅林を送ると言うのだろう。根無は候補となる人物を考えた。論外なのはギルバートだ。福永はきっと状況の加速を求めている。名前のない元同級生にも義理がない。いっそのこと根無自身が行けば良い。主役の退場は一瞬だけでも面白いだろう。後のことは知らない。突き放した態度をとることに魅力を感じた。問題は紅林と二人で道を引返すことだった。暗くなるだけの道の中、家へと導く。根無は型に嵌った気がして厭だった。次第に紅林の事を投げ飛ばしたくなった。一切を放任すればどうなるか見物したくなった。一方で責任も負わされていると思う。根無の抱えるものによっては、四人以上で集る必要もなかった。根無は壊す積りで、守ろうとした。

 「こんなことは何でもないんだ。居るも居ないも似たもの同士で、そのまま帰ったとしても問題はないのでね。反対に、居残ればどうなるかと言えばどうにもならないんだ。結局これは自由なのだけど、すでに何を選んでも結果は変らない処まで来ている。」

 「何が言いたいのか全然解らない。」

 根無自身も、何を言っているのか怪しかった。勢いを緩めないことしか考えていない。

 「ここまでの時間を振返って、何があるのかと言えば何もないんだってことね。今更何を足しても意味がないのではないかと思う。」

 「根無氏は正確だねえ。そういうことですよ。紅林さんは帰り給え。ここから先が迂闊に立寄って良い領域ではないことが、ようやく僕達にも分ってきたんだ。これは覚悟の問題でね。」

 ギルバートが最大の理解者となった。根無はギルバートの言ったことに同意していなかった。同意しても構わらない気もした。根無は危機に直面しているのかも知れない。帰る方が無難だった。最も覚悟がないのは自分だと根無は思った。一日を思い返せば、心に決める瞬間は一刻もない。根無に限らず、誰もが生半可だった。

 誰が合図するでもなく、それぞれの足は動き出した。ギルバートが話を聞くことに興味を失くして、歩き出したのだろうと根無には分った。不思議と離脱者は出なかった。個人の意欲に拘らず、全員が同じ紐に括られていた。誰かが歩いた方向に合せる仕組になっている。

 「部屋には、石川と俺と三田と、あと石川の姉が居るから。」

 姉の存在が根無には奇妙に思えた。石川の家なのだから姉一人が居てもおかしくない。しかし壁一枚の隔たりもない空間に居るとなると話は別だ。あるいは良い結果になるかも知れない。やはり余分だとも感じる。紅林が帰ろうとしないことが、根無には口惜しかった。

 「それだけの人数が一堂に会したら、かなりの密度になりはしないか。」

 根無は一室の光景を想像して呟いた。人に問いかける調子だったが応える者は居なかった。妙に焦って、先へ急ごうとしている。根無も穏やかではいられない。最も厳しい岐路に立たされているのは自分のはずだった。紅林の逡巡など考慮する必要もなくなる。総てが身勝手だと根無は突き放す態度になった。根無は自分自身をも突き飛ばした。

 家並が尽きようとしている。最後になって、一行は一軒へ吸い込まれた。これが石川の家だと根無は察した。石川は友人だった。夜まで遊んだ日、石川から定規を譲り受けたことを憶えている。石川が根無の定規を壊したことの弁償だった。根無は少しも恨んでいなかった。書店にて、石川の隣で同じ型の物を探していた根無は、相手に悪い気がしてならなかった。そうでなくとも、夜遅くまで外に居ることが罪深く思えた。結局、新しい定規は一度も使われず、袋に仕舞われたままだ。根無は定規を幾つも持っていた。石川と外で遊んだのは、一度きりだった。当時の根無は極めて没交渉だった。そんな自分に気附いてもいなかった。今思えば、仮にも友人だった者との交流が余りに淡白だ。

 石川の家の扉が開かれると、途端に根無は突撃した。慣れないことをするのが、今の気分に合っていた。

 「二階か。」根無は石川達の拠点を確認した。相手は頷いて、短く返辞をした。二人は階段を駆け昇った。後の者は競争に加わらない。根無はギルバートたちを意識していなかった。

 「おう、やっと来たか。」

 襲来した根無を張合いのない態度が迎えた。石川はまともに目配せもせず、根無の応えた。数年前とほとんど変らない姿で待っていた。隣に居る三田も記憶通りだった。共に階段を昇った者も、少しも時間が進んでいない。三人は卓を囲み、床に腰を下ろしている。根無の経験していない思い出が蘇ってきた。迷わず根無は空席を埋めた。

 石川達は無心に肉を焼いている。根無を派手に歓迎する様子を見せない。根無は当惑しないでもなかった。同時に石川達が根無を自然に受容れていることも感じ取れた。

 「やっぱり根無君は来るよなあ。」

 石川は根拠もなく、根無の居る光景を当然とした。事実として根無は石川達と共に卓を囲んでいる。何年も親しくしていないのに、時の隔てがなかった。

 「予見していたのか。」

 根無は訊ねた。応えたのは三田だった。問への返答ではなかった。

 「当り前だって、なあ。俺達があんな集りに来る訳ないっての。こっちから願い下げだ。根無君は仲間だよ。」

 笑みを浮べながら高声に悪態をついている。根無は攻撃の対象が何か理解していた。自分がここに居ることには何か意味が込められているはずだ。今日の根無は、自分の意思ではない、他人の用意した路を辿っている。三田の言う「あんな集り」とは、根無が宣告まで居た所に相違ない。根無は確証を得ようとした。

