第五章 呼声に応えて

 部屋中に響く音楽を聴こうとする者は居ない。根無の趣味の一存で、随意に曲が変った。根無は現今の好尚に全く無頓着でいる訳ではない。それらを撥ね除けるには余りに若過ぎた。新奇なものに触れて、根無は満足することがなかった。自分の嗜好と比較して鑑定するしかない。自己の鋭敏な趣味のせいだと思える。現今の音楽を解する感性を育てなかった。そのため根無は乖離を余儀なくされた。それ程に音楽は、一度足を止めた者に構わず流れ続けている。根無は既に古い人間になっている。

 根無は今、更に古い人間と相対している。祖父だった。根無の古い音楽よりも昔に出来上っている。根無が当世の楽曲を耳にして何も思わないのは、今の祖父と同じだ。祖父は聴覚を隠してそのままにしている。プレーヤーから流れる音をまともに拾わない。聞えていても同じことだろうと根無は思う。

 「お祖父ちゃんは小学生の時、姿勢が良いもんだからって、一番先にみかんが貰えた。」

 祖母に勧められたみかんを食べる根無を見て、祖父は回顧した。祖父が小学生の時、元日は登校日だった。一頻りの挨拶が終ると、生徒にみかんが配られるのだった。根無はみかんが何個貰えるのかと、詰らないことを訊いた。質問に対する祖父の記憶は曖昧だった。数は確か三個だった。根無は何個でも構わなかった。

 「それは学校の、どこで集るの。」根無は質問を繰返した。祖父は根無の声の大方を掴んだ。

 「小学校が六年あって、それから高等科が二年だった。全員集ってな。」

 祖父の答を聞いて、根無は案外な気がした。

 「小学校が六年で、高等が二年で、それから三年ということなの。」

 「いや四年だった。」

 根無は一層奇妙になった。台所に居る祖母が助けを差伸べた。

 「お祖父ちゃんは夜間学校で、働きながら学校行ったから、今とはよっぽど違うんや。それは苦労があったと思うよ。」

 祖父の過去については根無も少しは聞いていた。昔とは違う。それだけで総てが容易に納まるのだ。祖父の話は、更に時が進んだ。祖父は勤めながら、学校に通っている。

 「四年生ぐらいになると、給料も上って、夕飯も定食を取るようになった。四十円ぐらいだったか。誠帯橋通って、その先に枝巻きが売ってあった。それが六十円だったか。」

 祖父が昔の物価を平気で口にするのを、根無は殆ど理解できなかった。いつも今の十円玉を思い浮べて行止りになる。

 「エダマキってどういうもの。」

 「それは、米と小麦を混ぜて、餡を包んだものやな。」

 祖父に訊ねる先から、エダマキが菓子の類であることは察していた。祖父の説明を聞いて、案の定と思った。しかしエダマキ一つが、一食で腹を満たす定食よりも高価であることは不可解だった。当時の菓子が贅沢なものだったという直感はある。それでも夕食に優る程の価値があるとは思えなかった。この疑問は後に祖母に尋ねることで幾らか晴れた。

 「四十円ってのは、県庁の食堂のことやね。お祖父ちゃんは夜学があるから定時で早く帰してもらえて、食堂で食べてから学校に行ってたから。」

 若い時分の祖父の不明は、夜学か県庁で大抵片附きそうだった。祖母の註釈によって、根無は祖父の話を明解にした。祖父が元号を用いると、根無は頭で二十五を足した。語り手である祖父に働き掛けて、事を確かめる気は起らない。根無は小さくない障壁を感じる。祖父の耳に言葉を届けるには、無理にでも声を高めなければならない。根無は無闇に大きな声を上げることが好きではなかった。

