第二章 「少年院」時代

 時計を見ないからには、館内は不断に明るいばかりだ。日が暮れるまで、あとどれくらいだろう。見上げれば照明が場をあまねく景気付けている。温かみを演出した光は、どこか生気を欠いていた。多くの人が気に留めることなく歩いている。根無も平生は照明のことを意識しなかった。

 「遅いな。」

 根無の呟きは、館内の人声や音楽に埋没する。隣に坐っている福永の耳に聞えることすら怪しかった。

 「遅いね。」

 福永の一言は根無の声に応えた。二人の会話の符合は、今や必定だった。

 二人はギルバート・サリバンの帰りを待っていた。館内の床屋に行くと言って、ギルバートは一方的に二人の下を去った。残された二人は、必要を感じていなかった軽食を摂りながら待つしかなかった。

 注文したクレープを根無は食べ終えていた。卓上にはクレープを包んでいた紙が残されている。根無は放置させた厚紙を茫然と眺めていた。食べている間は、割に上機嫌で話していた。根無が話すのを、静かに聞いては短く応えていた福永は、果物の味がする飲物を手にしている。ほとんど飲み尽くした今でも、容器を離さず、つくえに置いたまま両手で廻している。相手の悠然とした居住まいを見た根無は、自分も飲物だけを頼めば良かったという気がする。

 このまま黙って時を過ごしているのが、根無にとっては良かった。福永は表情もなく坐っている。どこを視ているのか判らない。福永の顔を窺っていると、根無は不安になった。不安は退屈に由来している。根無は、自分の身に感じた退屈が、自分と福永のどちらから生起しているか判らなかった。根源は二人と関係がない、まったく別の処から生起しているかも知れない。どこから、誰からだろう。自分と福永は追いたてられている。根無は音を立てて椅子から身をおこした。

 「もはや、行くしかないな。」

 「どこへだい。」

 「ギルバートの所へ。」

 「まだ居るかな。」

 「分らない。でも行く価値はある。」

 「ないでしょ。」と笑って言う福永を見て、根無は心で同意した。ギルバートはもう床屋に居ないかも知れない。床屋を離れたギルバートはどこへ行くか解らない。根無は福永を連れて歩き廻ることになるだろう。

 冷静になった根無は椅子に坐り直した。すると福永が椅子からった。根無は福永を見上げた。

 「行こうか。」と福永は遠くを見て言った。

 根無は福永に従って、座席を離れた。この場所を離れることが急に惜しくなってきた。

 根無は福永と並んで、館内の広い通路を歩いた。周囲には大勢の人が緩い歩調で路を往来している。根無には、自分に対向して近附いて来る人々ばかりが意識して見えた。多くの人が自分とすれ違って消えて行くのを、根無は受け留めた。自分の近くを通る人より、遠くの距離を保って過ぎて行く人の方が、根無に強い存在を与えた。

 これだけの人が居れば、しりいも少からず含まれているだろうと根無は思った。同じ学校の生徒が居ても不思議ではない。普段から親しくしている人と出会えたら愉快だろう。親友と言う程度には及ばない、面識のある人と会うのも親交の良い機会だと思えた。根無が快く想像できるのはそこまでだった。初めて会う人と接すれば、却って気楽かも知れないとも考えた。

 目的の床屋へは容易に辿り着いた。通路を曲って奥まった処にある床屋では、二人の客が理容師に髪を大胆に刈られている。二人の後姿はギルバートのものではなかった。根無は店内の様子を窺うために店に近附いていた。客を相手にしていない一人の理容師が、根無を認めて声をかけようとした。相手の動向を見た根無は慌てて、

