ストレンジカメレオン

@orerentaro

I wanna be your gentleman

『教育改革から十年が経過。満足度ほぼ百パーセント』

 初夏、早朝。眠い目をこすりながら、その見出しの記事を読んでいるおじさんの隣に座った僕の気持ちは憂鬱だった。バスの揺れはやはり気持ちのいいものではなかったし、不透明な今や未来のことで僕の心はせわしなかった。そしてその悩みには多分にも教育改革のことが含まれていた。

 十年前に行われた教育改革。個性を伸ばす教育をしようという視点から、一日一時間、趣味の授業が始まった。生徒は個々に自分がしたいと思っていることをするというものだ。ある者はその時間に音楽制作をして、名を世界中に轟かせた。ある者はあらゆる電車の路線の時刻を完全に覚えきっていた。なんであれ、どうであれ自分が好きと言えるものに時間を費やす。そういう授業が追加された。人々の心はより豊かになった。僕のような夢も希望も、これが好きと自信を持って言えるようなものも持っていない人を除いて。

 最近は特に、バスの窓からうっとうしいだけの日差しが差し込んでいるのも相まって、嫌な気持ちになる。ちょこっと汗もかくし。

 僕の住んでいる家から学校まではバスで三十分かかる。去年までは達也さんが送ってくれた。しかし、達也さんがバイトをやめた今、それはもう望めない。

「伏見高校前、伏見高校前」

 金属の擦れ合うような嫌な音が鳴って、バスは止まった。学生用の定期を見せて降りる。まだ七時半なのに、爛々と輝く太陽がどこか憎らしかった。

「おはよっ!」

「おはよう」

 僕に挨拶をくれるのも、もう柏木だけだ。自分が好きと言えるものを持たない僕は、馬鹿にされて当然らしい。みんなが目標に向かって生きている中、一人時間を浪費しているだけの僕。そりゃあ、馬鹿にされて当然だろう。

 かといって僕はいじめられているというわけではなかった。ただ、誰も僕とは関わり合いになりたくないようだ。教室での僕はただそこに存在することを許されているだけだった。朝礼も一限の数学も僕は惨めさに心を浸しながら顔を伏せるだけで、クラスの人々はそんな僕を意識的に視界に入れないようにしていた。

 三限目を迎える。趣味の時間だ。僕はまた憂鬱な気分を味わうこととなる。何もない僕はクラスの一人一人に付き従い、趣味を体験させて貰うことになっている。今日は映画好きの長倉桜子さんに映画を見せて貰うことになっていた。

「この作品はね、前半では凄く悲しい境遇で、ただ運がなかっただけの主人公がなるべくして落ちていくってのが、面白いんだ。でねでね、後半ではね……、まだ見てないからそれを言うのは無しか。それでね、この映画はね、二時間あるんだけど授業の時間だと半分しか見れないからね、貸したげる」

 頬を紅潮させ、早口になる桜子さんは誰の目から見ても輝いていた。凄く楽しそうだった。僕は少しも面白くなかった。映画の内容も、桜子さんの熱い解説も何も面白くなかった。何で僕の心はこうも不感症なんだろう。

「ありがとう。とりあえず今週中には見るね」

「ぜひぜひ!」

 三限終了、解放のチャイムが鳴った。面白いとは思えなかった映画だが、まだ半分だし、見たくもないといえるほどつまらなくもなかった。もしかするかもしれない。頑張ってみよう。僕は幾度となくこのような期待をして、自分自身に裏切られている。

 学校は共鳴し合う場所だ。お互いジャンルは違うけど、好きなものがあって楽しいよなと共鳴し合う。昼休みは特に顕著だし、僕の居場所はそこにはない。柏木も僕と特別仲がいいわけではない。昼休みを一緒に過ごしてはくれない。柏木はセンチメンタルなところがある。僕一人を居ない者のように扱うのが耐えられないのだろう。挨拶だけをちゃんとするのは一種の言い訳のようでもあった。

 昼休みを迎え、僕は購買で買った焼きそばパンを持って屋上に来ていた。屋上の鍵が壊れていることは僕しか知らない大事な秘密だ。僕だけしか知らないということが何よりも大事で、それだけが僕の価値だと思うことも多々ある。僕以外の人がこの秘密に気がついた時、僕がこの学校で見つけた唯一の価値が失われる。だからなのか屋上に入る時はいつもドキドキする。

