第三章 手紙の残滓

 新しい制服が徒に期待を駆立てた。根無は当時を回想する度に、外部からの波に無力な自分を発見した。根無は抵抗こそ自分の価値だと願っている。弱さの露呈が却って根無の気を強くした。

 根無は教室の最前の席に坐っていた。根無の期待は、総てを拒絶する欲求に代った。それが総てを無抵抗に受容する結果になるとは知らなかった。

 根無に隣接して坐る少女が話しかけた。上田という姓だった。活気がある気性を人々に振り撒くこの少女も、この時は根無に対して遠慮する様子を見せた。

 「あの黒板の時間割、読んでくれない。今日、眼鏡忘れちゃったから。」

 根無は室の扉の直ぐ近くにある黒板を認めた。式の翌日にはもう授業があった。根無は低声で、黒板に書かれた文字を読み上げた。

 「ありがとう。」

 上田の常套の感謝に、根無は意味がある言葉を返さなかった。拒絶の意志を蘇らせることに努めた。小学校に入学した時の記憶も浮べた。あの日と同じで、心を入れ換えることを意識するべきだと信じていた。

 担任の教師が威勢を込めて扉を開けた。若さを通り越して、なお青年の面影を失おうとしない男の足取りは軽かった。根無は教師の歩調を一身に受けた。

 教室は静まるのが早かった。この日、既に芽生えている仲間は、日を追う毎に室を騒がしくするのだった。

 「先生にもね、中学生だった時がありました。中学一年生だった時がありました。先生はね、その日のことを不思議に憶えているものなんです。」

 教師は、自分が中学生だった時のことを鮮烈に記憶していると主張した。中学時代の原初の日をも忘れずにいると言う。今日からの月日がいかに貴重であるかを生徒に説いた。それが教師の信じる、意義がある仕事だった。

 しばらく話してから、教師は手当り次第で生徒に話をさせた。今の心境や抱負を訊ねている。どの移動手段で来たかということも知りたがった。生徒の応答は覚束ないものだった。年長の者が見れば、微笑ましい光景として映るのだろう。その声も調子も、ひたむきで純真なものに見えるのだ。教師は生徒の答を聞いて、滑稽で大袈裟な反応を見せる。その度に控え目な笑声が漏れた。根無は温和な室の空気の中で、自分なら教師の問いに何を答えるか、考えていた。

 「そうだ。ところでね、これは皆に伝えておかなきゃいけないんだった。」

 生徒の許まで接して歩き廻っていた教師が、不意に教壇に戻った。

 何を言うのだろう。怪訝に思っていた根無は、教師の右手が近附いて来るのを眼で追った。教師は根無を指して、生徒達の視線を集めた。

 「皆さん。彼はね、根無信一と謂うんです。」

 根無は、既に教師の顔まで見上げていた視線で、更に眼前を注視した。教師の顔は笑っていた。指し示す手は間違いなく根無を捕えている。根無は教師の意図を探ろうとした。人の言葉と動作には、何か意味があるのだと信じていたのだった。突然の衝撃で、思考は定まらない。

 「はい、根無信一です。」

 「本当にそうだね。」

 教師の確認に根無は当惑した。

 「そうだとずっと信じてますが。違ったでしょうか。」

 「何を言ってるの。君は根無信一君に決ってるじゃないか。」

 教室で笑いが起った。根無も笑顔で顔を歪めた。

 教師は「根無信一です。よろしくお願いします。」と観衆へ向けて言った。根無は立って教師の言葉を復唱した。教師の顔は改まった。

 「根無君は西高校に行くんだよね。」

 教師はある方向を指差して言った。西高校は直ぐ隣にある。教師の指は、学校がある位置を正確に示しているはずだった。

 「はい、多分その予定です。分りませんが。」

 「そうだろう、そうだろう。」と教師は陽気に応えた。それからもう一度、表情を真面目にした。

 「君は、どうやってここに来た。」

 質問を受けて、根無は狼狽した。その答は簡単だった。また酷く難解にも感じた。根無は言葉に詰った。沈黙は長く続いた。窮屈で悲惨な瞬間だった。

 教師は、いつの間にか開いていた本を、音を立てて閉じた。時機は去ったと根無は覚った。

 「そうか、そうだろうな。仕方がない。」

 教師が見せる横顔は、無念を物語っていた。沈痛な顔をして黙っていた。

 「いえ、違うんです。言います、言えますよ。」

 「いや、いいんだ。先生も悪かった。もう坐ってよろしい。」

 教師は根無の答を一切受け入れなかった。強い拒否と感じた。根無は着席を命じられたのだ。根無は力なく坐った。ここに腰かけていることは間違っているのではないか。しかし起ち上がることは更に間違っている。


