第四章 饒舌を求める

 残る言葉はなかった。窓外の陽射しが紅林の背を暖める。その光景を根無は伏し目に感じた。根無の姿も照らされていた。紅林が鬱積を晴らして話すのを、根無は調子を高くして応えた。悲観する心に甘い哀情を覚えながら。友のこと、親のこと。学校や教師や同級生のこと。それは愚鈍で薄情で蒙昧なものとして語られた。紅林が俎上に載せるものは、同性の、女性に傾いた。そこに未知の領域はない。やはり人間の世界だった。それでも根無の知らないことばかりだった。

 「今日だって、あの人達は教室の出入口を塞いで、嬉しそうな顔してるくらいだもの。」

 「それもまた、紅林さんに対する妨害の意志が働いているのだろうか。」

 「そうじゃないでしょう。だって、私を通せんぼするってことは、他の通行人達の邪魔までするってことだから。」

 「私も経験したことがある。私の存在を主張するのも悪い気がしてね。それだから一向に気附いてくれない。」

 「あなた、困った顔をしていたじゃない。そういう処、気が弱いんだ。」

 「いつのことだか知らないが、見てましたか。まあ、私の場合、本当に妨害を意図されていたのかも知れない。」

 「そんな神経も何もないって言ってるでしょ。あの人達、ただお喋りして楽しい気持になりたいだけ。そこに何の頭の働きもない。人の迷惑とか、一瞬にして考えられなくなってる。言っておくけれど、私はそんなんじゃないから。」

 「刹那的な生き方ですかね、彼女達は。しかし、一時の享楽のために周囲を忘れるのは解るが、なぜよりによって出入口を選ぶのかな。」

 急に紅林は口を噤んだ。徒労だったのかも知れない、根無は察した。紅林の視線は茫洋と一点を定めている。硬直した眼は、直前まで喋り続けていた時から変っていない。その表情は、温かい陽をまともに浴びないのだった。根無は淡い憧憬を紅林に向けて眺めている。冷たい顔で佇むことの美しさを思った。恥じることはないのだと自分を励ました。

 紅林の眼は生きて根無を捕えた。いつから見られていたか、根無は油断していた。紅林と眼を合せる。何も語ろうとしない。紅林に対して無情でいた気がする。何かこちらから提示しなくてはならないと、根無は観念した。

 「とにかく私は、これは持論として覆しようのない見解になっているのですが。女性には、性格が最も悪くなる年頃がある。それは、十二歳前後。つまり小学校高学年から中学生に当る、この時期の女性は一番危険なんです。」

 紅林は呆気に取られた顔附で、根無を睨んでいた。

 「話を聞いていたの。」

 「聞きましたとも。聞いた上でこれなんだから、もう仕方がない。」

 「何か話が違うような気がするのだけど。」眼差しは幾分細くなった。

 「その指摘は正しい。そして私の言っていることもまったく的外れということもない。」

 紅林は少し考えた。

 「じゃあ言ってみたら。まだ続きがあるんでしょ。分る気もするから。」

 「つまりこうですよ。女性は男性よりも先に賢くなることに悲劇があるんだ。」

 「そうでもないんじゃない。今まで、とてもそうは思えない。」

 「じゃあこうだ。男子は馬鹿であることに誇りをもつ。女子は利発であることに誇りをもつ。実際にそうかではない。あくまで理想。」

 「理想ねえ。それで話は何なの。」

 「女性は十歳辺りで大人らしき賢さを獲得する。しかも子供としての精神も忘れていない。大人のもつ狡猾と、子供のもつ幼稚とを、どちらも抱えて生きているのが、この年齢の女性の厄介なところですよ。」

 歳月をかけて形成された見解だった。即席ではない、経験の言葉だった。この考を打明けるのは、紅林がはじめてだった。根無の思想としては考究が深い部類にある。しかし結論には終りがなかった。

 紅林は目を細めながら話を聞いた。黙想している。根無の考を一度は受け留めようとしている。根無は安堵した。

 「なるほどね。人は段々成長するものだけど、完全に切り替るほど機械的になれないしね。あなたの言うこと、理解できるみたい。でも、」紅林は言葉を切った。迷いを絶って続ける。