 「きんさくさって人が居って、きんたくたって呼んでた。父が毎日郵便局勤めでな。さつま芋を、切ってある奴で長火鉢の網の上に乗せて、焼いて食べてた。」

 「それは、きんたくたって人が、焼いてくれてたの。」

 「郵便局の局長さんの奥さんがさつま芋をくれて、こんぐらいに切って、火鉢の上に乗せて、せんべいみたいにして食べた。お利口にしとったよ。」

 祖父の述懐は、焦点を変えて飛び続けた。時間が一直線に並ばず、一足飛びに往来する。郵便局長の幼い息子とちゃんばらをして遊んだ祖父は、振回した棒で窓硝子を割った。幼い祖父は「えらいことをした」と動顛した。祖父は一際声を大きくして、情に満ちた往昔の体験を語り聞かせた。隣で途切れがちな相槌を打っていた根無は、祖父に笑いかけざるを得なかった。

 祖父は写真を手にしている。どれも複写機で複製されたものだ。祖父の家族が写された数少い写真だ。父母や兄弟の姿がある。祖父は面影の見取ることのできない幼児としてそこに居た。根無はこれらの写真を何度も見たことがある。

 「この人とは一遍話したことある。」

 縁側に並んで坐る家族写真から、祖父は一人の老女を指差した。祖父にとっての祖母に違いなかった。祖父母から満足に庇護を受けた根無には不可解だった。

 「一回だけって、一緒に家に居たのに。」

 「ずっと病気しとってね。」

 祖父の回答が全てだった。根無はまだ疑義が消えない。否応なく過去の披歴は続く。

 「この人から、寒天買って来てくれってな。一個で四、五銭したか。四個買って来いって。お祖父ちゃん、外出て近くの店に買いに行った。これくらいの大きさでな。」

 祖父が見る情景は家族のことに移って行く。順当な流れに沿っていると根無には分った。

 「最初その人が来て、父が私の処で息子ですって言っても、「ふん」ってちょっとも挨拶しなんだ。最初に会った時から。お祖父ちゃん、どうしたもんかって。家庭の、それまでの平穏が、これからはなくなるという思いした。」「サバが出たのを食べて、眼玉が気持悪うてな。そしたら、「キミちゃん、食べなさいっ」て言うもんやから、もう気持悪うて。」「兄にはグローブ作ってもらっても、お祖父ちゃん何にも無い。「キミちゃん外に居らんとこっち居なさいっ」てな。兄にはよう言わんのやなあ。」「本当に、情けというものの欠片もない人だった。」

 祖父は幼い頃の事を驚く程憶えていた。記憶は行列を成して留まることなく流れ出る。語りに間断はあった。根無はまともに受け答えないからだ。根無には返す言葉がない。ただ真に受けている。祖父はこの空間から半ば超越した処に居る。根無と席を同じくしているようで、遠くへ行っている。跡も追わず根無は一時に凝然として怺えている。

 「あらっ、テレビ点いてたの。」

 台所を離れた祖母が居間に移っていた。テレビが消音で画面を賑やかにしている。根無は眼前の光景に意識を向けていなかった。終盤になった音楽に耳を寄せることにも集中できていなかった。テレビに映るものには更に無頓着だった。祖母はリモコンを手にしてテレビに向けた。消すか番組を変える積りだったのだろう。しかし指先はどこも目指さず、祖母は動かなくなった。

 「あれ、この子しばらく見ない内に随分大きなったねえ。」

 根無もようやくテレビに眼を向けた。一人の少年が映っている。根無よりも若い。根無もテレビに清新な眼差しでいた。少年の顔はもっと幼いはずだった。根無が少年のことを忘れている内に、一段と成長している。何年も昔、話題のドラマに出演していた幼気な姿を偲んだ。あれは何年前のことだったかと、根無は勘定した。年長の芸能人に囲まれて、少年は活気を振撒いて喋っている。発達しつつある骨格が見せる表情や態度からは、往年を思い出す素朴を残している。少年は子役から日々遠ざかっている。いかにこの世界で活路を見附けて渡って行くのか。根無は少年の今日と将来を想像した。