 来客が帰ると、やっと解放されたという喜びが生れた。友との歓談を楽しんでいたことも事実だった。それでも根無は一人で居ることに寛いでいる。安息の余韻は夜中まで続いた。

 「信一、ギルバちゃんにお金渡せたの。」

 根無の母が寝室に入った。根無が横たわる傍に置かれた卓上ライトが、室に居る人や物の輪郭を曖昧にしている。仄かな温かみの中に居る母を、根無は見た。

 「渡したよ。最初、今日の鍋会は僕の慈善事業だって主張してたけど、これは親から貰い受けたものだと言ったら即座に受け取ったよ。」

 「きっと信一に出費させるのは気が引けたのよ。」

 「人の気兼ねする一面を持併せていただろうかね。」

 食事を終えても一座は漫然と談話を続けていた。八時になると、ギルバートはつと起ち上がった。こうしてはいられないと帰り支度を始めた。福永にも辞去を促した。

 「福永君、二次会と行こう。君の家へ行こう。或いはバースの家を訪うのも良い。」

 根無はギルバートを勝手な奴だとも思わなかった。むしろ歓迎する気持でいた。ただ福永が連れ廻されるのは不憫だった。

 「嫌なら断ったって何も悪くないんだからね。」

 承諾も拒絶もしない福永を見て、根無は助ける気持で言った。福永は一向に涼しい顔をしている。満更でもないのかと根無は眺めた。

 「あれからあの人達は二次会を始めたんだろうか。」

 「あんなに帰るなんて、ここに居るのが厭になったみたいな態度じゃない。」

 「奇妙な人なんでね。何をするか解らない。それがあの人の所作だね。」

 このギルバートについての説明は、自分にも該当すると根無は信じた。ギルバートと同じことをする度胸はない。自分の予測不可能はギルバートとは違うのだ。

 根無の母は、若い頃に知り合った仲間の突拍子もない言動について語って聞かせた。母が何と関連させて話を始めたのか、根無には解らなかった。相槌を打つ内に、ギルバートの奇行から過去を連想したのだと得心した。根無は散漫な気持で母の声を耳に入れた。

 回想を多く含んだ二人の会話は止んだ。仮の就寝の挨拶をして静になった。今直ぐに眠らないことは両者が了解していた。

 根無は頃合を待っていた。時が経つと、母に意識が残っているか判断できなくなった。背を向ける母の姿が見えるばかりだ。根無は首を反対に向けた。傍の卓には一葉の手紙が置かれている。便箋は封筒から取出されている。根無は凝然と見ている。

 埒が明かない思いがする。根無は手を差し伸ばした。手紙をまとめて掴んで寄せた。

 封筒には「1年後の自分へ」という手書きの文字がある。巧いとは言えない字だ。黄色い封筒は自分で選んだものではないのだろう。他に数種の色がある中から、考もなく取ったのだ。

 「少年院」時代に書かれたものだと、根無は改めて意識した。出所まであと一年という時、教師に書かされたのだ。いかにもその種の人間が好んでやりそうなことだ。根無は消えかけた記憶を起して思った。

 開封済の封筒を改めて見た。手で乱雑に切裂かれている。書いて一年後に出来したものに、愛着がなかったのは明らかだ。それでも読まずにはいられなかった心境を根無は考えた。

 根無は封筒をベッドに落した。便箋を手に取った。二つに折られた二枚の便箋を開いて、根無は読んだ。


 1年後の自分へ

 この1年間おつかれ様!

 受験勉強がんばっている?

 高校は、自分の希望した高校いける?

 これから、もっともっとがんばって、受験にのぞんでね!

 部活はどう? 地区、全国行けた?

 1年生もいっぱい入った? 2年生たちでがんばれるの?

 まず全国行ったなら、おめでとう! 行けなかったら、ドンマイ!

 今、泣いてる? 笑っている? たぶん泣いてないと思うけど……

 これから先どうするの?