 「集りというのは、つまり、」言葉を切って、続ける積りはない。

 「知らないの、今日のこと。」

 石川が案外な様子で確かめた。根無は急に地位が崩れる気がした。何も知らない者がここに居る訳がない。あり得るのは侵入者ということだ。根無は無理にも調子を合せようとした。

 「いや、知ってるよ。」

 三田が杯を叩き附けて注目を集めた。

 「俺達は敗残兵みたいなものだろ。良いんだよ。詰らない思いをするよりも、こっちの方がずっとましだ。そう思うよな。」

 三田の不平は、根無が最後まで離せなかった疑念を解消するのに充分だった。根無は一瞬の緊張の兆しがくだらないものに思えた。自ら望んで石川達と会っているのではない。無知を晒したとして、非難を受ける謂れはない。冷静になると、失望される未来があるとは思えなかった。

 「別にそこまででもないけどね。石川と三田が言うから。」

 根無を室まで連れた者が、早速異分子として現れた。怨嗟を声を上げる三田とは対照を成している。

 「俺もそうだよ。でもどっちが楽しいかで言ったら、やっぱりここでしょ。」

 石川も敵に廻った。敗残兵は三田だけになった。敗残兵と言う表現は、誤用かも知れないが、心境を言い当てているとして、根無は気に入った。根無の感覚はどう言い表せるのだろう。根無は三田に近い気がした。しかし根無は既に昔の人達の姿を覗いてしまった。気附けば人を裏切っている。根無の態度はまたしても安定しない。

 「被害者の会かと思ったら、そうでもなかったようだ。」

 三田なら被害という語に共感するだろうと根無は思った。根無の実感にも迫る言葉だった。それでも根無は投げ棄てたくなった。三田とは真に意気投合できない。根無は今も無事でいる。傷があるとすれば自分で附けたものだ。古傷ははるか昔まで遡らないと、皮膚は綺麗にならなかった。総て根無が選んだことだった。根無は誰かのせいにしたくなかった。自傷にも走りたくなかった。抱える問題は自分のもので、扱いも自由にしたかった。

 「それにしても三田さんは関係があったのかというと、」根無はまた言葉を最後まで続けなかった。三田の存在は石川の家に集る理由を確定させなかった。確信できない根無にとっては、賭ける心持だった。果して根無は正しかった。

 「そうなんだよ。こいつ関係ないのに仲間外れなんだとか言ってさ。呼ばれる訳ないよな。」

 石川は根無が指摘したことを待ち構えていた。三田を指差し叫んでいる。

 「三田とはクラス離れてたからな。」

 真実を突き附けられた三田は薄く笑みを浮かべた。余裕があり、どこまでも仲間として結ばれていると信じて疑っていない。

 「石川も忘れた訳じゃないよな。田辺のこと覚えてるよなあ。」

 「別に。どうでもいい。」

 三田の追及に対して、石川は露骨に無関心を装った。

 「忘れたとは言わせないぞ。大嫌いだよ。俺はまだ良い方だよ。」

 三田の語勢は強かったが、冗談めかしたものがある。

 「一番の被害者は俺じゃないし。後藤とかの方が恨んでるんじゃない。」

 石川は表情を硬くしたままだ。本当に無関心なのか、湧き上がる感情を抑えているのか判らない。

 「田辺さんは、今も来るの。」

 根無を案内した者が口を開く。今まで黙っていたが、急に浮んだ疑問を石川に訊ねた。

 「知らん。来てるんじゃないの。いつも家に居る訳じゃないし。いや、待てよ。一回あった。結構昔のことだよ。」

 「その時は会ったの。」

 「いいや。声は聞えて、あいつかってなった。後でそうだと分ったし。向うも俺に興味なんかないし。」

 「あったらぶっ飛ばしてたなあ。」

 三田はどこまでも過激な態度でいる。

 「それはお前だろ。」

 根無は三人の話を聞いているだけだった。知らない人の話に興味がないではなかった。訊き出そうとする意欲もなく、眺めている。会話に混ざれないことに引け目を感じることは無かった。根無の関心は鉄板に向っている。豚肉が敷き詰められて焼かれている。室内が煙で充満するのを、一枚の開けられた窓が必死で逃がしていた。根無は明日この部屋がどうなるか思案した。肉には一切手を附けていない。

