第六章 決して選べぬことでもなく
昔からよく人の注目を集めた。根無は人に囲まれて、むしろ倨傲な気分でいる。所作に意図せぬ過誤や滑稽があるかも知れない。懸念に果てがあるものではない。根無の態度は自棄に近かった。いつからこの境地に至ったのだろう。根無は頭の片隅で考えた。それは処世術と言うべきものだ。洗練された思考とは言い難い。根無にしては無骨な精神の修養が、功を奏している。根無の前にはギルバートが居る。隣には福永が立っている。紅林までこの場に引寄せられて来た。バースも田中も居る。他にも数人加わって居た。いつもの顔触れだ。根無は平静な心持で、ギルバートと対坐している。今の状況でも、不安は育つ。根無は平静でいる。
ギルバートは尋問を始めた。
「まず名前から聞こう。」
「今日まで自己紹介が遅れたね。私が根無ノブカズです。よろしく。」
「ノブカズと謂うのか、知らなかったね。だったらシンイチは筆名か。」
「そんなところだ。隆明がリュウメイと呼ばれるようなものだ。」
「義秀がギシュウと読むのと同じか。」
「同じだ。」
「パースをバースと覚えるようなものだろう。」
「そうだ。」
「止めろよ、お前。早く風化してくれ。」とバースが異論を唱えた。皆が笑って相手にしない。風化するには熱がある。紅林だけは冷めていた。
「これが定めと受容れ給え。」
「そんなことより根無君ってノブカズっていうの、本当に。」と田中が信じ難い様子でいる。
「そうだよ。」と根無は答えた。
「バースがそうであるように、君も真実を前に受容れ給え。」
「俺は受容れてはいないからな。」
「誕生日はいつなんだ。」
「七月十六日だけど。」
「君じゃなく根無氏に訊いたのだ。」
「じゃあ俺の方を見て訊いてくるなよ。お前がおかしいだろ。」
「不思議なもので僕の識閾下ではバースの生年月日を知りたいという欲求が萌芽していたようだ。これは心理学的に見て非常に興味深い。開会と言うはずが閉会と間違えた議長の逸話をするまでもないだろう。」
「するまでもないよ。」とバースは否定の調子で同意した。ギルバートは無視した。
「それで根無君の誕生日はいつだね。」
「私も七月十六日だよ。」と根無は即答する。
「絶対嘘だ。」と疑う声が上る。
「七月十六日と、九月三十日。」と根無は釈明した。
「どうして誕生日が二つになったの。」と福永は微笑して問うた。
「真実だからです。そう答えることも可能なのですが。逆に私は皆様に問いたい。諸君は無闇に誕生日を開示し過ぎであるよ。訊いてもいないのに教えて来る。義務なのかよ。また当然答が返って来ると疑わずに訊いて来る者も多い。特に意味もなく知りたがるじゃないか。さっきも嘘だとか謎だとか言われたが、誕生日を求めても嘘や謎が返って来ないと確信する自信はどこに由来するのだね。」
「匿すまでもないからだよ。」
「ところが。」と根無は声を張った。自分でも意外と思う声色が鳴った。即座に根無は机を叩いた。一座は静まり返っている。眼に映る人達を見渡してから、根無は水筒の水を飲んだ。紅林が小さく溜息をするのが聞えた。同時に清聴の姿勢は瓦解した。
「何も言わないのかよ。」
「待っていたのに。」
「何だったんだよこの時間。」
「まあ待ち給え、諸君。特に紅林さん。ここを去るにはまだ早い。つまりこうだよ。」
ギルバートが理屈を始めた。
「誕生日とは人間の根源なのだ。我々がやることは総て後附けに過ぎない。名前ですら、我が名は信一であるぞと名乗って生れて来ない。全部捏造であるね。こうなると秘密も何もない。嘘なのだから。ところが誕生日だけは偽れない。確実にこの日に生れたという事実がある。根無信一は、ただ一つの真実を凝視しているから、誕生日を迂闊には言えない。余りにも真実であるために。」
完全に理解できない訳ではないが、腑に落ちない。改心する者は居ない。
「そうは言っても、誕生日抜きで生き抜くのは無理があるだろう。」
「そこが難しくてね。暴き立てる者が居るのだ。」
指摘に対してギルバートが答える。なおも話を続ける気でいるギルバートを根無は制止した。虚空を急激に殴る動作によって。
「邪魔者は実に多い。思い出すのは小学二年、あるいは三年、やはり二年だったかも知れないが、我が生誕の日に丁度工場見学の日程が重なっていた。いつもだったら給食を食べる際に今日は、誰々の、誕生日です、おめでとうございます、おめでとうおめおめとやるものだが、今日ばかりは見慣れぬ工場に突入して、へえええなるほどねえと見聞を得ることに専念しなければならないから私の誕生日など誰も気にしない。しめしめと、全ての予定が終って後は帰るばかりだという時、丁度バスだが電車だかに乗っていたのだが、そういえば今日は根無君の誕生日だったねなんて、余計なことを記憶する人物がそこに居るのだ。時効寸前に捕った犯罪者の気分であったね。祝う者は執念の結晶だよ。実によしてくれよ。思えばあれから私の人生は狂いが生じて、今日に至る。」