 将来の夢決まった? 介護士になるの? 幼稚園の先生になるの?

 ま、一年前の自分的には、どっちでもいいと思ってまーす!

 まずは高校行って母、父、妹をよろこばせてあげてよ!

 今はどうなっているのかなー?

 友達とうまくやってる? 新しい友達といるの?

 でもたぶん変わってないでしょうね!

 これからも受験勉強めっちゃがんばって絶対高校合格してね!

 もう少しがんばってね!

 一年間たのしかった?

 このクラスでよかったと思えるといいね!

 もう書くことないので サヨウなら――――――!


 読み終えて、根無はこの手紙を書いた者を嘲弄したくなった。何という執拗な質問の連続だろう。始終、文脈が前後に飛躍している。辛辣にとれる問いを未来の自分へ投げかけているのが奇妙だ。春に返って来た手紙をいかなる心持で読んだものだろう。

 根無は封筒を拾った。この手紙は汚れていたのだと根無は思い返した。封筒を裏返すと宛名が書かれている。書き飽きた字で、「椿村紗栄」とある。

 総てが終った日、根無は独りで教室を掃除していた。塵を集めようと思えば、教室では毎日充分に積った。諸々の塵を箒で固めている内に、手紙が落ちているのを発見した。本当は最初から眼に附いていたはずだった。

 根無が見附けた時から、便箋は封筒を離れ出ていた。誰かの靴跡が紙面に附けられている。手紙に書かれた椿村の名に、根無はささやかな興味を抱いた。他愛ない文章に大した興趣は起らなかった。それでも、普通なら見ることがない他人の私的な言葉に触れて、好奇の境に漂った。

 根無はその手紙を大切に保管することがなかった。書籍や音盤に紛れて隠れているのが常だった。部屋の物を整理する度に、手紙は不意に現れた。その度に根無は眺めて読み返した。そしていつしか消える。根無にとって手紙は、存在を忘れながらも、常にどこかに在る物だった。

 出没自在な椿村の手紙と再会を繰り返して時は過ぎた。根無は手紙を眺めている。次第に文面から意味が表れ出した。今までは意識しつつも感得しないでいたのだ。

 鉛筆による荒れた手跡が便箋を連ねている。眼を凝らすと、書かれた字の奥にもう一つの文章が見える。椿村は、書き終えた文を消したのだ。今残っている文は、改行と余白に満ちている。便箋の二枚目は、半分までしか達していない。消えた文こそ、紙幅を埋め尽している。椿村は何を考えて、自分の言葉を総て消したのだろうか。手紙を書く時間は限られていたのだった。筆が乱れて当然だった。改めて書かれた手紙は、質問の連続となった。消してもなお迸る、未来の自分に問いかけたい気持があったのだ。根無は、完全に消え去らず、幽かに浮んだ字を読み取ろうとした。字は余りに薄く、まとまった文章を築けない。

 手紙を捨てたのは椿村本人だとしか考えられなかった。椿村は一年前の自分の声を棄てたのだ。当時の根無にも、椿村の心持は読めた。手紙は誤って落されたのではない。教室の床に残された手紙からは、明らかに椿村の意志を感じた。

 根無は照らしたままの灯を消した。寝室はようやく闇となった。天井の電球が、次第に根無の眼に浮んできた。眺めていると、電球が秘かに右に移ろうとして見える錯視に陥る。

 眼が慣れた闇の中で、椿村の顔が浮ぶ。その顔は、アルバムで見た写真だった。慎ましく笑っている。その笑顔には親しみがあった。直後に自分の顔が浮んで来るのを、根無は打消した。

 椿村とは、出会う前から関係があったかも知れない。根無の祖父がアルバムを見て、椿村の名に眼を留めた。祖父の同僚に、椿村という名をもつ者が居た。祖父は抽斗から名簿を取出した。祖父はかつての職業のことに関わると、いつも抽斗を探ろうとする。名簿には確かに「椿村」という姓に続いて、男の名前があった。椿村という姓がありふれているとは思えない。名簿の男は、本当に椿村紗栄の祖父であるかも知れない。有り得ることを祖父に伝えると、祖父は躰を動かして頷いた。同僚だった椿村と祖父とは、良好な間柄だったのかも知れないと根無は推測した。