 「何や。この子か。」

 祖父はテレビに映る少年から意味を見出さない。

 「この子、昔はこんなに小っちゃかったのに、今、こんなに大きくなってる。」

 テレビを指差し、祖母は祖父に顔を向ける。祖母に説明されても、祖父は特に感心しなかった。興味を示さず、卓に残したビールを飲み干した。食器を重ねて、台所のカウンターに預けた。

 「ご馳走さん。」と尋常の挨拶をする。間を置かず、別の言葉を使った。

 「オサマカッタ。これ、しい君の小さい時。」

 祖父は「オサマカッタ」と言う度、笑を禁じ得ない。幼い根無は「ご馳走様でした」を正確に聞取れなかった。幼い孫の言い間違いを祖父は再現する。根無は微笑んで応えた。祖母の反応も似たものだった。祖父に向うでもなく話す。

 「この人はまた人の間違いを。そう言うたりなや。」

 「どうも私は妙なことを言っていたようで。」

 「何でそういう風になるんかねえ。そういう風に聞えるんやろか。」

 「子供にはよくあるって話だよね。」

 「こんなに小っちゃかったしい君が言うもんやで。そりゃしい君は可愛かったよ。」


 それから、根無は居間で独り小説を読んでいた。祖父は寝に行った。祖母も二階に上った。行を追っていた根無の眼は動かなくなった。主人公の甥が中学校に通い出して、身長が急に伸びたように見えるとある。先刻の子役の姿が思い浮んだ。経路、生長、生存と単語が当てはまる。少年の成長は見て分る。同時に幼くもあった。当人は急激な変調を感じているのだろう。傍からの観察は勝手なものだ。芸能人として生きれば尚更だ。根無は自分のことも考えずにはいられない。

 祖父が自分の過去を語り始めたのは、根無が十五を過ぎてからだった。祖父が逸楽から遠い人生を送ったことを、根無は母や祖母から聞き知っていた。いざ祖父の述懐が尾を引くのを聞くと、暗鬱とした塊を粘り強く握らされた気がした。消化されず熟成されたものに、どんな言葉も甲斐がない。根無が露骨に労ったことはない。為す術がないと諦めるだけだった。何か言わなければ非礼になると思う。何を言っても通じないと決め附けてもいる。

 「悪いね、長く続けて。」と祖父は我に帰った。根無は解放された。その時の感情は、暗澹で占められている訳ではなかった。澄んだ心持でいた。根無はある時期から祖父と正面に向き合うことを止めていた。根無は当惑のまま、祖父との距離に不能を感じた。何年も息苦しい状態が続いた。祖父は孫の逼塞を突破して追憶に耽った。根無にとっては、絶えてなかった交流の復活だった。初めて知る祖父の姿でもあった。祖父の許を去り、一人になって、根無は快い気分でいた。その快感は、残酷な変化が与えたものだった。

 祖父は根無の逼塞を察している。過去を語る祖父は幼少の自己に没入して忘我の境にある。根無の関心に気を廻すことはない。その身勝手が、祖父の孫に対する鋭敏な察知だった。根無は過去の孫ではない。祖父は大抵の子供から好かれる存在だった。根無の母も、その友達も、かつての祖父には容易な存在だった。子供を手懐けることに困難はなかった。月日を経て根無が生れた。根無も祖父を無性に好きでいた。どのような世界にでも連れ廻してくれる人として祖父を感じた。実際に祖父は小さな根無の望むことを何でも叶えてくれた。あちこちへ行き、色々なものを買ってくれた。祖父が家中を小走りに廻るのを根無は大喜びで追い駆けた。時折祖父が足を交差させて走ると、根無は可笑しくて堪らなかった。根無が祖父母の家に行って、祖父が外出している時があった。祖父の帰りが待ち遠しかった。帰宅した背広姿の祖父の許へ、大急ぎで駆けたこともあった。祖父は根無の背丈まで腰を下し、両手を拡げて迎えた。一度根無は家を出て、祖父の運転する車を待ち構えたことがあった。車の頻りに往来する路に、祖父の車を認めた。車は速力を緩めずに根無を通り過ぎた。後に祖父は、根無らしき人影を見たと言った。その時の車はもうない。

