心日記
天勝翔丸
心日記
一〇月一五日(火)
先生、僕は病んでいる気がします。
知っていると思いますが僕はバスケ部に所属しています。その練習中に僕は膝が痛くなる事があります。今日だって走っている時に気になる感じがあるとジャンプしようと脚に力を込めた時に確かにズキッと痛みがありました。それで必要な時に必要なだけのジャンプが出来なくて僕は上手くプレイが出来なかったのです。
それを母に相談すると「
足が痛いんです、と受付で言う時に僕は可笑しな気持ちになりました。だってもう痛みはないんですから。
順番が来て奥のベッドに腰かけると白衣を着た男性がやって来て僕に尋ねます。
「足が痛いの?」
にっこりと笑うこの男性は明らかに僕を安心させようとしている笑みを浮かべています。そんな必要は無いように思うのに。
「はい」
「何をしていて痛くなったのかな?」
「バスケをしていた時です。僕はバスケ部なんです」
「そうなんだ、どの辺りが痛いの?」
僕は困りました。何と言ったって今はもうそれほど痛みはありませんし、その痛みもバスケの練習中だけだったからです。僕は膝の辺りを指さしました。確か痛みはその辺りだったので。
「ちょっといいかな、そのベッドに横になって」
白衣の男性は僕をベッドの上に横たわらせると僕の右足を持って伸ばしたり、曲げたりを繰り返しました。
「動きは問題ないね。今、動かしてた時に痛かった?」
「いえ、痛くありませんでした。バスケしてる時だけなんです、痛みがあるのは」
「そうか、じゃあ、一回立ってみようか」
「はい」
「そこでちょっとジャンプしてみてくれる?」
「分かりました」
その場で軽くジャンプをして見せるとこの白衣の男性は「うん、大丈夫そうだね」と言ってまたにっこりと笑います。
そうじゃないんです。大丈夫じゃないんです。僕は確かにあの時、全力でジャンプできないほどの痛みを感じたんです。
僕はまたベッドに座らせられて質問に答えました。
「今日だけじゃないんです。前にもあったんです」
「はい、そうですね。練習はかなり走り込みました」
「はい。でも、お母さんが念のために行った方が良いって言ったんです」
僕はもうその時には分からなくなっていました。本当に足が痛かったのかも分からなくなっていたんです。
その白衣の男性は「ちょっと待っててね」と言ってカーテンを閉めると僕の傍から離れて行きました。その途端に僕は不安になりました。僕はその白衣の男性に痛みのある場所をはっきりと教えるために探しました。ただどこを押してみてもあの時のような痛みは出ません。
白衣の男性が手に小さな機械を持って戻ってきました。いよいよ僕は慌てて探します。記憶をたどってあの時の痛みを探していたのです。
「この辺、いや、こっちだったかな」「あれ、でも、こっちだった気もする」「ここだったかな」
そうして膝の周りをぎゅうぎゅうと押していると逆に僕の押す力が強くってその痛みが出るように思われて来ました。
「うん、大丈夫だよ。バスケとかのジャンプする事が多いスポーツだとさっき原口くんが言った場所が痛くなることがあるんだよ」
「ほら、ここの膝のお皿の下のところがね。
「それに身長も高いし、成長痛もあるかもね。ここがぼっこりと出て来る事もあるんだよ」
そう言いながらこの白衣の男性は機械のパッドを僕の膝に貼り付けていきます。
「電気を流すからね、それでちょっと様子を見て行こうか」
それから僕は一〇分ほど電気治療を受けてストレッチ方法などケアのやり方を習うとその接骨院を出て行きました。
「また痛くなったらおいで」
そう言われると僕は痛みがない限りは来るなよ、と言われたような気がして申し訳ない気持ちになりました。
先生、僕は痛みを常に探しているような気がしています。それは身体が痛んでいるからだろうと思っていましたがもしかしたら心だけの痛みなのかもしれません。
一〇月三〇日(水)
先生、僕の膝はあれから痛みが出る事はありませんでした。ただ僕は昨日、足首を
痛みはそれほど強くありません。捻ったのもそれほど強くではなくてごく軽いものだったのです。歩く分には支障はありませんが走る事は出来ませんでした。今日の授業に体育が無くて本当に良かったです。先生は僕がこうした怪我をしていたという事に気付いていましたか?