 「違うんです。私は切られて間もないんです。」と言い放った。

 自分の来意が相手に謎のままであることを自覚した根無は、改めて事情を説明した。

 「ここに来たはずの人を捜しているんです。ここには居ないようですので。」

 相手に何の手掛りも与えていないことを反省して、更に附け足した。

 「ここに来ませんでしたか。髪がもじゃついていて、痩せた躰の。」

 ここまで提示したギルバートの特徴は、相手を理解させるのに充分だった。

 「その方でしたら、先程までここに居ましたよ。もう出て行かれましたが。」

 根無はギルバートを巡る意思疎通を、理容師との間に成立したことに安堵した。ギルバートが個性ある外観をしているお蔭だと思った。しかし当人が見つからない以上、理容師との交流に意味があるとは思えなかった。ギルバートが居ないことは、床屋の様子を視察した時点で判っていた。あとはもう袋小路だった。根無は引返そうと思った。しかしどこへ行けばよいのか。根無が迷っていると、今まで黙って隣に居た福永が理容師に向けて話しかけた。

 「髪、切ったんですか。」

 ギルバートがこの床屋で散髪したかと問うているらしい。根無は少し驚いた様子を見せて、福永の方を向いた。

 理容師は、福永の質問の意を察して答えた。

 「いえ、こちらがお客様のご希望にお答えできず、髪を切ることはありませんでした。」

 根無は、理容師がギルバートという客と接している場面を想像した。理容師の心情を思いやった。

 「そうでしたか。それは大変ご迷惑をおかけしました。」

 床屋を辞し去った後、根無と福永はどこへ行く相談もなく、先刻歩いた通路を逆に辿った。しばらくして根無は、考えていたことの同意を福永に求めた。

 「さっきの床屋でのギルバートのことだけど、あの人は相当無理な注文をしたんじゃないかな。」

 「そうだと思う。髪を切らなかったそうだし。」

 「何が一番罪深いかって、ああいう床屋は料金が先払いでしょう。店に入って直ぐの所に自動券売機があった。つまりギルバート・サリバンはお金を投入して、あの人の髪型からして無理な注文をして、それは難しいとか何とか問答があって、それなら止めにすると言って店に返金させたってことでしょう。」

 「彼なら平気でやれるだろうね。」

 「その可能性を想像したんだ。と言うことは、多分あの店の人だろうけど、あの人は券売機を相手に返金の格闘をしていたはずだ。」

 「あの機械からお金出すのって、どうやるんだろうね。」

 「恐らく専用の鍵があってどうこうするんだろうけど。幾ら手続がたんかんであっても、私は申訳なく思ったよ。別に私が謝ることじゃあないが。」

 根無は福永を相手にして、ギルバートへの非難を続けた。この時の根無の意識は、福永にもギルバートにも向かわなかった。根無の視線は、目前の光景の一点に傾こうとしていた。

 人が二十人は余裕で並列できる通路の中央には、ソファーが随所に置かれている。根無の視線の先では、ソファーが四つ集中している。誰でも休憩のために坐れるその場には、この時もほとんど満席だった。

 ソファーの一隅には三人の少女が坐っている。三人とも根無と同じ年頃だ。根無は自分と同じ学校の生徒ではないかと疑った。根拠は何もない。根無はソファーがある方向へ視線を定めようとする自分の意識を抑えた。少女達の許へ歩を進める毎に、福永と話をしていることに努め、その姿を周囲に呈した。ソファーを通過する間、少女からの視線を感じることが確かにあった。ただそれだけだった。完全に通り過ぎて、根無は心を平静に戻した。根無は今の心境を福永に伝えてみたい気になった。

 「これだけの人が居ると、やっぱり同じ学校の人も居るんだろうね。」

 「さっきの人もそうかも知れないよ。」

 「ああ、あの床屋の人ね。」

 根無は声の調子をわざと上げて応えた。福永も根無と同じで、ソファーに坐る少女達を意識していたのか。根無は福永のことを案外に思った。

 「そうじゃなくて、今にソファーに坐ってた、」

 福永は笑いながら釈明しようとした。しかし言い終らぬ中に阻害された。

 「よう、久し振り。」

 ちんにゆう者は通路を根無達と対向して歩いている者だった。声をかけた者の他に三人が固まって続いている。四人は福永に近附いて、再会の挨拶をした。その声と眼は根無の方を向いていた。

