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 翌日、ずっと不眠症ぎみだったはずの私だが、泥のように深く深く眠れていた。昼過ぎに起き上がると、体はどんより重たい。


 ユリちゃんや石田君に会ったことは鮮明に覚えている。だけど、こんなにもよく眠っていたのだから、昨夜の出来事は現実でなく、ものすごい夢を見たという気もする。


 机の椅子のところへ適当に引っ掛けてあるパーカーが目に入った。


 一応と思い、ポケットを探ってみる。カサッという音とともに、手にビニールのツルッとした感触があった。


 駅前で配られていただろう、英会話教室の宣伝用ポケットティッシュだった。真ん中がちょっと変にやぶれて開いていて、昨日、石田君からもらったものに間違いない。さらに、奥から鼻を拭いて丸めたティッシュが二つ出てきた。


 昨夜、というか今日になった午前二時頃、ジュースを買いに行って、自販機のところで石田君と出くわしたのは事実だと思う。ティッシュが今、ここにあるし。


 でもその後、忌中の赤い提灯を見てユリちゃんの家へ上がり、数珠を回したりしたのは、もしかしたら、夢だったのでは……? だって、死んだ石田君と会うわけないし、壺の中とこちらの世界を行き来しながら生活してるとか、さっぱりわからない。


 あっ、そういえば“壺中の天”という言葉を知っているかと聞かれたな……


 そうだ、そうだと思い至った私はそこにあった電子辞書を開ける。ふぅと息を吐いて、こちゅうのてんと押してみると“壺中の天地”という言葉を見つけた。


 ふーんと思い、さらにパソコンの電源も入れネットでも調べてみるが、どこも書かれている内容は同じだった。


 壺中の天地とは、どうやら、故事がもとになった言葉らしい。意味は俗世間を離れた別天地・別世界。壺中の天も言い方が違うだけで、同じもののようだ。


 もとになった話は“薬売りの老人が商売を終えると壺の中に入っていった。それを目撃した人が後日、頼んで中へ一緒に入れてもらった。すると、壺の中にはすばらしい建物があり、豪華な食事や酒があって楽しく飲んで出てきた“という内容らしい。


 もしかして……本当に壺の中に別の世界があるというのか。


 そういえばユリちゃんの話だと、石田君はどこかの会社へ勤めているはずだったが、勤めていなかったとか。石田君は壺の中に入っていって、そこで現金か金目の物か何かしらを手に入れて、そして、こちらの世界で銀行口座に毎月、給料を振り込んでいた、ということだろうか……


 それで、壺の中に入るために、どういう方法かは見当もつかないが、石田君は内臓を壺の中へ納めたというのか。たぶんそれは、ユリちゃんと石田君が結婚したという七年前のことで、体か精神かに限界がきたために眼球まで納め、そしてこの世の肉体を亡きものにして、今後は壺の中だけで暮らす……


 まぁ、石田君の口ぶりだと、たまにはこっちの世にも戻って来ることがありそうだったけども。


 なんちゅう話だよ、考え過ぎだ。こんな都合のいい話あるはずないよ。


 心霊ドキュメンタリーの見過ぎでおかしくなったのかな、私。そうそう、最近のやつはどうも話を作り込んでいるのか、リアリティに欠けるよね。逆にパーンと怖い写真を出すくらいが丁度いいよ。うんうん、そう……だから、そう、そうなの。私が今、考えているのは作り込み過ぎて怖くもないし面白くないやつなんだよ。えっ、これ何の話……




 辞書やネットで一通り調べ終えた私の頭の中は、ぐるぐるといろんな思考が巡っていた。気付けば、本能でトイレに入り座っていて、トイレットペーパーが上手くちぎれないところで意識は戻ってきた。


 はぁぁ、といつも以上に深いため息をついてトイレを後にする。


 台所へ行くと、冷蔵庫の中から母が作り置きしてくれている緑茶のボトルを取り出し、グラスにそそいで一口飲んだ。冷たさがのどの下まで通って、私はやっと現世に帰ってきた心地になる。


 すぐそこのテーブルで椅子に座る母は、テレビを眺めていた。私も、テーブルを挟んで母の座る向かいの椅子に座り、同じようにテレビを眺める。


 昼過ぎに起きたはずだったが、もうすっかり夕方だった。


 平日、いつも長々とやっているローカルな情報番組はとっくに始まっていて、家電量販店で店員が新作調理家電をおすすめしている。


「今日の夕飯、野菜炒めにしようと思うけど、いいよね? 何か食べたいものある?」


 テレビから視線を外すことなく母は言った。


「あっ、うん。野菜炒め、いいね。お肉も入れてほしいな」


 野菜炒めは決定事項であるから、ひっくり返してはいけない。ただ、肉は入れてほしいとちゃんと一言を添える。そう、これがわりと大切なのだ……


 新作調理家電の特集が終わると、本日のニュースは流れてきた。女性のアナウンサーが笑顔から急に神妙な面持ちになり、速報ですと声を低くする。


 そして、現場の映像に切り替わった瞬間、はっと胸は冷たくなり、ざわめいた。


“本日正午ごろ、この家に住む石田ユリさん三十二才が頭から血を流し、倒れているのが発見されました。石田さんは何者かと争ったような形跡があり、近くに割れた壺のようなものが落ちていて、凶器になったとみられています。現在、警察は犯人の行方を追っています”


「あら、ここ!? すぐ近所じゃない!? だから、パトカーのサイレンが騒がしかったのねぇ。でも、こんな立派な家、あそこの道にあったかしら? 他のお家は見覚えがあるのに、変ねぇ……って、実理? 実理、どうしたの? 大丈夫!?」


 私はテレビ画面から目を離せず、息をヒーヒー吸い細かく震えていた。それに気付いた母は、急いでコップに水を入れてくると私の前に置いた。


「どうしたの? 何?」


「あ、あの……こんな話、するつもりはなかったんだけど、まさか、ユリちゃんが死んじゃうなんて……夢か何かだと思ってたのに……」


 冷たく固まった手をなんとか動かしてコップをつかむと、出された水を口に含む。母はテレビの電源を切った。

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