 取り残された根無に気附いた石川が声を掛けた。

 「根無も食べればいいじゃん。」

 「よろしいでしょうか。」

 根無はわざと恭しい態度になった。言われるまま、床に置かれた炊飯器の蓋を開ける。

 「お前等、可哀そうだろう。折角根無君が来てくれたってのに、くだらない話ばかりしやがって。」

 人を責める三田は、自分一人罪を免れた。

 「いや、どうも。勝手にお邪魔しちゃいましてね。」

 根無は更に小さくなる。

 「別に構わないから。」

 根無を連れて来た人が言う。根無は愚なことを言ったと思い、反省した。真意がどうであれ、この状況で自分が追い出されるはずがない。

 「ああ、そうか。根無って、俺等と関わりあったっけ。いや、俺とはよく一緒になっていたけどさ。」

 石川が今更の確認をする。根無が石川とは交流があったと答えるのを覚って、急いで言葉を継ぎ足す。石川は、この室に居る仲間二人を指しているのだと根無は理解した。三田という名は会話の中で出ていたから確証を得ている。もう一人のことを根無は会った当初から考えていた。やはり断ち切れずに残る記憶が浮び上るのだった。

 「高城さんだよね。」

 根無は相手に顔を向けた。もう間違いを恐れてはいなかった。幸いに三人の反応は拍子抜けする程のものだった。

 「あんまり絡みはないはず。」

 高城は正直に答えた。根無にとっては、今が最初の対面だった。

 「そうだよね。高城と根無君が居るの見たことない。」

 石川は事ある毎に機嫌良く喋る人だったと根無は思い出した。

 「三田さんともね、ほとんど話したことないのではないかな。」

 根無の記憶は正確だった。誤りがない程、手応えのない居場所になる。少しだけ窮屈に感じてきた。このまま居ても楽しいだろう。それは甲斐なきことに思えた。根無は本当は居なかったはずの場所に居る。導かれるまま歩み、帰り途を忘れそうになっている。支えがない状態だった。元から信用に値しなかった支えはどこに消えたのだろう。根無の疑念がいよいよ強くなった時、胡乱な支柱がやって来た。

 「実に面白いね、この家は。本当に面白かった。壁一枚の真相とはこういうことだろうか。これは本当のことだよ。僕は面白い家と言ったが、その興趣とは一軒の家に完結するものではない。根無信一が居てこそ初めて生起する物語があるのだ。僕が根無君と言う人間と出会って居なかったら、こんな話に巡り会う訳がなかったのだと考えると、僕は幸運だね。おい福永氏も紅林氏も、同じことなんだぞ。解っているのか。根無信一という異人なしには実現しなかったことがあるのだ。石川君と謂ったかな。僕等が入ると大変狭くなるだろう。しかし僕の熱狂が治まらない以上、仕方のない処置なのだと一つ受け留めてくれ。」

 ギルバートは扉を開けると同時にまくしたてて、食卓を囲む四人に混った。相手の許可など構わず、食器に手をかけている。石川は呆気にとられて、止めもしない。率先して環に入るギルバートの後を、福永と紅林が追う。福永は慣れない人達を前にして困惑しながら、顔は笑っている。紅林の動揺は一段と強かった。扉は閉められず、紅林はいつでも逃げられる用意をしている。福永も迷って立ち尽くしている。部屋が温まる訳がなかった。

 根無は遅れて入って来たギルバート達のことが気にならぬではなかった。しかし黙って何も訊かなかった。いつもの気紛れにしか見えなかった。仲間が居ないことで根無は困惑した。今ギルバートに縋れば、根無の困惑は一層露骨になる。ギルバートのために事を大きくする積りはない。

 「遠慮せず食べてよ。」

 石川は初めて会う人のために用意していた言葉をかけた。ギルバートは既に肉を米に乗せている通り、遠慮がない。根無は料理店を出てから、どのくらい時間が経ったか勘定した。器に盛っている分だけギルバートは意地を張っている。これだけのことが根無には考えられた。目的は解らない。

 ギルバートは石川の世辞を無視して、自分が聞きたいことを求める。

 「石川さんから見て、根無信一はどんな人間だったのか。これが聞きたくて今日ここに来たようなものだ。是非思い出話を聞かせて欲しい。」

 まともに会話が築けなかった石川は、ギルバートの問には簡単に答えた。

 「色々あるよ。ちょっと待って、思い出すから。あれは確か会ったばかりの頃だと思うけど、授業で隣の席の人同士で似顔絵を描かなきゃいけない時があったんだよ。」

 「美術の時間かね。」

 「そうじゃないのに絵を描かされたんだよ。何の授業だったかな。多分、俺等が入学したばかりで、どんな人間か分らないから、仲良くしようみたいな回だったと思う。それで互の印象とか情報を知るための一環で、相手の顔を描いたんだよ。絵と言っても小さな枠の中に描く程度のことだけどね。」

 「親睦を深め合うという具合かね。それで根無氏はどうしたんだ。」

 「全員絵が得意な訳もないし、俺も適当にやるだけだったんだよ。それで根無の方を見たら、俺のことやけにリアルに描いてて、びっくりしたよ。」

 根無なりの警戒の表れだった。相手の人柄を知らず、行動が読めなかった。総てを撥ね退けたいという鈍い衝動が、震える線になった。決して出来の良い代物ではなかった。根無は相手の反応を窺っていた。根無の婉曲な攻撃は危うい。反感を買うこともあり得た。根無は昔の自分を愚物と思いながら、今も大して変っていないことも知っている。

