第八章 過去の生産(上)

 料理一つ注文するにも、根無の覚悟は決らなかった。パネルを睨んで、欲しい物を択ぶだけで済む。根無は冷酷な様式とは思わなかった。幼少の頃、ボタンを押して口頭で注文する寿司屋に入ったことがある。厨房の声は雑音と混じって鮮明でない。顔が見えない相手に、根無は慣れない声で読み上げた。根無が望む没交渉は生来の気質だった。あの寿司屋でも今では小さな画面が据え置かれている。根無は疑問さえ抱かなかった。今、イタリア料理の店に赴いて初めて新奇なものと感じた。抗議をしようとするほど、根無は文明批判者ではなかった。店まで足を踏み入れた根無を迎えた機械は、相手の思惑を受け入れる術を知らないのだ。根無は人との交流を求めていた。根無と向き合うはずだった店員は、決して友人ではない。根無は儀礼を通ることで、この場に居ることを許される積りだった。

 根無は始終当惑していた。吊り上げられて、空中に浮んでいた。浮揚の感覚は楽しいばかりではなく、落ち着かなかった。動揺することが、根無の言動に作用する。仲間と共に四人掛けの机を囲む根無は、上機嫌になっていた。不断の服装に加えて、サングラスをかけていた。根無は幼少の時から、試みに黒い眼鏡を身に着けてきた。その度に自分の顔を鏡に映して、決って後悔した。根無は自分がサングラスの似合う人だと思えたことがない。持って生れた眼玉が台無しになって滑稽に見えた。幼い顔が黒く覆われたなら、遊戯でしかない。

 根無がどう思おうと、その顔は昔の面影を残している。根無は店内で、慣れない姿を見せている。時をかけて、今の根無は相応しい風貌になっているかも知れない。根無はサングラスの似合う人になりたくはない。今も身の程知らずな人間として、ソファーに坐っている。同時に根無は、自分を取るに足らないものだと思う。

 根無の左隣にギルバートが並んでいる。ギルバートの着ているジャケットは羽織に近く、柄は綺麗にまだらになっていた。赤も緑も黄色もある。色こそ少しくすんでいた。それでも充分鮮やかだった。不自然なかつらを被って、根無の模倣に成功したと豪語した。髪型はもちろん、ギルバートの姿が全く根無に似ていないことは、誰も指摘しなかった。ギルバートは最初からその姿で現れた。根無と並べば、どちらが鮮烈に映るか、余りに明瞭だ。ギルバートは一心不乱にパネルと格闘している。根無は何気なく窓の外を見やった。陽射しは良好だ。幾ら光を見詰めても眩しくない。根無のサングラスは実用を兼ねていた。

 「諸賢よ、見給え。ピザはピザ、パスタはパスタと、分類されて配置されているのだね。実に明解ではないか。大胆なものを導入したこの店、ル・デクランとでも謂ったか、僕は拍手を送るね。」

 ギルバートは本当に手を叩いた。状況次第では店員が来るのではないかと、根無は警戒した。

 「ガーディニアという名前じゃなかったかな。」福永が訂正する。

 「どの店のメニューでも、食物の分類はされていると思うけど。」紅林も指摘を加えた。

 根無と対坐している福永は、いつもと変らない姿だった。福永が着ているジャンパーを、根無は何度も見た。陽に当るせいで、いつもより鮮やかな青になっている。根無と同じ日光に照らされている福永は、眩しそうな顔もせず、穏やかでいる。

 律儀な紅林は、ギルバートに呼ばれて来た。ギルバートの言うことなど聞き流しても失礼にはならないと根無は思う。ギルバートの協力者である紅林の真意が根無には解らなかった。冗談にしても、ここまで附き合い切れるものとは思えなかった。店への集合を聞かされた紅林は、どのような反応を見せたのだろう。あらゆる接触を拒む様子しか浮ばなかった。現に紅林は極めて涼しい顔をして坐っている。これでも紅林にとっては愉悦なのだろうかと、根無は思い巡らす。根無の観察は、総てが暗かった。

 紅林は黒い革のジャンパーを着ている。紅林の趣味ではない。変装のためと言って、ギルバートが着せたのだ。長身のギルバートに合せて作られたジャケットだった。疑う様子で着込んだ紅林を見て、根無は全くの見当違いではないと思った。三人で褒めそやすと、紅林は首を傾げるだけで、今に至る。

 四人が坐る位置は、ギルバートの一存だった。根無に与えられた席は、根無が内心で希望して譲れない位置だった。他の客に面しているのはギルバートと紅林だった。正面から姿を見せないギルバートは、それでも目立った。紅林の容貌に黒いジャケットを加えると、やはり異彩を放った。ギルバートの狙いは、ジャンパー姿という点で共通する紅林と福永を並べたかっただけではないか。根無は疑問に思った。

 「どうにも、この坐る位置については議論が分れはしないか。」

 「議論は分れるだろうね。全員を納得させることの難しさよ。君、どう思うね。本日の同窓会には、例の奥田が関与している訳だろう。根無君はここに居て居ない存在だから脇へ押しやるしかない。奥田の立場から見て、根無君を除く我々の中で最も知名度がないのは紅林君だから、一番見える位置に坐ってもらった。福永氏は変装するという気概がないから、駄目だ。そうなると、僕が背を向けて坐るしかないではないか。」

 「それにしたって不自然に見えそうだよ。第一、あの人達がどこに坐るか分ったものでない。」

 「そんなことを懸念していたのか。考えたら分りそうなものだ。同窓会は、あの座敷一帯を占めて行われるのだ。」

 座敷は畳でこそなかった。座布団で囲まれた卓が五つ連なっている。ギルバートは躰を左へ派手に曲げて座敷を示した。根無は視界が開けた気がして、得心した。

 「あれ、全部占拠されるのか。」

 「そうだ。そうするしかないだろう。」

 「よく知っているじゃないか。」

 「これくらいは基本だ。僕はこの店の人とは皆な仲間になった。皆、協力者だ。予約の段階で彼等がどこに集るか知ったし、その上でこの席を僕達の席として確定させたのだ。」

 「怪しまれはしないか。事情を話すにしたって、理由にもならないことばかりだと思うのだけど。」

 「根無君に関わる事情を打ち明ければ訳はないね。全部話すまでだ。」

 「全部話したのか。大したものだね。」

 「誠だよ。それが物事を簡単にする。」

 「あの奥田という人は、どこまで我々を知っているのか、これが測れないね。紅林さんが曲りなりにも助手になって、探偵じみていることだって聞き知っているかも知れない。」

 「奥田が我々を見たら、偵察を兼ねて打合せでもしてると思うんじゃないか。紅林さんのことだってよく知らんだろう。そして僕は根無氏に成っているから、相手を錯乱させるには充分だ。」

 「私が居るとなったら元も子もないではないの。」

 「待て、それどころではない。今のは誰だ、誰なんだ。」

 ギルバートは背もたれ越しに見える店内の模様を覗いている。根無も目線を後ろに向けた。根無と同年輩の少女が見える。店に入ったばかりで、どこかの席へと歩いている。遂にその時が来たと根無は身構えた。

 ギルバートは机に向き直り、鞄から急いで物を取り出した。

 「遂にこの時が来た。おい、緊張感をもつ処だぞ。分っているのか。そんな嬉しそうな顔をするのではない。今のは誰であるか。」

 ギルバートは、人の顔写真が列になって並ぶ厚紙を、指でなぞって確かめていた。根無は怪訝に思った。開かれたアルバムのために協力した覚えはない。

 「それはどこで入手しましたか。」

 「根無君は見たことないか。根無君が卒業した年に製本されたアルバムだ。君の言葉によれば「少年院」だから脱獄記念アルバムと謂おうか。」

 「脱獄は語弊あるね。」福永が口を挟む。

 「全員で脱獄したって良いじゃない。」紅林は擁護派だった。

 「私はそれを貸した覚えはないのですが。」

 「それあ君のではないからな。根無君のは埃にまみれてるか灰になってるかするんだろう。」

 「だから提供者は誰かという話なんですよ。」

 「正直に答えたって良いが。根無君、人のこと分らないだろう、忘却主義だろう。僕が仮に架空の名前を言ったって、根無君分らないだろう。僕は意味がないと感じるね。」

 一理あると根無は思った。誰の名前を出されても根無は知らぬ顔をする。過去の人という一点で。

 「よくそれを得ることができたね。」

 「欲しいんだと言ったら、現にこうして在る。一つの交渉術だね。」

 「また私の事実を話したんだろうね。」

 「いや話さない。このアルバムに価値があることを説くまでさ。」

 「それで貸す人間の将来が心配になるよ。」

 「ちゃんと返すと約束したから正当な手続さ。」

 「それなら問題ないがね。」根無は納得できなかった。

 アルバムを眺め廻したギルバートは、嘆息して卓を叩いた。

 「駄目だ。あの女性は誰でもないよ。」

 「今、全然別の席に居るよ。元から居た家族の一人だったみたいだね。」

 福永が代りに情報を加えた。

 「残念だ。しかし良い練習になった。」

 「私にはどうも納得できないのだけれど、」

 「何だ、まだ疑問を抱くかね。このアルバムの提供者は今の誰でもない女だ。それで充分だろう。」

 「そうだったのか。しかし仮にあの人がこのアルバムの頁に載っていたとして、特定できるのだろうか。私はそれを言いたかった。つまり、その写真は数年前のもので、少し幼い。それから顔が著しく変容していてもおかしくない。」