 「それって私のことも含まれてるの。」

 「それ、とは何でしょう。」

 「一番性格が悪くなる時期のこと、言ったのは誰だった。」

 「今更逃げる訳もなく、私でありますが。」

 いつの間にか紅林は女性の仲間入りをしている。答え難い質問だと根無は思った。

 「それは何とも言えない。」

 「でも女は十歳前後が一番悪人なんでしょ。私のこと男だと思ってたの。」

 「悪人だなんて。いえ、ずっと女の人間だと信じてましたが。」

 「じゃあ何なの。」

 「紅林さんはね、特別だよ。」

 沈んだ調子が微妙に高まる紅林は押黙った。効いたかなと根無は感じ取った。不意に頑迷になるのだと観察する。

 「第一、私は紅林さんの過去を知らないのだ。昔の姿がどうなっていたかなんて、想像できない。」

 「当然でしょ。昔に会ってたって、どうしようもない。あなたって、昔はどんな風だったの。」

 「私はずっと変っていません。」

 まったくの嘘ではなかった。過去のことが去来する。紅林を見ると、疑う眼を送っている。

 「紅林さんの方こそ、どうだったんです。それこそ小学生の時とか。」

 この人にも過去があるのだ、根無は返事を待った。紅林も回想できるだけの時を過ぎてきた。その時日に根無は直面した。

 問われたからには回顧しているに違ない。紅林の脳裏に何が描かれるだろう。根無を見詰めたまま応答しない紅林を、根無は待った。

 「忘れた。」としか答はなかった。寄せて来る過去を短く流して棄てたのだった。

 それでいいのだと根無は深く同意した。紅林にも幼い姿があった。今よりも背が短く、温和な表情を浮べただろうか。詰らないことに燥いだり喚いたりしただろうか。児童の普遍の日常を紅林に当てた。その照合は、合流の間際で幾度も背離を起した。拒まれるものを根無は感受した。痩身を長い髪に纏って透いた肌が冷静を包む。それで紅林は完成していた。根無は紅林を今の状態から一秒も動かしたくなかった。紅林の姿に過去は必要ない。一点に屹立してほしかった。

 「あなたこそ、昔はどうだったの。」

 「私ですか。」

 「あなたは忘れてはいないでしょう。」

 「そんなこともないね。随分消え去ったことも多い。紅林さんと同様に。」

 「何だか詰らない。」

 根無の内奥を裂いて迫る。根無は何かを言わなければ済まない。平穏を破りつつ、被害の意識に引きずられないものが必要だった。

 「先程の話、女性が一番悪く、というのでもないけど、一番手に負えなくなる時期のこと。これにまつわる話ならお聞かせしよう。」

 根無の導入に紅林は反応を示さない。根無は構わないという態度で続けた。

 「今でもそうだけど、学校には係というのがあるでしょう。ある時私は、何と言う係だったか忘れたけど、朝に昇降口の前に立って、やって来る人々に挨拶をせねばならなかったのだよ。」

 根無は挨拶を嫌った。「お早う」に限らず苦手とした。言うも言われるも負担だった。疎らに来る人々を根無は迎えた。声が消え入りそうになるのを抑えながら。寒さに凍えたせいではなかった。

 根無の眼は幾度も左に移った。体育館が昇降口の隣にはある。そこに大野という少女が居た。大野は体育館に入るのではなかった。昇降口の前に戻る積りもない。ただ狭間に立ち尽している。大野は根無と同じ役割を担っていた。根無は来る生徒を引受けた。

 路が登校する人で繁くなるにはまだ早かった。この昇降口へは下級生のみが往来する。根無はやって来る生徒を皆警戒した。人が大勢押し寄せる光景なら堪えられる。根無には群衆から人間が見えなかった。自分の存在が強調して表れる感覚に襲われるのだ。根無は群衆に怯えるのではない。一人の人間と対峙することこそ恐しいのだ。根無を助ける者、守る者は居なかった。

 ふと右から気配を感じた。見ると校長が根無を見据えて近附いて来る。珍しく女性の校長だった。根無は今まで、生徒達が通る路を直視していた。路が右にも広がっていることに予期するものがなかった。

 根無は先刻までしていた挨拶を校長にも言った。満足な声色とは思えなかった。

 「今日もここで、お早うって言ってくれてるの。」

 「はい、そうなっているので。」

 「偉いんだね。」

 根無は感謝の言葉を言おうとした。上手く発声することはできなかった。健気に頭を下げていたから、態度が伝わったのは確かだった。校長に褒められたのは根無一人だった。決して大野ではなかった。校長の眼に大野が映っただろうかと根無は思った。本来は大野も褒めるべき対象にあったことを察しただろうかと思った。根無はまた左を見た。大野は同じ場所で表情もなく立っている。大野の品行を見て根無は、この人はどういうことなのだろうと思った。

 ある日、係活動の反省会があった。係に属する生徒が全学年揃って教室に集った。教師によって先導される反省会では、必ず生徒の悪事が暴かれた。この日の問題は、朝の挨拶運動を怠る者が居るという報告だった。挨拶の当番を担う者は根無の他にも居る。昇降口も一つだけではなかった。根無の知らない所で役割に関与しない者が居るのだ。

 根無に非はない。それでも不安が残った。自分の仕事に不備があるかも知れない。連帯責任ということも思った。大野は根無の直ぐ後ろの席に坐っている。

 「引き受けたことを真面目にやらないでどうする。自分勝手になるのは一番いけない。」

 教師の説教に対して、生徒達は厳粛ではなかった。「誰だ、誰だ」と犯人を当てようとする。根無は自分が犯人になった気持で黙っていた。人々の旺盛な声が明瞭に聞える。一体となって飛び交う言葉の中で、一際根無の心を打つ声があった。後ろの大野が一言漏らしたのだ。

