根無信一のわかれみち

欄干(小説部)

根無信一のわかれみち 2

第一章 小学六年生の記憶

 無為に思える時間ほど、神妙になれた。生徒達は、六、七人の塊となって、わりてられた場所へわかれてく。なししんいちが属する集団は、校舎の昇降口を含む内と外を掃除していた。根無は、毛先が一つの流れへとまがっているほうきを持って、玄関の外を熱心に掃き清めていた。その箒がいつから学校にあり、使われているか、根無は知らない。ただ根無を含む何人もの生徒によって使用されているのは確かだった。そのことを物語る毛先の曲りに沿って、根無は箒を動かしていた。

 根無と同じ場所を掃除している少女が一人居る。少女の気分は、根無よりも散漫だった。少しばかり箒を動かすと、ぐに根無に話しかける。

 「ねえ、根無君、根無君。あれえ、私なんて言いたかったんだっけ。」

 少女から問われると、根無は考える態度を相手に見せずに、即座に応える。

 「教室のテレビを百インチにしたいんでしょ。」

 根無は両手を大きく拡げて言った。百インチと言葉にするだけで、その大きさを伝えられる確信がなかったのだ。手を拡げる際に突き放した箒が、勢いよく倒れて高い音を立てた。根無の言葉と動作を受けた少女はからだを跳ねさせて笑った。

 「そうそう、それだった。ありがとう、思い出してくれて。」

 少女が根無にかける感謝の言葉は、総てが作為によるものだった。

 これがこの時、少女と根無との間でかわされていた遊戯だった。少女が自分の言おうとしたことを忘れる。これは嘘だ。少女には何も言うことがない。少女は何も思いうかべることなく、自分が言いたかったことを根無に委ねる。根無は少女の嘘を知っていて、少女の言葉を捏造する。根無は少女の思惑を推理せずに嘘を言う。嘘と嘘の応酬。これが二人の遊びだった。

 少女がまた近附いて来るのを感じる。

 「ねえねえ根無君。あれえ、また忘れちゃった。私なに言おうとしたんだっけ。」

 「プールを流れるプールに変えることでしょ。」

 「そうそう、それだった。」と言って少女は笑う。

 根無は出来るだけ大袈裟なことを言えばよかった。なるべく学校にある物を選んで誇張することに努めていた。その方が、同じ学校に居る者としての共感を得易いだろうと考えた。

 一刻の満足を得た少女は、また箒を動かし始めた。今度は自分の好きな漫画の話を根無に聞かせている。根無は聞きながら、次に少女の質問を受けた時、何と答えるのが最適であるか、考えていた。

 根無は疲弊していた。もうこんな日が一週間続いている。相手の気分によって、全然尋ねられない日もあれば、ほうに絞り出される日もある。頭を働かせるのはいつも根無の役割だった。自分はあと幾つ面白いことを思い浮べられるだろう。相手はその度に笑ってくれるのか。相手の笑顔を見れば、愉快ではあるのだ。

 「それがね、アニメがやるようになってからね、今まで漫画が一冊五百円だったのが、いつの間にか六百円に変ってたんだよ。百円だけでも結構違うよね。」

 「ああ本当だ、全然違う。もう嫌がらせなんだよ。」

 一つの問題を考えあぐねていても、根無は愉快に少女の話を聞いていた。少女が話している漫画のことについては、何の知識ももっていなかった。

 二人の会話を止めたのは、昇降口から姿を見せた三人の少女だった。三人は、根無と少女と同じ教室を共にしている生徒だ。少女が特に親交を深くしている人達であるはずだった。その顔触れは、根無でも見覚えがあった。根無はこの人達にも、少女との遊戯を披露したことがあった。

 少時の沈黙を感じた。三人の内の一人は、白いビニール袋を手にしていた。袋には何かが入っている。袋の持ち主は、黙って根無の居る方を見ている。手にしているものを指し示す素振りはない。しかしその場に居る者にとって、その袋は何よりも目立つものだった。

 「真美ちゃん、これ、さっきのでよかったかな。」と持ち主の隣に立っている少女が、根無達の居る方向を見て言った。

 真美ちゃんと呼ばれた少女は、即座に眼前の友達に応えた。

 「うん、わかった。大丈夫。」

 少女は快活な様子を見せる。それは昇降口の三人の消極的な態度とは対照を成していた。両岸の合流が生み出す対比は、少女の快活を異様に浮き立たせた。少女は声をかけると直ぐむこう側へと駈けて行った。