 「それの何が問題かね。」

 「髪型一つでも変れば別人じゃないか。」

 「同じだ。」

 「比喩としてだよ。」

 「成立しない。判るよ、見れば。そこは根無君には縁がない領域だろう。君にはない能力だろうが、大抵の人の眼は随分明晰なのだ。根無信一は思索こそ明晰かも知れないが、視力はないに等しいね。誰も判らないようにしているだろう。だから僕が奮起してここに居るのではないか。」

 「私の眼の代りになってくれるのか。それは有難い話。」根無はほとんど受け流していた。

 「根無君だって経験しているじゃないか。先日の男衆三人に囲まれた日を忘れたのか。あの鍋の日を。」ギルバートはアルバムに載っている根無の写真を指して説得を続ける。

 「根無君はこの時とは違って、髪を分けていて、外を出歩くと決って背広姿だろう。表情だって覇気があるね。まるで別人なのだろう。しかし例の男衆三人は気附いた。根無君があの三人の誰かに成って、根無信一という人間と向い合せになったら何も判らない。しかし彼等には判る。根無君、そういう点では人を見くびれないね。」

 「恐れ入った。そんなに分る話ができるとは思ってなかった。」

 根無が抱える、長年の疑問と直感が結び附いた。核心を掴んだ気がする。根無にはなく、他者にはあるもの。無為に思える程、張り巡らされているものを、根無は嫌厭していた。それが現実で、根無が超克するべきものだった。

 「とはいえ、この一座では僕の方が分が悪いね。根無氏がそうであるのは今証明したにしても、残る二人もやっつけなければならんからな。さすがに弱るよ。前の二人よ、正直に白状し給え。自分は昔の人がどんな姿形になろうと興味がないし知りたくもないと。」

 「その通りです。」福永は両手を挙げて破顔する。

 「価値がある人なら面倒見ても良いけど。」紅林も否定しなかった。

 「見たくも知りたくもありません。」福永も追随した。過激だと根無は思う。

 「あなたみたいに、いつまでも人のことが気になって仕方がない人間の方こそ異常だってことに気附かないの。疑う頭もない人は増える一方なんだから。」

 「ほら僕が不利だと言っただろう。」

 「あなたみたいな人間と居ると、いつアルバムを引抜かれるか気が気じゃない。不快でしょうがない。」

 「人の卒業アルバムが簡単に見られる訳ないだろう。盗み見るのは無礼だと思わないか。僕も厭に思うよ。」

 根無は自分が何を目的としているのか、改めて曖昧になった。見据えているものはある。それは実態はあっても、覚束ない存在だった。この場に居ても徒労に終ることが自然に思えた。約束の時刻が来ている。根無はこれから人という人を切れ目なく垣間見る。その人達は懐かしい人であるはずだった。棄てるには記憶が新しい。根無は誰に対しても格別の感情を寄せてはいなかった。根無の行路において、意味がなく不要な存在だった。助けを求められても、応える情も何もない。ここまで考えて、根無は自分を曝露したと思う。それは失態ではなくてはならない。その人達を意味のない存在にしようとする力が宿っている。執着とは根強いものだった。

 椿村にも過剰な価値を置いているのではないか。根無はまだ執着の一端を俎上に載せる。椿村こそが根無にとっての節目だった。根無がまだ残しているものに感応することができる人だった。この日になって、根無は自分の意味附けに強引なものを感じた。椿村はただ不愉快な存在だったと言うのが適当ではないか。少女達が根無に与えるのは快楽だけではなかった。総てが無邪気で一貫している。苦痛と負担に襲われることもあった。

 椿村は一貫して愉快な人ではなかった。無邪気でもなかった。椿村の気質は天性のものだったのかと根無は考える。椿村は少女達の成れの果てだった。変っていないのは根無の方だ。かつての少女達が、根無を必要としない。椿村が訴えたのは別のものだった。根無は応じようとしなかった。根無が厭でも、待ってはくれない。

 「紅林さん、その格好は動きにくいんじゃないの。」

 「あなたこそ、人の心配ができる余裕があるの。」

 余裕があるのは、紅林の身を包むジャケットだった。紅林が躰を動かす度に、革は空洞を作った。根無が声をかけても、紅林は見向きもしない。予感を覚えた根無は、福永の方に眼を向ける。好奇心の眼を遠くへ向けている。後ろを振向く根無の動作には確信が込められていた。瞬時に光景が移り変る中で、無我夢中にアルバムを閲するギルバートの残像が見えた。

 今度こそ間違いなかった。均整のない行列が押し寄せて来る。流れは溌剌としているかと思えば、緩慢な部分もあった。思い思いの行進は決められた場へと結着する。いささか味気ない居住まいは、次第に温まり、滑らかになるのだった。根無は直視して、どこにも焦点が合わなかった。

 アルバムを凝視していたギルバートは、やっと一段落ついて顔を上げた。

 「判る、判るぞ。あれ程、若い連中なら数年で人相が変ることもあり得ると危惧していたが。面影というのは、こちらから読み取るものだよ。」

 「何をそんなに昂揚することがあるの。」

 紅林は同調できない態度を見せる。

 「正念場であるからね。実際のところ、僕自身から溢れている気分ではないかも知れんよ。何か感応するものがあるらしいよ。根無君、今こそ記憶が試される時だ。こんなことで共通の認識なんて言ってられないよ。僕はこの人達のこと全然知らないのだから。」

 「随分人が居るものだねえ。」

 根無はアルバムを見て、空々しく応えた。

 「まだ呑気なことを言うようだね。ここには君だって居るんだ。煮え切らないのが好きなのか。よくある話だね。もう一回後ろを振向いたらどうなんだい。」

 根無は苦笑して一瞬だけ首を曲げた。

 「幾らか眼が覚めたんじゃないか。今日はあれを一人残らず冥土に送る日なのだろう。」

 「そんな訳が、」

 「僕が協力する。」

 「頼もしいね。」福永が感心した様子で言う。

 「とりあえず私達は仲間なんだから。安心しなさい。」

 今度は紅林も同情の言葉を寄せる。根無は呆然としたまま、気の利いた返辞を探した。

 「今、観念しなさいと言いましたか。」

 「言ってない。」

 「そうか、そう聞えたけれども。」

 「僕が代りに言ってやろうか。観念し給え。僕の特定作業はほぼ完璧だ。さあ見給え、奥の席を。一番奥の卓には誰も居ないから、その一つ手前だ。四人居るだろう。」

 最奥の卓は確かに無人だった。次の卓を占める四人の男女が見える。後ろを向く根無は、短くサングラスを眼から外した。一瞬明るくなる視界に見える人達の顔を、根無は知っていた。

 「何だか居るね。」

 「あれは誰だ。」

 「誰かって、そのアルバムを参照して、特定は完璧なんでしょう。誰であるかなんて、書かれている名前を見れば済む話だ。

 「僕に人相占いを学べと言うのか。」

 「学べば良いじゃないか。既にできそうなものだ。」

 「またイデアの想起かね。しかし僕は根無信一の経験を頼みとしているのだよ。君はあの人を見たことがあるだろう。壁と隣り合って坐っている者のことだ。知っているだろう。」