 「ほう、根無君は絵が巧かったのかね。」

 「そういう話は聞かないし、知らないけど、その時は巧かったんじゃない。」

 「そんなことがあるものかね。」

 「知らない。俺は見ただけだし。」

 石川はこれ以上責任を負う積りがなかった。

 「ただ輪郭をなぞるだけの作業だったんでしょう。多分はったりでしかなかったんじゃないかな。」

 根無は過去の自分を分析する。現物がないことが救いだった。

 「根無氏はなぜ石川氏を劇画調に描いたのだ。」

 ギルバートは見てもいない絵を勝手に劇画だと決め附ける。実際は弱い線が、どうにか消えずに留まっているだけのものだった。

 「訳が解らないね。急に己の実力を試したくなったんでしょう。手に職という可能性がね。あったら良いじゃない。」

 「またイデアの想起説か。これで何度目だね。しかし、根無氏の本質が当時から変っていないことは注目に値するね。石川氏もよくそんな昔のことを記憶していたものだ。」

 「まだ他にもあるよ。黒板に爪引掻き事件とかね。」

 「趣向を変えてきたな。どんな話だ。」

 授業が始る前、黒板の前に上田と石川が居た。根無は人が居ることを認めただけだった。黒板を見ていると、怖気を震うことがある。母親が机に本を置いて、紙に爪を立てることすら嫌がる根無だった。少しでも爪が動いた時の感覚が迫って来る。体内で震える感覚が充満する。根無は一刻も早く坩堝から抜け出たかった。一度根底を疑おうと、黒板の前に立つ。チョークの文字を消していた上田は、根無を奇妙に思いながら、平然としていた。根無も爪の感覚と音に耐えられていることが不思議だった。根無は長い時間、同じことを続ける積りだった。腕を掴む者が現れるまでは。音は止んだ。

 「何してるんだ。」

 石川は誰よりも冷静だった。根無は何も答えなかった。

 「改めて、それはどういう料簡だったのかね。石川君も不思議がっているではないか。」

 「ミュージック・コンクレートというものですね。ニュー・ウェーヴ精神が宿っていたんだね。そういうのに興味があったから。」

 「迷惑な話じゃないか。」

 石川はあの日の冷静な態度を取戻した。

 「根無氏の現代音楽家としての一面か。好みの分れる手法であるからね。」

 「何のことか分らない。はっきり言って興味ないし。」

 「無理のないことだ。」

 石川の無関心に、ギルバートは納得して見せた。

 「じゃあ根無、音楽室で楽譜を投げたのはどういうことだったの。」

 石川は根無が忘れていたことを畳みかける。根無は凡その見当をつける。

 「曲が気に入らなかったんでしょう。印刷に用われる藁半紙も癇に障るものでね。」

 「根無氏はポリバケツのスケルツォの方が良かったのだ。歌い出しがマイティー・クインだからね。」

 「不本意ながらね。」

 根無はギルバートの方を見ずに肯う。石川も対処の方法を心得て、気に留めない。

 「じゃあ俺の机にスープを撒いたのはどういうことだったの。」

 石川はまだ追及する。根無は記憶や思考を巡らせず答えた。

 「それは事故だ。」

 「雑巾で思い切り拭きに来たじゃないか。」

 「それくらい普通するよね。」

 「その時、奇声を上げなかったか、突然。」

 「多分、時系列が違う。」

 まだ言えることはあったが、二人は休戦を選んだ。何が有利で、または不利ということもなかった。互に求めもしない争いをしていることを知っていただけだった。相手を倒そうという気もない。歯向う気持は萎んで、静になっている。根無は友人と喧嘩の真似一つしたことのない自分に気附いた。

 「なるほど。さすが根無氏の現存する最古の友人というだけある。石川君は根無信一に関する多くのことを知っているのだね。」

 会話が終ったのなら自分がと、ギルバートは口を開いた。

 「変な話ばかりだな。」

 高城もようやく話に混った。黙っている者ばかりになるのは自然なことだった。

 「そう、変な奴だと思ったよ、根無君は。俺も会って最初の時は近寄る気しなかった。」

 「それは正しい。」

 根無は石川の警戒心に同意した。

 「それと比べると今は大分明るくなったよね。」

 根無は昔と変らない。しかし石川が別の印象を受け取ったのなら、間違いはない。根無に否定する気は起らなかった。奇妙な人の気性が豪放になれば、扱いは更に難しくなるだろうとは思ったが。石川は深くは考えていないと根無は判断した。

 「最初は怪しいと思ってたけどさ、嫌でも最低は一年間一緒に居なくちゃいけないからさ。でもそうする内に、見直すじゃないけど、こいつは仲間として悪くないんじゃないかと思える時があった訳でさ。」