 「男子がいつもサボってばっかりだから。」

 根無は愕然とした。感情は直ぐに憤慨に変じた。根無は振返り、大野を見定めた。

 「何もしてないのはそっちだろう。」

 大野も根無は見返した。その眼差しは抗っていた。さすがに反駁することはなかった。

 大野の言葉は女子の常套句だった。その指摘の通り、男子は多分に愚なことをしてきた。根無はいつも慨嘆した。男子が放つ野蛮や乱暴を。そして女子が「男子」に込める見境のない乱暴を。大野が男子を非難すれば、根無も含まれる。しかし現実は反対だった。大野は嘘を吐いている。

 「どうです。恐しい話だと思いませんか。どこまでいい顔でいる積りなんだろう。よく私を前にしてあんなことを言ったものだな。自分が悪いとは、先生の前では少しも思ってはいないんだ。勝手じゃないか。」

 根無の話を聞いて、紅林は少からぬ興味を抱いた。

 「あなたそれはいつの話なわけ。」

 「自分が小学六年生の時分であります。」

 「なんだ、随分と昔の話じゃない。」

 紅林の関心は急に薄れた。根無は自分にも紅林にも失望した。自分の経験はこの程度なのかと思う。その時、ある直感を根無は得た。

 「古くて何が悪い。ヴィンテージ品だぞ。紅林さんは小学生時代に価値を置いていない。つまりこの時期にわだかまりはない訳だ。となると紅林さんが重く受け留めているのは、それより後のことなんだ。」

 紅林の根無を見る眼が鋭くなった。根無はここで逡巡した。相手の急所を突くことを罪と思うのだ。もう先へ進むしかない。

 「何を言おうとしているの。」

 「さっき私が、紅林さんは昔どうだったのと訊いた時、紅林さんは忘れたと答えたでしょう。そこで私は小学校時代の身の毛もよだつおぞましい怪談を話した。すると紅林さんは何だそんなことと、評価しなかったじゃない。小学生の時に起した問題など風化の至り、騒ぐ方が馬鹿だと。だとすると問題は鮮度が命。新しい記憶こそ紅林さんの抱える問題意識な訳です。つまり、紅林さんにとっての、のっぴきならない事情は、小学校より後のことにあり、と私は推理するのです。」

 「つまりどういうこと。何が言いたいの。」

 まだはぐらかす気でいると根無は思った。紅林が何も感じていないはずはない。紅林は根無の言ったことを邪推だと一蹴すれば良い。根無は希った。まずは改めて核心を言おうとした。

 「何が言いたいって、それは紅林さんのですね、」

 根無の言葉は詰った。二の句が継げない。根無にとって困難ではない。ただ許せないのだった。はぐらかしているのは自分だと根無は覚った。

 「それは紅林さんの、私の場合で言うところの「少年院」時代を指している。」

 「だから何を言ってるの。」

 「当然だよな。」

 当然だった。紅林に解るはずがない。それは根無自身の問題だった。相手に理解されることを考えていない。

 「いいですか、誤解のないように聞いて下さい。」

 「そんなの、分らないじゃない。」

 「もっともですが、一つ聞くのです。実はね、私は小学校を卒業した後に「少年院」に入ったのです。三年間。で、刑期を終えてここに居る。」

 「はあ、そうなんだ。少年院。そう。」根無の話を解することに苦しむ様子を見せる。

 「お解りいただけるか。」

 「一体何をしてそうなったの。」

 「さあそこが不可解で。私としては今もなお不服でいます。私にも確かな原因を掴めずにいるのだけれど、」

 「はっきりしないのに捕まったの。」

 「奇妙な話でしょう。それで私が推測するのは、小学六年の話なんです。」

 「そんな子供に何ができるの。」

 「ところができる。それは卒業式の前日、私達は世話になった学校のためという、学校からの命令で、あちこちを掃除した訳だよ。箒で払ったりね。溝浚いなんかしてね。」

 「溝浚いなんかするかな。」信じられない顔を見せる。

 「さあやらなかったかも知れない。しかしそんなことをやった記憶が浮んだから言った。」

 「さっきから全然はっきりしない。」

 「はっきりしない。しかしその学校に任された恩返しの時間が永かったのは間違いない。」

 「今度こそ確かだろうね。」

 「体感によるものなので、あるいはそう長くはなかったかも知れない。ともかく永く感じた。紅林さん、これは回想であり推測なんだから完璧な再現は無理ですよ。」

 「もう何も言わない。」

 「いよいよ課業が終って後は帰るだけと、我々六年生の一行が門まで行ったら、あろうことか鍵がかけられたままだった。先頭を切っていた私とその仲間の我慢は爆発して、我も我もと門を飛び越えてやった。私もこの時ばかりは門を登った。私達が遠ざかった処で先生が来て、私達を難詰するところだけど、構わず家まで帰るばかりだった。」

 紅林から放たれる言葉はなかった。根無は先刻まで紅林の話を聞く役に徹していたことを思い出した。今では逆になっている。

 「翌日になって、さあ卒業式を始めようと一室に卒業生が集められた時、先生方まだ諦め切れなかったと見えて、昨日先生が門を開ける前から出て行った者は立てと命令する。皆、素直に立ちましたよ。どういう積りだとお怒りになる。最後に私の方を見て、お前までやるとは思わなかったぞと言ったものだから、私も言ったんだ。自分達は帰るべき時間に帰っただけだ、鍵を開けておかない先生こそどうなんだって。それで面倒極まる展開となった。」