 「知ってるよ。」

 根無の態度は唐突に身軽になった。重荷を引きずり嘆いて見せるのを常に嫌う人だった。

 「あれはどんなだったね。」

 「いつも上を向いてないかと思われていたようで、それは私も同意するところだった。今だってそうではないか。さすがに違うか。きっと故郷に想いを馳せているんだろうなどと、勝手な推理を立てたものだよ。と言うことは変な奴扱いだった訳だ。あれと席が隣になっては厭だなんて言う人までいた始末だ。それに対して私は何と答えたのだろう。内心では厭でもなかったんだよ。これも自分が良き人でありたいという欲求の表れだったのかも知れないが。どうにも陰口でしかないね。」

 「何だって席が隣になってはいけないのだ、この天野という人と。」

 「つまり、器量の問題だったんだ。」

 「今と大して変ってないんだね。」

 数年前のアルバムの写真と実物を見較べて、福永が言った。根無も同意する程、容貌に変化はない。福永の評価からは底意が感じられない。観察したままの見解なのだとしても、根無は居心地が悪かった。

 「根無君にとっては問題はなかったのだろう。」

 ギルバートが確認してくる。

 「どうでもいいことじゃないの。結局席が隣になることはなかったんですけどね。」

 「人道主義なのか。」

 「そうかも知れない。」

 「善人でいたいんでしょ。」

 根無の弁解めいた回想を、紅林は逃さなかった。

 「まあ、そうだね。正しいですよ、それは。」

 「それこそどうでもいいじゃないか。さあ、その隣に坐っているのは誰だ。この人物と同じだろう。これも大して変らないね。」

 「最初は酷く暴力的な人間かと思ってね、実際そうだったんだ。丁度、机を挟んで向いに坐る人が居るだろう。あの人を何度も殴るんだ。殴られる様子を見ると冗談のようでもあるのだけど、そこそこの音が鳴りもするし、何よりも執拗なんだから、これは恐しい人が居ると思ってたんだ。すると最初の席替えであの人と隣になってしまったから、私の心境はいかがなものだったろう。ところが私には何もしてこなかったから、結局謎な人だ。むしろ面白い人だったよ。」

 「あなたは何も知らないからでしょ。」

 紅林の指摘の通りだった。

 「暴力の被害者であるところの、畑中君はどういう人間だったんだね。」

 「この人は穏かで良いよ。こういう人と今も関係が続いてないというのは、人生によるある手違いではなかろうか。一つこういうことがあってね、この畑中という人は少し長い靴下を履いていたんだ。ある時、誰かが彼のロングソックスを揶揄することを言ったんだよ。詳しい流れは忘れたけどね。畑中さんはね、愚な発言に対して一切の無視を決め込んだよ。それは正しい選択だったと思う。でも私だったらどうしていただろうなと考える訳だよ。どうせ自分も何の反応も示さずに終えるものだろうけれど、もっと良い反応があるんじゃないかと、度々思い返して考えてしまうんだ。君ならもっと長靴下が似合うはずだ、などとね。」

 「それは、労力が見合わないんじゃないかな。根無君だけ気を遣ってることになるよ。」

 福永の助言に根無は首肯した。

 「確かに私は妙に頭を働かせているようだ。」

 「そこが根無信一のロマンティシズムの表れということなのだろう。この調子だ、続け給え、畑中氏の隣に居るのは誰だ。」

 根無は馴染みのある人達に混じって温和しくしている人を見た。鮮明な影像が浮ばない。彩のない景色の中、根無は裸眼で相手の横顔を鑑定した。甲斐あって、しばらくするとにわかに飛び込む形象があった。像を結んで蘇った記憶を携えて、根無は帰って来た。

 「あれは駄目だよ。かなり詰らない人間だ。このまま謎の人物にしておくべきだった。相手の興味のことも考えずに、自分の趣味を語り続けるんだからな。辟易するにも程があるよ。よく一緒に同じ道を歩いて家に帰ったものだ。それからあれは誤字を指摘することを生き甲斐としていたようだ。こんなことは忘れていたが、かつての日記を参照することで再び明らかとなった。」

 「特に問題のある人物には見えないがね。静にしているじゃないか。」

 「そう見えて、難ありだと余計に悪人に見える、といったところか。今は毒を抜かれているのかも知れないね。」

 「根無君は日記を書いていたの。」

 「ほんの少しね。百円均一で買った日記帳で、始めの方しか埋められなかった。どうにか余白を処置できないかと思うけれど。」

 「あなたは人が不利益だと思うことでも喜んで書いてそうなものだけど、意外とそうでもないんだ。」

 「書いたって好いですがね。詰らないことは書いてると飽きてくる。昔は特にそうだったんだね。今だったらもっと賑やかで良かろうというものだ。」

 「おい、過去の一点に拘り合っている間に新しい人達が来たぞ。我々にとっては昔の人だがね。既に賑やかな登場だな。いやこれは困った、サングラスなんかかけてるじゃないか。根無君と同じではないか。」

 ギルバートが言う通り、新たな参加者が群れとなって姿を見せた。席に落ち着くのを待たず、浮れた調子を放っている。全員が混じり気のない女子の典型だった。根無は数年の経過を眼の当りにして、難問だと構えた。

 「さあ、ここからが分水嶺だ。いよいよ僕の鑑識眼が試されるね。」

 頻りに振り向いては、アルバムを見詰める。ギルバートなりの改まった態度だった。先程まで取り組んでいたのが、易しい問題だったことを物語っている。ギルバートの意欲に使命や必要を問う余地はない。根無達は黙って見守り、時に答えれば良かった。その役割に従うだけの関心が起っていた。

 「なるほど、大体判別できた。根無君、まず左側のだね、」

 「お待たせしました。ほうれん草とベーコンのバター醤油です。」

 店員の割込みに大して、福永が無言で手を挙げた。都合が悪いのはギルバートだった。

 「何と言うことだ。これは大いなる中断ですよ。障壁とはこういうことだ。」

 ギルバートの狼狽は苦情として表れ、店員に向けられた。理不尽にも親切に対応しようと、店員は身の処置に困っている。

 「そんな、そこまでのことでは、」と根無は相手を労いながら、言葉に窮した。店員以上に閉口している。

 「大丈夫ですよ。この人のことは聞かなくても良いですから。」

 福永の方が強気でいた。

 「これでお邪魔ではないですか。」

 店員はなおも遠慮して見せている。店員を擁護する声を泰然と聞いたギルバートは、おもむろにソファーの背にもたれた。

 「その通り、何も問題はありませんよ。誰か逃げるでもなし。万が一この場を離れようとする者があっても、捕えれば良いだけの話なのでね。根無君、ここは虚心坦懐に居るに限るね。あるいは意馬心猿であるかね。」

 ギルバートが弁舌を振るっている間に、給仕は済んでいた。

 「もう良いだろう。頃合いだ。さあ振向くんだ。」

 根無はギルバートと共に遠くの席を眺めた。先程店に入って迷わず進んだ一行が、一人も欠けず一つの卓を囲んでいる。店員の姿で妨げられる前に見た女子の姿を見て、根無の大抵の見当を附けていた。広がる記憶の一隅を占める人達と一致している確信があった。今、卓に落着いている人達を見て、根無は改めて難問だと思った。知っているはずの人達が根無には分らなかったのだ。あの頃とは随分変ったのだと根無は痛感するしかない。何を同情する余地があるものかと思いを打消そうとした。ギルバートは、途上で落着けずにいる根無を焚き附けた。

 「根無君、まずあのサングラスをかけたのから始めよう。分るぞ、いきなり顔が隠れてる者から始めるのは酷なことだがね。こういうのは始めから激しく進めないと頓挫が約束されるからね。まずは我が身を燃やしかかるのだ。まあ良いではないか。サングラス姿だとは、根無君と同じではないか。心通わせる仲でもなかったと僕は推察するが、今ならばサングラスというその一点において二人は同士であるよ。」

 「余りに厳しい話だ。正直、あの中で特定できるのは二人しか居ないというのが私の限界だ。」

 「そんなものかね。君は何を見てきたというのか。」

 「何も見てはいないんですよこれが。」

 「あなたは人に関心があるのかないのか分らない。」

 「ないよ。ないけど、押し寄せる情報ってものがあるでしょう。今だってそうだ。」

 「そうは言っても、誰が誰だか分らないのでは仕方がないではないか。僕からすれば、あんなのは問題ではない。総てお見通しだ。」

 「それは凄い、分析力だ。」福永は派手に感心している。

 「最初は思う処もあったが、やはり根無信一の座はそちらに譲りますよ。私では話にならないことがよく分った。」根無も降参した。

 「いや、それこそ酷なことだ。根無君は確かに根無信一としては、経験に基く、意見や判断を下すことにおいて貧弱であるかも知れんが、それもまた根無信一の択んで形成された姿なのだとすれば否定しようがないではないか。それこそ絶対的な人間なのだ。僕はこの通り見事なまでに根無信一に擬態しているのだが、惜しいことに経験が欠落している。それを補完するため僕は根無信一論に取り組んでいるのだ。あらゆる思索や調査が必要になる。こうした探究の中、僕はこの場にて、遠く席を見据えて、骨相学的見地によってこの難局を切抜けようとしているのだ。骨相学の中興の祖となる僕が背負うものは重い。だから根無君は自分を責めず、安心しているが良い。」

