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 私は彼女の元へと歩いた。


「あの、子沢修睦さんに会いたいのですが」


 彼女はふいに目をそらし、カウンターに座ったまま下を向く。


「子沢修睦さん? 患者さんですか? そのような方はいません」


 書類を見るようなフリをして、しれっと彼女は言った。


「そんなはず……九階の特別な部屋に、確か910号室でしたよね? あの時、あなた私に、招待状がないと会えないって、言ってましたよね!?」


「何を言ってるんですか? 九階に患者さんの部屋は一つもないですよ。それに、私はあなたのこと、知りませんから!」


 下から私をにらみつける彼女の目は、絶対に私を覚えているものだ。


「嘘! だって、おじいちゃんも九階の部屋だから会えないって、あなたが――」


 静かなロビーに私の涙声が響く。その時、彼女の手元にある電話は鳴った。


 変な間があって、彼女は受話器を取る。耳にあて、みるみる表情はこわばった。


「は、はい……いいんですか? はい……」


 私の顔を一瞥し、話し終えると受話器を戻した。


「子沢様が910号室でお待ちです」


 感情を押し殺した小さく震える声で、下を向く彼女は言った。


「えっ、九階に患者は誰もいないって……」


 呟く私の耳に、立ち上がった彼女は顔を近づけた。そして耳打ちする。


「この前のカードキー、まだあなたが持っているはずよ。そのバッグ、前にも持ってきてたでしょう? その中にあるんじゃない?」


「えっ……」


 彼女はまたカウンター内の椅子に腰かけると、何事もなかったように書類をカサカサ広げだす。


「ど、どうも……」


 小さく言って、エレベーターへ向かった。二台あるエレベーターはどちらも九階でとまっていたので、下りてくるのを待ちながらバッグの中を探る。すると、一つだけついているポケットに、カードキーは挟まっていた。


 右側のエレベーターが下りてきて、扉が開く。中には誰も乗っていない。すぐに入り、ボタンの一番下の所へカードキーをかざした。ピッと音が鳴ったので、九階のボタンを押す。


 扉が閉まる瞬間、さっきのカウンターに目をやった。鼻から上だけの看護師の目は大きく見開いていて、まるで幽霊でも見るかのような視線を、私に向けているのだった。


 九階に着くと、私は再びボタンの下にカードキーをかざした。ピッと鳴って、ドアは開く。


「うっ……」


 強い臭いに驚き、鼻と口を手で覆う。動物園の檻の前に立った時の臭いを何倍も濃くしたような、ねっとり絡みつく臭い。


 それに、開放感があったはずの九階は、全く違う世界になっていた。


 壁や天井、床といった概念はそこにない。一つの丸いトンネルのようで、白かったはずの空間は赤黒く血管が走ってドクドクと脈打ち、そして、熱い体温を感じる。


 そうだ、ここは生き物の中だ。管状になっている臓器、腸だろうか。いや……そんな安易なものではないかもしれない。


 だが、とにかくここは何者かの体内だ。


 エレベーター内から出るべきか迷い、後ろを向く。しかし、そこにはもう何も存在しなかった。前方と同様に、延々と長くトンネルは伸び、先は闇。


 だけど……前方の闇に向きなおり、思い返してみる。


 ここは希迫醫院だ。少なくとも希迫醫院だった。だからきっと、ここに子沢修睦はいるはずだ。彼が現実を変え、私を呼んだのだろう。

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