 「だって、今では仲良しだもんね。」

 三田が辻褄を合せようとする。根無は、途切れた仲だと思って黙っていた。

 「和解の瞬間か。それはどんな一幕だったのだ。」

 「それが歴史に残る瞬間でね。その時俺は部活のことで馬鹿みたいに疲れていて、参ってたんだよ。教室に居たら臥せってばかりでさ。そしたら近くに根無君が居るから、色々話してくるんだよ。俺は余裕ないし、根無のこともおかしいと思ってるから、悪態ついちゃったんだよ。色々言ったけど、その中でも憶えてるのは、俺のために精神安定剤を買って寄こせっていう無理難題だったんだ。」

 「それは変じゃないか。」

 根無は様子を見ながら、一先ず疑念を挟む。

 「実に変だ。」

 ギルバートは見るからに愉快になった。

 「何ということだ。冗談では済まされないではないか。」

 「俺も当然冗談の積りで言ったのに、こいつ本気にして買って来てくれたんだよ。本当にびっくりしてさ。しばらく何も言えんかったよ。」

 「凄まじい人間が居たものだなあ。それで石川君はどう対処したのだ。」

 「お金も要らないって言うし、結局は有難く貰うしかなかったよね。」

 「そうか、それは大いなる借りを作ったことになるね。」

 「まあそういうことにはなるか。でもそれがあったから根無と仲良くできたからね。変な奴であることに変りはないにしても、凄い奴だと思えたからね。一応は俺のためを想ってやってくれたんだからさ、良い人だと思えたよね。」

 石川の述懐は一座を盛上げた。人のためと称して冗談を真に受ける振舞いは、奇矯で、人の興味を駆立てるには充分だった。

 「根無君、これは偉業に他ならないのではないかね。根無君からの視点からの見解を改めて聞きたい処だ。」

 ギルバートに肩を叩かれて、根無は夢から褪めた。根無は石川の回想を正確に聞いた積りだった。どのように答えたものか、今度は根無が考える番だった。

 「どうにも変だね。」

 「それは変に決ってるだろ。」

 石川の声が聞える。

 「しかしそれは、記憶違いではないのかね。」

 「しかし、根無氏は当時のことをよく憶えていないではないか。奇妙なことばかりしていたのだろう。一つや二つ忘れていてもおかしくないではないか。」

 「なるほど、そうかも知れない。」

 根無は石川の話と、今の事態の受け留め方が分らなかった。ギルバートは協力者で、この場全体が作為なのではないか。ギルバートが居る時点で、嘘か冗談に思える。一度疑うと、矛先は自分にも返って来る。根無の行為も冗談ばかりだった。作為に満ちていた。時には嘘もあった。自分の考えたことで塗りたくらなければ、外から来るものに圧されるばかりだ。唯一と言っても良い術は否定できない。

 「それでも、私の記憶とは違うようなんだ。」

 ギルバートは知っているはずだ。根無が成し得たことを知っている。思い返せば、根無はギルバートに直接伝えていない。本来は紅林にしか教えていないことだった。その後の伝達の模様は知らない。紅林は背後に居るはずだ。根無は振返ろうとして、出来ない。根無は石川達を向いて、切れたはずの紐帯を見ている。振返るだけで解れる糸だった。しかし実際には切れているものを大事にする理由も見附からなかった。

 「それって、俺の言ったこと疑っているのか。」

 非難の調子で石川は言う。被害者の気分だ。

 「そういう訳では。いや、やはり疑っているか。どうしてもおかしいと思う。」

 「言っておくけど、本当だからね。こんなこと忘れる訳ないだろ。同級生から薬貰うなんて誰も経験したことないよな。」

 「いかな僕でも、それはない。」

 「それはそうだろうけれどもね。」

 根無は石川とギルバートの言うことを尤もだと思う。

 「正直、幾ら疑ってくれても良いよ。俺も普通なら信じられんし。」

 石川は一瞬態度を崩した。しかし確信は少しも揺るがない。

 「良いよ、信じさせるから。ちゃんと証拠もあるから。これ見たら反論もないだろ。」

 石川は人で狭くなった部屋を通り抜けて、奥にある机に手をかけた。一番上にある抽斗を迷いなく引いた。根無は声も出ず、ただ眺めていた。ギルバートが早く出せ等と騒ぐ他は、全員無言で見守っていた。

 「ほら、これが根無から貰った薬の箱だよ。中身はないけど。余りにも普通のことじゃないから、未だに残してる。これで充分だろ。」

 石川は興奮して、小さな箱を持ち、激しく振った。

 「随分な物持ではないか。」

 ギルバートが感心していた。根無も同じことを思っている自分に気附いた。

 疑念は少しも去らなかった。怪しい処ばかりだった。根無が石川に薬を手渡したとして、それは何年も前のことになる。それ程に古い物が、今も直ぐに取出せる場所に保管されているのは異常だ。根無でもそこまで時を止めることはしない。根無達が見た箱は艶を帯びて、今も新しかった。根無にとって薬の箱は、奇妙な物ではあっても、不朽の物にはならなかった。