 「そうか、そう言われると、自信を取り戻すことができるよ。後向きになるのは良くないね。」

 「それで、あのサングラスの人物は誰だと思う。」

 「いや、だから分らない。」

 「あれは今西と謂うのだ。アルバムの写真と比較し給え。輪郭、鼻や口、これらを誤魔化すことはできない。」

 写真の人を眺めて、根無は形も色も崩れて漂う記憶を思い起した。曖昧になった者が再び人の形をして、一座に紛れていることを突き付けられても驚かなかった。居て当然の人が見えるまでのことだった。根拠を探る程でもない推量は、今西という人物を特定することで果された。それでも根無は、正体なく形にした想像を確証に替えなかった。今西の姿を見ても手応えがない。記憶が擦り切れたのか、元来から執着が弱かったのか。望まなくとも顔を合せた一年間が長かったのか、根無には計れない。残酷な時の流れと言うには、眼に映る人に向ける感動が足りなかった。今西がまったくの別人だと後に告げられても、根無は傷付かないだろう。この日根無は、幾度も同じ心境に立った。

 「あれが今西か。」

 根無は関心がない様子になった。

 「よく分るね。」

 福永はギルバートの観察を簡単に評価した。

 「完全に顔が隠れている訳じゃないし、よく見れば直ぐに分るんじゃないの。意欲があればの話だけど。」

 紅林は今西にもギルバートの眼にも感動しなかった。紅林が求めたとしても、人を見分けることはできないのではないかと根無は疑っていた。不可能が諦念に変れば、何も欲しくない気分になるのだろうとまで考えた。

 「今西はどんなものだったんだ。」

 ギルバートに問われて、根無は自分の持っている情報が少いことに気附いた。どうにか残っているものは、取留めがないものに思えた。

 「食後に直ぐ歯を磨く人だったよ。」

 「それは流しでするのかね。」

 「いや、席に戻ってね。私なんかはまだ食べてるよ。」

 「どうも厭なのだけど。」

 紅林は眼を細めた。

 「そうか、厭ものか。」

 福永も気附いて納得している。

 「でも口を閉じたままするんだ。私にはそれが新鮮で今も憶えてる。でも実際歯磨は口を開けないものなのかな。どうなんでしょう。」

 「関係ない。やっぱり厭なだけ。」

 根無の疑問を飛ばして、紅林は不快を露わにした。

 「人々の生活はよく衝突するものだ。面白い問題提起だが、今はその是非について語る余裕がない。根無君、他にあるか。」

 「あるよ。社会の教師にね、中山という厳格に洒落を混ぜた人が居たんだけど、この人が今西さんの何か私物を没収したんだ。不適切な物を持ち込んだことが露見したのは確かでも、中山先生は特に怒る風でもなかった。今西さんが抗弁しても勢いをかわして、まるで相手にしない。そうかと思うと、わざわざ今西さんに近附いて相手の非を可笑しく咎めもする。何だか分らない。」

 「本当に何だね、その話は。穴埋めの問題でも解かせようと言うのか。一体、今西の何が没収されたのだ。」

 「それは本人に訊いた覚えがあるが、答えてくれなかったか、私が忘れたかで、謎だ。」

 「謎だよ。今に始ったことでないが、こんな断片を聞いてどうすれば良いのか。」

 ギルバートはひたすら困り呆れた。しかし直ぐに気を変えた。

 「とは言え面白いことかも知れんね。謎だよ、やはり。これは解かねばならないのではないか。僕には隠れたる事実があるように思えてならないのだが、どう思う。」

 「真相があったりなかったりだ。とにかく今西さんは困惑して、どこか必死のようでもあったよ。」

 「今度は探偵かな。どんな推理になるのやら。」

 「推理と言って、ただの妄想なんでしょう。」

 続きを聞きたがる福永に対して、紅林はまだ不興で居る。

 「あれだね、安楽椅子探偵というやつだね。」

 福永は紅林の異見に負けていない。ギルバートにとっては、誰の発言が力を持っても関係のないことだ。

 「好きなように受け取ってくれ。僕は思索を続けるのみだ。僕の探究のどこからどこまでが妄想かなんて、今は問題ではないし、誰が審級をしてくれると言うのか。」

 もう誰も答えなかった。ギルバートにとっては尚更関係ないことだ。

 「根無君、今西という人は近視かね。」

 「それと確かめたことはないね。常に裸眼でしたよ。」

 「そうだろう。僕はあのサングラス姿を見て、ふざけていると思ったのだがね、」

 「ふざけてるだろうね。」根無は敢えて口を挟む。ギルバートが次に何を言うか知っている。

 サングラス越しに見詰めてくる根無を見て、ギルバートは口角を上げた。

 「おふざけも入っているだろうが、それはカモフラージュで、あの眼鏡には度が入っているのではないか。」

 「やっぱり妄想だった。」

 「ああいう人が自分の視力をサングラスに頼るかは分らないけど、近視自体はあり得るんじゃないかな。」

 「不断にサングラスで行住坐臥を送っているのなら感心ではないか。僕もそこまで主張する積りはない。今日の今西氏は純粋にパーティーの感覚でサングラスをかけているとするのが妥当だろう。しかしレンズ越しにある眼は果して裸眼だろうか。もしかしたら薄い膜が取附けられているかも知れない。」

 「なんでそこまで人の眼球を気にしてるの。」

 「紅林さん、なかなか進行が上手ですね。」

 福永が紅林の態度に解釈を加える。

 「そんなことないから。まずどういう意味なの。」

 「思う壺だと福永君は言いたいのだろう。実際、有難い存在だ。根無君も長考してないで、僕の劇場に参加し給え。今更今西梨沙の眼球事情を思い返そうとしたって無駄というものだ。僕が確かめたいのは、あの中に当時眼鏡をかけていた者が居るだろうということだ。」

 「そう言われても誰か判らない人が居るからね。」

 「まだ当てはめができてないのかね。本当に同じ空間で息をしてたのか疑うね。このままでは一向に進まないから一挙に教えよう。」

 根無はギルバートによる完璧な照合を受けた。遠景と写真を見比べる。教わる前から判る人も居る。まったくの別人も居た。否定できる材料を持たない根無は、首肯するしかなかった。

 「だったら、この上田千穂と間宮悠花ですよ。見れば判るでしょう。」

 「この二人の眼鏡には度が入っていたかね。」

 「眼鏡を奪ったことがないので本当の証拠はないけれど、お洒落でやってたのでもないと思うよ。特に上田さんからは黒板に書かれてた文字が何であるか尋ねられたことがある。」

 「そうか、そうだろうな。ちゃんと実用的な眼鏡だ。ところで、彼女達に順位は付いているのかね。」

 「順位」が指し示すものが分らず、根無はしばらく固まった。ギルバートの補足によって、容貌の競争だと解った。仲間の一人が作った序列を誰も拒否しなかったことを思い出す。。児戯同然の通説が、ギルバートという蚊帳の外の存在によって復活している。根無は気味が悪くなり、直ぐに解きほぐれた。少し前に、紅林に語ったことがある。

 「はあ、恐しい伝達が為されているのだね。確かにそんな順位があったものだよ。」

 「記憶しているのかね。」

 「大体はね。しかし怪しいものだな。実際どうであったか、」

 根無はアルバムに眼を向けた。遠くに居る人達を見遣るよりも確実だったからだ。

 「一位は高橋という人だ。二位が上田ね。三位が例の今西でしょう。四位は間宮悠花だったかな。ちょっと自分でも疑うね。違うかも知れない。五位は吉川だったりするのかな。ここから七位までは選ばれていたはずだけど、いよいよもって記憶が定かでないです。」