僕は以前のこの日記に心が傷ついていて痛みを発しているのに身体の痛みの場所を探していたと書いたのを覚えているでしょうか。僕は捻挫をしてからあの日と同じ接骨院に行きました。僕を見てくれたのもあの日と同じ男性です。僕はあの時、はっきりと痛みの
そこで僕は思いました。僕はあの日、足が痛いと言ったあの時に親身になって聞いてくれるのを望んでいたのだと。僕のあのあやふやな訴えを聞いた上で
先生、僕は今日も接骨院に行って来たんです。サポーターとテーピングを外すとテープでふやけて色の変わった肌が可笑しくって僕は笑いました。腫れも引いています。ただあの男性が僕の外くるぶしの前や下を押さえるとまだ痛みます。サポーターやテーピングなしでは立って体重を乗せただけでもずきりと痛みました。
「まだかかるね。練習と体育は休むように」
僕はがっかりしました。だって、明日は体育がありますから。
接骨院を出る時に僕は嬉しいのが半分と悲しいのが半分とで心が分かれていました。そして同時にそれを分かってもらえない、分かっていないあの男性の事も信じられないような気持ちも抱いていたのです。
他人が見た痛みの箇所と僕の感じる痛みの箇所が未だに合っているのが僕には嬉しかった。それは僕が正しい姿でそこにいるような満足感があったからです。それと同時に僕の心のこの落ち込み、体育がしたかったという落ち込みや体育をしてもいいよと言えるようにしてくれる取り組みがないように思われて悲しくなった事をあの男性は全く理解してくれていないとも感じました。
これが僕の心と体が徐々に離れて行くきっかけなのかもしれません。そして僕にはその離れて行くこの関係をどうしたらいいのか分からないんです。
一一月三日(日)
練習試合があったので僕は足の痛みを
監督に「出れます、出場したいです」と伝えたために出る事になりました。ただ出場したのはたった五分です。それだけでも十分でした。もしかしたら監督には僕がまだ痛みを隠していると分かったかもしれません。だからこそ五分という短い時間だったのでしょう。
僕は自分に嘘をつきました。そしてその嘘に見事に
先生、僕は嘘に良い嘘と悪い嘘があると区別できません。嘘は嘘です。嘘ははっきりと悪い事だと思いますし、良い嘘が本当にあるとするならそれはまた別の言葉だと思うんです。僕が僕を騙せたこの嘘は紛れもなく嘘なのです。
思い返すと僕は嘘に慣れた男である事が分かりました。小学生の頃、僕は父の小銭入れからお金をくすねた事があります。お菓子を買いたかったからです。それも自分のためではなくて友人たちの分も買ってあげたくて足りない分を盗りました。それは見つかっていません。誰にも知られずに僕は未だにそれを想っています。僕は今、それを指摘されたら返す準備があります。これは、本当です。
遠足が楽しかったと嘘をつきました。友達の家でその友達の母親が「よかったら夕食を食べていったら?」と言った時、嘘をつきました。
僕は嘘に慣れています。嘘をつくにも、つかれるにも僕は慣れているんです。
一一月一〇日(日)
先生、大人と子供の違いって何でしょうか?