 今日も誰もいなかった。ほっと一息をついて、いつもの少ない日陰に腰掛ける。太陽がほぼ真上にある一時の日陰は一人分だ。友達のいない僕に向いている。

「情けないなぁ」

 柏木のことが朝からずっと脳裏をよぎっている。柏木は自分への言い訳のために毎朝僕に挨拶をしていたのに、僕の心はその挨拶を嬉しく思ってしまっている。柏木の情けないオナニーで僕はギリギリ学校に来ることが出来るのだ。そんな自分が酷く惨めだった。

 そんなことを考えながらぼけーっと空を眺めるだけ。嫌いじゃない時間だった。空の先には大きな銀河があって宇宙があって、きっと僕の知らない色々があるのだろう。宇宙人もいるだろうし、僕には理解することも出来ない不思議もあるのだろう。だとしたら僕のこんな思いもなくしてはくれないだろうか。

 時間が経つと影も伸びる。はやくも予鈴のチャイムが鳴った。後十分で掃除の時間になる。僕は粘土のような匂いのするパンを急いで食べ、立ち上がった。日々は灰色のままだった。宇宙人は応答してくれない。

「君はいつか、白馬の王子様、いや王女様? がやってきて人生が急に楽しくなるなんて思っているのかい」

「えっ……」

 思わず目をこすった。頬をたたいた。だが、空に男が浮かんでいるという唐突な現実は、間違いなく現実だった。

 その男は僕と同じ制服を着ている。濃いめの顔に重そうな眼鏡を掛けていて、どことなくすらっとしていた。幻だと思ったが、地面にはしっかりと影が伸びている。しかし、そこまで確認しても現実だとは思えなかった。何かの夢だと思った。僕の一人だけの屋上が、もう僕の物じゃなくなっちゃったなとぼうっと考えた。

「幻覚か? 気が狂うほど病んではいないけどなぁ」

「君が見ているのは完全に現実だよ。僕は宇宙人だからね」

 にやりと口を歪めて言われた。男の目は完全に僕の姿を捉えていた。

「君が引かないように姿を変えているんだ。普段は不定形だ」

 ふらふらと風に揺られる男の姿に早くも慣れつつあった。早くも慣れたのには、この男から神秘性やオーラが感じられなかったというのが大きな要素だろう。芸能人の方がよっぽど雰囲気があるし、萎縮する。

「宇宙人がこんなところで何をしているんだ?」

「宇宙船が壊れて、帰れなくなって暇をしていたのさ」

「はぁ。それで、僕に何の用?」

「用はないよ。暇だったからね。話し掛けてみたのさ」

 そう言うと男はくるくると空中で回り出す。太陽と重なって眩しかった。僕は視線を地面に移した。男の影だけがぐるぐる回っていた。

「一つ君に予言をしてあげよう。君は一生このままだよ」

「ひどく抽象的な予言だな」

 占いは大体誰にでも当てはまることを言う。これはバーナム効果と言うらしい。この宇宙人も本当は適当に言っているのではないだろうか。そう思わせるほど抽象的で中身のない予言だった。

「詳しく言っちゃうと君が落ち込んじゃいそうだからね。僕なりの優しさだよ」

 確かに言われると絶望を覚えそうな要素を、僕は自分の内側に抱えすぎていた。とはいえそんなものは誰でも持ち合わせているだろう。

「しかしまあ、君たちは面白いね。趣味かい? 夢かい? そんなしょうもない不安定なものに依存して。滑稽だね」

「……本当に暇なんだな」

 何を言っているのだろうかこの宇宙人は。夢だったり趣味だったり何か目的がないと、生きていくなんて辛すぎるだろうに。

「あれ、もしかして怒った? だとしたらごめんね」

 そのなめた感じにカチンときた。話が通じるタイプじゃなさそうだし、僕は扉を開けて屋上から出る。そんなことより掃除をしないといけなかった。

  *

 学校が終わり、家に帰る頃には日が沈んでいた。振り返ればあの宇宙人は何だったのだろうか。僕はどうしてこんなにも冷静でいられたのだろうか。あの邂逅からまだ数時間しか経っていなかったがもう夢の出来事のように思えた。

 僕の住んでいる家というのはシェアハウスだ。夢追い人の集うシェアハウス。何の夢も目標も持たない僕を心配して、親が無理矢理ここに連れてきたのだった。本来は令和のトキワ荘として芸術家の卵しか受け入れない決まりだったらしいが、早苗さんの入居から目標に向かっている人のシェアハウスになった。僕は何か大切なものを見つけるという目標を持っているという名目で、受け入れて貰った。