 根無は九歳の時に祖父から貰った世界地図帳を今も持っている。思い出した時、地図を祖父母の家に持って行く。祖父は地図帳を見附けると「それ、便利やろう。」と声をかける。地図帳が祖父への架け橋となったのだ。

 根無の母は、息子の様子の変化に敏感だった。直感を言わずにはいられない。

 「しいちゃんも、最近はお祖父ちゃんお祖母ちゃんに遠慮がちにするようになったね。」

 ソファーに坐って指摘する母を、根無は立って受けていた。根無は「そんなことはない。」と否定した記憶がある。しかし母の言葉は、根無が誰よりも自覚していたことだった。そして一番恐れていた言葉だった。祖父母への無邪気な応対を根無は急速に忘れた。どうしても取戻せないものだった。根無の失態を母は責めなかった。息子の順当な成長として眺めていた。母の発見は真理として、根無の前では余りに無謬だった。

 根無は昔の自分を知る人達に会いたくなかった。親が経験した人生の分だけ、根無に関わる大人は増える。家庭を持った人達は、互に訪れる足が鈍くなる。会う度に、懐古の念を深めた。遠くなる過去は、子供を土産にして、一つの象徴とする。根無はこの間隔に震えた。経年を鈍感に、大した変化もなく大人達は久闊を叙する。引換えに根無は自分の姿を晒す役割を負わされた。根無はすっかり醜くなっていた。醜怪な姿を補う何物もなかった。怠惰な根無は総てに失敗した。気附けば遅く、もう動けない。誇るものがないまま、身に纏うものもなく、傷だらけでいた。大人達の品評は、どれも耳を塞ぎたいものばかりだった。大人達の欣快の調子が刺さった。それは異物で、一向に抜けない。

 根無は芝居を観るため劇場に居た。階段を昇ると人が雑多に動いている。人だかりに、根無の知っている大人達が居るのは確実だった。両親に遅れて広間に着いた根無は、呆然と立尽していた。一場にて自失していた根無は思わず引戻された。誰かが根無の尻を叩く。硬化した躰に、更に触れられる感覚を得た。根無が振向くと、母と同じ年頃の女性が気さくな顔を見せている。根無の記憶していない人だった。根無には女性に応える余裕がなかった。激しい恥辱に前後を忘れた。女性の案外な表情を振捨て、四囲を見渡した。根無はここに居る人達の皆が女性と同じだと断じた。容赦のない人ばかりだった。

 舞台では子供達が運命に翻弄され、果てて行く。殆どが根無より年少だった。多くが劇団に関わった人達の子供だという話を根無は聞いていた。根無は芝居を稽古の段階から覗いていた。素人の根無の鑑識では、役者の演技は完成していた。指導や調整のために物語が幾度も止るのが不審だった。稽古を終えて、役者は普通の子供に戻った。根無の居る場所に寄る者も居た。根無は一人の少年を知っていた。少年とは何年も前に一度会って親しくした。次に会ったときには、根無は何も声をかけられなかった。少年の様子は昔と変らない。稽古場に居る時も風貌を保っていた。根無は少年と顔を合せたくなかった。少年はもう根無の怯懦な核心を当てていた。見附けたものは当人に差出さずにはいられない。少年は「醜くなっちゃった。」という意味のことを根無に問うた。その言葉を根無は聞いた。問は根無の全身に響く。根無は少年に向って苦笑した。それが答だった。

 舞台では、少年が手にするヴァイオリンが奪われ地に叩き附けられた。その瞬間が、客席に居る根無の眼に焼き附いて、急速に廻転した。根無の心は却って冷静だった。少年のヴァイオリンを壊したのは自分だと思った。残骸となったものも自分だった。あの時の少年の余裕を羨んだ。以後、根無は少年と言葉を交さない。