 根無は記憶の軟化を強調した。しかし内心で、自分の言った順番が正確だという確信があった。不本意な暗記をしていると、根無は自信を深めなかった。

 「そこまで憶えているなら充分だ。一つの指標として有効であるね。今出た名前の持主はちゃんとあの席に勢揃いしている。これは偶然ではないよ。」

 「変な話だね。そんな順位が大っぴらに出廻ってたなんて。根無君でも聞き知っているんだから、相当のものだよ。」

 「ただの仲間内の褒め合いなんでしょ。少しばかり声が大き過ぎたようだけど。」

 「紅林さんの仰る通りだ。内輪の余興というものだ。だが何の意味もなしにこんなことはやらないだろう。自分の地位を誇示しようという欲があるのだし、それを周囲に容認させる権力が現にあることも表していたのだよ。自信というものだ。他の者に聞えるように仕向けているのだよ、紅林さん。経験がありはしないか。」

 「興味関心をこっちに向けないでくれる。」

 「当面の問題と対峙しろという忠言だね。僕も脱線が過ぎるようだとは、例の北海道事件以来の指摘だ。」

 「だから何だよそれは。」根無は以前から抱いていた疑問を投げる。

 「これこそ脱線という悪癖だ。根無君、その順位の銓衡せんこうを務めたのは誰なんだ。」

 「この間宮悠花だ。」

 この答にも間違いはなかった。

 「四位の人だね。」

 福永は事実を簡潔に拾い上げた。

 「よく自分を四位に持ち上げる。」

 紅林の絶句には、相手の虚栄心を突こうという意志が見えた。愉快に声を立てたのは福永だった。

 「でも良いことじゃないかな。素晴らしいよ。そう思う。」

 皮肉には聞えなかった。少くとも紅林程の悪意は籠っていない。

 「結構なことだ。」

 根無も福永に同意した。人の軽佻浮薄を謗る気には当時からなれなかった。自分には出来ないことをする人には相応の尊重を以て眺めるのが常だった。

 「実に結構なことだ。何か承服しかねる点でもあるのかね。紅林さんの位置からならばよく見えるだろう。あれが四位の実績を持つ人だ。」

 「過去のことだけどね。」

 福永がギルバートの言葉に附け加える。紅林は促された通り、間宮の居る場所を一瞥した。根無の坐る位置からでも姿は見えた。間宮は最奥の席に坐り、顔を見せている。間宮こそ最大の難問だった。別人になっている。一層磨かれた玉に魅了された訳ではない。ただ根無は著しい変貌に感心するのだった。紅林に至っては、率直な賞賛を送るはずがない。

 「あれがねえ。」

 「あれがとは何だ。まったく、これだよ。恵まれた者はこうも無慈悲だ。嫌われても文句言えないね。」

 ギルバートは間宮の代りに憤った。

 「それこそ結構なものです。」

 紅林も引下がるはずがない。

 「これこそ実績というものだろう。実際のところ、間宮悠花の真価など何でも良いのだ。曲りなりにも四位の座に居たという歴史的事実で充分だ。肝心なのは順番ですよ。僕が着目している今西という人物は、間宮よりも一段高い地位に在った。これは今西の背後に間宮が控えているとも換言できる。そしてこのランクを制定したのは、他ならぬ間宮自身なのだ。これにはきっと意味がある。」

 「何か意志でも働いているのだろうね。」

 根無は前に乗り出して応えた。熱心になる程の興味が実際にあるのか、自分でも分らない。

 「そうなんだよ。意志だ。無論、志の方だよ。何事においても序列があるものでね。判然と決ることもあれば、誰も率先してやりたがらないが意識せざるを得ない競争もある。今回の件は本来は後者だった。」

 「しかし間宮さんは敢えて確定させた。」

 「それが面白いではないか。確かにこの順位には冗談も込められているだろう。紅林さんが指摘するように、自分をそれなりに高い位置にすることの自惚れだとかね。」

 いつの間にかギルバートは、根無が言った順番を紙ナプキンに認めている。本来の用途とは違う仕打ちをされ、書き込まれた字は端正だった。

 「それでもこれは本気で作られたものだと僕は思うね。当時の根無君達が否応なしに了解していた通念を、正確に反映させているのではないか。僕達にはもう解らないよ。第一、時はこんなに経ったのだ。」

 「語るに値しない俗説だという意見は聞かなかったね。かなりまともに受容れられていたのではないか。四位の件だって、お笑いになることはあっても、結局は定説になったと言って良い。」

 「四位とはしかし微妙な位置だよ。人間には絶対に勝てない存在というのが必ず居るのだ。他を圧倒する一位が居る時、人は簡単に跪くのだ。逆らうだけ自分が下劣になる気がするからね。あっさり負けを認めておだてる方が、却って自分の価値を上げた気になる。」

 「そこで食い下がれば、一つの美学になりそうだものだけれどね。」

 「ところでそうはしない。そこがこの順位の、冗談と本気が入り混じる所以なのだ。自分が一位だと言い張れば本当の冗談だ。間宮は負けを認める時は潔い。一位に対して手放しで負ける。二位にも笑顔で負けた。三位を譲る気概だってある。」

 「器の広さが試されるね。」

 「試した結果、三位までは許せたのだね。怪しいものだ。一位と四位の距離とはどんなものだろう。二位と四位とは果して、」

 「そんなもの考えたって解る訳ないじゃない。」

 ギルバートの計測は、紅林の正当な指摘で打切られた。

 「さすがの僕でも解らない。しかしある程度の懸隔がなければ順位は出せない。一位と四位の距離は、二位と四位の距離よりも広いはずだ。二位と四位の距離は、三位と四位の距離よりも広くなければならない。すると三位と四位の距離は、一位と四位の距離よりも、二位と三位の距離よりも縮んでいるはずだ。」

「まずその説明を短縮することはできなかったの。」

「とても丁寧で、分りやすいよ。」

 福永は解説の欠点を訴えることなく理解した。

 「冗長なんじゃないの。」

 省略も置き換えもないことが、一部では不評だった。

 「今後の課題としよう。とにかく三位と四位は少しばかりの差しかないということが理解できれば、今日は問題がないのだからね。」

 「つまり今西さんと間宮さんは僅差で順番が決っているということですね。」

 「そこなんだ。どれ程の間隔かは知らないよ。この際、重要な論点でもない。ただ何を以て二人は同格にならなかったのかという具体的な原因は考えても良いと思うね。」

 「何だろう。」福永は答を委ねる。

 「もしかして。」根無は特に何も思い附かずに直感を表明した。ギルバートは討論を求めていない。話の流れが滑らかであれば、すかさずもぎ取る手口だった。

 「そうだ、眼鏡だったんだ。これに違いない。日頃、顔を合せる生活における眼鏡の有無が、二人の勝敗を決めたのだ。」

 ギルバートの声は鋭かった。謎を強く突き刺す。手応えは周囲の者の実感となって表れるはずだ。根無達は黙り、ギルバートが打突けたものを謎に照らした。うまく溶け込むか、拒否反応を起すか、次第に明瞭となる。手続は一瞬でも、根無達は待った。結果はいつまでも出ない。ギルバートの推理は間違っているのだろうか。潔く否定できる程、腑に落ちないことでもない。強く支持できる説とも思えなかった。

 福永の理解は誰よりも早かった。ギルバートに応えようという意欲のためだった。

 「つまり、眼鏡をかけていれば、それだけ減点ということだね。そうでもない気はするけど、そういうものなのだろうね。」

 「僕にも思う処はあるが、そういうものに相違ない。現に彼女達を見よ。一人として眼鏡を身に着ける者はない。」

 根無にもようやく全貌が掴めた。最初から話を聞いていないのは自分だけという気がする。自分一人が出遅れた状況を糊塗する積りで、根無は威勢よく喋った。

 「眼鏡の有無が決め手となって無罪放免になった話のようだね。しかし、この人達にも意図して眼鏡をかけることがあったんじゃないのかな。お洒落のためにとか、色々あるでしょう。」

 「そんな積りがなかったとは言わない。しかし近視とは身躰的欠陥、とまでは今の時代、行かないにしても不可逆的なハンディーキャップだったということだ。これは僕が主張するのではない。彼女達を分析したまでだ。」

 「いつになく逃げ腰だね。」

 紅林の指摘をギルバートがどう受取ったか、本人以外分らない。

 「根無君はファッションとしての眼鏡の存在と意味を忘れなかった。彼女達も知っていただろう。しかし彼女達が得意とするのは忘れたフリをすることだ。あの人達にとって価値とは自由自在で、いつでも無になる危うさがあるのだ。」