「ただいま」

 玄関の先にすぐあるリビングは共用スペースだ。全員分の椅子と、全員で囲える巨大な机がある。いつもならこの時間は白瀬さんが机いっぱいに道具を広げて漫画を描いているのだが、今日は早苗さん以外勢揃いだった。皆神妙な顔つきをして、椅子に座っている。

「おかえり」

 画家を目指している陽子さんが優しい笑顔で迎えてくれた。このシェアハウスは間違いなく僕の大切な居場所であると確信できる笑顔だった。

「どうかしたんですか?」

 しかし、皆が神妙な面持ちで、椅子に腰掛けているという異常な状態だ。聞かずにはいられない。聞いてしまったものの、大体何が起きたかは予想が付いていた。それは悲しいことで願わくば外れて欲しかった。

「早苗、落ちたってよ」

「そっか……」

 僕の最悪の予想は的中してしまった。

 早苗さんがアイドルオーディションに落ちた。そこまではこれまで何十回も聞いた話だ。しかし。しかし、今回はこれまでとは違う。

 早苗さんは今年、二十四歳。そして、二十四歳というのは大体のアイドルオーディションの上限年齢でもある。「これが最後のチャンスだ」と笑い、最後まで受かる気でいた早苗さんがアイドルになる道は、閉ざされてしまったというわけだ。

「じゃあ今、早苗さんは?」

「部屋にいる」

 僕には夢も希望もないけど、経験もないけど、早苗さんの気持ちは分かるつもりだ。僕も胸が締め付けられるように苦しくなった。

「拓。お前、早苗さんと仲いいんだから連れ出してくれないか?」

 達也さんが神妙な面持ちで言う。不敵な笑みもニヒルな表情もない達也さんは、魅力が半減していた。それほど切羽詰まっているようだった。

「しばらくそっとしておいた方がいいんじゃないかと思いますよ」

「いや、早く声を掛けないと……。首吊るかもしれないよ」

 首を吊るかもしれない。その大仰な言葉を嘲笑うような気持ち共に、妙な現実感に僕の心はぐちゃぐちゃになる。とりあえず僕は空いていた椅子に、腰掛けた。僕の両肩に乗りかけている責任は重すぎる。

「たっくんには分からないかもしれないけどね、夢って自分の人生そのものなんだよ。だからね、なんとかしないと……」

 陽子さんの言葉に含まれる微量の毒に顔をしかめそうになる。天然の悪い部分だ。しかし、陽子さんや達也さんの言うとおりなのかもしれない。僕には分からないくらい大きな絶望が早苗さんを包み込んで、首を吊ってしまう可能性もゼロではなかった。だって僕には夢がないから、分かると思っていても彼女の気持ちなんて分からないのかも知れないのだから。

「僕にどうにか出来るとは思えないけどなぁ」

「でもさ、俺たちには何も出来ないって結論が出ちゃったんだよ」

「ちょうど居ない僕に全責任押しつけたってだけじゃないんですか?」

「全くないと言ったら嘘になる」

「……。まあ、少し話してきますね」

 あまりいい展開になるとは思えなかった。だけど、これがみんなの考えた最善であるだろうことは想像に難くないし、何より自分に役割が与えられているというのが嬉しくもあった。

 階段を上って、一番奥の角部屋の扉をたたく。早苗と可愛く書かれたホワイトボードが少し揺れた。

「早苗さん、マックでも行きませんか? 話聞かせてください」

 僕はカウンセラーじゃないし、相談事をよくされる立場でもない。早苗さんからは何度か相談を受けたことはあるが、それはただ一番仲がいいのが僕だという理由だけだ。だから絡め手なんて意味は無い。説得したり、何かを変えさせようという意思も持たない。ただ話を聞くだけだ。

「……。私、落ち込んでるんだけど」

 扉の向こうから不機嫌そうな声が聞こえてきた。僕は思っていたよりも元気そうな早苗さんの声に少し安心した。流石に首を吊るというのは心配のしすぎだったように感じた。

「落ち込んでるから誘ってるんですよ。嫌でした?」

「嫌だよ」

 それはそうだろうと思った。これは厳しいかなと思ったが、部屋の中で布の擦れる音が聞こえてきた。どうやら着替えているみたいだ。

「行こうか」

 少し目元の赤い早苗さんが出てくる。きらびやかで若い女の子って感じのいつものファッションからは打って変わって、非常にシンプルな格好をしていた。僕は急に寂しくなって胸が締め付けられた。