 大人からも子供からも根無は自分の欠片を発見した。その度に根無は昔を懐しむ。暗雲のない光に満ちた世界に見える。幸福だった日々に帰ろうと寝床で願った。もう一度始めから歩くのだと強く祈った。根無の精神にとって遡行はあり得ることだった。物語に取り憑かれていた。戻ったとしても同じ足迹を踏むかも知れない。覆す能力のない時分が現実に居るのだから。目覚めれば全て元通りになる。時は狂わず、忠実に先へ進む。

 あの時に描いた輝く日常が幻だったと、今の根無には解る。ただの美化だった。幸福も平和も間違いではない。裏腹に、苦難も多く経験した。あの時の根無は過去の波乱を一切忘れていた。表裏に気附かず、一面だけしか見えなかった。それ程に根無は平静を失い、判断が鈍っていた。過去が歪んで見えていた自分に、根無は憫笑する。

 根無はまたあの日を思い起す。小学六年の時、昇降口での少女との顛末を。遡って、少女達の集う教室に入ることの許されなかった日を。根無は自分が愚だったと充分解っている。物事には限度があるのだ。根無には、少女との紐帯を失う時期が来たのだ。後は流れに身を任せていれば良かった。根無は思わず抵抗していた。離別や乖離ということを知らなかった。だから根無は少女だけの室に入れると信じていた。それは根無の独断だったか。淡い記憶を繙けば疑いの余地がある。

 女子生徒が生活科室に集められることの通知を聞いたのは、確に給食の時間だった。根無のよく知らない教師が現れて報告した。少女が集り、何が行われるかは聞かされなかった。内容が秘められたことから根無は不審に思った。根無は近くの少女に問いかけたのだろう。少女は根無も女子に混れば良いと言った。本心からの提案だったとは思えない。根無は突飛な案を言われたとして、困惑する素振りに徹した。演技が少からず含まれていた。その情景が、根無には冗談の応酬に見える。冗談の内で済ませば良かったと思う。当時の根無も本気で捉えていなかったのではないか。根無は望みをかけたくなる。

 二人の児戯は直ぐに終らなかった。根無の記憶では、時間が奇妙に長引いている。延長が根無を唆したのではないか。あの時、給食の席では、担任の教師が居たのではなかったか。班に分れて、生徒達は顔を見合せて食事する。教師は毎日各班を巡って生徒と会食した。根無が少女との別れを喫した日、女性の担任教師が存在した気がする。根無の直ぐ近くに坐っていたのかも知れない。

 「根無君も一緒に来たらいいよ。」

 「どうして、自分だけ。」

 「そうだよ。根無君一人、女子の所で混ってればいいよ。勉強になるよ。」

 「いいんでしょうか、それで。」

 真相が明らかになることはないだろう。教師を加えた会話が、根無の脳裏で自然に作られる。幻への境目が判らない。根無を教唆し、後押しする教師の何気ない姿が浮ぶ。根無は教師という存在を陥穽だと決めた。根無は身を投じた。多くの者は違和感に溺れない。容易に見過して平気で居る。根無の眼には、自己に軽薄な者ばかりが映った。

 小学校を出て間もない時だった。根無は昔の余韻を色濃く残して理科室に居る。室内に居る三十人余の生徒も、同様の足並を揃えていた。各班の一人が代表して顕微鏡を覗いている。教師が指示する通りに操作する。根無の班では、上田という少女が顕微鏡に触れた。根無達は上田を囲んで、動作を眺めていた。坐る上田を立って見下す図になる。

 根無は上田の背後右に立った。ふと上田の姿に眼をやり、眩瞑した。上田は体操服を着ていた。窮屈でない着こなしは、襟の行く先を貫通する。根無は上田の露な胸元を強かに見た。下着も何もない地平がある。根無は上田を凝視した。根無の眼に欲情はなかった。本能のまま首の先を見ていたのだ。根無には予覚があった。これを逃せば次はない。最後の風景だ。これが終れば、二度と戻ることはないのだ。上田の胸にはこのような含意がある。言葉にすればこの通りだった。

