第七章 思いつき
どこからどこまでがみのり通りであるかを知るまでに、根無は数年を要した。根無は地理に疎いままだった。住所も電話番号も分らない時期が長く続いた。根無と親しかった同級生は、どれほど幼い年齢でも自分の情報を淀みなく言えた。早熟な友人達を見て、根無は自分を疑った。疑を反射させることはできない。覚束ない根無は、それでも変らなかった。変っても意味がなかったのだ。幾ら住所や電話番号を暗記しても、いつかは効力を失くす。根無はそのことを知っていた。元より意欲がなければ何も覚えられない。根無は意欲がない自分を利用した。何もかも忘れている。
みのり通りは次第に馴染みがある道となった、根無の記憶は連続したものになってゆく。出歩く場という場が、根無には分ってきた。身を隠す場所はない。どこから肉薄するものが出るか分らない。根無は何の術もなく歩いている。心強いのは福永と
「君はここを
「どうでしょうね。考えたこともなかったのですが。今でこそ少し狭くなったとは思いますよ。」
「そうだな、狭くはないんだ。本道を外れたようでも、車もそれなりに走るね。」
「混雑しない道ということで、知っている人にとっては避けて通れない道ということなんでしょうね。根無君が言っていました。」
「そうか、都合の良い道だな。」
「陽野さんはこの道、よく知りませんか。」
「知らないこともないが。それなりに通った覚えはあるよ。しかし、住んでる所がここから離れてるからな。」
「同じくです。知っているけどよく通らない。陽野さんは何のためにここを通ったんですか。」
「いやいやまだ小学生の時だよ。確か、この先に公園があるんだ。仲間を連れて行ったものだよ。」
「市民公園ですか。」
「それもあったがね。また別の所に何でもない公園があったんだよ。そっちの方にも遊具もあってね。市民公園は、実質何もないようなものだ。」
「多分、そっちの公園、分る気がします。今から狙ってそこに行けるか分りませんけど。遊具は必須ですよね。」
「極めて重要だ。ただし、そればかりでもないようだ。」
遊具がなくとも小学生達は平気でいた。遊具は持参するものでもあった。ボールさえあれば充分だった。家に居るだけで事足りる世代に陽野は属している。それでも閉じ籠るばかりではなかった。少年の心が求めているのは開拓だった。刻限と対峙して突き進む道が情熱をかきたてた。今となっては解り切った領域でも、果てしがなかった。陽野達の到達点は、小さな公園こそ相応しかった。主に近所の人達が利用する公園に侵入する。かつての陽野は、ここが自分達の場所だという気になった。公園さえ見附かれば、出入に遠慮は要らなかった。
成長した陽野は市民公園を訪れて、小さな所だと思った。依然として、一周するのに時間がかかるとしても。広い場所でも、陽野には充分一望できる。市民公園はもっと漠然とした場所だった。幼い陽野の心象は、空隙の多い大陸を公園に重ねた。陽野は遠近に立つ仲間との間に、空虚なものを見詰めた。何気なく愉しまなかった。開拓という目的において、これ程に恰好の場はなかったのだが。
陽野の話を聞いて、根無は幾らか共感した。根無にも開拓の経験がある。独力では再び辿り着けないという点で、余りに覚束なかったにしても。陽野は仲間を引連れて遠くを目指したと言った。根無は正に連れられる人間だった。友人の背中を追いかけて行った。自分一人で行こうとしたことはほとんどない。見慣れない公園の景色は、今も断片として記憶に残っている。あの時は受け流されて自転車を駆っているだけだった。それでも根無は、昂揚した気分を再現することができる。あれが開拓だったのかと、心当りがあった。
珍しく一人で、遠くの駄菓子屋を目指したことを、根無は憶えている。何度か友に導かれて行く内に、道を把握していた。到着した時には夕暮になった。根無の目当は、店の前に置かれている自動販売機にあった。販売機には、ビールを模した甘い飲物が缶で売られている。前に店を訪れた帰り際、根無は見附けただけでそのまま帰った。偽のビールは、根無が祖父母の家に行くと、いつも夕食に供されたものだった。まだ容易に祖父母に会えなかった根無は、強い郷愁に駆られていた。