 石川の箱の提示は乱雑だった。投げやりで、人に見せる意思が希薄だった。根無は箱に書かれた文字を読もうとした。字の羅列は、振動によって溶けている。眼を凝らすと、パンシロンと書いているように見えた。根無は自分の努力が意味のないものに思えた。薬の名前の解読が正しいとして、根無は何も判定が下せない。石川が持っていた物が正しいのか判らない。記憶を辿っても参考にはならない。文字だけでなく、形まで崩れ去ろうとしている。

 石川は役目を果した積りで、箱を元の位置に返した。根無が更に確かめるためには、石川の許にまで歩み寄らなければならない。根無は自分に真実を追う程の意欲がないことを知っている。頼めば石川は素直に証拠を見せてくれるだろうか。多少の問答を覚悟するべきだろうか。根無は少し考えて、動かなかった。謎は消えないと解っている。石川の存在を消しても変らない。一つ不可解なことが増えただけだ。根無は混乱していた。混乱と向き合う気もしなかった。今は石川が起した行動に応える時だ。これ以上追及はしない。謎は石川のことでもあり、根無自身でもある。

 「一体、どういう、ことなんだ。」

 根無は率直な感想で応えた。意識して声を張った。型を破るかと思えた高声は、意外と室と調和している。根無は自分の言葉にリズムが生れていることに気附いた。即興で語を継ぎ足そうと、区切って発声したことが功を奏していた。余韻の中で、根無はもう一度同じ調子で声を発した。

 「一体、どういう、ことなんだ。」

 根無の声に合せて、手を叩く者が現れた。根無は音を聞いて、ギルバートだと確信した。ギルバートは根無の意図を誰よりも早く読み取っていた。根無が「どういう」と言う頃には手拍子が始っていた。根無はギルバートに眼をやった。両手を顔の辺まで上げている。まだ叩く積りだ。根無は意を決して、同じことを何度も繰り返した。

 「一体、どういう、ことなんだ。」

 根無の連呼は、部屋に居る者全員の総意となってゆく。本当は友情が絶えない者同士の集いになるはずだった。根無は自分の意志でなく、紛れ込んで来た。根無の背後には、別の仲間が控えている。面識のない人間が集り過ぎた。根無の言葉は全員に響いた。出口のない状況を破るための、余興も兼ねていた。手を叩く者は増え、声も一人だけではなくなった。いつしか斉唱になり、根無一人では止められない狂乱となった。

 根無の感情は、楽しんでいるのか困っているのか曖昧になった。自分が始めたこととはいえ、想像以上の反響だ。茫然として、救いを求める気分で後ろへ首を廻した。首を傾げて、笑いかける積りだった。

 紅林と福永が居るのは望んだ通りだった。福永は場の空気に染まっている。その笑顔は、根無よりも屈託なく、ギルバートの背中に寄り沿っている。福永の横に、紅林が居る。紅林は手拍子を打っていた。相変らず根無以上に居心地が悪そうにしている。表情を硬くして、何も面白くない顔をしている。それにも拘わらず手を叩いているのが滑稽な対照を成していた。根無は紅林の姿を認めて、大きな衝撃を受けた。驚いていると、直ぐに笑いに変じた。慌てて根無は元の向きに戻った。まだ斉唱は止まない。ギルバートは箸を指揮棒にしている。それは驚くには当らなかった。根無は既に渦に巻き込まれている。笑えて仕方がなくなった。室内の混乱は一種の暴力だった。過去のどの出来事とも肩を並べていると、今の根無は感じた。


 門を出ると見知らぬ人が立っていることがあった。その人達は狙いを定めず、出入する子供達の姿を捉えている。根無も群れの中に居る一人でしかなかった。渡されたのは、文庫本よりも背丈が足りない本だった。新約聖書の文字がある。門の人達は無償で渡し続けている。誰か一人にとって意味があれば役目が果される代物だった。

 こんな人達は前にも見たことがある、と根無は思った。家に家族が居ない日に、玄関に現れた人を思い出した。黒い服に身を包んだ人はリーフレットを差出した。根無は捨てずに、今のどこかに蔵っている。信仰心の表れはなかった。門に現れた人から手渡された物を見ても、根無の心は傾かなかった。ただ、手渡される時の「おうちに帰ってから読んで下さいね。」という言葉が記憶に残っている。その言葉も、根無に限らず全員に投げられていた。根無は人の何気ない言葉をいつまでも心に残すことがある。

 玄関の人も、門の人も、言うことは同じだった。悩む時に必要なものとして、根無達を導こうとする。根無もまた浮いては沈む人だった。沈む時に見えるものは強烈だ。根無は一度も助けを求めなかった。発想さえなかった。根無は依怙地なのかも知れなかった。あるいはまだ余裕があったのかも知れない。根無が翌日も聖書を持って門を潜ったのも、頼りたいという気持があるからではなかった。無料で分厚い本を得たのが珍しいくらいの感興しかなかった。