 時は辛くも経過した。根無は勇気のないまま、今日という日に至っている。勇気があれば苦難を簡単に逃れることができたかも知れない。根無は今日も祖父母の家に居て、本を読んでいる。

 根無は改めて活字に眼を通した。これ以上本を読む気力が失くなっている。閉じた本を持ち歩く。

 鏡に根無の上半身が映っている。自分の姿を見て安堵した。同じ顔でも一向に安定しないと根無は思う。もう鏡に用事はない。

 居間は一瞬で暗くなる。照明を消した根無は、忘れていた闇夜に襲われた。覚束ない足取りで座敷を目指す。根無は気を紛らそうとした。根無の頭の中で、証城寺の狸囃子が流れる。車屋さんの旋律も聞える。根無の聴こうとしない曲だ。あらゆる混交を根無は面白がった。

 襖を開くと、祖父は眠っている。テレビの映像が小さな音を立てて、祖父の顔を照らしている。二つ並べて敷かれた床がある。寝る人を待つ蒲団に根無は手をかけた。脚を埋めて根無は倒れなかった。隣で眠る祖父を眺めている。自分の蒲団に落着かず、祖父の域にまで占領した昔を思い出す。祖父の躰内で流れている血を根無は想像した。かつて根無が感じた血だった。根無は手を伸ばす。何も動こうとしない自分を知っていた。根無はまだ動かずに居た。この時が、いつまでも続けば良いと希った。


 曇天に期待をかけたのは昔のことだ。朝に家を出て、根無は雲ばかりの空を認めた。不穏な空気が災厄を招く。根無は終末を歓迎した。人を脅かすものは一向にやって来ない。本当の壊滅を及ぼさなかった。押し込んで、握り潰そうとする。根無は耐えて形を保っている。家を離れて直ぐの路に車が通る。いつになく車の通りが止まない。根無は路を離れて身を隠した。運転手が根無を見附けた。催促に根無は応じた。根無は自分を弱者だと思った。下級生が見ている。やがて合流した。