意を決して根無は硬貨を投入した。根無は帰宅時間を考えた。平生は家に居る時刻だった。缶に入った液体は、幾ら飲んでも減らなかった。祖父母の家で飲んでいたのは瓶だった。祖父の眼を盗んで、本物のビールと偽物を取替えれば、決って笑が起るのだった。
「飲み終ったらここに入れれば良いからね。」
「この袋ですか。」
店から出て来た老女は、販売機の隣に忍ばせているビニール袋を示した。根無は店主との短い会話を忘れない。根無が缶を捨てる瞬間にも、老女は居合せていた。
今になって、駄菓子屋に行かなくなった自分に根無は気附いた。存在を認めることすらできないのだ。方角が一切分らなくとも見附かった店が、今はどこにもない。適齢期を過ぎたからという、突飛な発想さえ起した。駄菓子屋を見出す力を失ったという考を、根無は直ぐに軽蔑した。
「君なら分ると思うが、自分の家の近くにだって公園はあるよ。別に公園じゃなくても構わない訳だ。それでも、わざわざ遠い所まで行こうという欲求が起るんだよ。今考えれば、あの公園までの距離など大したことはないし、行ったとして収穫もないだろうしな。今の自分なら、もっと遠い所へだって行けるね。北海道とか良いかも知れないな。」
「良いですね。行くことがもしあれば言って下さいよ。もしかしたら一緒に行けるかも知れません。」
「共に行くか。それも良いかも知れない。」
陽野は一人で行きたがっているのではないか、根無は思った。根無自身が孤独な出発を思い描いていたからだ。遠い所と言って、海外を目指そうとしない処も、根無は陽野と同じだと思った。
「根無君もどう。行きたくはない。」
陽野の旅に同行しないか、という意味だった。空想の域を出ない計画に、福永は身を乗り出している。途端に福永は大胆になる。根無は呆気にとられ、心奪われるのだった。
「新しい場所まで飛び出すと、そこが本当の住居になったような気がするな、ここで暮してゆく、住人になるみたいに。」
「随分な適応じゃないですか。」
「そういう気分になってるだけだ。自らそう思うようにしてるだけで、ただの
「草枕の気分と言ったところですか。」
「草枕とまで来たか。確かに、意識しないでもないよ。しかし自分には、とてもあんな境地に至り着ける気がしない。文人と言うのだよ、あれは。自分には修養がないし、あったとして、素養に適う場所がどれくらい残っているか。」
「ありそうですけどね。それこそ北海道はどうです。陽野さんの気分次第でどうにでもなるんじゃないかなと。」
「日本の風景に物申すには、俳句の一つ二つ作ってからにしろってことだな。」
「そういうことです。」
陽野は福永の顔を見詰めて、口を開けた。呆然として、言葉が出ない。歩調は緩めなかった。直ぐに陽野は苦笑した。
「随分なものだな。」
陽野が言った随分なものの含意を、根無は感じ取っていた。反応を示さない福永が、不調和の素になっている。陽野の苦笑は、根無を意識したものでもある。観察した根無は、総て虚飾だという気がする。あれから陽野は本を読み切っただろうか、根無は思いやった。陽野と自分を較べていることに気附いた根無は、直ぐに考を打消した。
陽野は滞った話を繕おうとした。
「旅というのは、おっかないものじゃないか。事故でも起せばたまったものでない。前に、父親と二人で東北まで行ったことがある。北海道には至らないが、北には行ったのさ。長時間の運転で父親はどうかしたんだろう、睡魔で車が一瞬ふらついたよ。直後に覚醒したから良かったが、もう少し道から逸れるのが甚だしければ一巻の終りだったんじゃないか。それもまた良しかも知れないが。」
「良くはないでしょう。」
「良くないか、そうか。福永氏が悲しんでくれる訳もないからな、当時は知り合ってもいないんだから。ともかく自分は命を落すことはなかった。しかしあの時は、余りに危うかったものだから、父と二人で大笑いしたよ。」
「恐しい場面に遭うと逆に面白く思うのかも知れませんね。」