今日の夕方からそんな事ばかりを考えています。それなのに僕には答えが分かりませんでした。
朝はいつから朝なのか、という問いには答えられます。それは「今日も一日頑張るぞ」と思ったならその時がもう朝だと思っています。なので僕はいつも学校へ向かう時に朝を迎えています。
この朝の答えも子供から大人の違いを考えた時に思いついた事です。言い換えるのにひとつ上手い納得のいく答えが出たら他の問いの答えも上手い事思いつくのじゃないかと考えたのですが僕には大人と子供の違いが分からないままで夜を迎えました。
部活の練習を終えてチームメイトと帰っていく時によく遊びに色々な所へ行きます。今日は駅前の喫茶店でした。こうした寄り道は校則で禁止されていると知っていますが
僕たちは店の奥の方のテーブルに座ってアイスコーヒーを飲みました。右隣にはサラリーマンの男性が座っていてノートパソコンのキーボードを叩いていました。左隣は空いています。
アイスコーヒーを半分ほど飲んだ時、空いていた左隣の席にひとりの女性が座りました。彼女もノートパソコンを開いてキーボードを激しく叩き始めました。スマホと連動させたヘッドセットで会話をしながらその女性はアイスコーヒーに差すためのストローを細長い紙袋から取り出しました。
僕たちは周りの事などほとんど気にしないで喋っています。僕たちの会話内容なんて先生はきっと興味が無いでしょうけれど言っておけば教室内で喋っている事とほとんど変わりません。
そしてその女性がストローを差したアイスコーヒーのコップを持ち上げた時にストローが脱いだ細長い千切られた紙袋が床に落ちていきました。
『あ、落ちたぞ』と僕は思いました。それでも女性は飲むのを止めませんでした。女性の視線が落ちたストローの紙袋へ向けられたのを僕は見ました。そして僕らは話を止めません。僕のアイスコーヒーはほとんどなくなって氷と溶けた水だけが残されてそれをストローで弄ぶためだけに片付けませんでした。
それから長い時間を僕たちは喋って過ごしました。右隣にいたサラリーマンの男性はもう居ません。ただ左隣の女性はまだ残っています。女性のアイスコーヒーはもう無くなっていました。
僕たちのお喋りももうそろそろ区切りが着く頃だなと思ったらその女性がノートパソコンを閉じて立ち上がりました。
空になったコップを載せたトレイを持って返却台の方へと歩いて行きます。僕はあの落ちたままのストローの紙袋を見ました。落ちたままでそこに残っています。
その女性はヒールのかつかつした音を店内に響かせながら僕の目の前、いや、あのストローの紙袋の前を通り過ぎました。その時、僕はその女性がちらりとその紙袋が落ちているのを見たのをこの目で見たのです。そしてその次に僕を見ました。目が合った時、僕はどんな表情をしていたか分かりませんがその女性はふいと顔を前へ向けて喫茶店を出て行きました。
僕はあの時、ストローの紙袋を引っ掴んであの女性に叩きつけてやりたくなりました。でも、僕はそうしませんでした。
僕たちも帰ろうとなって飲み終わったコップを片付けるために席を立ちました。僕はあの時、しっかりとそのストローの紙袋の事を意識していました。そして返却台にコップを置いて歩き出すと僕もあの女性と同じように紙袋を見下ろしたのです。その時、僕は何に突き動かされたのかは分かりませんが落ちているあのストローの紙袋を拾い上げて返却台の上にある僕のコップの置かれたトレイの上に置いて帰りました。
僕は、あの女性とは違います。絶対に違います。あの女性のストローを見下ろした時のあの目と僕と合ったその目が許せませんでした。
家に帰ってもこのもやもやは消えませんでした。消えない理由は分かっています。あの女性が落としたあのストローの紙袋をどうして拾わなかったのかを考え続けていたからです。実際、どうして拾わなかったのでしょうか。仕事が忙しかった、急な用事が入って急いでいた、電車に間に合わないと思った、いずれにせよその女性は拾わずに帰ったのです。
そしてあの見下ろす眼はまるでそれが自分のするべき行いではない、店員や私以外の者が拾えばよろしいと言うかのように伝わって来たのが全てだったように思います。これが大人だと言うのなら僕は子供のままで良いと思います。女性は拾わずに僕は拾いました。僕はこの行為は正しいと思います。ただこの行為が為すべき当然の事が為されない大人たちの中へと僕たちは突き進んでいるという事実が恐ろしいです。徐々に大人へ同化していく僕の目があの目と同じになると考えると耐えられません。僕はこの子供らしさを失いたくありません。
先生、もし先生だったらあのストローの紙袋を拾いましたか?