「行ってきます」

 みんなは緊張の面持ちで僕たちに手を振った。早苗さんは少し嬉しそうに苦笑いをしていた。

「なんか、結構気を遣わせちゃったのかな」

 夏とはいえ、夜風は少し冷たかった。空を見上げると星が輝いていて、昼に出会った変な生き物を思い出した。

 急に自信がなくなってきた。僕は早苗さんになんと声を掛けたらいいのだろうか。

「……」

「何か言わないの? 誘ったの君だよ」

「何を言えばいいのかなって考えてました」

「どうせ何言ったって不正解だよ」

「僕もそう思います」

 くすりと笑った早苗さんは先導してマックに入る。そして、手早く僕の分まで注文を済ませると席についた。僕たちの築いた関係というのが感じられてしみじみとした。だけどもう次はないのかも知れない。

「ねぇ、たっくん。私って可愛い?」

 早苗さんが自信をなくしたとき、必ず聞いてくる言葉だ。高校生の僕としてはこれに素直に答えるのは気恥ずかしさを覚えずにはいられないけれど、自信をなくした早苗さんのためにも素直に答えると決めている。

「すっごく可愛いです」

 偽りのない本音だった。

 いつもなら早苗さんは「だよね!」と笑顔をこぼすところなのだが、今日は憂鬱げに上の明かりを眺めるだけだった。僕も吊られて上を見る。マックのぶしつけな明かりは眩しすぎた。

「きっとそう思ってるの、たっくんだけだよ」

「そんなことないですよ」

「そうだったんだよ。……。ねえ、たっくん。ホテル行かない? もう私アイドルになれないし」

「急に可愛く見えなくなってきたし、僕未成年だし」

 ドキリともしなかった。早苗さん相手に卑猥な妄想をしたことが無いと言ったら嘘になるけれど、今日のやけっぱちな様子を見ると、同情や憐れみのほうが強く感じられた。そう思えた自分に安心した。

「二十番の方」

 早苗さんが領収書を確認して立ちかけたので、僕は手で制してハンバーガーを取りに行った。ハンバーガー一個とチーズバーガー二個、ジュースとポテト。金のない学生とフリーターの早苗さん。金欠コンビのいつものメニューだ。

「そんな、投げやりにならないでください」

「……たっくんには分からないだろうけど、夢って私の全てなんだよ」

 チーズバーガーを手に取って早苗さんは言う。僕には分からない巨大な価値観が社会の波となって迫ってきているかのようだった。惨めさを覚えずには居られなかった。なんで僕は早苗さんを分かってあげられないのだろうか。なんで僕はこの社会の内側に入っていけないのだろうか。

 どんな答えを出すことも出来ず、いつも通り言葉に塗られた微量の毒に気がつかない振りをした。

「私の全てだったのに……、どうやって、明日を迎えればいいの……」

 ぽつぽつと早苗さんは涙を流した。僕はとりあえず、ティッシュを差し出した。早苗さんは受け取らなかった。

「アイドルになれなくても早苗さんは早苗さんだし、僕にとっては大事な友達ですよ」

「でも私にとっては、アイドルは……何よりも大事なんだ。…………。全てなんだよ」

 僕たちよりも大事なんですかという言葉はなんとか飲み込んだ。言うまでもなくその通りだったからだ。だが、それと同時に一抹の寂しさを覚えずにはいられなかった。

「そんなに大事なんですか」

「もう大事にすることも出来ないね……」

 早苗さんはチーズバーガーを一口食べる。僕の分はまだトレーの上に乗りっぱなしだった。

「私ね、小学生の頃ね、……友達とけんかして、落ち込んでいたんだ。…………、その時偶然スーパーであったイベントで『コネクト』ってアイドルに会ってね、泣いてる私に手を差し伸べてくれたんだ」

 何回も聞いたアイドルを目指したきっかけだった。いつもはキラキラと目を輝かせて言っていたが、今は残り少ない大事な物を噛みしめているかのようでもあった。その様子がなんともいたたまれなくてしょうがなかった。

「届かなかったけど、頑張った。それじゃ駄目なんですか」

 自分で言いながらも無理があると思った。夢を叶えることの出来なかった人は、その後どうやっていきているのだろうか。僕は夢も希望もないけれど、夢が途絶えたときの絶望感とぷつりと人生が終わるような感覚だけは鮮明に想像できた。