「思ったんだよ。別に愉快である訳もないのだが。いや、実は危険を求めているのかな。ともかく、旅に出ると大事に巻き込まれるのではないかと予感するし、実際そんなことが起きたりもするんだ。これは旅と言う程じゃないが、さっき言った公園を目指した道で、交通事故を見たんだ。自分に関係する事故ではないにしても、気が気でなくてね。要するに野次馬だな。公園への旅路どころではなくなったよ。」
陽野は話を打切って、直ぐに新たな感想を起した。何か言おうとした福永の声と衝突した。譲られたことに気を留めず、陽野は話を続ける。
「そうなると、あれは何度目かの公園行だったのか。初回は順当に公園を目指して、次から事故に遭ったのかもな。あるいは最初から車がおかしくなっているのを眼にしたのかも知れない。何だか判らない。不慣れな道で目撃したのか、知れ切った道で刺激のある光景に出会ったのか。」
誰にも答は出せなかった。陽野は真相を求めている訳ではない。話を聞く者にとっても、どちらでも構わない事柄だった。いつ車は傷を負わなければならなかったのか。余りに材料が少い。口を閉ざしていた福永は、独自の推理に関心を向けた。
「その自動車事故というのは、根無君の家の近くで起きたことではありませんか。」
「どうだったか。そうだった気がするよ。自分でも呆れる程、記憶がないな。」
「根無君の家の近くの交差点では、度々衝突事故が起きると、根無君から聞いたので。」
朝は人が焦る。急ぐ人が出て来る。車を走らせて、交通の少い道を選ぶ。根無の家の附近には十字路がある。隘路からの思わぬ出現に、渦中の人は何を感じたのか。根無は眠りの中で、壁を突き抜ける大きな音を聞いた。一度や二度ではない。いつかトラックが、窓や壁を壊しに来るのではないか。現実のものとなれば逃場はどこにあるのかと、根無は観念した。
「そうか、あの日の光景は自分だけの特別な演出じゃなかったのか。自分は何だかあの日の事故を憶えている。それでいて、その日に行った公園が初めてだったか断言できないのだからおかしい。そもそもあの道だったのか。公園だって本当はどこだったのか。どうせ大した違いはないだろうけど、自分でも情ない程に、曖昧だよ。そうか、その交差点では事故多発か。それはどうにかならないのかね。」
陽野の反応は、最後は独言の調子になった。
「さっき父親と東北へ行ったのって、どういう用事だったんです。」
「父親の実家だったね。帰省という訳だ。」
「ずっと車で行ったんですか。お父さん一人ですか。」
「行きは父の弟も居たよ。二人で交替。帰りは、弟が途中で降りて、自宅に帰ったんじゃなかったかな。そこから父一人。さっきの危うくお亡くなりになるところだった、車のよろめきは、帰りの時だったね。」
「陽野さんのお父さんは東北の人だったんですか。」
それがどうして東北を離れ、この地に居るのかという疑問を込めている。陽野は福永の意を汲んで答えた。
「色々あってね。ここに居る。そういうものだね。まだ父親の淵源を探す時機じゃないよ。」
「誰かから話を聞いてそうなものじゃないですか。」
「聞いたんだけどね、詰らない話だよ。いや、面白くもできるだろうな。自分にはできない話だ。」
「いつか語れる日が来るのを待っていますよ。」福永は好奇心を微笑で表した。
「本当に聞きたいのかよ。本当に求めているのか。」
根無は内心、否定していた。福永も同じだろうと決め附けた。陽野が語れば聞くだろう。やはり詰らない話かも知れない。陽野の語ることができた話を、根無は継承できないだろうと思う。根無にも語っていない事が幾つもある。あえて語ったこともあった。面白い話になれたか、根無は疑っている。自分は詰らないのだという説が浮び上る。陽野も同じかも知れないと当てはめた。
「親のことよりもね、自分のことの方がよっぽど謎だよ。分りますか。自分の行いが今後どうなるか判然としない。困ったものだよ。」
「誰しもそうだと思いますね。」
「うん、自分がこんなことを言うのは、思い出したことがあってね。自分の体験じゃないよ。親友のことでね。親友は昔、自転車で走り廻っていてね、県を越えに越えることも可能だった。」