「でもさ、じゃあ根無君は親に祝ってもらったりもないの。」
田中は、根無の話を耳にしている際中に浮んだ疑問を放った。周囲の者も田中の言に賛同した。
「いや、親には祝ってもらうし、私も当然受け入れるよ。」
「矛盾じゃないの。」と福永は指摘した。
「親というのは謂わば共犯関係ですからね。他人が祝いに来るのとは違って、自然ですよ。」
「世に出づる存在として、根無信一はそれ自身として見て欲しいのだよ。諸君は誕生日次第で交友関係を決めたことがあるかね。ないと言うのであれば、それは重要ではないのだ。あとは個人が秘めるべきものとなる。根無氏は誕生日を問い合せれば嘘や謎の無い答が返って来ると確信している諸君の早計を批判していたが、それはゼウスにかけて、私にもそう思えるというところだ。君、訊けば正しいものが返って来るなんて今が限定だね。我々が一度び一家離散してそれぞれの路を歩めば好き勝手の、俺は嘘しか吐かないのパラドクスさ。人は色んな理由で生年月日を偽るものだよ。人間はサバを読んでこそ貫禄が附くのだ。サバを読んだ分の年数が加わるのだもの。普通に齢を取っていれば良いものを、もう一度若返って気を張るのだから偉いものだ。逆に早くに齢を摂って生き急ぐ者も居て、これも結構だ。大西巨人も手塚治虫もこの通りの人間だったね。他にも占星術のために自分の都合の良い生年月日を択んで、人間としての位を上げようと目論む者も現れる。こうなれば何でもありだ。だから占いは結局は一人でやるしか意味がない。占い師も弱ったものだ、相手がどこで嘘を吐いているか判らないのだから。相手の心に言い聞かせるしかない。言えることは言ったから、後はお前の中で滋養になるよう考え給えとね。尤も根無氏の誕生日秘匿は、一言で表せば浪漫のためであることを忘れてはならない。そこが僕の「根無信一」論の要点である。真実の非凡でありながら、遂に非凡のまま全うしようと挑む根無信一の本質があると思っている。だからこそ根無氏が、先日の僕の床屋騒動に疑問を呈したことは、常に根無氏が抱く美学に
「人に期待してはいけない。これ、私の信条の一つです。」根無は短く答えた。
「誕生日を秘密にすることで、どうして根無君の浪漫は形成されるのですか。」と福永は訊いた。先刻から絶えず愉快でいる。根無は矢継ぎ早に答えた。
「私は昔、いや本当は今でも写真を撮られることを嫌がってきて、その源因も考えなかった。最近になって自分に問いかけることで、ようやく納得できる答を得た。むしろ答を見出したことで疑問が浮んだという逆説なんですが。偉人とかでもそうだけど、昔の人物というのは写真が少いね。五歳頃の写真があると思えば次にはもう十八歳とかになっている。こういうの良いね。空白は何だったのかな、なんて、考えちゃうよ。」
根無の随想に応えたのはギルバートだけだった。
「根無氏の悲劇は、そんな時代は疾うの昔に終っているという処にある。せめてこれからの時代に生れるよりかは良かったという程度に過ぎない。」
「一つ気になるんだが、」とバースが口を挟む。「ギルバートが最近よく言ってる「根無信一論」って、本当に書いてるのか。」
「僕の筆がいかに振っているか、気になるのかね。」
「別に気になりはしないけどさ。お前は前からこれを書くあれを書くと言い続けておいて一つとして発表したことがないじゃないか。」
「私に詩を捧げるとか言ってたこと思い出した。あれ何だったの。」と田中も追及する。
「草案と謂うのかな。ギルバートには無数にあるよね。」と福永は同調している。
「多分、ここに居る全員が何かしらギルバートから聞かされてるよ。」バースは結論附けた。他の者は心当りのある笑声を上げた。ギルバートは一向に弱る風を見せない。
「僕はそんなことを言ったかな。言ったかも知れない。これも日常が着想で溢れているのがいけないのだ。幾ら書き留めたって尽きせぬね。僕が書かないのが悪いのではない。むしろ着想を与える諸君に問題があるのだ。」
「編輯能力を磨いてくれ。」根無が注文を附けた。
「しかし今度の根無信一論ばかりは着実に進んでいる。材料も申分なく揃っている。やはり題材が優れているのだろう。それだけに根無氏の髪型を模倣できなかったのは残念だった。」