 述懐に耽って根無は語を継ぐことを忘れた。

 「それであなたは三年間服役することになったって訳ね。」

 「ええ、考えてみるとそれしか思い当らないんです。ただもう不当な話ですよ。」

 「こうやって話してると馬鹿らしくなってくる。何が本当だか嘘だか。」紅林は曖昧に微笑を浮べる。

 「門を飛び越えた罪で少年院行なんだ。」と紅林は確認した。

 「はい、それと先生に口答え罪によってです。」

 「酷いんだね。」

 「そうです。あるいは正論罪と言っても差し支えありません。」

 根無はあくまで真面目でいる。紅林の表情はまた少し笑みを増している。

 「紅林さん、解っていますか、私の言ったことを。さっき言ったように、誤解のないように聞きましたか。」

 「そんなの、私はあなたの言うこと、真面目に聞いただけ。」

 「ならば良い、のかどうか判りませんが、まあ良いとしよう。」

 紅林は根無の話をまともに聞いた。それは根無にも分る。しかし誤解があるかも知れない。わざと誤解して見せていることも考えられる。根無は更に確かめたい。

 根無は声に出して笑った。野暮だと思う。面倒でもある。危いとも思った。根無の笑声は長く伸びた。紅林は表情を苦くして根無の笑声を迎えている。これはまず相好を崩しているのだ。根無は疎通が滑らかになったのを感じる。このまま派手に哄笑しようかと思った。今なら紅林と呼吸が合うだろうと欲が出る。紅林は応えなかった。

 「行きましょう。」

 紅林は面を元に戻した。まだ柔和な佇いを残している。決して根無に敬意を向ける積りがない。もう少し愚なことを言われても受け入れる余裕がある。紅林はここを去ろうと言っている。帰ろうと言うのだ。

 「ああそうでした。行くがいいです。」

 根無は従順でいようとした。我に返ったという顔付をして身を震わせた。戯けることには慣れている。紅林の眼には愚なものに映る。これで万事円満だった。

 教室を出て階段を降りるまで静だ。人の気配がしない。それで急に現れ出そうでもある。どんな顔をしていれば善いと根無は思う。

 「さっきの話だけどね、」と紅林は口を開く。

 「私は同情する。何だか不遇って感じがして。私がその場に居たら、その大野という小学生を幾らでも問い詰めてやる。」

 「手を出してはいかんよ。」根無は目を細めた。少し穏かでない。閑寂に階段を張り詰める調和が破れている。靴音が鋭利に聞えてくる。紅林の顔は見ていない。澄ましたものだろうと根無は想像する。

 「誰が殴るって言ったの。」と紅林は根無を問い詰める。

 「紅林さんは暴力反対派だったっけね。しかし紅林さんの言葉の勢いに恐れを成して死を選ぶかも知れない。煩悶だの悲観だとの言って。」

 「あんな子供が。そんなことは言わないでしょう。」

 「それは分らない。」と根無は確かめた。「しかし、その大野という人は死にはしないでしょう。今でも元気にしてる。」

 「知ってるの。」

 「いやいや全く知らないよ。どうせ生きてるに決ってる。」

 二人は外に出た。陽は充分に照っている。

 「でも、それは分らないんじゃない。会ってないんでしょ。人が平気で決めつけるなんて、」

 紅林の異議は奔出し、急に途切れた。不用意を責める、強い語勢に聞える。根無は挑発と受け取り、勢いに乗じた。

 「へえ、急に味方になるようだね。つまりどっちなんだ。紅林さんは大野の仲間か。」

 「そんな、馬鹿なこと。」と紅林は抗弁しようとして絶句した。矛盾じゃないか、と根無は思う。根無は今度こそ哄笑した。相手の息が荒くなるのを受け流すためだった。勝ち誇る気分もあった。根無は笑顔を絶やさず門を見た。直ぐ後悔した。

 門の傍にギルバートが居る。三人の男を相手に頻りに弁じている。根無は男達を知っている。先日を声をかけて来た人達だ。物事に本統の終りは容易に訪れない。今度はギルバートの策略に違ない。妙なものを連れて来たと根無は思う。

 根無が自分の存在を縮ませた時にはもう遅かった。向の人達は根無の姿をはっきり見ている。隣には紅林が居る。自分が哄笑しなければ、せめて、と根無は悔んだ。仮に声を出さなくともと思直した。根無は紅林の様子に異変がないかと横を見た。紅林は行先を強かに直視している。眼前の人を意に介さない。何の異常も見えない。根無は首を傾けた。最初の身の処置を間違えたと思う。どうするのが最善だろう。一歩ずつ門が近附く。

 根無は顔を上げた。心を入れ替えた積りでいる。根無の歩幅は飛躍する。歩み寄っていた紅林から漸次離れて行く。紅林は遠ざかる根無を無心に眺めた。一瞬にして静になった根無と偶然足並を揃えていただけだ。