「若さ故といったところですね。」
「そうでもあるだろう。今や彼は自転車ではないからな。それこそ親友は北海道まで行ったよ。もちろん青森より先はフェリーを使うしかない。フェリーに乗り込むと、他にも自転車で旅している人が居るんだよ。三人組でね、大学生だった訳だ。自転車で長旅となると、大きな荷物を積まなきゃいけない。そうすると目立つし、旅人同士は、こいつは仲間だと直ぐに交流が始まる訳だ。とにかく旅をする人とはそんなものらしいね。これはフェリーの話でもないのだろうが、夜になると宴会なんてものをやるんだ。それぞれの暮しだとかが語られたりしてね。話を聞くと、定職に就かず、日本一周している人も少くはないんだそうだ。」
「無職ですか。凄いですね。資金とかどうするんでしょう。」
「旅の途中で住み込みで働いて、金が貯れば、また出発だ。住み込みというのは、冬を越すためでもあるらしい。」
「そこまで本格的だと、そうする以外ないですよね。もうただの旅行じゃないですよ。でも、ずっとそうやって生きる積りなんでしょうか。」
「それは自分も考えた。しかし誰にとっても分らないのではないか。決着が分らんよ。野垂れ死ぬんじゃないかと思ってしまう。どこかで安息の地を見附けるのかも知れないが。」
「その人達は、何があってそんなことをしようと思ったんでしょうね。」
「我々だって、やろうと思えば今日からでもできるのではないか。自分なんかは君等よりまだ簡単だろうよ。しかしやらない。いっそしてやろうかとも思う時もあるが、ただ暇で思い浮べるだけだ。その人達は、大きな決断ができる人だったのだね。大きな決断ができる程の体験があったのかも知れない。あるいは大した決断と思ってないのかも知れない。まあ分らんよ。」
「どうしても無茶ですよ。」
「しかし自分もいつかは一世一代、何かしでかさないといけないと思うね。総てを薙ぎ払う覚悟でね、直進するんだよ。本当にそう思うね。」
「良いですね。何かあるんですか。」
根無は痛みを思い知った。明日のことさえ根無は決められない。些細なことに関わっているだけ、自分が卑小に思える。根無も大きな決断を前に、強い一歩を踏み出せる力を求めている。行先は明日を越えて、栄光であってほしい。また卑小な考だと根無は思う。歩く力もなければ、宣言する声も有たない。根無は、陽野の迷いの正体を見た気がした。
陽野が福永の問に答えるのに時間はかからなかった。陽野には直後の予定があった。
「例えば、この後のこととかだ。もう直ぐ仲間の本拠地に到着する。仲間達はドラマを撮るのが昔からの趣味でね、よく続いてるさ。最初の方は粗末だし、今だってそうかも知れないがさ、やらないよりはずっとましである訳だ。眼前にあることを、どんなに小さくとも向き合わねばな。」
「陽野さんも出演するんですか。」
「そうでもないがね。撮影なんかやったりね。何か言えることがあれば言えばいい。」
「これまでに培った見解を披露するってことですか。批評も大事でしょうからね。」
「そうだな。」陽野はまだ思惑を残している。
「脚本を考えているのも居てね。それがなきゃ始らないからね。一手に引受けているんだ。そういう様子を見ると、自分にも何かできる気がしてね。案ならあるものだからさ。」
「皆な昔からの仲間なんですか。」
「人によるね。脚本の人間が加わったのは割と最近で、自分なんかよく会って話してるけど。そもそも自分は少し特殊な立ち位置に居てね、仲間の一員のようだが、附かず離れずの状態なんだ。そういう人間が一人でも居るというのは、面白い話だと自分では思ってるね。」
「よくそういう微妙な立場で残り続けられますね。」
「そこは昔からの仲間も居るものでさ。強く望んで参加してる訳でもないのに、当然ここに居るものだろうと決ってしまっている。必ずしも悪い気がするのでもないから、時にこうして出向いたりするけど。どうです、ちょっとこのまま同行でもしたら。多分、大丈夫だろう。」