「これも編輯力だよ。」と福永が言い添えた。ギルバートの頭に根無の髪型が降り立つ様を想像して皆は爆笑した。根無は綺麗に横分けした髪を静かに撫でた。
「本当に書けてるんでしょうね。」
今まで黙っていた紅林が皆の不意を突いた。相手を信じない、難詰する調子だった。一座は幾分張り詰めた佇いになる。白けた様子だったが、ギルバートの放言の支配から脱してはいない。ギルバートが論文を完成させなくとも、誰の心残りにもならない。根無だけはギルバートの執筆を懸念していた。根無は先刻から辛うじてこの場を離れずに居る紅林が不思議だった。紅林はこの場に立っていて、楽んでいるのだろうか。先日も紅林から過去の人の述懐を迫られたことを思い出す。「根無信一論」の読者は根無一人ではないかも知れない。紅林にとっての興味の発露が、先日の帰り道であり、この時の眼前に映る姿であるのか。人に紛れて視界から消えそうになる紅林を、根無は茫漠と捉えた。心境の
「根無信一プロジェクトの一員になった以上、僕の論の完成に憂慮を感ずるのも無理はなかろう。しかし安心するが良い、ちゃんとこの通り、僕は自分の言葉をものにしている。未完成であることに相違はないが、出来ている分を今演説してあげても良い。」
「別に聞きたい訳ではないのだけど。」
「さて、どの箇所だったか。覚書が多くって特定に困るね。」鞄から取出した紙の束をギルバートは忙しく繰っている。
「読まなくて良いって、紅林さん言ってるぞ。」バースが忠告する。
「いや、こんな処に隠れていた。皆さん、聞いていて不明な点があれば質疑を挟んで下さい。ご清聴を願います。」
「誰か止めてくれ。」
「一体、非凡とはいかなるものであろうか。真実の非凡とは、やがて平凡として衆人に敢えて顧みられることがなくなるものである。余りに特異である性質が、世人の身を射貫く。それは時日をかけて深く刻まれる。果して非凡は特殊から普遍へと変化する。ところがここに、真実の非凡でありながら、遂に非凡のまま全うしようと、命を賭して挑む者が在る。それが根無信一である。以上の書出しは天啓によって得たもので、この瞬間ほど、天に向けて拝みたい気持になったことはない。嬉しい、有難い、そんな衝動から、根無福永の二人に聞かせた。貴重な場に立会えた者として幸運であるよ。」
「待て、その書出しなら俺も聞いたぞ。」
「これは失敬、根無氏本人と福永君とバースの三人が数少い聴衆となれたのだ。」
「根無君のお母さんも居ましたよ。」福永が補足した。
「どうもいかんね。ではお母様も加えてと、これで良いだろう。さて、先述の根無信一論冒頭が天祐であることは先程も申した通りですが、幾ら誤謬のない趣旨と言えども論拠がなければ考究として適用されないのです。これには困った。だから奔走するしかない。ところでここに紅林さんという頼りになる助手が現れたことで事態は著しく急進した。天に拝むだけでなく、紅林さんにも感謝の意を伝えるべきだ。ここで一礼。」
「これはどうも。その必要はなかったけど。」
「では撤回するとして。根無信一君は小学校の卒業式の日、教師達から不当な罪に問われた。それは下校時のこと、先生様が開けるべきだったにも拘わらずうっかり閉じられたままだった門を勝手に飛び越えたという罪状でした。その日、根無達生徒は学校のために長時間清掃活動を行っていました。疲労してやっと帰れるという処でこの仕打ち、我慢ならんとて、根無君を含む列の先頭を行く者達は次々と門を登ったのです。途中で現れた教師の制止する声を振払ってです。これを何たる無礼と、翌日の卒業式直前に、教師達は門の越境者を検挙したのです。貴様等、あれはどういう態度であるか。到底赦せる行為ではない。これから卒業して次なる段階、人間としての正念場を征く者として大いに憂慮すべき事態であるぞ。特に根無は信頼を落したものと思え。以上の説教を聞いて根無君はこう言いました。先生、あの時は下校時刻なのです。我々が遂行すべきだったのは学校を出て帰宅することです。私達はやるべきことをやったまでです。家に帰るために通過しなければならない門は閉じられていました。本来開いているはずだったではありませんか。門を開けるのは誰の任務でしたか。もちろん生徒ではなく先生です。今、責められるべき立場があるとすれば先生の側にあるのではないですか。先生が門を開けていればこうして立たされることはなかったのですよ。どうして私達が悪人ということになるのですか。根無君の抗議は、絶対的な指導者の位に君臨する者の手で葬られました。根無君は小学校卒業後、「少年院」にて三年間服役する憂き目に遭ったのでした。あの日の根無君に罪があったとすれば、正論罪と、他に何がありましたかな、紅林さん。」