 「つまり裸眼至上主義だったのか。」

 根無が話をまとめた。

 「そこで例の順位は作られた。一位はやはり高橋氏で、写真を見れば分る通り眼鏡なんかかけちゃいない。これが日頃の姿だったのだろう。」

 「いつもこうだったね。実際はどうだったか、本当のことは知りませんが。」

 「本当のことね。根無君の言ったことこそ、この件の核心ですよ。続いて二位の上田氏は、写真では分らないが、かつては眼鏡をかけていたことが根無君の証言で明らかとなっている。」

 「これでは眼鏡理論が怪しくなりませんか。」

 福永は急所を突こうとした。ギルバートなら話を覆せることを知っての発言だった。

 「とはいえ上田氏には支持があったからね。あらゆる懸想、艶書が上田氏を巡って交されていたことが物語られている。」

 「どうしてそんなことをあなたが知ってるの。」

 紅林の指摘は虚空へ消えるだけだった。

 「実績があっての二位だったのだ。順番に反映する上で、これ程に強固な事実はないだろう。中には根無氏のように、長い時を偶然に上田氏と共にしながら、遂に態度を決めなかった奇特な人が居たことも忘れてはならない。」

 「根無さんが軟弱者だと言いたいのですか。」

 「実際そうなんじゃないの。」

 「いや、むしろ軟弱の逆だね。動じない者とは根無君のことを指すのだ。」

 「私としては特に何も考えてなかったのだけどね。」

 「それが根無氏の強い処なのだ。僕の論旨の通りだろう。ここに真実の非凡でありながら、遂に非凡のまま全うしようと、」

 ギルバートが突如高声で暗誦を始めたので、根無は慌てて制止した。向うの人達の存在を忘れてはいない。

 「上田さんの方でも私にどうこう言うことはなかったのでね。ないならない、それだけ。」

 「そこが軟弱なんじゃないの。」

 「そうかも知れない。」

 根無は否定しなかった。

 「思い上がりだったりして。」

 福永は小さく呟いて、矛先を明確にしなかった。

 「論争はその辺にして、僕等が追究しなくてはならないことを忘れてはいけない。まだ三位と四位という問題が残っているのだから。何を以って間宮氏は今西氏に三番目の座を譲ったのか。それは謙遜ではない。それならこんな序列を作って、自分を忍び込ませはしない。皆さんにはお分りでしょう、僕の言おうとすることが。三位と四位に分れる差の正体が。」

 「また眼鏡なんでしょ。もう私は聞き飽きてきた。」

 「ところがこれからも執拗に扱わなければならない。紅林さんは当分耐えてもらうしかない。正しく眼鏡の有無が今西を三位に、順位の銓衡者である間宮を四位にした。」

 「一度正体掴むと、至って平凡な気がするね。」

 「くだらない結論と言いたいくらい。本当に眼鏡一つで話が変ってくるものなの。」

 「議論は大いに結構だがね。まずは僕の話を聞こうではないか。」

 ギルバートの推論は続いた。間宮は日頃身に着けているものが不利となって、今西に負けた。間宮自身が認めて、勝敗は決められた。間宮には底意があった。今西の背に控えていることは一種の挑発だった。隠されていることを暴かず肉薄する陰険な方法だった。

 ある日、今西は黒いレンズで目元を覆って現れた。それは仲間内だけで明かされた秘密だった。誰もが不要物と見ることで意味を発揮していた。浮れた人物の像が、人の眼に映り拡がった。密やかな積りでも、いつしか騒がしくなっていた。秘密の騒動は今までにもあった。大抵は露見することなく片附けられた。しかし時には不手際があった。不運にも今西がその役に当った。

 「中山先生の人柄を鑑みるに、没収したサングラスを持主の前でかけて見せるくらいのことはするだろうね。そうなると二重に事実が暴かれる訳だが、今西の心境はどんなだったろうね。」

 ギルバートの主張の要は、今西も眼鏡をかけていたということだった。今西は素顔のまま隠そうとした。最初は小さな理由や気分で誤魔化したものが、やがて大きな意志となった。周囲の誰もが今西の視力を知らないはずだった。例外は間宮だった。

 「質問です。どうして間宮様は知っていたのですか。」福永が手を挙げた。

 「仲が良いからだ。今だって、ああして近い距離で卓を囲んでいるだろう。近くで見ていれば、その人の仕草や癖で察する処がある。相応の観察眼があれば、どこまでも見透せる。果ては妄想になってもね。」

 間宮は今西の近眼を知っていた。間宮は押し黙りながら、動かずにはいられなかった。間宮が作った容貌の序列に潜む底意は、今西を狙っていた。真実を知らないふりをして忘れなかった。相手に座を譲り、傍で控えて待っていた。やがて来る好機を願う程でなくとも、頭のどこかで思い描いていた。意識に上らせ熱心になるのは、自分の格を下げるだけだと思った。せめぎ合いは静に燃えていた。絶えることのない野望が叶ったのか、遂に変化が起った。今西がサングラスを手にしているのを見附けたのだ。間宮はレンズの度数を知っていた。

 「これが観察眼のある人の妄想だよね。なんでそんなことが分るって言うの。ただ黒いだけでしょう。」紅林が話を止めた。

 「仲が良いからだ。今西が突如持参して来たサングラスも、初めて見た物ではなかったのだ。互の家を往還することもあったのだ。今西の部屋で間宮は見附けたのだろう。部屋に入った瞬間に眼に附いた程だろうね。歓談をしようと何かの娯楽を共有しようと、常にサングラスに見詰められる気分になったのだね。ある時、部屋の主がちょっとしたことで退室したものだから、今西の衝動は頂点に達した。つまり手が出たのだ。僕だって確かめずには居られんよ。元から直感があったのが、確信に変っただろうね。果してそれは真だったのだ。」

 今西は油断していた。サングラスを一瞬でも間宮に見せた時点で手遅れだった。今西の過ちは、いつのことか思い出せない昔に遡ろうとした。自分の部屋を自然にし過ぎたという当然のことも含まれる。間宮という客は、ただの友人ではなく批評者だった。客が間宮でなくとも、誰もが批評をすることができたかも知れない。間宮が他の批評家と異なるのは、策略家でもあることだった。時をかけて、今西の失敗は間宮の中で連関を起し、鳴り響いていた。今西は最初から何も気附かずにいた。気附くことの恐怖は今西だけではない。

 朝、今西は間宮に会う前から心に決めていた。騒がしくなる心と対照で、言葉は少かった。声をかける間宮に向ってもまだ静だった。表情だけは企んで笑っていた。相手を驚かせるのに、鞄から取出す必要はなかった。鞄は口を開けて、暗い中身を相手に覗かせるだけで良かった。今西の期待以上に、間宮の眼には輝いて見えたのだから。間宮は即座に飛び附いた。無邪気な態度は既に自然ではなかった。

 「何かあるし。ねえ見せて、見せて。ほら、先生に見せなさい。持って来てるの知ってるんですからね。」

 笑うばかりの相手に向けて、間宮はわざと叱る調子で迫った。今西は観念した。それでも鞄へ瞬時に戻せる位置までサングラスを取出すだけだった。

 「ちょっと貸してよ。」

 「駄目、駄目。」

 「なんで、いいじゃん。」

 「お前には似合わないから。」

 「それは滅茶苦茶悪口。はあ、もう無理なんだけど。」

 「ごめんって嘘だから、冗談。本当は世界一に合うって知ってるよ。」

 「本当に。じゃあ貸してよ。」

 「やっぱり似合わないかも。」

 二人は率直に友人と言える関係を築いていった。今西が握り締めて守っていた物は、鞄に仕舞われた。間宮は総て見て知っていた。

 「そんなに言うなら、そっちはとってもお似合いなんでしょうね。さぞお似合いなんでしょうね。」

 「まあね。本当、ごめんなさいね。」

 「じゃあさ、教室に入る時にさ、それ着けてよ。それ披露しなよ。」

 「いやいやいや。どうしようね。」

 「だって似合うんでしょ。見せないのはもったいないよ。」

 今西はサングラスを忍ばせて登校していた。純真な背徳だった。不要物を間宮に見せてから、駆け引きは始った。二人が結ぼうとする協定は罪を利用した遊戯だった。臆病になっては負けになる。間宮は楽な立場で相手を責めた。今西は相手の思う壺にはまることを知りながら楽しんでいた。