 「やあ、待たせたね。退屈だったろう。」

 ギルバートと男達を見据えて、根無は近寄った。

 「遅かったね。」

 「楽しかったか。」

 男達は調子を合せて応えた。

 「根無氏は多忙だから無論遅い。何もしていないようで頭では大いに活動してるんだから偉い。」

 「偉いかね、偉いだろう。」

 「僕も負けていられない。だから入念な取材をここでやっているのさ。」

 「根無信一論のためか。」

 根無はギルバート達の姿が見えた瞬間に、見当をつけていた。

 「先日、諸君と会った時から、これは好機と思ったね。昔日の根無信一を知る貴重な存在なのだから。」

 紅林の気配が迫るのを感じる。根無は頓着せずに通り過ぎるだろうと踏んだ。ここは紅林の知らぬ領域だ。居て欲しくもなかった。紅林の脚は一場に追いついた。もう動かない。

 「え、訊かなくていいの。」男の一人が目配せしてギルバートに問う。しばらく黙っていた二人は静に笑った。ギルバートは一番快活に笑って答えた。

 「この方は僕の助手になる。仲間だ。」

 紅林は今助手に任命されたことに一切の反応を示さない。ここに歩みを留めてから、ずっと立ちはだかっている。何も言わない。この姿勢を根無は前にも見たことがある。良からぬことの前兆と感じる。

 「根無さんのなんですか。」と誰に訊ねるでもなく言う。示し立てる指先に意味を含ませる。その問なら根無は知っていた。こうも露骨に来るものだ。

 「随分なものでね。これでもね、随分なんですよ。」根無は問に答えた。

 「根無のどんな処が好いんです。」別の者が問う。沈黙の紅林に向っている。紅林は絶妙な間合いで「随分なところ。」と応じた。一同は爆笑した。紅林も得意の面色で居る。根無は左手を後頭部に回し、誇大な照れを作った。

 「嫌な処もまた随分なところなんだろう。」とギルバートは混ぜ返す。根無はいよいよ派手に照れて見せる。無闇に躰を揺らす。

 「根無さんも良かったよ。幸せを勝ち取れて。」

 一人が勝手な安堵を与える。

 「でも、根無は意外とモテたんじゃなかった。」

 同意も異議もない。根無は頭に手を当てたまま制止している。ギルバートだけが格好の材料を見附けた顔で、身を乗り出す。

 「それは面白い。もっと詳しく話したまえ。」

 「何かあったかと言われてもな。」

 「いや、あるよ。根無さん憶えてないか。中二の時、一緒だから杉原さんが言ってたじゃん。これから根無君と一緒になるかもってさ。」

 若干の驚嘆と興奮が起る。

 「何だそれは。甚だ運命を感ずる発言だね。しかしそれは怪しいよ。」根無は訝りの声を高くする。

 それはもう夏になっていた。偶然席が近くなった杉原と根無はよく話した。根無は始終奇警なことを言いたがった。相手を愉快にさせたい一心だった。根無の献身の正否は、対手との相性次第だった。根無の振舞はまだ制御の効かない、危ういものだった。幸い、杉原は根無を笑顔で受け入れた。何を言っても身を捩って笑ってくれる。根無の舌頭は円滑に進む。

 杉原と親密に話し込んだのは、この日が初めてだった。こんな人が居たのかという眼附で、杉原は根無を見ている。嬉しい発見と言うに相応しい。その感が極まった。

 「もしかして私、これから根無君と一緒になって行くのかな。」

 杉原の唐突な言葉を、根無は鮮烈に記憶している。衝動に駆られていると根無は思った。寸前までの談話と調子を異にしている。期待を寄せられている。根無はどう応えていいか分らなかった。余りに軽快に、意味を集める言葉を放っている。解剖すれば、多様に陰影が横断しているのが見える。根無は好きな処を選べば良かった。しかし手を出さなかった。