「何だっけ。教師に歯向い罪とか。」
「門を越え、教師に反論し、それが正論、ということで重罪になりました。」根無は全ての罪を数えた。
「諸賢は根無君の行動に胸打たれるものがあると思いませんか。私はこれだとばかりに膝を打ちました。」
「胸を打たれろ。」バースが正しい作法を示しても遅かった。
「権力への抵抗です。権力は一つ所に集中していません。あらゆる所にあります。教師達のする指導とやらは代表的な例でしょう。教師が教えるのは正しいこと、これが仕事です。世に渉る真実を教えるべきです。生きている限り、真実を追求するための指導に終りはありません。人々の修養は型通りにはいきません。常に導きが必要です。と言うことは、人を指導する立場にある教師もまた、自分を相対化して、真実に導かなくてはなりません。相対化のためには何が必要か。他者です。権力とは吾人が簡単に想像する「上」の存在ではないのです。どこにでも権力はあるのです。人は他者に導かれるばかりではなく、他者を導く存在でもあるのです。自己が自己を導くこともあります。それが自分を相対化することなのですから。我々は規定された正しさの下で生きるのではなく、積極的に真実を介入させてゆくべきです。自らを独立した存在として自己を導こうではありませんか。これは尽きることのない追究です。根無君は学校の統治に対して、主観的真実を生み出し、自己を導いたのです。」
ギルバートの高声の響が切れると、拍手が起った。便乗して皆が揃って手を叩く。根無を称讃する形式だ。根無は席を起って三度礼をした。広い会場の舞台にて、満員の聴衆に万感の思いを一礼に込める人に根無はなった。先刻まで観客でいた人が、喝采に応えて会場を見渡すのも、根無の想像に違わない。根無は虚無を感じて、椅子に戻った。拍手が止むのを見計ってギルバートの演説は再開した。
「私は先程、主観的真実ということを申しました。よく客観的という言葉が用いられますが、客観とは主観の綜合なのです。個人の主観が共同化した、間主観なのです。ですからどんな真実だって、一定の形を保ち続けるのは難しいのです。ある時代の人達によって重ねられた理解も、同時代人の死によって途絶えてしまいかねないのです。もちろん遺された人々の記憶や、死者の在りし日の記録などで、ある時代の真実を再生させることはできるでしょう。ただしその再生は、新しい人達の観念や感性によって変容された形でしか実現しません。生物として他者に及ぼす事のできる範囲は限られているのです。我々が何かを伝えたい時、私が今そうである通り、多くは語ることによって為されます。私が今伝えようとしていることは、やはりこの共同体においてのみ、理解されるのです。あるいは理解されないかも知れませんが。そもそも私は、私の心に宿る考を正確に伝えることができているのでしょうか。私の錯雑として茫洋とした宇宙である頭脳から、言葉として伝えたことで、輪郭の定まった正確なものにはなりました。その代り、本来の情念は消え去っているのです。ロゴスの限界です。例えば、皆様も御存知の、北海道放浪譚も、本来はただの知覚の連続です。それを語ることで経験と言えるのです。皆様の中で共同化しているのも、私の経験としての語りがあってこそです。つまり諸賢、この経験とは嘘との逃避であり接近ですよ。第一、語って聞かせて相手に興味をもたれなければ甲斐がないです。そうなると語りは幾らでも省略や脚色が必要となってくるという訳です。皆さん解りますか。」
もう拍手は起らない。ギルバートが投げ出した問に誰も答えない。根無は穏かでない心持で聞いていた。
「なあ、今のってどういう意味なんだ。」バースが恐縮して講釈を求めた。
「それは僕が今言った通りだ。」
「いや、そうじゃなく。いや、そういうことでもあるか。確かに俺の頭の理解の問題もあるから、何とかしたいが。そうじゃなくて、今言ってたことって本当に根無と関係あるのか。途中から関係が分らなくなったんだけど。」
「それ私も思った。」と田中が同意した。賛同の声は集った。
「何そんなことがあるものかね。」
ギルバートは草稿に眼を落した。束ねた紙を繰る動作が次第に敏捷になってゆく。最後に哄笑が破裂し、ギルバートを見守る人達の耳を刺した。気にも留めずにいた外部の人まで振返った。
「いや、これは不覚だった。今僕が話したのは根無信一論と同時に書き進めている焼きおにぎりをめぐる論考の一部だった。」