一一月一三日(水)
今日は雨が降っていました。この時期の雨は冷たいですね。少し濡れただけでも体温が奪われてしまうような感覚があります。
今日、僕はとても優しい気持ちになりました。癒されもしたように思います。というのも今日の下校中に近所の小学生の子と信号待ちが一緒になりました。その子の黄色い傘が小さくて懐かしいように思って見ていました。
すると信号の先にある一軒家の前に停まった車からひとりの女性が降りてきました。買い物袋を持って駆け足で家の中へ入って行きます。その時に隣にいた子が「あっ!」と大きな声を出しました。
また駆け足で戻って来た女性は車の中から手提げかばんを取り出して車の鍵を閉めました。
小学生の子が「お母さーん!」と手を振って呼びます。信号はいよいよ青に変わりそうでその子はリレーのバトン待ちの走者のように待っています。そして青に変わった途端にその子は走り出しました。ただそれと同時に大きなトラックも走り出していて車道の水溜まりを大きなタイヤが走るとばしゃあっと大きな音がして泥水をその子へ浴びせてしまいました。
自宅の玄関の前で待っていた母親は泥だらけになった子を迎えて抱きしめました。その子が泣いていたからです。母親は笑いながらその子を撫でて頭にキスをしました。開いたままで置かれた黄色い傘とランドセルのカバーは汚れていなくて綺麗なままでした。
僕はこの光景を見てとても温かい気持ちになりました。
親子の関係って色々だなと思います。僕の家もそれほど悪くはありません。あの子の家庭はきっと素晴らしい家庭でしょう。
一一月二九日(金)
受験のために塾へ行く事になりました。週に三回行く事に決まって僕は三教科の授業を受けます。僕の得意教科は理数系です。どうやら文系科目は
「でも、今からなら間に合うと思いますよ」
と、笑って言います。僕も頑張るつもりです。
授業は黙々と行われます。ほとんど喋りません。僕よりも前に通っていた生徒たちはすでに交友関係が作られているようでいくつかのグループが出来上がっています。学校の教室とちょっと違うなと思ったのはその出来上がったグループがどれも男女混合である事です。きっと同じ学校の生徒なんだろうなと思いました。
そして困った事に僕の学校の生徒は少なかったのです。その少ない生徒も僕の知り合いではありません。仲良くなるきっかけがつかめないまま一週間が過ぎました。
人と仲良くなるのって本当に難しいと思います。輪の中へ入れないままですが塾がそれほど長い時間ではないのでほとんど苦にはなりません。僕のようにグループの中へと入ろうとしない生徒も数人いるのが救いになっているのでしょう。溶け込めないでもそれほど気になりませんでした。
授業が終わって外で待っていると雨が降ってきました。僕は軒下で母が迎えに来てくれるのを待っていましたがなかなかやって来ません。他の生徒は帰っていきます。
すると僕の近くにひとりの女の子がやって来ました。グレーのダッフルコートを着ていて制服は見えませんでしたが僕の学校の生徒ではないと思いました。彼女は空を見上げて止みそうにもないのを確かめるとため息をついて手のひらで雨の強さを確かめていました。
歩いて帰るつもりなのかなと思うと僕は母に相談する事もなく一緒に乗って行ったらいいのにと思いました。
「僕、迎えを待ってるんだけど一緒に乗って行く?」
彼女は同じ教室にいた僕の存在に今、気付いたという様子で僕を見ました。
「誰、あんた?」
「僕、先週から授業を受けてる原口だよ。君は?」
僕が尋ねても彼女は答えませんでした。彼女は僕の言う事を無視して雨の中を歩いて帰ろうとしています。僕はリュックの中に入れていた折り畳み傘を急いで取り出して彼女へ差し出しました。
「これ、貸すよ。返すのは今度で良いから」
もう彼女の肩は雨に濡れています。ダッフルコートのフードを頭に被ってしまったので表情は見えませんでした。
「いらない!」
大きな声でそう言うと彼女は走って駅の方へと走って行きました。僕と同じように軒下で待っていた数人がくすくすと笑う声が聞こえてきて僕もすぐにも走ってその場から離れたいと思いました。
母が車でやって来たのはそれからすぐでした。乗り込んで母が「今日も出来た?」と尋ねたのに僕は「うん」と短く返しました。とても話す気分にはなれませんでしたし、他にもすべき事があったので。
