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 特に、誰も訪ねてくることもない。やはり先日のことは全て、夢や妄想だったのだろう。


 四日目に、母が近所のスーパーへ買い物に行くというので、私もついて行くことにした。


 野菜売り場では新玉ねぎや春キャベツがたくさん、目立つように積んである。母はふーんと悩むようにして、春キャベツの半分に切ったものをカゴへ入れた。


「キャベツと油揚げを煮たら、おいしいと思わない?」


「えっ、どうだろうね? おいしいんじゃない?」


 私の答えを待つ前に、母はとっくに油揚げをカゴに入れている。


 そうして、卵のパックや私が食べたいとチキンナゲットなどを入れながら、お肉コーナーや魚コーナー、パンやお惣菜を一通り見回り、私たちはレジに並ぶ。


 前の人の、缶ビールや唐揚げ弁当、春雨の酢の物の入ったカゴを覗き見て、どんな生活をしているのか想像するのも楽しい。我が家のカゴの内容を見た人は一体、何を思うのだろう……


「どうぞー、おまたせしました」


 レジを打ってくれる中年女性のその声に目を見張った。


 ユリちゃんの家で念仏を唱えていた白装束のリーダー的おばさんに違いない。絶対そうだ。あの時、どこかで見覚えのある人だと感じていたが、まさか、スーパーのレジを打ってくれる人だったとは……


「今日、割引券はあります? 火曜日のやつ」


「あ、あぁ、あります。これね?」


 そんな私の驚きに気付く人はない。レジ打ちの彼女と母は何事もなくやり取りし、私はレジを出たところの辺りで、その様子をただただ眺めた。


 会計を済まし買ったものを持参のバッグに詰めると、私と母はスーパーを後にした。


 スーパーは家から歩いて十数分くらいのところにある。帰り道を歩いている間、普段の運動不足とは明らかに違う、別の動悸が襲ってくる。今にも息は止まってしまいそう。


「実理? 何、調子が悪いの?」


 さすがに様子のおかしい私に、母は気が付いた。


「あっ、うん……大丈夫。家に帰って、お茶を飲めば治るよ」


 先程のレジ打ちの女性のことをよっぽど話そうかと思うが、あの出来事から四日も経っているのだ。


 私の中でもすでに、妄想だとか夢を見たことにして終わらせたことなのだ。今さら、わざわざ口に出して言うのはよくないだろう。母の気分も害してしまう。


 それに、きっとこうしてスーパーでよく見かける人だから、私の妄想の中に登場したのかもしれない。そうすると、数珠を共に回した人々も、たぶん近所で見かけた顔だろう。あの出来事が妄想であるという確証が一つ増えたのだ。


 家に帰りつくと、まだ早い時間ではあるが、私は風呂に湯を張った。そして、ゆっくりゆっくり浸かって、心身を浄化しようと試みる。


 昔、テレビだったかで、シャワーだけでなく湯船にしっかり浸かれば悪い霊がはらえる、と聞いたことがある。私はいつもシャワーだけで済ませてしまうが、あの事があってからは風呂に浸かっていた。


 夢だ妄想だと思いつつ、浄化だ除霊だと思うところもある私の、その浮世離れしたようなクヨクヨした思考が、己に自信が持てず思い切りも足りずに、たった一つの小さな事柄でさえ成し遂げることのできない、根本的な原因だと思う。


 落ちたのか落ちないのか、いつもはっきりしないトリートメントを流しながら、何に対してなのか釈然としない、泣き叫びたくなる部類のイライラに侵されるのだった。




 その日の深夜、眠っているようないないような、なんだか意味のない考え事をずっとしていたような感じのところから、目が覚めてしまった。


 近くに置いてある目覚まし時計の表示を見て、今日も眠りが浅いことにがっかりする。どうしたら容易に、深い睡眠に落ちることはできるのだろう。


 はぁと息をもらし、天井を見つめる。




 ピンポーン、ピンポーン……




 鳴らされたインターホンで反射的に、私はベッドの上で半身を起こした。


 こんな深夜に一体、誰が来るというのか? 誰か部屋番号を間違えているのか……




 ピンポーン、ピンポーン……




 このマンションはオートロックであるから、本来ならまず一階でインターホンを鳴らすはずだ。だが、このピンポーンの音はそれと違う。今、この家の玄関ドアの前で鳴らされている音だ。




 ガチャッ……ガチャガチャ……ピンポーン、ピンポーン……ガンガンッ……




 私は部屋から顔だけ出すようにして恐る恐る、玄関ドアを見た。


 何者かはピンポンだけでなく、ドアノブをガンガン引っ張り、玄関ドアを揺らしている。


 慌てながら台所まで急ぎ、壁に備え付けのインターホンの画面を確認する。


「……こ、この人は……」


 そこには前後にフラフラ揺れる、視点の定まらない女が立っていた。


 この女……ユリちゃんとケンカをしていた人だ……どうして私の家に? どうして私の家を知っているの? この人は一体、誰? 何をしに来たの? この前あったことは私の妄想、夢ではなかったの? あぁ、そうか。これも妄想で夢なんだ。このピンポーンの音も玄関ドアのガチャガチャも、インターホンの画面に映るこの女も、全部全部まぼろしなんだ。私の勘違い。大丈夫。だって私、この四日間、毎日お風呂に浸かったもの。浄化できてるもん。だから、大丈夫……




 ぼんやり画面を見つめていたら、視点の定まらなかったはずの女と目が合った。合ったところで、女は口だけで二ッと笑い頷くと、そのまま後ろを向いてヨタヨタ去っていった。




 それから数日たって、ユリちゃんを殺害した犯人は捕まったらしい。


 朝刊の小さな記事に、特に詳しい記述もなく、ただ三十代の女が逮捕されたと書かれていた。


 顔写真などは載っていないから、私の見た女と同一人物かどうかはわからない。




 だけど、そんなのはどうだっていいことだよね。全部、私の妄想で夢なんだから、今後は誰にもこの話をするつもりはないよ。だって、私が心配されてしまうから。

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