「叶わなかったら、何もやってないのと同じだよ」

 早苗さんの言うとおりだ。僕たち人間は一人一人目標を定めて、それに向かって生きていくべきだ。だからこそ、早苗さんの言うことは間違いがないとは思うけれど、それでもあの輝いていた日々が全部無意味と断じるのは悲しすぎる。

「楽しかったじゃないですか。それじゃ駄目なんですか」

「いいわけないじゃん。お遊びでやってたんじゃないし」

 とても悲しかった。早苗さんを応援している僕の心まで否定されているようで。そういう風に思いながらも本当は僕も分かっていた。どうしようもなく早苗さんの言っていることが正しいことを。だからこそ、僕は内心怒っていた。早苗さんのあり方に、そんな社会に、心の中でそのあり方を正しいと思っている自分自身に。

「もう、終わってるのに何でそんなに夢が大切なんですか」

 むすっとした表情が早苗さんにバレてしまっているかもしれないが、もうそんなことはどうでもよかった。

「大事に決まってるじゃん! 夢なんだよ」

「でも、そんなの苦しいばっかりじゃないか」

 口をついて出た。どうにも冷静さを欠いていることを自覚した。ジュースを一口あおるも、胸の内の熱のようなものは冷めなかった。

「……。たっくんには分からないよ……。分かるはずがないよ」

「それは……」

「分かるはずがないよ。軽薄に時間を浪費してるだけのたっくんに分かるはずがないよ! オーディションで隣にいてお互い頑張ろうねって言い合った人が、今テレビで活躍してるのを見たときの言い様のない気持ちも。一人だけ売れ残って、一回りも二回りも幼い子供達と同じオーディションを受ける惨めさも、友達がちゃんとアイドルになれたときのあの嬉しさも全部分かるはずがないじゃん!」

 反論がしたかった。僕にだってその気持ちは分かるって言いたかった。だけど、悲しいくらい僕の手の中には何もなくて、だからこそ、その気持ちは僕には分からないのではないかという疑念も湧いた。

「……」

「……。ごめん。帰る」

 早苗さんは店を出て行った。その背中はとても悲しそうで、だけど僕は見えなくなるまでかけるべき言葉を見つけることが出来なかった。

 食べかけ飲みかけのハンバーガーとジュースが所在なさげに残されていた。

 僕も帰ることにした。もし家で会ったら気まずいなと思いつつも、帰るしかないことだけは確かだった。

 外に出ると風が少し冷たかった。途端に情けなくなって、涙が溢れそうになった。やはり僕は夢も希望もない欠陥品だと思い知らされた。無意味に早苗さんの胸の内に踏み込んで傷つけただけだった。全くもって無意味だった。

「ふう」

 深呼吸をしながら涙がこぼれないように、上を向いた。にじんだ視界の中でも星はしっかりと輝いて見えた。彼我の差を感じずにはいられなかった。夢を叶えた人や、映画が好きで好きで幸せそうな桜子さんのような人と僕との差を。でも早苗さんも今日から僕と同じなのかもしれない。そう思うとやっぱりいたたまれなかった。

「なあ、滑稽だろう」

 ふらふらと月をバックに宇宙人が現れた。妙に腹が立ったし、無視してやろうかとも思ったが、なんだか勿体ない気もしたから返事をしてみる。

「僕はそうは思わない」

「ほんとにそうなのかい? 内心小馬鹿にしていないのかい? アイドルになるなんていう確実性の低いものに依存するあり方を、本当に尊いものだと思っているのかい?」

「夢は素晴らしいものだろう。僕たち人間はそう生きるべきだと思うよ」

 宇宙人はぐるぐると空を回っている。かと思えば顔を僕に寄せて、じいと瞳をのぞき込む。宇宙人の目の中には宇宙が見えた。星が輝いて爆発して、大きな黒に飲まれて消える。その様が見えた。

「君たちの価値観はこの十年間で本当に変化してしまったんだね。いいや、ここ百年くらいの流れなのか? 限界効用逓減の法則か? 生きてるだけで儲けもんの時代じゃないのか」