 「覚えてるかな。」

 根無の反応が希薄なのを見て、闖入者は補足した。根無は眼前の男達の顔におぼえがあった。同窓生だと言いたいのだろう。根無のおぼろにした記憶の中に、男達の姿は残っている。それは根無にとって記憶の錯誤だった。四人の男のことを一人余さず忘れていると言う方が本当だった。根無は即刻に己の身構えを定めなければならなかった。

 「いや、どうだか。」

 「え、根無だよね。俺等、根無と同じ中学の、俺は横山だけど。」

 「そうか、どうだったかねえ、自分は。」

 「覚えてないか。」

 「忘れやすいもので、どうしようもないんだけど。」

 「俺等は西高に行ってさ。根無は今どこなんだっけ。」

 根無は西高という学校がどこにあるか、知らなかった。

 「自分もぼちぼちやってますよ。」

 「あれ、第二高じゃなかったっけ。」

 別の一人が問答に参加した。根無は第二高を知らなかった。

 「まあそうだね。学校なんてどこも同じみたいなものだな。」

 根無は姑息な返辞をして直ぐつけした。

 「随分久し振りな訳でしょう。本当に偶然な訳だ。しかしそういうものだね。さっきもこの方と話してたんです。これだけ人が居れば知ってる人も居るだろうって。こうして会えたことはこっちにとって都合が良い。なぜなら日記を書く材料となり得るからね。とにかく良かった。」

 根無は相手を煙に巻くことに決めた。男達は根無の様子の不自然を察していた。しかし何も言わなかった。根無という人間が元より自然ではないことを知っていたから。

 「じゃあ、また会おうな。」

 「そうだよね、確かに。」

 両者は曖昧な挨拶をして別れようとした。相手の後姿を見ると、根無は一難が去った思いをした。

 「根無君って第二高の生徒だったんだ。」

 今まで静かにしていた福永が呟いた。

 「実はそうなんだ。君とは違ってね。」

 根無は淡泊に答えた。背を向けて遠ざかる同窓生達に改めて眼を遣った。直ぐに福永の方を向いて、「ところで第二高ってどこに在るんだね。」と言おうとした。しかし根無は絶句した。

 根無が視線を移す途次、妙なものが見えた。小刻みに駆けながら近附いて来る者がある。どう見てもギルバートだった。沢山の物を詰め込んだビニール袋を両手に提げて、根無の居る所を見据えている。走る様が滑稽なのは、重い物を持って無理に走るからだ。こちらへ到着する前から、甲高い声で喚いている。

 「やあ、やあやあ君達、捜していたんだ。」と言う声が聞える。

 「ああいう迷惑なのは愉快なものだな。」

 館内に声を響かせるギルバートを眺めて、根無は呟いた。

 ギルバートは周囲を構わず、根無と福永に呼びかけている。根無から別れ去っている男達は、根無よりも先にギルバートと直面した。それは束の間のことで、ギルバートは男達を走り過ぎた。男達はすれ違うギルバートを一瞬間、振向いて見た。黒髪で覆われた頭から肌が現れる。日に焼けた黒さとは言えない、健康な皮膚をしていた。

 ギルバートは根無の許に到着した。

 「どうした君達。そっちから走ってもよかったではないか。」

 「私達は呆然としていて眺めることしかできないよ。」

 「それではいかんね。非常時に生き抜く術を知らんな。」

 「お別れか。淋しくなるな。」

 「まあ気をおとすな。そんな根無君を元気付けるのにとっておきの手段がある。おい福永君、今夜はパーティーだ。鍋だ、鍋をやろう。場所は根無信一の家でだ。それでこんなに食材を調達して来たのだ。仲間のためを思えばこれだけの量も苦ではない。根無君、早速君の家へ行こう。」

 「しかしそれは可能だろうか。」

 根無はギルバートが両手に提げている袋を眺めていた。二つの袋は地面に着くほどに膨れている。三人が摂る食事の量はこれほどのものなのか。余計な物までが混入しているとしか思えなかった。