 アルバムを祖父と見て、根無は椿村本人に確かめたいと思った。自由の身となって浮かれていた根無は、遠からぬ日に椿村と会いたい気がした。会うために必要な連絡も場所も失っていたのだが。

 根無は母の姿を窺った。母は息子が寝入るまで、自分の意識を保っているのだとかつて言っていた。それでも根無の観察では、沈静な母が眠っているとしか見えない。

 椿村を巡る過去の日々が去来する。椿村は、かつての根無が関係した少女の、一つの典型に属する存在だった。根無は多くの少女から危険がないと見做された。根無は謀ることなく、少女に見附けられたのだ。少女からの、無邪気な合一が寄せて来るのを根無は感じた。根無は相手と心安く共になることができた。

 根無が安全な男であるという感知は、時に別の作用を起すこともあった。そういう時、根無は軽度に小突き廻されるのだった。長たらしく話を聞く内、幾度も態度を改めさせられた。貪婪に話を求められることもあった。子供の遠慮ない力で打擲を受けた。決して悪意から発生する暴虐ではないことを根無は知っていた。泣かされる思いで憤ることもあった。しかし快い気分でもあった。根無は最後まで勝つことを選ばなかった。

 椿村は、弱い根無に甘えた最後の少女だった。いつしか少女達の態度は変っていた。或いは根無が変ったのかも知れない。自分に起った変容を想うと、根無は茫洋とした謎に直面するのだ。

 椿村は今どうしているだろうか。根無は何も知らない。どこの学校に居るか分らない。誰を訪れれば手掛りが掴めるか、見当がつかない。わずかに残した知合いを探れば、容易に椿村の現在に当るのではないか。そう遠くへは行っていないだろうと根無は決めつけた。根無の意欲さえあれば、再会は可能だと思える。しかし会ってどうするという目的は明確でなかった。会うこと自体が間違いで、非難の的になるかも知れない。いっそ仲間を連れて強気になろうと考えた。それは卑怯に他ならない。根無は意識を深くした。


 椿村の鑑識眼は根無によく働いた。根無への第一声で、椿村の態度は決定していた。粗末な物言いだった。初めて会う人間から聞く口吻がこれかと、根無は訝しんだ。同時にまたかと思うのだった。

 「信一、お前また清水堂に居ただろ。」

 椿村は根無をよく見附けた。椿村が報告する目撃談の前日、確かに根無は言われた場所に居た。根無の外出に秘密はない。しかし誰かに見られることに恐れを抱いた。

 「お前、お母さんと楽しそうに喋ってたな。」

 「そうだっけ。そんなに見てるなんて、跡をつけてるみたいだ。」

 「違うわ。私は友達と一緒に行って、偶々信一が三階でご飯食べてるのを見ただけだわ。」

 偶然には違いなかった。清水堂以外を歩き廻る習慣のなかった根無を探すために、所々を渉猟する必要はない。あとは家に籠るばかりが当時の根無の生活だった。椿村の目撃は偶然としても奇妙だった。

 「次会ったら、声かけてよ。」

 「なんで話しかけなきゃいけないんだよ。こっちはただの通りすがりなんだぞ。」

 「通りがかりでもいいから。ちょっとだけでもいいから。」

 「そんなに話したいと思うかよ。」

 教室を離れた場所で椿村と会うことを、根無は望んでいるのではなかった。

 「いや、そういう訳じゃないんだけど。」

 「うわ、話したくないんだ。」

 言われて、根無は凡そ同意した。しかし言葉では否定した。根無に傷つけられることを知らない椿村は、根無の言で納得しなかった。

 「最低だ、根無。じゃあここでも話したくないんでしょ。」

 「だから違うんだって。」

 「はっきり言ってみろ。そういうところが悪いところなんだぞ。」

 根無は確然と倦厭した。正直に言えば更に面倒になることは疑えない。

 「違うって言ってるのに。だから通りがかりに、話して来てほしいって言ったんだよ。」

 根無の弁明は、意外に効果があった。

 「分ったよ。話せばいいんだな。しょうがないな。」

 根無は束の間の安心を得た。

 「そうやって頼まれたら、聞いてやるか。感謝しろよな。」

 根無に感謝の気持はなかった。曖昧に返辞をすると、沈黙が流れた。また拙いことになると根無は悔んだ。しかし椿村はこれ以上の肉薄をしなかった。椿村の興味は、別の処に向いていた。