車が走り出してから僕は窓越しに笑った者たちを見ようとそちらの方を見ましたが顔が見えなくて誰が笑ったか分かりませんでした。
一二月四日(水)
今日も塾へ行って来ました。どうやら塾という勉強のための空間は僕には合わないようです。
教室の中へ入ると彼女がいました。そして他の生徒たちもいます。やっぱりグループは出来上がっていて彼らがくすくすと笑う声も聞こえてきそうでした。
授業が始まってからも何か変な雰囲気でとても気分が悪かったです。
くすくす笑う声が聞こえるような、あるいは彼らの口の端が歪む音がそれと聞こえるように思われるのです。僕は何度も彼らの方を振り向きました。というのもそのグループは教室の後ろの方で陣取っているからです。
ただなにも変な所は見られずに問題を解いていく彼らの姿が見えるばかりでした。
気のせいかと思いましたがどうにもそれでは納得できません。そしてやっぱりくすくすと笑う声は聞こえるように思うのです。僕はその一瞬で振り返って見るとグループのひとりの男が彼女へ向かって消しカスを投げているのが見えました。
彼女の方を見ると彼女は全く気にしていないという様子で問題を解いています。そのグループの者たちはその男が投げる消しカスが彼女の頭に乗ったり、肩に乗ったり、首と着ているシャツとの隙間に入ったりするのを見て彼女に近ければ近いほどくすくすと笑うのでした。
僕は、すぐにも止めるべきだと思いました。授業中であるのを顧みずにあの男たちを注意しようと思ったのです。ただ僕には出来ませんでした。
立ち向かえなかったのです。あの男たちに立ち向かう勇気がありませんでした。ただ彼女が嫌そうな、辛そうな素振りを少しでも見せたら僕はそうしようと心に決めて彼女をよく見るようにしましたが彼女はそんな素振りを見せないのです。
どうやらこの男たちと彼女は同じ学校であるらしく日常的にこうした行いがされているのだろうと思いました。
そして僕は休み時間になった時、思い切って彼女に話しかけました。彼女は休み時間に小説を読んでいたのでそれがきっかけになったのです。
「なにを読んでるの?」
僕が突然、話しかけたのに驚いた様子で彼女は見てきました。今度は明るい所でその表情が見えます。彼女は特徴のある可愛らしい顔をしていました。
「私に話しかけない方がいいよ」
小説の話が聞きたかったのに彼女は取り合おうとしません。注目を浴びているのが分かりました。恐らく彼女も分かっていたのでしょう。語気はいっそう強くなって言いました。
「同情しないで、気持ち悪いから」
そんな言い分に腹が立って僕は自分の席へ戻りました。彼らの方と彼女の方を見ないようにして。
それから僕は心が晴れないまま授業を受けました。消しカスが投げられるのは止んでいるように思いました。
全て終わって塾を去る時に僕は母に連絡して迎えに来てもらう場所を変えました。少しの時間でもその場に居たくないと思ったからです。
塾を去る時に僕は彼女の方を見ませんでした。そして彼女もまた僕の方を見なかったのを知っています。僕はそっちがその気ならもう構うもんかと思って意固地になったまま二度と見まいと決心しました。
母がやって来ると今度は何も尋ねられなかったのでその車の中で僕は塾が合わないかもしれないという不安を母へ言いました。
「どうしてそう思うの?」
母が尋ねたのに対して僕は答えました。
「知り合いがいなくて楽しく勉強できないんだ。それになんだか先生の説明も僕には分かりづらいし」
そう答えてから僕は受験のための勉強は継続させたいという意志を見せるために「別の所に行きたい」と付け加えました。
僕はまた嘘をつきました。今の塾に行きたくないと思うまでの不快感を知り合いがいない事と先生の説明が下手な事にしたのです。でも、半分は真実で半分は嘘です。ただその真実も一歩踏み込んだ言い方ではありませんでした。
母は納得してくれました。というのもまだ受験までには時間があるからそれまでに合う場所を見つけたらいいよと言ってくれたのです。僕はそれだけで嬉しくなりました。
ただそれは嘘をついて得た成果です。
僕はもう嘘をつきたくありません。
一二月二四日(火)
塾を変えました。勉強する教科は同じです。周りの人は変わっていますが。
僕と同じ学校の生徒が前の塾よりもたくさんいます。それが少しだけ嬉しいですが授業の内容は前の塾の方が充実していたように思います。