 根無は夕食を家で食べる積りではなかった。小食な母は、自分のために料理に手間をかけることはないだろう。豪勢な御飯が、根無の帰宅を待っているのでは約束が違う。根無はギルバートと福永を連れて、家に食材を持込んでも構わないだろうと思った。実質は、ギルバートに連れられて自宅へ帰るのだとも思った。

 「早くご馳走にありつかないか。鍋は暖かい気候になってからが本領なのだ。それと言うのに君達はここで何をしていたのだね。」

 「根無君の同級生だって言う人達と話してたんだよ。」

 黙っている根無に代って福永が応えた。

 「何、それは本当か。」

 「嘘かも知れない。」と根無が言った。言いながら、根無の眼は遠ざかる男達の背に注いでいた。福永も同じ処を見ている。

 「解った。あのおとこしゆのことを言っているんだろう。よし待っていろ。」

 男達は既に根無達から大分離れている。ギルバートはそこを目指して突進した。根無の心は乱れつつも、痛快だった。

 ギルバートがおいくのは早かった。性急に何か会話が為されている。根無はギルバートが居る光景を見守っている。遠くで交されている会話を他人ひとごととは思えなかった。男達の眼が根無の方へ向く度に、根無は会釈せずに居られなかった。ギルバートの声が小さく聴える。男達の笑声も時折聞えた。

 やがてギルバートは戻って来た。先程の駆足と違って、緩慢な歩調だった。

 「君の友達は薄情だなあ。僕の鍋会の招待にも応じないなんて。友情とは何であるかを考えさせられるよ。」

 「一枚岩では行かないのさ。」と根無は応えた。

 「そもそもあれは友達なの。」と福永が訊く。

 「あれか。友達への可能性に満ちている。」

 「根無君の中学校の人達なんだっけ。」と福永は加えた。

 「あれか、うん。つまりね、我が「少年院」時代の人ですよ。」


 豊富に野菜と鶏肉とが、出汁につかって煮えている。総てギルバートが乱雑な音を立てて切ったものだ。ギルバートは台所にたちろうとする根無の母を大声で制止して、独力で食材と格闘した。それでも母は出汁には拘って、ギルバートが買った即席の「鍋の素」を認めなかった。

 「結局こうして御手を煩わせてしまいましたね。」

 「いいえ、ギルちゃんがみんなやってくれるから。楽で助かるわ。」

 「偉いですか。」

 「偉い偉い。普段は私独りでやってるから。」

 今まで台所の様子を黙然と見ていた根無は、椅子から起って、全身を床へ腹這いにした。かおも床に当て、隠している。これが根無の独自の謝罪だった。福永の「起て起て。」と言う声が聞える。根無は皆から許された思いがした。

 卓では四人が鍋を囲んで、各々勝手に箸を突いている。根無は一つ鍋を四人で共有することを内心厭がっていた。集って歓談できることは愉快だった。

 「どうだ根無君。君は確か鶏肉を至上のものとしていただろう。僕は君の好みに合せてみた。」

 「結構。肉という界隈において、私は確かに鶏を好んでいる。」

 「根無君が鶏肉を一番好んでいるという情報をどこから手に入れたのですか。初出を教えて下さい、ギルバート氏。」

 「福永氏の指摘はもつともだ。僕は最も信頼できる情報源を獲得しているのです。」

 「何だよそれ。私自身が最も信頼できるに決っているじゃないか。」

 「いや、当人のかんがえというのは案外当てにならんのだ。自分自身ほど当人に対するおもいみの激しい人物は居ない。そうなると必然的にもちあがって来る人がいる。」

 「私でなく、誰ですか。」

 「君のお母様だ。」

 根無の母はここぞとばかりに胸を張った。根無は得意になる母を見て苦笑した。

 「なるほど、それは根無君より確かだね。」

 「そうだろう。彼に栄養を与え続けて来た人なのだから、僕はお母様にたださずにはおけない。」

 「事の究明とはそのようにして為すものだね。私は感動した。」

 ギルバートと根無の母とは、根無について調査した日のことを語り出した。根無の知らない内に、二人は会っていたらしい。人の母にまで立入るギルバートを、根無は剣呑だと思った。