 根無は先刻から少女達が交したやり取りを黙って聞いていた。少女達は昇降口で話し合っている。何について話しているかを根無は察知していたが、声が小さく聴き取れない。根無は少女達の居る奥の光景を見ることしかできなかった。

 少女達が先刻交した言葉は、根無にとって少しも要領を得ないものだった。実際それはくうげきの多い言葉の羅列だった。少女達はわざと核心を避けて話していた。根無の隣に居た少女は、曖昧な言葉を聞いて、曖昧な言葉を選んで返した。少女は掃除場所へ移る前に、友達がおこした事に立ち会っていたのだと、根無には分った。

 話し合いは短時間でおわった。少女は小走りで戻って、落ちていた箒を拾い上げた。いつもは話題を見附ければ根無に話しかけずにおかない少女が、この時だけ話そうとしない。根無は少女のいつもと違う様子を不自然に思った。

 「さっきの、どうしたの。」

 根無が訊くと、少女は笑った。根無が言う冗談を受けた時とは異なる笑い方で。

 「え、なんでもないよ。」

 「でも何かあったよね。どういうことなの。」

 「なんでもない、なんでもない。根無君は知らなくていいから。」

 根無がいくら問いかけても、少女は笑って答えなかった。根無はかたくななものを少女のごまかしから読み取った。少女は根無の疑問に秘密を返して、うやむやにした。掃除の時間が終ったのは、それからしばらく経ってからだった。

 鈍感な根無にも察するところはあった。昇降口から帰って来た少女からは、三人の友達が現れる前と同じ態度を見せようとする意識が起っていた。しかしそれは根無によって拒絶と受け取れた。根無は少女の反応に覚えがあった。自分はこれと同然の経験をしたことがある。根無にとってそれは過ちだった。すると今日の少女にとらせた態度も根無の罪なのだろうか。あの日のことが罪であるならば。


 根無はそれを小学四、五年生の頃の出来事だったと記憶している。根無にとっては憂鬱な思い出の多い給食の時間。生徒達は並列させていた机を動かして、同じ班の者とむかい合うようにした。教室の机は、六つに分れてあつまっている。

 生徒達は、机で区画された班に限って会話をしない。根無の眼前にすわっている女子は、振り返って隣の班の女子と話を続けている。根無の右隣に居る男子は、班を越えた自分の周囲に坐る友達と共に騒いでいた。根無は近くで聞える喧噪の環に加わらずにいる。

 根無は自分よりも右斜め前に坐る少女と話していた。以前に母親から聞いた、根無の叔父がいかに悠長に食事をするかという話を少女に伝えている。根無が給食の調理された肉を箸で遅鈍に転がして、悠然と持ち上げる様子を見せると、少女は愉快に笑った。

 その時、教室の扉は突然と開かれた。廊下から姿を現した女の教師を、根無は見覚えがあるだけで名前を知らなかった。教室に居る担任教師と生徒達を見渡して、女の教師は連絡事項を簡単に伝えた。

 「昼休み、女子だけで生活科室に集ります。昼休みに山内先生と一緒に行きますので、女子生徒は集ってください。」

 根無は生活科室が学校のどこにあるかを知らなかった。他の生徒と共に目的地へ辿り着けるか不安だった。しかし直ぐに自分とは関係ないことだと得心した。

 「なんで女子だけなんだ。何か事件でも起っちゃうの。」

 新たにうかび出た疑問を投げかけた。その問いは主に右斜め前の少女に向けていた。根無は質問に対する正確なこたえを少女に求めていたわけではない。少女も自分と同じで、解らないだろうと思っていた。自分と共に解らないことを共有できればそれでよかった。

 少女は微笑んで言った。

 「根無君も一緒に来たらいいよ。」

 そう言われて、根無は困惑した。同時に喜悦もあった。一人の少女の判断によって、自分が女子の環に入ることを認められた気がした。そのことを根無は当然という心持でもいた。

 巧まずして女子の信頼を得てきた。それが根無のって発揮することができた性分だった。女子が同年の異性から見出して嫌がる野蛮や乱暴を、根無はほとんど備えずに育ってきた。無理を通して品行を保っていたのではなかった。ただ自分の望まない姿が、周囲の男子の行状と共通していただけだった。根無は男子の言行に背き、自分の理想を求めた。そうして体現した根無の行状は、女子の歓心を買う結果へと繋った。