 白日の下に交された杉原との交歓は、人の耳に聞えた。友人から追求されることもあった。昔のこととなった今も、人の記憶に残っている。根無は始終取合う積りがなかった。

 「ふん、安くないね。」

 ギルバートは余り興味を示していない。根無は辟易して眺めた。

 「そんな事より、他にないか。根無氏の方から想いを寄せた人間というのがさ。」

 「本人に訊けばいいじゃないか。」

 「あまり当人が明け透けに言ってくれると研究者の立場がなくなるから弱る。何事も当事者が沈黙でいる程、傍から突き易い。」

 根無が自と抱いた感情に、ギルバートは着目している。その方が根拠があるだろうと根無も思う。他人の証言に信を置くのは根拠に遠いとも思う。

 「上田千穂でしょ。」

 「青井さんじゃない。」

 二人の口から同時に上る。

 「ああ上田か。」と一人は思い直した。

 「いや青井さんも、そうか。」

 「どうだね、根無君。心当りの程は。」

 その調子とギルバートは満足だ。

 「さすがに二人とも記憶に残っているけどね。その手の疑をかけられても仕方がないのだろうね。」

 二人とも疎遠な仲ではなかった。深くはない、軽薄な間柄だった。ただそれだけのこと。それだけでない気もすると根無は不明になる。

 「席が近くてね、よく話したのは確かだ。当時の自分がどう思っていたかは、迷宮だ。」

 「ほう、そんなものかね。他にはないか。」

 「俺、知ってるよ。」しばらく経って、一人が思い出した。

 「椿村って人と付き合ってるって話を聞いたことあるんだけど、違ったかな。」

 周囲の反応は芳しくなかった。誰の記憶にも留まっていない。見当違いの意見になる。正体の解らない情報だ。却って核心を突いた感じがする。根無にとっては少からぬ響となって応えた。まだ憶えている者が居たのだ。ほんの断片を、遥々拾って今も手放さない。未だに記憶の所在を引揚げるくらい確でいる。

 勝手な詮議を聞いて、根無は寛容でいた。著名な作家が死後、恋人の存在を推測される。いつの間にかその人物は大変な艶福家になる。その有様を自分に重ねた。不快に思わない自分を意外に思う。

 「根無君、どうだ。」

 「いよいよもって謎だ。」

 「こうも謎続きでは進退窮まるね。やはり本人が居ると停滞を引起こすから駄目だよ。根無君、帰ってくれ。君が居ると邪魔になっていかん。」

 また爆笑が起る。根無は立退きを命じられて平気でいる。早く帰りたかった。

 「研究者というのは勝手なものだな。好き好んで遠廻りして喜ぶ変態だ。帰りましょう。」

 根無はギルバート達に背を向けて歩き出した。紅林も附いて来た。意外ではなかった。同時に根無は、鮮烈な印象を抱いた。

 「待て。」とギルバートは声を上げた。

 ギルバートは男達と共に居る。根無と紅林は離れようとしている。ギルバートは両方を見比べた。直ぐに決着が附いた。

 「いや、帰り給え。僕はこっちの方面で探るから。紅林さんは自分の任務を全うするのだ。」

 「それはどうして。」

 「僕の助手じゃないか。」

 「ああ、そういう。」と言い残して、根無の先を行く。根無も附いて行く。別れの挨拶はない。根無はこの失礼が快かった。

 歩いていて、根無は気まづい。紅林の歩調は、根無を顧慮せず果敢に進む。根無は、紅林の体躯が自分より低いのに納得できない。自分の丈に迫っていないと気が済まない。紅林は自分の一歩先を歩く。根無との対格差を比較する気もない。

 根無は今までの逡巡を愚劣なものに思った。紅林を前に畏怖しているのは的外れだ。紅林とは何の関係もない。興味を抱かれることもない。先刻から紅林の横顔が少し見えるだけで、ほとんど背ばかりだ。根無は脚に力を入れた。

 「それで、どうなの。」

 突然問われた。根無の方を向かずに詰問する。重い響として根無を撃った。根無は戸惑いを一瞬にして、直ぐに見当がついた。少しの躊躇の後、確かめる。

 「研究に携わる者としてですか。」

 「そういう訳でもないけど。まあ、そういうことかもね。」

 「いけませんよ、そんな。立場を弁えよう。いいんですか、ギルバート・サリバンの助手になって。」

 「ちょっと不名誉といったところね。」

 「じゃあ何も問わないが良いでしょう。紅林さんがあれの傀儡は駄目だ。」

 「あれの助手になった積りなんかない。ただ聞いてるの。」

 「そんなに気になることかね。」

 「気になると言うか。意外だなって。」

 「紅林さんをして驚嘆する程の事実が隠されていたとでも。」

 「そう。あなたが思ったより異性に愛される人だったなんて。驚きの余り、引っ繰り返った。」

 「意外だなんて。どうしてこれでも今も現役なもので。勝手に引退させては失礼だ。」

 紅林は相手にせず先へ進む。

 「じゃあ早速、遍歴を聞かせてもらおうか。まず上田と青井からでいい。」

 「厭な記憶をしてるじゃないの。」

 冷淡に人の姓を呼び捨てる紅林に、根無は肝を冷した。

 「別に訳ないでしょ。早く。」

 「そう求められては困るな。」

 「どうしたの。何か不都合でもあるの。」

 「言っても詰らない話なんだ。」

 紅林に威されて、根無は白状した。

 「では話して進ぜよう。断っておきますが私の昔話は大して波乱万丈ではございません。それは神韻縹緲にして磬の如き璆鏘の音を我が玲瓏たる声にて論ぜば、欣趣と見紛う詩境に入らしむることを至当とす。」