 「そういう訳でね、僕は興味を抱いたのですよ。根無君が今回接触した例の男四人衆に。」

 話の前後の流れを逸して、ギルバートがきりした。根無は狼狽を抑えた。

 「それ以上に私は、あの時ギルバート氏がどこへ道草していたかに着目したい。」

 「言ったじゃないか。床屋へ行ったよ。」

 「それにしては謎が多過ぎるんだ。」

 「謎は謎であるから華なのだ。根無信一には抒情性が不足しているようだよ。一つこの貝割れ大根を喰いたまえ。根無君のロマンティシズムも案外そんなものか。どうです、お母様、これは母親としての責任に問えませんか。」

 「私の理想は、問題を有耶無耶にすることに主眼を置いていないよ。懐疑と追究の連続だ。」と根無は反駁した。

 「そんならいい。投票で決めよう。次なる議題はどちらか。無論僕は、根無君の友の方へ二票投じる。」

 「私は私に一票投じる。私は結局一個の人間だからです。」と根無は表明する。

 「ほう。では福永君は、どうだ。」

 「根無君の方だね。だって、根無君と同じ、待たされた身だもん。ギルバートには人を待たせたことを語る義務があるんじゃないかな。」

 「これは痛手だ。」

 「福永さんの票に二票の価値を与えても大抵の人は反対しないでしょう。」

 「では二対三と。まだ結果は見えないな。どうです、お母様。どちらへ投じます。」

 根無の母は少し考えて答えた。

 「お母様も信一に入れようかな。」

 「どうしてです。」

 「私もギルちゃんが何してたか気になるから。」

 母のこたえを聞いたギルバートは卓を叩いた。

 「いや敵わない。これが親の子に対する愛か。」

 「当然なのだ。」と根無は言った。

 「それならばお見せしましょう、事の真相を。」

 ギルバートは矢庭に起って、懐を右手で探った。次に左腕が動いて逆の側を探った。

 「あった、あった。」

 一枚のカードが取出されたのを見ると、それは写真だった。根無が写っている。皆の眼が一箇所へ集中している。根無は当惑した。

 「これが、私なの。」と根無は大袈裟に叫んだ。

 「真相だ。」とギルバートは答えた。

 「七十八点といったところだね。」と根無は自分の顔写真を見て言った。

 「まあそう謙遜するな。ともかくこれが、真相だ。」

 「待って、これはどこで手に入れたの。」と福永が写真の出処を訊ねた。

 「それはね、僕はこの写真を持って、あの散髪家に見せた訳だ。この人にして下さいと頼んだのだ。」

 ギルバートは、福永の質問とは別のことを話した。根無はギルバートの頭を観察した。

 「しかし、その頭はまるで変化していない。」

 「そうだ。無理だと言われたからね。」

 「根無君とギルバートの髪の毛は全然別物だよ。」

 ギルバートの、縮れたうずたかい頭髪を前にした理容師の心境を、根無は思った。

 「ギルバート・サリバンという難題を相手にして、厳かな気持になったことでしょうな。」

 「だけど散髪家は偉いね。せるものは成すが、無理なことは無理と言う。それが職業じゃあないか。」

 「理容師って言ったよね。信一の髪を再現するのは、その人達には難しいでしょ。」

 「いやいや、待て。僕は散髪屋に卑賤はないと思ってる。今日僕が赴いた所が僕の要求を無理と判断したことと、散髪の神技を宿した天才が僕の頭を根無君に変えること、これは結局同質のわざであるとす。」

 「だからと言っても妙なものだ、」と根無が反駁するのをギルバートは止めた。

 「まあ待て。これからなんだ。」

 「何が。」

 「諸君はその意識が希薄でありましょうが、実は毛髪とは人間の躰の一部なのであります。毛髪を切るという行為は、躰に傷を入れるということであり、これが自分で行っているなら自傷、他人に任せているのは暴力を受けているという形式になります。」