僕が気にかかるのは彼女の行く末です。どうなるのでしょうか。きっとあの塾の外でもあのような行為は為されているのでしょう。僕は気になるあまりに何の予定もない日にあの塾の周りをぐるりと歩いた事があります。彼女の姿を見つける事は出来ませんでした。きっと僕が塾へ行く曜日と同じだったからあそこで出会ったのでしょう。もう二度と会う事はないかもしれません。だからこそ僕はあの時、あの連中に立ち向かえなかった事が口惜しいのです。
先生、僕はもう彼女を見まいと思った決心を結びましたがどうやらその決心は消えてしまったようです。忘れてしまったのかもしれません。前回の日記に記した言葉を僕は嘘にしてしまったのでしょうか。それともこの決心を持続させていく力がないのでしょうか。
僕は、僕のこの薄弱が憎いです。先生、僕は明日から、いや今日から力強く生きていきます。膝が痛いと思ってしまう弱さもあれは僕の不安から来ていたに違いありませんし、彼女を襲う苦難に立ち向かえなかったのも僕の弱さから来ていたに違いないのです。
僕は今日、夜の一時三二分をもって生まれ変わろうと思います。
一月一五日(水)
僕のこの決心が揺るがないうちに、ええ、きっと以前の事から僕の決心と言うものは未だに揺るぎやすいのでそれが確かなうちに書き切りたいと思います。
僕はもう嘘をつきたくありません。つき続けたくないのです。
先生、僕たちの二年二組にはいじめがありました。いじめがあったのです。今ではもうぱったり止んでいるのが
からかいや仲間外れ、暴言、ロッカーに閉じ込める、教科書やノートへの落書きと破壊、彼女の飼い犬へのいたずら、様々ないじめがあったのを僕は知っています。
ここで誰がやっていたのかを書く事は出来ません。僕には誰が加害者なのか分からないからです。ただその光景を見ていただけの僕もそれに類する者でしょう。ただそれはたくさんいるという事をここに書いておきたいと思います。
先生、彼女が去ってから話し合いが行われましたね。その時に先生は僕らに尋ねました。「このクラスにいじめのような良くない事が行なわれていたか知っている子はいるかな?」と。誰も言いませんでした。それはきっとこのクラスの秘密でした。僕は内心でどうしてそんな風にしか尋ねられないのかと先生に怒りました。先生が見つけて
ただその秘密はもう秘密ではなくなったようです。この秘密の
ですが、僕はもう嘘をつきたくありません。でも、どうしたらいいのか分からないのです。僕はどうしたらいいんでしょうか。嘘をついてしまった事を彼女へ謝ればいいのでしょうか、それとも嘘をつき続けられず秘密を明かしてしまった事をみんなに謝ればいいのでしょうか。僕には分からないんです。そのどちらもが必要な事に思われて、僕は苦しんでいます。これがきっと僕の様々な不安の源に違いありません。そして今、こうして書いているのにそれが和らぐ事がないのです。
僕はどうやって、どちらに謝ればいいのでしょうか。一方に謝ればまた一方には嘘をつく事になってしまうような気がするのです。
やっぱり僕は、この薄弱が憎いです。僕のこの謝意がどちらに傾いているのかも分からないのですから。
先生、教えてください。僕はいったいどちらに謝るべきですか?
この日記は某県某市の中学二年生のクラスで担任と副担任が生徒の交流を深めるための交換日記:心日記という名目で実施された。
この一月一五日(水)の日記を最後に原口禄朗は不登校になっている。担任や副担任が自宅に電話して交流を図るも生徒側がそれを拒否した。母親に自宅での様子を尋ねると母親は「私が試験の結果や進学先について禄朗に求めすぎたのがストレスだと思うんです。塾での不安や悩みを打ち明けてもらっていたのにそれをしっかりと聞くべきでした」と漏らした。
担任は「時間をかけてゆっくりとやっていきましょう。私どもも禄朗くんが登校復帰できるように学校環境を整えるのに全力を尽くします」と言った。
それから二週間後、両親の説得と原口禄朗自身の登校復帰の意志を汲み取って短時間の電話懇談が行なわれた。
その時、原口禄朗が第一声に発したのは、
「先生、僕はいったい誰に謝ればいいでしょうか?」
という涙ながらの言葉だった。
未だに彼は不登校のままで居る。
心日記 天勝翔丸 @amakatsushomaru
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