「何を言っているんだ」

「いいや、独り言だよ。まあ、とにかく君たちは自分の生き方を考えた方がいい。社会が進みすぎて、君たちは生きてることにありがたみすら覚えないのだからね。八十億いる人間の一人一人が特別だなんて幻想を捨てて、上手に生きる術を身につけるべきだ。それが大人になるということだと十年前の大人は言っていたのだよ」

 それだけ言うと宇宙人は消えた。変なことを言う奴だった。結局何を伝えたかったのだろうか。分からない。

「……ただいま」

 遠慮がちに挨拶をする。リビングにはまだ、早苗さん以外みんないた。

「すまなかった」

 開口一番、達也さんが頭を下げてきた。僕はあたふたと首を横に振って、なんとか顔を上げさせる。他のみんなも申し訳なさそうな顔をしている。

「そんなことより、早苗さんは?」

「部屋に戻ったよ。私が出てくるまで何もしないでって言われた」

「じゃあ、もうどうしようもないですね」

 もとよりどうしようも無いことだったのだ。今となってはそう思わざるを得ない。

「僕ももう休みますね。役に立てず申し訳ないです」

 なんだかとても悲しかった。

 ♯

 朝起きて、バスに乗って学校に行く。早苗さんは部屋から出てくることはなかった。僕の灰色の日常はより一層色味を失っていた。

「おはよっ!」

「もうやめなよ。そんなこと」

 笑顔のまま固まる柏木を横目に僕は学校に入る。どうにも今日は機嫌が悪かった。

 授業もほとんど頭に入らなかったし、俳句の素晴らしさなんて分かるはずもない。僕の頭の中では延々と昨日の出来事が巡っていた。先生に怒られても、柏木が友達を引き連れて僕にお話をしたときも、どこか現実味がなくテレビ画面を見ているかのようだった。

 時間が溶けた。あっという間に放課後だ。夢というものとどう向き合うべきなのか。早苗さんのこれからは。僕は何処に向かえばいいのか。考えれば考えるほど深みにはまっていくようだった。

 家のリビングには誰もいなかった。それは僕にとっては都合がよかったかもしれない。何も言わず部屋に戻る。誰とも会いたくなかった。

 部屋の中の観葉植物を眺めて、ただ時間が過ぎるのを待つ。やっぱり僕には何もなかった。こういうときに現実から逃避させてくれるようなものが。

 むなしかった。早苗さんの夢の終わりを見ても、宇宙人に嫌なことを言われても、やっぱり僕の中で夢というものの持つ輝きは、色褪せなかった。そのことが嬉しくもあり、また腹立たしくもあった。

 簡素な部屋すらも毒だった。ここにも逃げ道がなかった。どこにも逃げ道がなかった。思想が回って、絶望が充満する。

「……いる?」

 遠慮がちな早苗さんの声が扉の先から聞こえてきた。部屋にずっとこもっていたわけではないようだ。その点においては安心した。

「います」

「……。昨日はごめんね。せっかく連れ出してくれたのに酷いこと言っちゃって」

「お互い様です。こちらこそごめんなさい」

「外、出ない?」

「……行きます」

 服を着替えて部屋を出る。早苗さんはすっきりした顔をしていた。僕は拍子抜けした。

「私、色々考えたんだ」

 それだけ言うと早苗さんは先導して歩き出す。僕は黙って付いていった。

「夏が来るね」

 外は綺麗な夕焼けだった。

「そうですね」

「昨日はごめんね。ほんとに酷いこと言っちゃって」

「気にしてないから大丈夫ですよ」

 嘘だった。早苗さんに時間を浪費しているだけとか言われてショックだった。だけどそれは純然たる事実であることも確かだったから、甘んじて受け入れなければならない。

「なんとなくマック向かってたけど、いい?」

「もちろん。いいですよ」

「私、おごるよ」

「やった」

 意識したらちゃんと嬉しそうな声が出てくれた。

 店に入るといつものように早苗さんは僕の分まで注文を済ませる。

「私、色々考えたんだ」

「……」

 無言で先を促す。早苗さんは昨日とは一転してすごく幸せそうな顔をしていた。何が起きているのか分からなかった。

「陽子さんと色々話したけれど、やっぱりどうしようも無いから認めないといけないね」

 早苗さんは滔々と語り出す。

「楽しかった思い出として、整理をつけなきゃいけないなって思ったんだ」

「そうなのかもしれないですね」

「私、たっくんと同じだね」

「そうですね」

「悲しいし、嫌だなって思うけどさ、それも受け入れないといけないし、そうやって生きていくしかないと思うんだよ。でも、それって凄く気楽だし、悪くないなって。たっくんもいるし」