 根無の許に現れたのは椿村だった。根無は珍しくないことだと思って、構えた。椿村は昨日と変らない様子に見えた。椿村が次に何を言うかも予測できた。

 「この間のあれ、早速使ったよ。」

 「本当にやったんだ。」

 「友達と一緒に居たから、二人で。」

 「巻添えという感じだね。」

 椿村は薬の出所を話したのだろう。根無はやり遂げたこととして深くは考えなかった。効能は出たのかという疑問は浮んでも訊かなかった。椿村も深く語ろうとはしなかった。

 机に封筒が差出されるのが見えた。互に無言だった。封筒は小さく、何が入るにしても窮屈だった。根無は何と答えようかと、緊張が走った。

 「別に、良いんだよ。」

 「悪いだろ、そんなの。」

 「あれは勝手にやったことだから。」

 「それならこっちも勝手だよ。」

 根無は言い返せなくなった。椿村は間を与えず、迫った。

 「とりあえず受け取れ。絶対にそうしろ。それだけで良いから、な。嫌だって言うんなら捨てれば良いから。それこそ勝手だろ。どっちも勝手にやってるんだから、許す。」

 「捨てるなんて。勿体ないような。」

 「もう根無に渡したから。はい、決定。それで良いよ。」

 威勢は良かったが、逃げ腰だった。言い捨てて、反論を受附けない態度だった。直ぐに背を向ける椿村を見て、根無は更に何も言えなくなった。封筒に眼を落す。微かに柄が見える。

 声をかけようとしても無駄だった。教師が話を始めている。まだ室内は騒がしかったが、根無は混ざる気がしなかった。

 「そして、四時限目には体育館に移動して、講師として来てくださった渡辺武子先生の話を聞きます。時間になったら速やかに移動して下さい。」

 「二組みたいにならないように。」

 誰かの揶揄する声が聞えた。集会が開かれた日、一組だけ揃って姿を見せなかった。担任が予定を失念していたのが原因だった。担任は生徒を引連れて、大きな謝罪の声と共に現れた。その時も場所は体育館だった。

 「失敗はあるものです。先生も何か忘れていることがあって、皆さんが気附いていたら、本当に言って下さい。皆さんもまた、先生に頼るだけじゃ駄目なんです。」

 「一笑入魂が来たぞ。」

 また誰かが騒いだ。学級目標として作られた言葉が持出されている。行事で良い結果を出したり、夢を実現したりする。達成した暁には皆で喜び合おう。意味については誰も気に留めなかった。今日も置き去りにされている。

 「そういうことです。先生は皆さんを信じています。先日の歯科健診でも、皆さんは待っている時すごく静だったと聞きました。終って教室で待機している時も、自分で考えて読書や学習が出来ていたんでしたね。職員室でそのことを聞いて、先生は嬉しかったです。何も言われなくても、ちゃんと出来ていたのは素晴らしいです。」

 根無の意識は半ば飛んでいた。教師の声がぼんやりと入って来る。時に声が近附き、去って行った。自分のしたことが、どれ程の意味を含んでいたか、考え続けている。相手にどれ程の効果があったのか、考え続けている。いつでも根無の考えることは同じだ。この日の根無は封筒を見ながら考えていた。見ていなくても同じことだった。思考はどうしても封筒の周りを廻っていた。教室で根無は、教師から体育館へ移動することを聞いた。記憶はここで途切れている。

 大勢の人達が教室へ戻って行く。列は組まれていない。軌道のない中で、人は自然な状態に返ろうとしている。群れをよく見れば、いつもの仲間同士が合流して、束の間の歓談を歩きながらしている。根無は誰かと居ようとはしなかった。親しい人の姿も見えなかった。根無の動向は平生と変らなかった。聖書をまだ携えて歩いていることも、根無の行動としては平常だった。本には封筒が挟まっている。珍しい物が二つも揃っていることが根無の気に入った。何気なく琴線に触れると手の届く所に居て欲しかった。

 「それは習得だな。」

 「習得しかないよな。」

 「おい横山、お前は体操服着てろよ。」

 「いや着てるだろ。」

 「え、それって習得のことか。」

 「時刻は昼を過ぎているのに。」

 「靴の先方が破れていたのに。」

 「習得だな。」

 よく知る声の持主が、幾人も歩いている。根無の背後を乱暴な足取りで迫って来ている。根無と言葉を交したことがあっても、親しい間柄ではなかった。仲間同士にしか通じないことを延々と喋っている。根無は会話の成立場面に立会っていなかったから、何も解らない。ただ興味深く聞いている。

 「そんなことより横山、早く体操服着ろよ。」

 「だから着てるって。」

 「それの何が習得なんだ。」

 「時刻は夜中の前なのに。」

 根無は声だけ聞いている。無遠慮に張り上げられた声が少しずつ大きくなっている。迫る者を感じても、根無は気に留めなかった。相手も根無と同じだった。廊下を荒らして、誰の目線も気にせず通り過ぎる威力を持っている。根無の存在も無のはずだった。歩を進めた先で根無に当る訳がなかった。