 「でもそれは本当にそうだと思う。」と根無の母は言った。根無は黙って聞いている。

 「従って、散髪屋は客に暴力を振るう組織かと言うと、これが違う。ここで思い出してほしいのは外科医です。彼等が患者に施す手術は殺傷と言えるでしょうか。確かにメスで以て皮膚を切り、取ったり繋いだりをする訳で、それによって人が死んでしまうこともあるでしょう。しかし外科医の営為は、正に患者の躰を良くするために傷を入れるのです。同じように、散髪屋は患者の髪を切刻むことによって、その人の身を整えるという訳です。」

 「つまりあの時の理容師は外科医だったと言うんだね。」と福永は言った。

 「そういう話は聞いたことある。昔ヨーロッパでは医者が人の髪の毛を切ってたんだからね。」と根無の母が応える。

 「そうだ、今のは歴史的な事実に過ぎんじゃないか。」と根無が附け加えた。

 ギルバートははいに注がれた水を一口飲んで、微笑んだ。

 「左様で。今のは自明の理であります。面白いのはここからです。」と言って、ギルバートはかさの減った杯に水を注いだ。

 「さて、我々が散髪家に髪型を注文する時の説明は、甚だ要領を得ないものです。ここを何センチ切れと言うのは、ものさしで正確に測っての要求でしょうか。私が先程の散髪士に見せたのは、根無信一君でした。根無君が正面から写っている写真だけで、僕の頭と対照したまえと言ったことになります。こうして見ると、我々は常に無責任なことを散髪屋に言っているのです。何のびきも知らずにこうしてくれと頼みます。それが我々の使える言葉だからです。それを聞いた散髪士は、自分の腕、つまり技術に変換する。散髪家は一種の翻訳家なのです。異なるコミュニケーションを散髪という形でそうごうできるのです。」

 言い終るとギルバートは椅子に戻った。

 「何か言い返したいぞ。」と根無は言った。

 「異なるコミュニケーションの綜合と言うが、果して我々と散髪家は翻訳をしなければならないほどに解り合えないのか。換言すれば、翻訳という能力を有しているのは散髪家に限るのか。我々の要領を得ない説明と云うものにも、充分に伝える力がそなわっているのではないのか。人間にはたがいに相手の伝えたいことを読み取る能力が有って、それが散髪を受ける側と施す側という形で表れているだけじゃないのか。」

 「うん、人間には伝えたら意を汲み取れる能力が有ると信じられているな。しかし散髪家の能力は理解することだけではなく、行動することが必要であることを忘れてはいけない。客の意を取って髪を切る。これは誰にでも出来ることではない。こう切ればいいんだと説明したところで、聞いた側が上手く髪を切れる訳ではない。もし出来たとすれば、それは髪を切ることの知識や技能が自己に浸み透ったということだ。知識とか技術とかいうものは、人に教えるという行為によって初めて表れる。それは教えを受けた側が身に附くか否かを問わない。」

 「それは言辞によってしか表れない知識、技術じゃないか。知識や技術は、本当は最初から具っているものだと思う。ただ自己に有るものを意識化できるか、体現できるかに問題がある訳で。一日の長で、能力の優劣はあるでしょう。しかし本質は一緒。一日長い人が言うのを、或いは行うのを見聞きして自分でやってみる。これを反復する。こうしてその人の知識や技術は表れ得る。教える行為に能力のありを求めるのは、余りに空気と言うか、実体がない。」

 「イデアの想起といったところかね。しかし、才能を内に秘めていると言うのは甘えた物言いにならないか。何とでも言えるね。丁重に教えた、しかし全然伝わらなかった。これでどうして相手に能力が有ると言えるのだ。有るのかも知れぬが、無いと見做せよ。僕が言っているのは知識や技術の明確な存在だ。実在とか発現とでも言おうか。根無君は所有を言っているんじゃないか。」

 「所有とは何だ。所有という状態は、一定の質をもたないでしょう。所有しているにしても、正確に表せるとは限らない。客が散髪を受けて、髪型がく決ったと思うのは、理容師に技術が有ったからか、または理容師に失敗があったのに問題なく見えるだけなのか。結局髪を切られた当人の判断次第じゃないか。髪を切る人の技術だけじゃなく、切られた人の判断、これも含めての散髪でしょう。」