「面白いね。」と根無は簡単に言った。
「どうしてそんなことが起るのかな。」と福永は素朴な疑問を投げた。
「それはあの夜のことだ。僕と福永君とがバースの家に赴いたことで明確な着想を得た。」
「お前等が断りもなしに上り込んで来た時、俺はもう飯食ったのに、この人が二次会とか言い出してさ。」
「饗宴ともなれば途端に酒豪となって登場する者も居る。歴史において、非凡なものはやがて普遍を獲得していったではないか。僕等の訪問もまた同じであるね。当面の問題は、あの夜の焼きおにぎりだ。あればかりは正当に普遍性を帯びてくれなくては困る。」
「こいつは俺の家のレンジを勝手に使いやがってさ。」
「いつまでも温まらない冷凍焼きおにぎりの味が今も食べているように忘れられないよ。」福永が述懐する。
「温まることのない冷凍焼きおにぎりとは矛盾を輪っかにしたような響を感じないか、福永君。まだあるね。回転寿司で提供された冷えた焼きサーモンを憶えているだろう。」
「俺が完全に熱くなるレンジのかけ方をやろうって言ってるのに、こいつは面白いとか反覆だとか言って生温かいレンジをかけてさ。俺はあの夜だけで一生分の反復を聞いたぞ。」
「そう簡単に摂取し尽せるものではないのだよ、反復というのは。とにかく僕はあの夜の焼きおにぎりを興味深く思ったね。温めることを目的として温まる事のない、それでいて確実に温まろうとしている焼きおにぎりだ。考究の生起する物体としてそこに在る。紅茶が冷めなければそれは幽霊の証明だが、温まらない焼きおにぎりと言うと何の立証だろうね。温まることが難しいとすれば死に近いと思うのだが、紅茶が熱くてもやはり幽霊とすれば、結局我々は熱しても冷めても大した違いはないようだよ。」
「死とは肉躰であって、幽霊が霊魂であるとすれば似て非なるものとはなりませんか。」福永が提起する。
「僕も段々考えていたところだ。生は短いがね。僕等が、というのはここに居る我々に限ったことではなく、僕達がこうして在れば、僕は消えることはありません。僕達の同一性に関しては、我々の抱負次第と言ったところでしょう。」
根無は黙って聞いているだけだった。気配を消して、立ち去っても誰も根無を必要としないだろうと思えた。自分がギルバート達に囲まれた理由も忘れかけている。焦点は根無から離れている。根無はここを離れたいと思った。抜け出すことができても、根無はギルバートの尋問の過程を切り離せないだろう。ギルバートの説く反覆から逃れられない。現に根無はギルバート達の前で坐っている。穏かでない心持で居る。
本当は他に考えたいことがあると根無は思った。ギルバート達はまだ話を絶やさない。騒然とした光景に邪魔されていると言えば転嫁になる。根無は騒音の中の思索を苦としない。気附けば根無はそこに居ないということが頻繁に起る。根無は平生の超然とした自分を呼ぼうとした。今の自分は嘘なのだろうかという気がする。根無は考えるためにまた考えた。漂う気分のまま、どこへも行き着かない。耳が話声を捉えて、惑わされている。誰のせいでもないと根無は戒めた。自分は錯雑としている。核心を掴み損ねている。掴もうとしていないのだ。拒んでばかりだと根無は思った。ギルバートはまだ盛んに話を続けている。話をまともに聞いていない根無は、その通りだと肯定する気になっている。
明晰な思惟から離れている。根無は漂泊を求めた。それが自分の本質なのだと一つ理解した。自分を納得させる筋道が絶えず形になっていることも根無は意識している。それも根無が求めていることだった。負荷がかかっているのではないか。考えても、根無を導く筋道は敵ではなかった。昨日よりも信頼できる関係の連続だった。根無はギルバート達の声を耳にして、浮んでいる。今が本当なのだと根無は覚った。思考は突然に働く。不必要なものでは決してなかった。いつも根無を駆り立てた。だから自分は今もこうして居るのだと思うことがある。
この一幕はいつ終るのだろうと根無は、少し先を描いた。始めから余興だったのだ。
「独自の見解というでもないにしても、焼きおにぎりという趣向は面白いね。」
時折口を挟んだ。話の反響も展開も期待していなかった。次第に勢いを失くして自然に解散するだろう。根無は黙想という孤独を求めていた。願いが叶っても、ぼんやりするだけだとは予期していた。
勘を働かせたギルバートは、まだこの場を支配するつもりでいる。
「ここまで来ては堂々巡りであるね。司会進行の役目を忘れるところだった。皆さん、今日はゲストが来ていますよ。」