 そのような前向きさを早苗さんが獲得していたことに安心した。でも、僕は早苗さんと同じようには考えられなかった。

「夢ってそんなに必死に追う必要も無いって思うようになったんだ。頑張っても大体叶わないし、そういう気持ちも大事なのかなって思ったし。夢があってもなくても私は私だし」

「昨日と真逆のこと言ってますよ。何かあったんですか?」

「もうこのまま死んでやるって思ってたんだけどね、お昼におなかがすいて耐えられなくなって、部屋の外に出たら陽子さんがいたんだ。それで、話したんだ」

 早苗さんは僕に微笑みかける。おなかがすいたってところで笑った方がよかったかなと思った。

「陽子さんは、やっぱり無意識だけど、差別してるんだ。私たちのことを。画家になる夢を持っていて、それを追いかけることに誇りを持っているから無意識で、夢がないたっくんだったり、もう追いかけることの出来ない私のことを馬鹿にしてるよね」

 まったくもってその通りだ。僕は頷いた。

「その時、これがたっくんの気持ちなのかって気付いたんだ。だからさ、昨日嫌なこと言ってごめんね」

「まあ、それは本当にお互い様です」

「そう言ってくれると嬉しいよ。それで、私もたっくんと同じになったんだなって思ってね、最初はちょっと悲しかったりしたんだけど、でもやっとたっくんのことが分かると思ったら嬉しくもなったんだ。たっくんはいっつも辛そうだからね」

「そんなこともないですよ」

 そう答えた僕を早苗さんはニヤニヤと見つめる。どことなく気恥ずかしくなって視線を逸らした。

「私もたっくんと一緒になったね」

「なんでそんなに楽しそうなんですか?」

「そう思わせてくれたのはたっくんだよ」

「……。……僕の言葉は昨日届かなかったんですけどね」

「その弱さが私たち一緒でいいんだよ」

 不思議な気持ちになった。僕はこんなにも苦しいのに、僕の言葉で救われたなんて、冗談のようにしか聞こえなかった。

「こんな何気ない楽しい日々が続くだけでいいなって。ご飯美味しいとか、夕日綺麗だなとかそれだけでも十分満足して生きていけるって思うんだ。……、まだそういうふうに言い切れるほどじゃないけど、それでもそうやって生きていくしかないって思う」

「素敵ですね」

「たっくんも一緒にそうやって生きていくんだよ」

 早苗さんが僕に手を伸ばした。昨日とは一転、明るいその表情に、その仕草に、僕は魅了された。すごく早苗さんの手を取りたいと思った。だけど、何故か僕はその手を取ることが出来ない。

「たっくんがいなきゃ、わたしゃ生きていけないぜ。俺たち二人、もう世間一般の感覚じゃ生きられないけど、何もない同士わかり合えると思えない?」

「……。僕たち宇宙人みたいですね」

 僕は早苗さんの手を取る。これでよかったのかと腑に落ちた。僕はこの立場や、気持ちを共有できる友達がずっと欲しかったんだ。夢や希望に依存して生きていくことの出来ない僕も誰かと価値観を分かち合い生きていきたかったんだ。

「……ありがとうございます」

 僕の心には希望の風が吹いていた。きっと周囲からの目線は変わらないし、社会は変わらない。だけど、早苗さんという仲間がいるならそれだけで生きていけると心より思った。

「これからも楽しくなるね」

「そうなるといいですけど、早苗さん躁ですよ」

「私もそうじゃないかなって思ってた」

 早苗さんは笑う。僕も笑い返す。それだけでわかり合えて、幸せだと思えた。

 早苗さんにおごって貰ったハンバーガーを食べ終えると、僕たち二人は外へ出た。すでに日は落ちきっていた。

「星が綺麗だね」

 空を見上げると今日も昨日と同じように星が輝いていた。ふと宇宙人の存在を思い出した。

 あれも僕と同じように居場所を探していたのかもしれない。だとしたら今の僕は居場所になれるような気がした。

「私たち、あの星たちに一生届かないんだね」

 凄く楽しそうに早苗さんは星に手を伸ばす。僕たちが手を伸ばしても星との距離はほとんど縮まってはいない。昨日まではそのことが辛くて悔しくて仕方がなかったが、今日は違う。僕たちは何もないから分かり合えた。今はただ、その事実が嬉しかった。

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