 「よう信一君。」

 「根無信一だ、根無信一だ。」

 小柄な少女が二人居る。根無は力なく微笑を送った。先輩も後輩も根無は嫌いだ。人々が対等でも、根無は弱かった。

 自転車が四台連続して近附いて来た。先を競って走る。自転車に乗る男達が根無と下級生の三人を捉えた。

 「形勢の逆転だ。」

 「逆だ、逆。」

 「逆だって。そうだよ。」

 囃し立てて通り過ぎた。根無の知っている顔だった。名前は思い出せない。もう封じているから。下級生は自転車の猛攻に少しも動じなかった。根無を掴んで離さない。

 「根無はさ、特別だよね。」

 「特別な人なんだよね。」

 「それなのに普通なんだね。」

 「意外とやるよね。」

 「いや、別に。ただ普通にやってますよ。そうやってこの場所に居るんだから。」

 根無は弁解した。謙遜ではなかった。下級生は根無を本当の特別な人だと思っていたのだ。今はもう知っていて、更に念を押す。

 「でもさ、」と下級生は問いかけた。

 「やっぱり根無は特別な場所の人な訳でさ。」

 「ここに居るようで居ない。」

 「居ない方が良いんだ。」

 「でも居なきゃいけないよね。」

 「そう言われても、どうしていいか解らないな。」

 根無には解らなかった。

 「神様はさ、神様なんだよね。」

 根無は下級生の顔を初めてまともに見た。短く声を上げた。聞き返した積りだった。下級生は調子を崩さず続けた。

 「そして神様は人だったよ。」

 「神の子だよね。」

 「神様はここには居ないよ。」

 「でも人は当然人の所に居るよね。」

 「神様がここに居るんだって。」

 「そういう処に悲劇があるんじゃないかな。」

 根無は答えなかった。早足で目指した。下級生は附いて来る。

 「どこへ行くの。」

 「それは、皆さんと同じ所だよ。」

 「何か糧があるの。」

 根無は探った。糧はあるはずだった。それを下級生の前に見せられるだろうか。

 「あるよ。そのために向ってるんだから。」

 「それは認められるの。」

 「分らない。それでも糧は糧で良いじゃないか。」

 「根無はどこに向ってるの。」

 「だから、皆さんと同じ所だよ。」根無は手を動かして下級生二人を指示した。

 「でも根無が向ってる処では皆が糧を持っているんだよ。」

 「糧があるの。」

 「あるよ。それが無いなんて。」

 「遠い過去の「私」とは、距離が遠くなり近くなる存在ではない。問題は問題として歪んだ問として訴えかけて来る。」

 「それは緊張。しかも弛緩した状態で。相対する関係として凝縮されたもの、そこに何があると言うのか。」

 「連関が途絶えた。私達は行く先を知らない。来し方を知らない。身躰が身躰としてそこに在る。全体と現在の一切が須臾にして同等のものとして身を立てなければならない。」

 「疲労とはヒロイズムである。」

 車が近附いて来る。根無が観察していると、それは母の車だった。いつの間にか母は息子を追い越していたのだ。母の運転する車が戻って来る。根無の横で停った。窓を開けた母は、顔を蒼白にして根無を急き立てた。

 「しん、何してるの。早く行かなきゃ。今日は朝から踊があるでしょ。」

 促されるまま根無は車の後部座席に乗った。歩道を見ると人だかりができている。全員が根無を見ていた。根無は急いで平行に開閉するドアを引こうとした。扉が閉まるのを待たずに車は動き出した。

 「ちょっと待って。」

 「何してるの。」

 ドアが固くなって動かない。根無は無理に力をかけた。車内を覗く者達の姿を視界に入れないようにした。

 門の前で停った車から降りた根無は運動場を目指した。運動場には根無以外の全員が居た。衆人は独自の舞踏を編み出して、今日も練習していた。全員がノートを手にしていた。根無もノートを持っている。舞踏においてノートが意味するものを知る者は居なかった。

 根無は衆人の集いの一隅に近寄った。根無の知っている人達が背丈の順に並んでいる。根無は並ぶ人達がいつもより小柄になっていることに気附いた。根無はどこまでも先に進まなければならない。列の最後まで辿り着くと、先生が立って根無を待ち構えていた。腕を組んで、いつもより大きくなっていた。先生は根無を見下して言った。

 「間奏部の振附けは考えて来たか。」

 根無も一員となる舞踏は完成されていたはずだった。しかし曲の間奏は何も着手されていない。課題は根無に任されていた。根無は忘れていたが、直ぐに記憶が現れた。

 「皆の前まで行きなさい。」と先生は言った。根無は従い、先生に背を向けて歩いた。「歩くのだね。」と先生は言った。根無の後を附いて行く。根無は足を速めた。

 衆人は同じ所へ視線を集めている。視線の先は一脚の椅子だった。根無は椅子の近くで止った。 

 「ほう、君は今、止るんだね。」

 声のする方を向くと、根無と同じ年齢の人が立っていた。歪んで見える顔は笑っているのだった。少しも崩れない表情を見て、先生の手下だと根無は察知した。

 「何をしているんだ。」先生は立ち留まる根無に注意を送った。先生の眼は時々椅子の方に移った。着席を命じているのだと根無は見当を附けた。根無は椅子に坐った。

 「ほう、君は坐るんだね。」手下が言った。

 「何をしているんだ。」先生は注意した。先生の合図を読み間違えたのかと根無は己を責めた。先の判断には確信がもてなかった。根無は椅子から立ち上った。

 「ほう、君は立ち上るんだね。」

 「何をしているんだ。」

 根無は手下を見て、正解を得ようとした。

 「君はこっちを見たな。」

 「一体どうしたのだ。」

 根無は先生の方に眼を転じた。

 「今度は振向いたね。」と手下が言うのを先生は遮った。運動場では何の音もしない。先生は根無を見詰めた。根無も先生を直視して動けなかった。先生は今にも何かを伝えようとしている。沈黙が続いた。根無は幾度か虚脱に襲われた。根無はこのまま倒れてしまえば良いと念じた。しかし根無の躰は丈夫のままでいた。