 ある日、根無の母が、根無と同じくらいの年齢の子供をもつ母親達と集ることがあった。一人の母親の家で大人達が歓談している間、同行していた子供達は子供同士で遊んでいた。最初は男女が一緒になって、外を駈けたりボールで遊んだりしていた。それが次第に、男と女とが分れて遊ぶようになった。家の住人である女子のへやには、日頃のしんを問わず、同性の者で充たされていた。その室の中に根無は居た。室の住人である女子の机の椅子に坐って、気紛れに絵を描いていた。やがて外で遊んでいた男子達が、根無の居る室に侵入しようとした。男子達の要求に対して、女子達は扉を閉ざしてなかなか応えなかった。

 根無は、異性に優遇されることを特別な身分と感じていなかった。それ故に、昼休みの女子の集りに参加することを少女に許されても、特に不思議な気がしなかった。

 「どうして自分だけ。」と困惑する様子を見せつつも、当然の権利だと信じていた。根無はこの時も、自分が女子からの信頼を得ているのだと、疑うことがなかった。

 根無はこの時の情景を思い返す度に、少女の顔からがんしゆうを探り当ててしまう。

 それから先の根無の足跡は曖昧なものとなる。昼休みになるまでの間に自分が何をしていたか、根無は記憶していない。次の瞬間、少女達の行列が教室に吸い込まれて行くのを根無は眺めていた。教室まで歩み寄って、扉の窓から室内を覗くと、少女達は銘々が選んだ場所に坐って、幾つかの塊を作っていた。少女達の視線の先には、数人の女の教師が教卓をどかして何かを説明していた。教師達が屈託ない様子で語りかけているのに対して、少女達は神妙な表情をして話を聞いている。そういう少女達の面持ちを根無は思い描く。

 根無はこの教室に入って行ける気がしなかった。もとより自ら既成の環に混じることができるほど、度胸のある人間ではなかった。ただ根無は待っていた。こうして廊下から顔を見せていれば、誰かが招いてくれるはずだった。先刻の少女との約束を忘れるはずがなかった。しかし教室に居るはずの少女は、仲間に紛れて姿を現さない。彼女を見つけ出すまで室内を凝視することはできなかった。自分の観察は、直ぐに少女達からの視線を集める。根無は人の視線を恐れた。

 愚かなまでに純朴だった根無は、それでも期待していた。過去の自分を現在に重ねて、疑うことがなかった。根無が窓から顔を出していれば、誰かが心安く招じ入れてきたのだから。相手は先刻の少女であるかも知れない。別の誰かでもあり得る。あるいは先生だったかも知れない。女子の中に自分一人が混って教師の話を聞く光景を、根無は不思議とは思わなかった。根無にとって、この空想は現実だった。

 根無は廊下を右往左往した。そして教室の窓を覗いた。時には教室の傍を離れて、訳もなく廊下を歩いた。窓外の景色を虚ろに眺めた。根無の心は、未だに入ることができない、あの室にあって離れなかった。鈍感で諦めの悪い人間がそこに居た。

 根無が再度教室を訪れると、教師の説明は終って、女子生徒達が無秩序に間断なく室から出て来た。根無は立ち止って、人々を迎えた。廊下で少女達と再会を交すことが、根無にできるせめてもの挨拶だった。それは漠然としていたが、少女達への慰労という意味だったのだろう。

 根無の前を大勢の人が流れて行く。誰もが根無の顔を見ようとしない。根無に応える表情が一つも無かった。どこにもいとぐちがない。当惑する根無を捕えたのは、流れ去ろうとする少女達の一人だった。その顔は、根無にも見覚えがあった。ようやく得た手掛かりに対して、根無が何らかの感懐を起す間を与えず、相手は何を見ているんだと低声で言った。それは敵意であり、拒絶であった。彼女の発言を確かに聞いたはずの周囲の誰もが、無言で通り過ぎて行く。

 流れて行く人達を、根無は受け止めるしかなかった。かつて経験したことがない位置に居る自分を実感した。彼女達の前では、いかなる姿態も表情も間違いだった。断絶だった。根無は一瞬にして遠くの世界に飛ばされた思いをした。根無はその世界を知っていた。本能のままに女子に遊戯をしかける人達と自分とが、同質の存在になっている。根無は今も廊下に佇立している。根無だけがそこに居る。

 少女達はいつしか話声をたてていた。根無を気に留めるはずがなかった。行列は一つの方向を目指して、滞ることがなかった。根無は、行列を作る人々の背中が消える最後までを見送った。


 根無が廊下で経験した事は、思い返すほどに断絶だった。しかし当時は違った。過ちではあったが、意味を有ち得ていなかった。根無はそれからも少女と同化することができた。少女とのけいるいが残っていた。一年経っても、二年経っても余韻は続いていた。三年経ってもまだ消えていなかった。そうして年を経る内に、根無はすっかり解らなくなった。

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