 「根無さんも習得やってますか。」

 気まぐれで標的は定まった。根無に話しかけているが会話をする気はない。煙に巻きたいという愉悦が溢れていた。根無は厭な顔をしなかった。どこかで待っていた節もある。しかし仲間ではない人達に向けた適切な言葉は、根無の語彙になかった。何を返しても、素早く人の躰を通り抜けるのは確定していた。

 鈍い反応しか見せない根無に対して、相手の興味は粗略に移って行った。詰らない物でも、一瞬芽生えた関心を糧に、素手で触る。横山は根無が手にしている物に眼を留めた。根無が飽き足らず携行していた物だ。

 「根無、何持ってるの。」

 横山は根無が手にしている物を見ようとする。照準を絞らず、根無の腰の辺まで手が伸びた。迷いなく根無の手に触れ、高く掲げようとした。根無の手ごと上げても、本が離れても構わない。根無は直感で奪われると思った。返って来るのは間違いないが、いつまでも遅れることもあり得る。人の物を取上げることに抵抗を感じない人を、根無は何度も見てきた。その人達は男でも女でもあった。幾人もの影が今重なって一人の人間が出来ている。ほんの数秒間のことだった。根無は取返しのつかないことをしたと思っている。

 「これ、あれじゃん。こないだ校門で配られてた宗教の本だ」

 横山の仲間も、本を確実に捉えている。

 「何でこんな物持ってるんだよ。」

 横山は素朴な疑問を笑い飛ばした。周囲の者の空気も同じだった。

 根無の想像は一つの方向へと固まってゆく。本を無料で受取って良い訳がない。根無は人の物を盗んだのかも知れなかった。だから今、取調べを受けている。何かで償わなければならない。横山達の評議は続く。詳細な検査に入ろうとする。頁が繰られる分だけ罪がある。それは誰の罪なのだろう。現実での本はまだ開かれていなかった。しかし時間の問題で直ぐに暴かれる。まだ十秒も経っていない。根無は果てしない程に想像した。視界に椿村の姿を認めるまで。

 根無の考が巡る速度に負けないくらい、一瞬のことだった。横山が倒れている。躰の震えが、自らの意思によるものではないことは一目で分った。予期せぬ衝撃が横山の意識を奪った。廊下が混乱の渦となり、波及してゆく。悲鳴も起きない程、廊下に居る人達は緊迫感に包まれていた。横山は帰って来ないのかも知れない。最悪な予測さえ浮んだ。一刻を争う事態を前に、周囲の人は唖然として迷った。言葉にならない鈍い反応が連続する。それでも最善の路へ動こうとしている。

 根無は総てを見ていた。何が起きていたのか知っていた。信じられない光景と言うのは嘘だった。根無も眼前の騒動を予期しておらず、狼狽していた。それでいて遠い所での出来事だとも感じていた。根無は事件の中心に居る。根無は自分が今したことを思案した。

 騒ぎを聞いて、教師が急いでやって来た。近附く教師を見て、こんな顔をしていたのかと根無は新鮮な気持になった。女性の教師は若く、大柄で、少し太っていた。この教師の昔の写真を見たことがある。教師自身が持って来たのだった。制服以外は今の姿とほとんど変らなかった。白黒で現像された写真は、実際の経年よりも古めかしく見えた。

 「どうしたんですか。何があったの。」

 教師は、横山を中心に拡がる輪を認めた。誰よりも焦っているのは教師だった。生徒達を扇動していた。

 「横山君が、急にぶつかって、倒れたみたいで。」

 証言は要領を得ないものばかりだ。起きたことを目撃した者は多かった。原因を知る者はなかった。脈絡のない事故になろうとしている。粗暴という日頃の行いに収斂しようとする。

 根無が佇立している姿を、教師はようやく見出した。根無は輪の中に紛れている。根無の姿は周囲の心情から外れていた。横山の附近に居て、輪の中心に居るのが、思慮に欠けた見物客に見える。教師は根無を見て、痙攣を続ける横山について何か知っていると考えた。

 「根無君、どうしたの。どういうことなの。」

 横山は幼い顔立で、声も高かった。昔の姿は知らないが、大きな変化はないだろう。横山は嫌がっているはずだ。横山は周りの人間を震わせる、粗い仲間の一人だった。横山は活力に満ちて、少しのことでは疲労を感じない。横山は幼い子供の像にそのまま適合する。横山は無邪気な少年だった。根無は話しかけられている。教師の姿を見た。

 「そんなの、私には関係ないじゃないですか。」

 「何ですか、何かあったの。」

 「ですから、こんなこと、私には関係ないじゃないですか。」

 言い切って、根無は去った。追い縋る者が居るかも知れないと思ったが、誰も近寄らなかった。教師はまだ根無のことを気にしていた。それよりも横山の問題の方が先だった。もう一度横山の姿を認めると、他のことには構っていられない。他の生徒にとっても同じだった。根無は着実に歩み続けている。環は一歩ずつ離れてゆく。根無は追い越す人も居た。根無の存在はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

根無信一のわかれみち 欄干(小説部) @rankan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