「ゲスト附きか。」バースが興味もなく応えた。
「もう既に来てる。おい、何をしている、ゲストと言うのは都合が良すぎたね。実状は拘束と言ったところだ。君、何をしているんだね。こっちへ来給え。」
根無はその人を知っていた。その人が根無を囲む環に紛れ込んだ瞬間も見えていた。しばらく外部の人として佇み、様子を窺っていたのだった。ギルバート達の議論は脱線しながら続く。一度厭気が差せば、もう
「本日の貴重な得難き、ビッグ、ビッグなゲストゲスト、皆さん御存知の奥田です。」
「やあ、奥田だよ。どう言って良いか分らねえよ。」
その人、奥田を呼び寄せたのはギルバートだった。呼ばれて放置されていた奥田は、ようやく根無の前に立った。根無はその人を知っているとも知らないとも言わなかった。ほとんど意味のある言葉をかけなかった。この人は奥田と謂うのかという真理に、根無は直面した。
周囲の反応は素っ気なかった。奥田を嫌っているのではない。新規に迎えなければならない間柄を終えているのだ。ギルバートは「皆さん御存知」と言って、奥田を面前に立たせた。それは誰も知らないものを紹介するための逆接ではなかった。彼等は奥田を知っている。根無の記憶の中に籠る奥田を知っている。根無の知らない領域に彼等は踏み込んでいたのだ。根無は意外に思った後、こんなことばかりだと捉え直した。どれ程に知っていると云うのだろう。親友の域だろうか。福永や紅林までが奥田を知っているとすれば、本当に意外だった。根無は仲間の没交渉を信じていた。期待することを戒めてもいた。
「人を呼んどいて何のもてなしもないとか、話には聞いてた通り無茶苦茶な奴だな。行かなきゃ良かった。」
「仕方がないのだ。焼きおにぎりの究明のためだ。こういうことも覚悟しなければならないよ。自ら歩み寄ったアレクサンドロス大王は、訪問先のディオゲネスからそこをどいてくれと言われたではないか。」
「王の気持考えたことあるのかよ。自分勝手なほど偉いとか考えてるだろそいつら。根無さん、どう思います。」
「一種の災害だと割り切った方が良いですよ。」
「奥田氏は根無氏と親しい間柄だったというのは正しい情報なのかね。」
奥田と根無の会話は災害の進行によって割られた。
「親しいって、うん、全然話が合わないってこともないけど、特に仲好い感じでもなかったんじゃないか。」
根無に同意を求める口調だった。
「よくあることだよ。」と根無は添えた。
「ほう、そんなものかね。」
「でも、根無さんのことはよく憶えてるよ。かなり印象に残ってることがある。」
「それは今に話さなければならない。根無信一は何をしでかしたと言うのかね。」
「夢で見た話でさ、俺が夜に外を歩いているとさ、」
「待った。夢と言ったか。」
「夢でさ、俺が歩いてるとさ、根無さんが居るんだよ。もうビルを飛び交ってさ。高い屋根をどんどん走ってくんだよ。それを見て、やっぱり根無さんそういう人なんだなって思った。」
「お前なあ、」バースが咆哮する。「根無信一の過去を聞こうってのに、いきなり夢の話をし出す奴がどこに居るんだよ。」
「そんなの何でもありじゃん。」と田中も加勢する。
「巻末の挿話じゃないかな。」福永は短く分析した。誰の耳に入らなくとも平気だった。
「いや、夢という切口から着手するというのは、却って真実に達する近道かも知れないよ。尤も僕も夢の話をされた当座は当惑して、ちょっと待ってくれと連呼した程だったが。意識に上るものだけでは分らない心的なものがあるのだよ。根無信一を取り込んだ奥田君は、自我と対する上での審級として、根無氏を夢に登場させたのではないか。外部から受けた刺激によってシステム化された心的装置から、無意識の領域に踏み込もうとした訳だ。奥田氏が話したことは、真の経験であり、真の観察であり、真の記憶と言える。言語による構造化が幾ら為されても、原初の記憶が棄て去られることはない。抑圧されたものは必ず回帰する。それを理解した上で、今の話を再考すると、かつての根無信一の実態に迫ることができるかも知れないのだ。」
ギルバートはまた独りで喋り続けた。周囲の誰もが人間の精神に興味を示さない。ギルバートにも同調する度量はあった。
「しかし、夢の話は大変不評なようだから、一つ夢ではない経験と観察の話をしてくれないか。」
「今まで話を聞いている時に思い出したんだけど、根無さんはシャーペンの芯を舐めていたんだよ。それが美味しいらしくてね。俺、それをすごく憶えてる。」
「それも夢じゃないだろうな。」バースが真偽を質す。
「これは本当。本当に。」奥田は一刻も早く疑を晴らそうと焦った。