 「しょうがないなあ。ちょっとだけね。」

 「はい言ったね。約束だから。」

 「はあい。約束約束。」

 「これが運の尽きだったのだ。後の展開は諸賢もご存知の通りだ。」

 「うわあ急に入って来て話を止めるんじゃない。」

 ギルバートによる詳細な描写が中断して、根無達は呆気に取られた。話半分で聞く積りで、気附けば没入していた。

 「でも、ちょっとほっとしているよ。二人の台詞まで再現された時は遂に行く処まで行ったなと思ったからね。」

 福永は安心して言った。

 「妄想もここまで来ると凄いと思った。もうこれが真相でも良いんじゃない。」

 紅林はいよいよギルバートの説を肯定した。本当に感心した顔附で考え込んでいる。

 「君達にも見えてきたのだね。あの日の映像が。良い傾向だ。」

 飲食店にて料理を前にしていた四人の基盤は崩れつつある。最初から存在しなかったことになっている。後はギルバートの導きに沿って猛進するのみだ。

 「ただ気になる点がないではないよ。それは、なぜサングラスを持参して来たのかという根本の謎であってね。」

 根無は先刻から説明を待っていた。サングラスが自然と芽生える物でない以上、ギルバートの話は無理な理屈になる。

 福永も同調して、別の疑問をぶつけた。

 「不思議な話ではあるよね。そもそも間宮さんは今西さんに対抗心を燃やしていることが前提になっているよね。でも二人は仲良しでもある。矛盾なんじゃないかな。何か原因がないと納得できないな。」

 「さすが鋭いね。僕も妙だと思っていたのだ。」

 「あなたがそんなこと言って良いの。」

 怪訝に話を聞いていた紅林は、少し穏やかでいた。根無や福永よりも早く抗議するのがいつもの姿だった。

 「しかし紅林さん程の人なら、女の友情など薄氷も同然、常に矛盾を抱えているものだと看破しそうなものではないか。」

 「あなたは私ではないのだけど、それとは別に、それは当然のことでしょ。だけど折角そこまで話しておいて友情とはそんなものだで納得させるなんて、少し乱暴だと思う。あなたならもっと具体的に語るものだと思ってた。」

 「おっと、紅林さんは僕ではないので、そこは注意していただきたい。それはそれとしてそれはその通りだ。僕はもう少し先まで探究しなければならない。」

 「分ったから、結局あの二人の間に何があったの。」

 「安心し給え。ちゃんと用意はしている。こういう時は一人の人物が登場すれば、話は簡単になる。」

 「また誰か出てくるのか。私の知っている人なのか。」

 「知っているのではないか。何しろ現場に居合せた者なのだからな。しかし根無君のことだから怪しいがね。」

 「それは私もそう思う。」

 「この人が知ってても知らなくてもどっちでも良いから、続けて。」

 紅林の催促を妨害するのは根無だった。

 「違った。君は私ではないのだから、そうとは限らないがそれはそれとしてその点については私もそのように思う。」

 「黙ってなさい。どうでもいいから、早く誰なのか発表して。」

 紅林の左腕が伸びて、根無の左手首を叩いた。根無は二度も叩かれた。眼前の暴力に対してギルバートはけたたましく笑った。

 「では邪魔者は葬られたということで今の内に発表しよう。最初に言っておくが、僕は特定の名前を挙げることはしない。そんなことは現時点では判らないし、不明であっても差し支えないからだ。存在さえ明らかであれば良い。ひとまずその人物の名をマイティー・クインとしよう。」

 根無は別の種類の打撃を受けた。

 「マイティー・クインって何のこと。」

 福永にとっては当然の疑問だった。紅林も同様だ。

 「根無君なら知ってるだろう。」

 「知ってるも何も、」

 「根無君、教えて下さい。」

 「地下室の手記みたいなものです。」

 「ドストエフスキーだっけ。そんなものがあるんだ。」

 「ドストエフスキーではないがね、似たようなものだろう。しぶとく生き永らえた者の詩であるよ。あんまり根無氏が暗誦するから僕まで覚えてしまった。」

 「よく分らないけど、まあいいや。どんな人なの。」

 「とにかく何かで優位に立てる能力がある。何でも良い。足が速いとか、歌が上手いとか、何かの行事で人一倍の貢献をしたとか、そういう能力を隠さず見せ附けるのだ。その上で、自信を持った態度で居れば、自ずと人は寄って来る。」

 「単純な話だね。」

 「単純過ぎやしないか。」

 「人の行動はそんなものだね。勝者には群がるのだ。歴史とはそういうものでもある。」

 「それにしても単純だ。安直だよ。」

 根無はまだ納得できない。

 「ここまで話を聞くと、今西さんがサングラスを持込んだのも、原因はマイティー・クインさんにあるということになるね。かなり都合の良い人物みたいだ。」

 福永は賛同はせずとも、内容は掴めていた。

 「都合が良いのだ。正確にはマイティー・クイン自身よりも、周りの者に問題があるのだね。優れていると認める存在には人が求めて寄り附く。求めている人を見た者は、同じものを求めようとする。こうして人は大挙する。誰かが欲しいと思ったものは皆な欲しがるのだ。これは僕が勝手に言うのではない。そういうものなのだ。」

 「私は誰も欲しくないものを求めていた気がするな。」

 「それも一つの手段ではないか。裏返しなのだよ。根無君のような人が居るからこそ僕の言ったことは確かになるのだ。」

 「それであの二人は、何とか謂う人のことでどうなったの。それを早く聞きたいのだけど。」また紅林が促す。

 今西はマイティー・クインとの約束があった。何らかの娯楽のためだった。目的地では遠くを眺める必要があった。いつもの誤魔化しはこの日に限って使えなかった。幾つかの矯正の手段を失くしていたのだ。今西に残されたほうさくはサングラスのみだった。黒いレンズに包まれた今西の眼元は異様だった。今西は自分の姿を冗談だと主張した。間宮は異変を前にして、それが窮余の策に過ぎないことを見抜いた。後は策略を用いるだけだった。

 根無達はギルバートによる過去の再現を聴き続けた。根無はギルバートの話が真実だと断定する気にはなれなかった。都合の良い話の展開という感想を最後まで捨てられなかった。それ以前に、過去を探って発見したものを信じたいという意欲に欠けていた。既に抱えている思い出だけで息が詰りそうになる。改めて自分がこの場所に居る必要のない人間だという思いに至った。曲りなりにもこの場で存在することが間違いだと思えた。大きな流れから外れて闊歩する人間でありたかった。今の自分の歩みが誤りであるなら、今の状況は大きな流れの中なのか。根無には図りかねた。ギルバートと共に居ることが凡庸だとは思えない。大きな流れではある。しかし異様な流れだった。根無の意思に関係なく、ギルバートによる回想は進む。

 「それから先のことは、既に説明したね。間宮の奸計に乗った今西は、不運にも罪をまとめて被ることになった。いっそ総て打明けてしまおうとは思わなかった。事態があたう限り平穏に終ることを望んでいた。幸い、周囲の者は今西が調子に乗ってサングラスを持込んだだけだと思っている。その認識で満足だった。ところがここで更に厄介な人物が登場する。」

 「まだ何か出てくるの。今度のマイティーさんはなんて名前なの。」

 「この期に及んでと言うか、満を持して根無信一が登場したのだ。」

 「それは厄介な奴だ。」

 根無は迷惑そうに言った。

 「困った人だよ。君は今西氏のサングラスが没収されたことも知らないばかりか、何があったのかすら知らなかったのだろう。」

 「何しろ今聞いたからね。」

 「気附けば何事か起っているのを察知したのがやっとのことだったのだろう。出遅れてるね。そんなら黙って何にも言わなきゃ良いのに、根無君はわざわざ訊くだろう。厄介に他ならないよ。」

 「探究心ですよ。お互い様。」

 「根無君は今西氏本人に訊ねたそうじゃないか。しかし答は返って来なかった。当然のことだね。ただでさえ丸く収めたいのを、全くの部外者に蒸し返されるのだからな。」

 「それは困ったでしょうね。」

 「根無君はただでは引返さない。必ず機転を利かせる。今西氏からの満足な返事が得られなかった根無君はこう言った。『そうか、今西さんも精神安定剤を持っていたか。あれは物議を醸すには充分だ』とね。」

 「私がそんなことを言ったのかな。」

 「急にそんなことを言われたら、今西さんは更に困惑するだろうね。『何の話なの』って質問するかな。それとも『そうだよ、最近ストレスが凄くってさ』と言って話を逸らしたかもね。」