 「うん、そうだね。」と紅林は促す。

 「まさに烏合の衆、枯木も山の賑わいと言った処です。」

 返事がない。根無は姿勢を改めた。少し愚弄が過ぎた。紅林に歩調を合せる。

 「それは、私が「少年院」にて緩慢な濁流を生きていた時代だった。」

 根無は調子を低めて語り出した。

 その流れの中で様々なものと逢着した。時にはぶつかり、時には過ぎ去って行った。私はほとんど動かなかった。動けなかった。それは温和しくしていないと「少年院」を出られないと懸念していたからだ。態度が好い者には刑期を短くしてやるなんて温情があるではないか。何で怒られるか判ったものでない。始終叱られ通しで平気で居る人間が、どういう割合かで必ず居るが、羨ましいよ。私も気分ではそうなっているが、それだけだ。とにかく私は立ち竦み上っていた。今以上にだよ。誠に恐しいことだ。

 しかし、温和しく恐縮していても何も良いことはない。交通の盛んな道路で一台だけ余りに低速な車が居たら、さぞ迷惑だろう。私は高速道路に居た。のろのろ行ってたら、それは顰蹙だったろう。反省しよう。しかし、そもそも高速道路なんかを作るからいけないのではないか。車が速く走れなかったら故障だが、人間は別だ。そうだ、車によっても高速に行けない種もあるのだった。それで善いではないか。土台無理な話だったのだ。

 私の目指した安全運転は却って事故を招いた。多事多難。爆走が好きな者が居るからね。いやそうではない。爆走しかできない人間がこの世には多いのだ。当時はそのことを知らなかったから、随分呻吟した。同じ道を進んでいるはずなのに、どうしてこうも違うのかと。この辺の問題については幾らでも語れる。とは言え、今回の話とは大分逸れているから止すとしよう。わざわざ言うことではないと思うのだし。

 上田という人とは始終一緒だった。これは双方が望んでのことではない。勝手にそうなった。クラスも一緒であれば、席が近附くことも度重なった。ハッピーセットと評される程だった。セットになって何か起ったかと言うと、何もない。上田さんと親しい人間は幾らでも居た。人格が愉快だったからだろう。ある時、クラスの女生徒の器量で順位を附ける者が女子で居た。男子ではない。その順位によると上田さんは慥か二位だった。順位附けした本人は四位だった。まあ人気があったのだな。先刻は愉快な人柄だと言ったが、要するに異性から冷かされても厭な顔をしないのだ。喜んでいるのではないかというぐらい。身近な例を挙げれば、田中瑞希という人が居るだろう。あの人も随分な扱いを受けているが、本人強いものだ。ああいう人間はどこにでも居るものだろうね。

 もう一人名前が出た青井さんだが、こちらは打って変って人々から尊敬を集めた。悪い処など一つも見当らない。ピアノが巧くてね。ただでさえ巧いのに、卒業する時にはもっと巧くなっていた。国語の教師で、酷く下らない、時に品のないことを話して座を掻き立てる者が居て、ある日も常の調子を出していた。その時青井さんは何かの用事で居なくて、直に帰って来た。教場が盛上っているから、青井さんがどうしたのと訊くと、教師がもう一度繰返そうとするから、室の者が聞かせるなと止めた。聖域だったのだ。

 青井さんと席を隣にしたこともあった。よく話した。一度失敗をやった。何か青井さんに話したいばかりに、ノートに平仮名のね、れ、わの字を書いて、三つの字に共通する縦棒の処を一直線で貫いた。これで三つの字が串刺になった。それを青井さんに見せて、これを小学生の時にやらなかったかと訊いた。青井さんは呆気に取られて何それと小さく叫んだ。当然だよ。私もその時初めてやったのだから。意気軒昂としてノートを見せた私は、行き場を失くしてほとんど何も言わず引込めた。青井さんとは色々話して楽しいことも少からずあったはずだが、憶えているのはこれしかない。不名誉だ。

 不名誉と言えばこういうことがある。我々が何かの行事で集って、その様を保護者が参観できるということがあった。授業参観ではない。その行事に私の母も来ていた。後で母から聞くと、青井さんの母親から声をかけられたのだと言う。娘がお宅の息子さんと文通をやっているそうで、何分よろしくとかそんなことを言われたそうだ。ところが私は青井さんと通信なんてしたことがない。奇妙な平仮名遊びなら見せたが。詳しく聞くと、別の男が青井さんと文通していて、その男の母親だと早合点したらしい。偶然、私の母が文通男と一言二言交していたから判断したのだ。文通男は確か社長の息子だった。勢力家の御子息が我が娘とやりとりしているとなれば、特別な挨拶もしたくなるだろう。しかし私の家庭は決して社長ではない。社長より尊い処はあるかも知れないにしても。とにかく青井さんのお母様にとっては、利益のないことだった。

 上田さんと青井さんという二人とは、大した事件はなくとも、何かしらの関係や交流があったのは事実だ。肝心なのは私が上田さんや青井さんをどう思っていたかだ。これは非常な微妙な問題だ。無論嫌いではなかった。そうなると好きの方面へ向うことになる。言われてみると好意を見出すこともできる。どうにか結ばれようという情念に入る要素はあっただろう。しかし当時の私は、あの人達に何か為したか。また何か想ったか。要するに附合いたいとか、二人でどこかに遊びたいと思ったか。慕情とはそういう欲求を起すものではないのか。ところで私はそういう欲求を上田青井の御両人に向けたことはなかった。まるで発想になかった。いや、もしかすると何かあったのかも知れない。しかし今となっては覚えがない。記憶がないということは、その程度の感情でしかないということだ。