児戯同然の習慣が、一人の才能によって幾らか本格の活動になった。陽野の言う仲間は、そういう現状なのだと根無には察せられた。陽野が言ったことは概ね本当だろう。真実を更に強固にするのは、陽野のこれからに託されている。何もしなくとも陽野は平穏に居られるだろう。威勢程に壊す能力を有たない。それは陽野の美点だった。
根無の関心は別の処に移っていた。根無にも昔からの友人が居たはずだった。人と仲違いすることはなかった。離別を求めていたこともない。抱擁を望んだことは更にない。卒業式の日に渡した電話番号は、誰にとっても無用だった。根無もまた、鳴ることのない電話を気に留めなかった。それぞれの生活が、互を過去の人にし合った。根無だけは、懐かしい日を彩ることがあった。しかし今住んでいる場所から一歩も出なかった。
一度だけ、友人が根無の家に泊りに来たことがあった。二人はしばらく疎遠だったことを忘れた。最後に会った日から一年も経っていなかった。何も変りはしない。友人に連れられて、祭に行けば、昔の人と出会う。腕に抱き着く人も居た。食物をねだられて、どうしたら良いか分らなかった。仲間達は嘲る調子で批難している。買ってやれば良かったと思う。人と別れて、少しも惜しくなかった。友人と別れる時も、最後とは思わなかった。相手の方こそ未練があって奇妙だった。友人との再会は、根無からもち出したはずだった。淡泊な積りで、執心していたのかも知れない。根無の追想は、時を経る毎に深くなった。昔の人達は静だった。
呼びかけなければ、振り向く人は現れない。根無には幾らでも手段があったはずだ。根無の前に、意志の弱い自分が居る。来るはずのない相手を待つ、惰弱な自分だった。これが正しい過去の姿なのだと一度は信じた。あの時の根無は今居ない。今の自分なら、もっと大胆に動ける。根無は今の自分を誇示してから、突然思い当った。
名残を振払うことはできない。福永は陽野の誘いに屈託することなく乗った。根無は福永を誤解しているのかも知れないと思った。人の本心を今更探っても解らない。陽野についても、根無は納得できない。手下を従えて強気になるという趣意だろうか。野心だけを根無は認めた。根無は協力者ではない。総ては独力で歩むものだ。陽野も知っていることだ。
根無は駅を目指して歩いて来た。おおよその方角を一人で辿った。かつて立ったことのないホームに立っている。根無の想定よりも電車は早く来るらしい。電車は根無の望む方向へ走るはずだ。、また根無は、自分一人では何もかも疎かだと思う。遠くの景色から光が滲み出て来た。
赤い列車に足を踏み入れるまで、根無は迷っていた。背中を押す、姿が見えない影に頼った。疎らではない乗客を確かめながら、空席を見附ける。坐ったと同時に扉は閉まった。もう陽野や福永とはお別れだという気がする。根無はこの後かかる時間がどれ程か、まるで考えられなかった。一散に戻っても陽野は居ないという確信はあった。
列車は動き出した。根無が顔を向けている方角の逆を走る。坐る前から判ることだった。奇妙な感覚でいながら、これでも正しいと根無は思う。今日も根無が居た景色が、急速に遠ざかって行く。
根無には二つの考があった。期待する心を完全には棄て去れなかった。偶然によって演出されなければ果されない。根無の気紛れが何を引起すのだろう。誰との約束もない。記憶の情景は、現実の風景に対して響くことはない。荒涼とした光景を眼にして、根無は歩き、電車に戻るだろう。自然な未来を、根無は意識していた。都合の悪い予想という印象は起らなかった。消し去ろうと躍起になってもいない。何も起らないことを根無は知っている。行って戻ることに、意味も成熟も要らない。解消される思いも嘘だった。総ては一時の余興だ。
流れる風景の中、公園に佇む男女の後姿があった。二人は制服姿だった。一瞬でも、根無が確かめるには充分だった。鉄棒を前に、柵に凭れていた。根無は自分の身になる。あれは決して遠い風物ではない。
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