 紅林も大きく異様な流れに身を任せた。

 「そのことなら前に聞いた。精神安定剤を寄こせとか変な要求をした人に本当に渡した話でしょ。その話をここに繋げるなんて大したものじゃない。だとすると、多分その話を真面目に説明したんでしょうね、あなたは。」

 紅林は根無の長話を覚えていた。

 「当時の根無君のジョークとしては一級品だったのだ。素材は良いし、それを関係ない所で披露することも根無君なりの冗談だったのだ。」

 「あなたがやっても大抵伝わらないのに、大したものだね。」

 「はい、日々精進です。」

 「しかし根無君が安定剤の話をしたのはまずかったね。何故なら安定剤のことで本当に関係している人が傍に居たのだから。」

 「それは誰のことなんだっけ。」

 事情を聞いていないのは福永だけだった。

 「根無君が一番よく知っている。」

 「それは怪しいな。」

 根無はもう一度視線を遠くに向けたくなった。いよいよ核心に向っている。根無は危険なものを感じた。どうせ拍子抜けな結果しか待っていないという予感も抱えて。

 「とにかく根無君がその人から痛罵を浴びたのは確かだ。」

 ギルバートは先へ急いだ。紅林も共に走った。

 「お前、それが面白いと思ってるのか。関係ない話してるんじゃないよ。本当に詰らない。お前だけだよ何にも知らないのは。いつもそうだ。それなのにいつも邪魔しに来る。お前のせいでどれだけ迷惑したと思ってるんだ。ここまで言われてもおかしくないんじゃない。」

 「何の話なの。」福永が手掛りを得ようとする。聞えないふりをして根無は過去の一幕に参加した。

 「そんなことを言われても、もう仕方ないよ。だって、もう関係ないのだから。何がどうなろうと私は知らない。それで構わないじゃないですか。私は好き勝手に遊びに来ているだけなので。そこは目を瞑って欲しいとね。とにかく私は仕方ないのです。」

 「じゃあしようがないか。」

 話が呑み込めないまま、福永は呟く。福永が言い終ると同時に、一座は急に静になった。後に続くものはない。周囲の雑音が意味のあるものとして復活した。いつしか食事は済んで、空になった皿が残った。ここが食事の場だったことを、根無は半ば忘れていた。根無はこの店に入ってから今まで機械に近い存在になっていた。根無だけでなく、全員が動力に従って動き続けていた。ようやく解放された気がする。まだ消えない余韻を断ち切らなければならない。

 「さて、真相の梗概を解明した処で、そろそろ人物の解題に戻ろうではないか。」

 ギルバート一人が貪欲な姿勢で居る。

 「ここで別の卓に居る人達に焦点を当てようではないか。僕等が話し合ってる内に人が揃ったようだ。根無君、あの眼鏡をかけた幼い容貌をした男が分るか。河本と謂う名前だ。この写真と大して変らないね。これはどうだった。」

 河本という人は今、根無の記憶が怪しい女子三人と共に居る。根無は河本を知っていた。あの時と同じく、短髪で、眼鏡をかけ、小柄だと分った。幼いという評価は正しくもあり、腑に落ちない処もある。

 「あの人は人望があってね。せがまれては歌ったり踊ったりしてたな。得意だったみたいだね。ちょうど近くに居る人達、今西さんとかと一緒に居てね、囲まれてたよ。」

 述懐が終る前から、根無は察していた。

 「マイティー・クインじゃないか。」

 「マイティー・クイン様だよ、それ。」

 ギルバートが鋭く指摘する。福永も言わずにはいられなかった。二人の声に挟まれて根無は、またしても自分は鈍感だったと思った。

 「こんな所に居たとはね。」

 探し求めていたものを遂に見附けた面持で、ギルバートは感嘆した。不服で居るのは紅林だった。

 「あんなので好いの。もっと違う人を想像してた。」

 「親しみやすいんじゃないの。でも正直意外だな。もっと格好良い人だと思ってた。」

 「私もそう思う。」

 福永と根無も同意する。

 「いや、あれで充分だ。言っただろう、何でも良いのだ。意味なんかないね。うたかたの価値で生きるのが人間の限界ではないか。ちょっと歌が上手くて、舞踏も器用なのだろう。それで良いではないか。人の扱いも悪くないのだろうな。僕も見習うとするか。」

 「でも、あの人は眼鏡かけてるじゃない。今も昔も。あれと並ぶくらい、どんな格好でも平気なんじゃないの。」

 「紅林さん、本気ですか。並ぶからこそですよ。眼鏡が二つ並んだってグッドだが、それがバッドでアグリーだと人が思えばもう致し方ないという話ですよ。しかし、こうも簡単にマイティー・クインが特定されると僕も拍子抜けだね。」

 「その変な名前は何とかしたらどうなの。」

 「おや、まだ気にするのか。もう済んだことじゃないか。もうこれ以上探っても意味はなさそうだ。まだ人は残っているがね。もうここに居る必要はなかろう。」

 ギルバートは一人で撤収を決めている。反対する者は居ない。三人で口を閉ざしている。根無はすっかり店を出る積りで居る。

 「最後に、念のため確認するがね。根無君、」

 アルバムを閉じて、ギルバートは根無に向き直った。

 「あの中の誰にやられたのだね。」

 根無には真剣な問と受け取れた。答があるのなら、口にするべきではないかと思う。根無は最後に集っている人達を見渡した。身に着けていたサングラスを下にずらした。眼はひたすら滑った。アルバムに揃っている全員が参加しているはずはなかった。誰が来ていないのか、根無は正確に答えられない。幾人か思い浮ぶだけだ。根無は答を探そうと、考え込んだ。直ぐに根無は、自分ならどう答えるか、思い出した。

 「別に、誰ということもないですよ。自分はこうして無事なんだから。」

 「それもそうか。ではもう少しずらして問うよ。根無君を生かした者なら居るかね。」

 「そんなものは更に居ないね。私自身のお蔭だと、本当に思う。」

 「そうか、それなら良いな。さあ、もうここを出よう。」

 ギルバートが会計に行っている間、根無は所在なく佇んでいる。気ばかり焦って、昔の人の面影が去来する。店を去っていない今、昔の人達はまだ近くに居る。根無は背を向けて心離れようとしている。近附くだけで手応えが得られるとは、最初から期待していなかった。わずかな目当てを垣間見て、記憶の人を偲ぶことができたかも知れない。今となっては総て無駄だった。思い出だけが形を保っている。安らぎがないのに、どうしても立ち入ってしまう過去があるだけだった。打ち砕かれてしまえば、未練なく過せるだろうか。根無が黙っていると、福永も紅林も言葉を交さなかった。奇妙な集りだと根無は思う。

 ギルバートが戻ると、根無は率先して出口に向った。珍しく根無が先頭になっている。扉から近い所に立っていたのは偶然だった。根無は早く扉を開けて、外の空気に当ることしか考えていなかった。ガラスの扉の向うに見える男達に気附かない訳ではなかった。道を歩けばどこにでも居る見知らぬ人と変らなかった。両者の距離は縮まる。互にガラス越しに向き合い、根無は相手がただの他人ではないことを思い知った。戸を開けたのは相手が先だった。

 「あれ、根無さんだ。皆な来てるよね。」

 先日再会した同級生だった。遅れて来て、またも偶然に根無と衝突した。隣には奥田も居る。

 「来てたんだ。」

 「それはどうかな。」

 「どこ行くの。」

 障壁を突き破って出て行こうとする根無に問いかける。ギルバートが代りに答える。

 「来ているが、来ていないのだ。僕達は部外者なのでね。根無君もまた関係ないようだ。」

 曖昧な相槌をする相手を見捨てて、根無達は歩いた。かつての同級生は追いかけない。目的である大きな流れに混じるのが優先だった。歓談の中で、根無のことに触れるのは気分次第だろう。些細なことでしかないのは事実だった。扉は新たな客を吸い込み、根無達は歩道と駐車場の境で立ち止った。既にギルバートが引率している。ギルバートが止れば他の三人も同じだった。ギルバートは三人の顔を順に確認した。軽い疲れの中、平静な顔で居る。無言の点呼が終ると、ギルバートは張りのある声で全員に呼び掛けた。

 「皆よ、まだ解散ではない。とにかく歩けば先が見えるだろう。」

 四人はみのり通りを歩いた。

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