奥田は夢から醒めた。ビルからビルへ跳躍したことがない根無でも、芯を咥えることはあった。当時の根無は、鉛筆の芯を舐めるという謎の習慣に執着していた。同級生でペンを口に入れるものを見たことがない。舌を触れてから新聞紙や手帳を繰る祖父の動作と関連があると感じた。根無は芯を濡らすことを嫌悪しなかった。ペンを握ると、ふと魅了されている。それは鉛筆ではなかった。それでも芯ではあった。ペンから僅かに覗かせている芯を舐めて、どうするだろうと考えた。根無は新しい芯を取出して、口に咥えた。何の味もしない。直ぐに折れるだろうという予期は外れた。根無は煙草を連想した。温め続けても、溶ける感触は一向に得られなかった。
前の席に坐る奥田は、奇妙なものを発見して尋ねずにはいられない。
「それ、美味しいですか。」
「意外に良いものだよ。」
根無は芯の味を否定しなかった。味の是非など考えれば判るだろうと根無は思う。正論を前にして不可解になるのは根無だった。
「なんでそんなことしたの。」と田中は本当に疑問に思っている。
「訳が解らないね。頭でもおかしくなっていたんでしょう。」と根無は自省した。
「忘れたって言うの。」紅林が念を押した。
「私はこんなことばかりして生きてきたんだ。そして今に至る。」根無の言うことは事実だった。
「そういう話があるんだったら、それを先に言えよ。何だよ夢の話って。」バースはまだ奥田を難詰している。
「そんなに言わなくてもいいじゃないか。大体、シャー芯を舐めることも夢みたいなもんだろ。」
「それは確かに。」
「そうだろ。俺はそれを眼の前で見てしまったんだぞ。」
「やれやれ、夢から醒めたと思えばまた夢であったとは、とんだ魔境だったね。これでは僕が擁護してもしなくても灰燼に帰すだね。」
ギルバートは一人で嘆息した。
「根無君は本当に昔からって感じだね。」最後に福永が呟く。
「そんなところです。そう簡単に変っては人格崩壊だ。」
「とにかく根無さんは衝撃的な人だったな。」
奥田が口を挟んだ。一応の世辞だった。周りの反応が乏しいのを見計って、奥田は続けた。それが奥田にとっての来意だったのだと、後に根無は察した。
「あのさ、今度、三組の皆なで集ろうっていう話になっていて、ほぼ決りになってるんだけど、根無さんは来られるかな。」
「同窓会か。」ギルバートが返事した。
「そうなんだよ。江口が言い出してさ、皆なも、俺も賛成したんだよ。」
「日時と場所は何だね。」
「今度の土曜日のね、五時から段々集ろうってなってる。みのり通りにあるガーディニアっていうファミレスに来ることになってるよ。」
「急ではないか。そんなに融通が利く予約ができるのかね。」
「来られる人は来てっていう感じになってるから、人数は大体で大丈夫になってるよ。」
「そうか、それは願ってもない事態を知ることができた。またとない好機だ。」
「こんなに集ることが今までなかったからさ。」
「そうだろう。では根無君、実際どうすると言うのかね、この貴重な際会にいかなる判断を下すというのか。」
根無は考える暇も余裕もなかった。ギルバートと奥田とが問答する間、自分がどうしていたか分らない。根無は混迷の中で、無理な決断しかできなかった。共存と混合が答だった。
「行くのでもなく、行かないのでもないのだ。」
しばらくの静寂が流れた。次第に根無の言葉の陰影が浸透してゆく。含意を理解するのとは別だった。根無の答に打たれて放心した人達は、共鳴を起して笑いに崩れた。
「どういうことなの、どっちなの。」
「同窓会にってことだよね。不可能じゃないか。」
「いや、行くのでもなく、行かない訳でもないんだ。」
「何を言っているの。」
「何かいけなかったかな。」と奥田が真意を確かめた。
「いけないことでもあるし、いけなくはないことでもあるのだ。」
「どういう意味なの。」
「どういう意味でもあるし、どういう意味でもないんだ。」
根無の法則を察したギルバートは、機転を利かせた。
「根無君は長時間の拘束で疲弊しているのだ。ここらで休息をとるのだね。一つ飲物でも提供しよう。根無君、水でも飲むかね、あるいは味の附いた水かね。」
「ただの水でもあるし、水でもないのだ。」
「根無、この前誰かのコンサートを観るとか言ってたな。ロジャー・ミラーとか謂ったっけ。初日と二日目があるそうだけど、どっちなんだ。」バースも便乗した。
「十日でもあり、十一日でもあるのだ。」
根無は応えた。日附は即席だった。
「駄目だな、これは。」
「じゃあ根無君、飴食べる。」田中が飴玉の入った包装を差出した。