 唐突な歎息を根無は聞いた。根無の眼差しは、椿村が項垂れて見せる後頭を捕えた。椿村の漏らす声は、澄んでいなければ濁ってもいない。

 「信一は今日このまま帰るんだろ。」

 「特にやることもないからね。」

 「お前、いいよな。直ぐ帰れて。私はな、授業が終っても部活があるんだよ。分るか。」

 「大変だと思う。」

 「大変だと思うじゃないんだよ。お前に分る訳ないだろ。」

 「いや、大変だと思う。」

 「ちょっとそれ貸せ。」

 椿村は、根無が机に開いているノートを求めた。椿村の要求に、根無は抵抗しなかった。椿村は、差出されたノートを奪った。最初は赤字のボールペンで書いた。直ぐに鉛筆に持替えたのを、根無は眺めて待っていた。

 返されたノートを見ると、椿村の強い筆致が刻まれていた。周辺に書かれていた根無の消え入った字とは対照を成している。


 私は、部活に行きたくない。

 なぜなら、2年生がうざいから!

 でも、15日はたのしみ!

 田なべはるかとあそびに行く!


 根無は目線を上げた。椿村は背中を見せて振返らない。もう用は済んだのだ。根無はノートに眼を落した。書かれた文字を相手にするしかない。根無は椿村に従って、「そうですか…」と書き添えた。

 相手に圧倒されながら交す会話でも、傍目には純真な交歓に見えるらしい。根無が廊下を歩いていると、昨年度まで教室を共にしていた少女と会った。大山という少女は、根無を見留めて意味がある目線を送った。

 「これ聞いちゃってもいいのかなあ。」

 躊躇する様を見せた。言葉では遠慮して、表情は愉悦を隠さない。根無が拒絶しないのを見て、大山は堰を切った。

 「根無君が椿村さんと付き合ってるっていう噂が流れてるんだけど本当なの。」

 大山は四囲の色恋に敏感だった。交際の種も芽も実も、総て滋養となった。過ぎ去ってもいない十代の盛に憧憬を抱く。大山は、意味された縁に与することで、堪らない楽しみを得るのだ。

 「なんでそういう話になるのかな。」

 「違うの。でも、すごく仲良くしてるんだよね。」

 根無にとっては心外だった。迫る椿村の応対をするだけで、勝手な予感と詮索をされる。こういうことは以前にもあったと根無は思い返した。噂の流布は防げない。根無は呆れると同時に、空恐ろしくなった。

 根無は椿村を脅威と感じていた。心裏を幾ら解剖しても好意は探知されなかった。虐げられることに忘我の余韻を見出すことはできた。それは根無の自己陶酔に過ぎなかった。

 椿村が何を思っているか、根無は考えなかった。大山達の囃す風評に服従することが何より不愉快だった。


 人の去った教室に二人居る。椿村が居残っていた理由を根無は記憶していない。相手を圧倒しようとする椿村の言動を、根無は受け応えた。無心に教室を掃除する時の心境と同じだった

 椿村は整列する机を乱雑に動かした。根無は丁寧に直した。椿村は根無から遠ざかって、机を荒した。追う根無を見据えながら椿村は逃げた。

 「お前が真面目なのは分ったから。」

 椿村は揶揄を込めて浴びせた。痛手になる言葉を黙殺しようと根無は自分を戒めた。

 椿村は身近にある一台の机を見定めた。机の主を根無は知っていた。机の中を覗く椿村の手から、一本の制汗剤が取出された。噴射される霧は夏の少年と少女の躰を染める。絶えず漂う匂いは、椿村からも発せられていた。

 制汗剤の蓋は開けられた。椿村は窓を開けた。手に掴まれたものは外に晒された。椿村の手が回転した。反覆した容器から為すがまま液体が零れ落ちる。まだ多量に残っていたために、長い時間垂れた。

 「言うんじゃないぞ。」

 椿村の声は平常と変らなかった。根無は口籠った。空になった容器は鮮やかな橙色をしている。あの時、奔出した液を飲めば、甘い味がしそうだった。根無は、容器が元の場所に返されるまでの光景を、黙って見ていた。それはもう意味を成さなくなったのだ。根無の気分は明日に起ることを思い描いた。不安の種が育つことはなかった。しかし永く根を張っている。

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