 そうだ、まだ居た。最後に名前が挙がったのは、椿村という人だった。意外な処から名が出たものだ。あれでなかなか鋭いようだ。確にあの人とは幾らか関係があった。ただ、あれは余り好いものでなかった。随分無理のある人で、私も随分やり込められた。酷い理屈で始終振廻されるには閉口した。例えばと来たら、どんなものだろう。そうだ、こういうことがある。実はこの出来事によって、私と椿村との関係が険悪でない、相手に一目置かれる契機になったと私は信ずるのだ。

 椿村という人は、随分と不満の多い人だった。結局、真面目な人だったのだろう。あらゆる課業を人並にこなそうとして、負担を重ねた。その捌け口が私だった。

 ある日、椿村さんは不満の募りのために、私はもう病気だと言い出した。ここまでは普通だったが終いには精神安定剤を買って来いと迫って来た。余りしつこく言うから、その日に薬局で買って翌日本当に渡してやった。相手もさすがに苦笑したね。やったと私は思った。相手の気持も解れてね。

 改めて問題となるのは私が椿村という人間をどう思っていたかだ。これは判り易い気がするのではないか。尤も、当時は奇妙な噂が流れた。それこそ私と椿村とが恋仲にあるということを。先刻のあの男が、椿村の名を私と関連附けて挙げたのも、昔の記憶を今になっても遺していたからなのだろう。余計なことだ。全く安心できない。私は椿村という人に対して何も思っていないと言って良い。これも我が心理を深く潜れば何か出て来るのかも知れないが、そんな手間をどうして掛けよう。一つ疑問を言うとすれば、相手の方だ。つまり椿村という人がだ。

 「あの、話してるとこだけど、もう。」

 紅林は眼を伏せて立ち止る。根無も止った。根無も先刻から察していた。二人はここで別れる。後はそれぞれの帰途がある。紅林はこれ以上話を聞こうとしない。足を止めて続きを聞く気がない。根無も賛成だった。強いて話すことでもない。先刻から厭気が増していた。実は最初から同じ気分だ。

 「それで、あなたは誰も好きじゃなかったんだ。」

 「ええ、そうなりましょう。」

 「何も事件はなかったんでしょ。」

 「些細なことのみです。」

 「本当にそれだけって感じ。もっと決定的なことがあれば良いのに。」

 「これでも当時は全盛期だったんだ。当時まではと言おうか。臆面もなく女子と話せて。男以上に気軽だった。今じゃそうも行かないようだ。」

 「どうして。私と普通に話せてるのに。」

 根無は紅林の観察を尤もだと思った。根無は話しに軽妙を求めた。紅林への態度は常に意識して見せたものだった。紅林に限らず、特に女性には根無の意図が働いた。根無の求める方向を逆に辿ると、どこまでも幼少に還ることができる。根無の気立ては昔のままだ。それでも根無は難航を感じる。昔の方が容易に溶け込めた感覚を棄てられない。

 果して昔の根無の方が巧妙だったのか。かつての少女が放恣に根無の道化を求めたと同じで、根無も無邪気だった。根無は少女を愉快にさせた。一方で少からぬ困惑も作った。かつて少女との交歓は容易だった。同時に安易だった。ここに逢着して、根無は過去の失敗が雑然と並ぶのを認めた。

 根無は今の自分こそ洗練された状態にあると思う。いつしか抑制という技巧が備わっている。長年の継続による成長だと思うと、悪い気はしない。しかしまだ未練が去らない。天才という語が昔の自分と結び付きそうになる。解消されない謎で、根無の理路は動かなくなった。

 「腐っても鯛と謂うように、腕があるということだよ。」

 根無は自分の右腕が痛くなるくらい揺らした。

 「もう一つ言うけど。あなた昔の自分が周りと一緒になる上でとても苦労したって最初に言ったけど、本当に辛い人がそんな風になれるの。」

 根無の現在の精神が、過去の辛苦で荒廃した結果だと紅林には視えないのだ。根無は不服ながら、どこか同意した。最後まで健康な面を残して生きている。自分の人生が酔狂な道楽で成立している気がする。

 「冗談じゃない。」と思わず声が大きくなる。直ぐに撤回して答えた。

 「無論そうですよ。私が何かのせいで壊れるなんて、その種の弱い人間ではないのだから。」

 紅林は眼を逸らした。小さく幾度か頷いている。首肯する態度で居て、興味を失くしている。

 「そういうこと。どうも有難う。貴重な話を聞かせてくれて。」

 言い終らない内に紅林は背を向けて遠ざかる。根無は「それでは。」と声をかけた。返答はない。冷やかな後姿には見えなかった。後は一歩毎に小さくなって行くばかりだ。根無は所在なく見つめている。紅林が消え去るのに時間はまだかかる。

 「喋り過ぎたな。」と根無は呟いた。視線を変えると信号が丁度青になった。渡ろうかどうか迷う自分を無益なことと苦笑した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る