 「いやいや、散髪はもっと絶対的な存在としての能力ですよ。散髪家は精神科医ではない。思想家でもない。髪を切るという行為に技術が表れる。他人の頭という確かなものを見て、事を為す。技術がどこに在るかではない。どのように存するかでもない。とにかく確かに表れる技術を散髪士は振るう。確かな技術は見る人にも確かに映る。適切に髪を切れば、ちゃんと切れていると他人にも判る。事態は明確なのだ。僕の頭を根無君のものに変換できないとの散髪士が判断したのも、確かな技術にるという訳だ。」

 根無はここまで議論して、訳が判らなくなった。相手も同じ心境にあるのではないかという気がする。二人は対立しているのではなく、結局は同じことを別の言葉で繰り返しているだけではないのか。能力の存在と所有に何の相違があるのかと思う。考えると根無は、徒労を感じた。

 「つまり一体どういうことなんだろうか。」

 「それは僕達が今言った通りだ。おい、福永君、君はどう思うね。」

 皆が福永に注目した。福永は誰に味方するのか。根無は淡い期待と無関心を同時に抱いた。

 「あのね、さっきから例の写真、根無君が写ってるのをどこで入手したかを訊いているんだよ。」

 福永は誰の味方にもならなかった。ただ自分の味方でいる。福永の自己本位に、根無は安堵した。

 「この写真かね。何と言っても、僕は根無信一の関係者だからね。おのずと写真がふくそうする。」

 「なるほどね。」と根無は放心した。

 「ギルちゃんは、信一の写真を床屋さんに見せて、どうする積りだったの。」

 「それはですね、ひとえに研究の精神からであります。僕の腹案である根無信一論を完成させるためには、何より根無君のことをよく知らないといけません。ですから第一に根無君の姿に近附こうと思いまして。まずところから始めようと思うのです。」

 「そうなの。それは完成が楽しみだけど。」

 「お母様、僕はきっとやり遂げますよ。僕は僕の一大著述を私家版として配本するです。もちろんお母様にも読んでいただきますよ。」

 「それは楽しみに待たなきゃね。」

 「僕の問題意識をかいきんして見せましょう。『根無信一論・焼きおにぎり』という二本立てです。根無信一論のかきしは以下のようになります。

 一体、非凡とは何であろうか。真実の非凡は、やがて平凡として衆人に敢えて顧みられなくなるものである。余りにも特異である性質が、世人の身をく。時日をかけて深く刻む。はたして非凡は特殊から普遍へ変化する。

 ところが、ここに真実の非凡でありながら、遂に非凡のまままつとうしようと、命をして挑もうとする者が在る。それこそが根無信一なのである。」

 「なかなか面白いんじゃない。」と福永は、ギルバートが先刻のかいもので得たミニカーを転がしながら言った。その微笑は、自分とは関係がないことの余裕に由来していた。

 「ところがここから先が書けないのだ。これも研究が充分でないためだね。」

 「根無君の髪型を模倣できないくらいだからね。」と言って、福永は声を高くして笑った。面白いことを言った積りで満足している。

 根無は福永の笑顔を優しく迎えたかった。

 「飽くなき探求心が大事な訳だよ。」と根無は真面目な顔をギルバートに向けた。

 「だからさ。」とギルバートは言葉を区切った。

 「僕は調査しなければならないのだよ。根無信一の来歴を。例えば、今日再会したあの男達といった、情報を集めるという具合で。」

 話は反復した。ギルバートの追及で、根無は今日の出来事を思い返した。根無はギルバートを詰まらなく思った。

 「そんなことは思い起すに足りないことだ。」

 根無はこの日、ギルバートのようかいがなくとも、今日の事を考えずにはいなかっただろう。根無の回想は随所へ飛んだ。記憶は既に曖昧になっていた。時の経過が記憶の濃淡を明瞭にした。

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