 先生の口が開いた。何か言おうとして、声にならない。根無は先生の声を聞き取れなかった。置去りにした下級生が門を潜るのを感じた。恐れることのない笑声を発するのだ。根無を取巻こうと近附くに決っていた。根無は運動場から逃げた。衆人の姿がいつまでも小さくならない。まだ先生と手下が傍に居る気がした。総て振払う勢で根無は全力を傾けた。いつしか屋舎に入る扉に辿り着いた。根無は把手に粗暴な力をかけた。施錠されていた。根無は力の入れ方で扉は開くと考えた。背後に追う者の気配がする。鍵のかけられた扉は窮屈な音を鋭く立てた。

 横から把手を握る人が現れた。その人も扉を揺らして音を鳴らした。それが鍵を開ける方法だった。根無は手を見て、椿村だと思った。扉は開いた。

 屋舎に人の気配はなかった。根無は人で犇めく光景しか見たことがなかった。空間は生物となって根無を呑み込んでいた。根無はどこまでも無人の、見慣れた場所から逃れようとした。階段を踏みしめた。廊下を走る靴音は高かった。途中で濁った大きな音が背後で聞えた。転倒の音だった。根無は振返った。椿村が消えたのだと覚った。今まで根無と共に走ることを支えた。誰も居ない廊下が細長く延びている。根無には廊下が長く見え、短くも見えた。奥へ辿ればやがて行止りになるはずだった。逆に引返せば根無に迫って来る。根無は切迫した思いに駆られた。後がないと観念して、近くの室に入り込んだ。しばらくは安心できると思った。しかし、いつまでと自問した。室に身を隠したことが、自分を窮地に追いやっているのではないかと後悔した。根無は脱力して膝を崩した。後悔の念がありながら、動く気力がなかった。根無は壁に這い寄って身を凭せた。自分と身躰を静めることに努めた。根無は自分の臓物が竦み上っていることに気附いた。自覚すると自然と身躰が震えてきた。身に起る生理に乗じて、根無は意識して自身を震わせた。止めどなく動くのが面白くなってきた。いつまで震動を維持できるだろうと、身躰の勢は更に盛になった。自分独りで室が賑やかになった。根無は室内を見廻した。自分の震えで隈なく歪んでいる。自分の力で世界が変じていると思うと、根無は愉快になった。今まで顧みなかった壁に首を曲げた。途端に根無は芯まで硬直した。沢山の人間が根無の前に居た。皆の視線は揃って根無を避けていた。ただ一人を除いて。一人の人間が根無を見詰めている。何も表情が感じられない。不自然に眼を細めて、よく見える位置に坐っていた。根無には、それが根無だと判った。写真としては余りに大きく現像されていた。いつ撮られたものか、根無は知っていた。室に現れた先生がカメラを向けたものに違いない。カメラは根無を掴んで離れなかった。知らない内に大きな写真となって室に放置されている。こんな仕打ちを、と根無は慨嘆した。何かの目的で。根無は自分の姿から眼を背けた。写された根無から逃れたかった。しかし逃場がなかった。根無は身を縮ませた。もう震えもしなかった。今更、上靴に履き替えていない自分の足に気附いた。廊下から音がする。次第に音が大きくなる。行進の音がしている。歩調は綺麗に一致していない。行進する者達は正確に根無の居る室を目指していた。眼を閉じている根無は、暗闇の中で轟音を聞き続けた。

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