「もちろん、食べるのでもあり、食べないのでもあるのだ。」
根無は飴を取上げた。これは即座に解決しなければならない問題だった。根無は処置に困った。
「結局あなたはどうしたいの。」
紅林が膠着しかけた状況を切裂いた。
「どうしたいだって。」
根無は絶句した。姑息な手が通用しないとは知っていた。上手く渉ることのできない事実があった。しかし今日まで生きた根無が居ることも現実だった。根無は余地のない選択に顔を背けている。根無は椅子に腰を落着けていることに辛抱できなくなった。
「飴を舐めても大して潤いはしない。シャープペンの芯とは違って溶ける処が救いだな、当然ながら。私は本当に何か飲むことにするので。」
根無は誰の顔も見ずに、立去ることを決めた。確認のために、田中の居る方へ躰を向けた。
「これは頂いてもよいのですか。」
手で包んでいた飴を見せた。
「それは、どうぞ。」田中は拍子抜けした様子で答えた。周囲の者も半ば白けた気分になっていた。
「ちなみに、本当に同窓会には、行くの、それとも、」奥田が呼止める。
根無は首を曲げた。否定を表現しているのではない。それは奥田達にも伝わった。根無一人は首の動きを不自然なものと感じた。首の靭帯か関節が、小さく鈍い音を立てるかも知れない。根無は少し不快だった。
「それに関しては、どうしていいかという具合で、保留ですよね。だから、行くでもあり、行かぬでもあるは、結構真面目な答になるね。何なら当日になるまで、どっちに転ぶか判らないんだから。」
「特に人数制限はないから。来ない人は来ないし。全然いいよ。皆な待ってるから。」
根無が教室を出る間際、背後はまた騒がしくなった。新たな事件が到来して、波紋を拡げている。根無は
根無が歩いている通路は外へと開けた。扉を閉めて少し歩く。飲物の販売機のある場所は過ぎている。根無は立止った。運動場が見える。人が小さくなって散見している。空はいつの間にか曇っていた。根無は何の感動もなく眺めた。直ぐに興味を失って、ただ眼に映しているだけになった。
福永は新たな事件を喜ばなかった。拒絶の意思はなかったが、興味が湧かなかった。バースは乱入して来た仲間と口論を繰り拡げている。福永は観戦者に囲まれて坐っていた。福永の視点は別の所へ伸びていた。席を起つことに決めた福永は、隣に立ちはだかる人達を窺った。少しの混雑を掻き分けることに苦労は要らなかった。鎮座する机や椅子の方が邪魔だった。環を抜け切ろうという時、福永はギルバートと眼が合った。相手は謎を見詰める眼をして立っていた。福永は簡単に会釈する。ギルバートは微笑と言うには余りのある顔をして頷いた。あれが理解していない顔だとしても構わないという心持で、福永は室を出た。
紅林はいつから自分が興味を失くしているのかさえ忘れていた。根無が主人公となって、人々に
廊下で邂逅した二人は、互の姿を見合って硬直した。互に相手の意図を探っている。福永は行先を確信して定めていた。自分の行動を苦もなく相手に投影している。紅林は少し離れた所に立つ福永からの同化を感じた。紅林の離脱に意味や目標はない。福永に同意すれば嘘になる。相手から寄せられる疎通を感じた時までは、紅林の了解には真偽があった。次第に紅林の感覚は
根無の両隣には、福永と紅林が立っている。扉が開き、近附く者の気配を感じても、根無は動じなかった。追いかけてくる人を片隅で予覚していた。それは諦念に似ている。紅林は先に歩みを止めて、根無の左に居る。福永はもう少し進んだ。根無は今の状況を受容れているのか拒んでいるか分らない。
根無は左側を一瞥した。紅林は根無に一切眼を向けない。ただ横顔を見せている。何も面白くないという顔だった。何のために来たか分らないと、根無は苦笑する思いだった。
根無は右側に意識を向けた。福永が寄り添う心持で居る。根無の様子を殊更に覗こうというのではない。紅林と同じく、運動場や空を見据えている。今の根無には福永が解った。健気なものだと思った。根無はこの一時を求めているのか、考えても無駄だった。
美しい光景と言うに相応しいのだろうと根無は思う。景観を損ねるものがあれば、抹消してしまえば善い。この二人に煩悶は似合わない。あって欲しくないと根無は思う。多くの罠に気附くことなく生長して行けるだろう。福永と紅林に挟まれて、根無は祈る気持になった。何も解りはしないと、根無は考を改めた。何に躓くことになるか、まるで予測できないのだから。
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